【養老 孟司】人は共鳴しながら生きている!
好みのタイプの女性を探すようなもの
難しいことをやさしく書くというのは、至難の技である。逆は真ならず。つまり、簡単なことを難しく書くというのはできる。そう思う。
読んでいて、内容はかなり難しいことなのにわかりやすい。あるいは、取っつきやすいというのは著者の力量でもあろう。先週から読んでいる「分類という思想」(池田清彦著)である。「・・思想」と書籍に名前がついているから、相当難しいのだろうと思って、シャープペンシルを持って(借りた本ではないから自由自在である)読み始めた。ところが、なかなかである。楽しい。まだ最後まで読み切っていないから、これくらいにするケド。
そういう本は世の中にたくさんある。好みのタイプの女性を探すようなものである。わくわくする。本との出会いがである。女性のほうはご縁がないから、関係がない。
次から次へと頁をめくっていきたくなるような本は、これまでもあった。そして長く記憶に残ることになる。記憶に残らないような本は、最初からご縁が無かったということである。その程度でしかなかったということだ。
なんだか友人関係とも似ている。
楽しみで文章に出会いたくなる。だから友人関係と一緒だと思うのである。
そして、著者と対話をする。ふ~んとか、オイオイそこまで書いていいのかい?とか申し上げたくなる。オノレの能力を棚に上げて、そんなことを考えるわけである。
作者の執筆styleも影響するだろう。
たとえば、ヘーゲルは難しい。たぶん、右脳を使って書いている。つまり視覚系をフルに動員して書いているから、書いていることがよくわからない。フーコーは、もっと凄い。視覚系のチャンピオンである。抽象的である。まだ、いる。エマニュエル・レヴィナスである。非常に難解である。こっちも文章を読むのに息も絶え絶えである。一頁読むのにも時間が相当かかってしまう。
これに対して左脳系を使っているのが多くの哲学者だろう。まさかわかりやすいとは書かない。そりゃぁ文章は読める。読めるが理解しているとは言いがたい。読めるということと、理解したかということの間には、絶海の孤島のような響きがある。
そういう点で、まだまだだと思うのである。だから、生涯にわたって学習していかなくちゃならないのである。完成はないからである。ましてや、他者に指導する、できると思うのは間違っている。私に限っては。その資格もない。そういう心構えでやっていかなくちゃならないということである。
哲学系のみならず、文学系もまた然りである。
好きな作家があっていい。当然である。そしてその作家を取り上げていろいろと研究をしていくというのも、なかなかいいものである。論文を書かれた若手の研究者のものを拝読させていただく機会が多いから、ますます楽しくなってしまう。
へぇ~、こういう見方もあったのかとか、うなるしかない優れた論文も多い。だからあちこちと彷徨することになる。論文捜しである。されども、あまりにも量が多い。全部目を通している暇がない。それにあと何年生きていられるかもわからない。去年の入院騒ぎで、ますます残り時間がないということに気がついてしまったし。ホントである。
死ぬのは簡単である。意識を失ってしまえば死んでしまうことに、ようやく気がついたからである。やっとである。やっとそんな簡単なことに気がついた。ただし、死を受け入れられるかという重大問題が前提としてあるけれども。それはヒトそれぞれで考えるしかない。死の受容は、マニュアルがあるわけではないだろうから。わけのわからないうちに死んでしまうのというのが、本当らしい。
なぜか。
それはまだ私も死んだことがないからである。マジに。死んだのに生き返ったら妖怪である。失神して生き返った経験は柔道で何度もある。弱いから、絞め技で落とされたからだ。というより、マイッタをやらないから、落とされるのである。なにしろ負けたくなかったからだ。マイッタというのは恥であるとすら思っていた。そういうアフォ~な柔道愛好家であったのだ。自分自身も絞め技が得意であったし。関節技もである。つまり、あまり正統的な柔道マンではなかった。今でいう総合格闘技みたいなstyleであったからだ。関節技も得意だったし。
読書でもそうだ。
正統的な読み方をしていない。だから、論文も書けなかった。A4で400枚程度しか。(今年から少しずつ書いているからようやく400枚になった)
論文書きとしても正統的ではなかった。郷土史の先生方にも迷惑をおかけしている。つまり異端である。他のヒトのやらないことばかり興味があるから、違和感があるのだろう。こういうのは、受容していただけない。もっとも、それで定年まで生きてしまった。前例主義ではなかったから、仕事人時代は、多様なことにチャレンジしてきた。最後に勤務した学校を蘇らせた。マジである。ま、そのことはあまり書かない。ただし、マスコミの皆さんに多大なるご支援をいただいたことだけは感謝している。その学校を全国レヴェルで取り上げていただいたからである。むろん現在の学校長の努力が一番である。だから、人気校になっている。良い思い出であった。それで草臥れたというのもあるんだけれども。
今日は市営のgymが休館である。
Walkingをどうするか。マイッタな。マイッタ。
いろいろ考えているうちに、夕方になるだろう。そんなもんである。そんなもん。
じゃぁ~・・・・(^_^)ノ””””
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alcoholと香水のにおいと、miniskirtのおねーちゃんを見ると失神するから(自分を分類すると)
「分類という思想」(池田清彦著 新潮選書)という本を読み始めて... goo.gl/8XODwd
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佐渡 羽茂まつり 鬼舞つぶろさし 2013-06-15 "Tsuburosashi" 4/4 goo.gl/bNpszZ
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精神というものを出発点にして生きねばならん。よろしいかな、お若いの?認識というものを出発点にして生きねばならん!だがそれはそれほど簡単なことではまったくない。とくに日常生活では。 『鏡の中の鏡』
ダイダラボウ像:縄文前期(約5000年前)・茨城県大串貝塚にある。奈良時代の『常陸国風土記』に記載があり、文献に記録された貝塚としては世界最古。一般的にはだいだらぼっちと呼ばれる妖怪で、柳田國男が『ダイダラ坊の足跡』で考察している。 pic.twitter.com/Lsiw8Mar5e
頭も良いしラグビーも強いってほれてしまう。→「全国有数の超進学校、灘高校はラグビーでも高みを目指す!」
ラグビー部が他校と違うのは大きく3点。
(1)塾通い許可。
(2)クラブの掛け持ちOK。
(3)学習のための長期休暇あり。
rugby-rp.com/column.asp?idx…
この瞬間、息子は理解した。服従しないことが自分の課題だったのだ。試験には合格しなかったのだ。彼は、夢製の翼が、まるで秋の木の葉のように、枯れて自分の体からすべり落ちるのを感じた。 『鏡の中の鏡』
100RT:【訃報】坂東三津五郎さん膵臓がんで死去
news.livedoor.com/article/detail…
歌舞伎俳優の坂東三津五郎(ばんどう・みつごろう、本名・森田寿=もりた・ひさし)さんが膵臓がんのため都内の病院で死去していたことがわか… pic.twitter.com/uuM01iabz5
永劫の時の広く張った翼以外、ヘラクレイトスは己が立つべき場所を全く知らない。現在や瞬間に属するものには敬意を払わぬということ、これこそ偉大な哲学的天秤の本質である。-ギリシア人の悲劇時代における哲学-
CiNii 論文?-? 『吾妻鏡』に見える地震記事をめぐって : 鎌倉武士の地震観 ci.nii.ac.jp/naid/110008438… #CiNii
能福寺兵庫大仏(二代目):初代は戦時中に国に供出されたため、本尊は1991年再建のものである。開眼法要には東大寺管長(奈良大仏管理者)・高徳院貫主(鎌倉大仏管理者)が臨席した。平清盛縁の寺院で、福原京遷都計画で平家祈願寺に定められた。 pic.twitter.com/IUkwfbEPmY
【東京・くらやみ祭り】<5月3日~5月6日>貴いものは見ることが許されないという古い儀礼から、御霊が神輿で御渡りするのは人目に触れてはならないとされており、府中市の中心を6張の大太鼓と8基の神輿が暗闇の中を練り歩く。 pic.twitter.com/ySRRVZ20vi
薬師寺「吉祥天女が舞い降りた」
仙台市博物館4/24~6/21
期間中は毎日、薬師寺僧侶によるガイダンスを実施!(申込み不要、当日チケット半券が必要) kichijo-tennyo-sendai.jp pic.twitter.com/Pdk42naJGJ
ひげなで祭り #02 千葉県香取市無形民俗文化財 2013.1.13
佐渡 羽茂まつり 鬼舞つぶろさし 2013-06-15 "Tsuburosashi" 4/4
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仏教の神髄を知るのに実にいい落語ですねぇ~。
名人がしゃべっているし。
古今亭志ん朝 蒟蒻問答
alcoholと香水のにおいと、嫌いなものは数多く
「分類という思想」(池田清彦著 新潮選書)という本を読み始めている。昨日の拙ブログで話題にしたからでもある。
分類というのは、自然科学者なら必須の思想なのであろう。ゴミのようなメモとか、ノートとか、情報カードとかそういう類いのものは、いくらでも私の周辺にある。それにインデックスをつけて、分類していくのも楽しみである。何万枚もある。そのための専用家具も書庫にはあった。
あったというのは、リフォームのときに捨ててしまったからである。定年で退職したときにである。教育関係が多かった。もう使わないだろうと思ったし、これからは好きな日本中世分野で大いに遊ぼうと思ったからである。しかし、ちょっとやり過ぎた。
それは教育関係の原稿を書きなさいという注文を今でもいただくからである。5月ころに学事出版から四本ほど掲載されることになっている。原稿料をいただくことになっている。年金暮らしで福沢諭吉翁をみることもこのところたえて久しいから、実にありがたい。Amazonで古本専門に買っているけれども、その足しになる。ささやかな楽しみでもある。で、冒頭にあげた書籍は、昨日、Amazonから来たのである。夜。記事を書いてから、あ、この本を読んでいなかったと気がついて、一昨日インターネットから申し込んだ。そしたら、昨日の夕刻に来た。早いですなぁ~。私は、その時に風呂に入っていたので、古女房ドノが受け取ったのであるが、「また買ったのぉ~」と悲鳴が起きた。「読みもしないのに」とも付け加えられてしまった。
そんなことはない。
読むのである。ただし、この本を読みながら拙ブログの記事を書くのではない。記事を書いたから、思い出したのである。だから買う。いろいろとノートをとっているから、記事が書けるのであって、原資料があるから書いているのではない。
ま、許されよ。
年をとっての唯一の楽しみなのだ。そして、絶対に守っているのが就職していたときのことは書いていない。だから、もし、私の現役時代にお世話になった方が拙ブログを読まれていたら安心してほしい。(そんなヒトはいないだろうケド)いまさら、現役時代のことなんか、書く気にもならないからだ。守秘義務というのは退職してからもあるからだ。当たり前の話である。
それでも、垂れ流しだとか、嫌味な爺だとか、働けるのに働いていないとかいろいろとメールを頂戴する。ありがたいが、誤解である。嫌味な爺だというのは当たっているかもしれないが。そりゃそうだ。世間にずいぶんもまれて生きてきたのである。今更、治らない。治すつもりもない。
働けるのに働いていないというご指摘には、ちょっと待ったである。私は、現役の学生なのである。3月までは。本当にそうなのである。
バイトならできるから、やっている。バイトは得意である。なにしろ、それでもって一番最初の大学を卒業したからだ。それから延々と生涯学習をやっている。今年は老人クラブと、老人大学に行く予定である。つまり小休止する。通学も通信教育もやらない。ひさしぶりにやらない。
しかしである。武蔵野大学大学院でクラスメイトであった同年の男性が、この4月から埼玉にある人間総合科学大学に編入して、また生涯学習を始めるという。身体と精神のことが学べるのである。通信教育である。たいしたもんである。上には上があるのだ。見習いたいものだ。すばらしいことだ。
私も含めて、生涯学習をやられる方々というのは、「分類不可能」なのかもしれない。
つまり、一定の型にはまっていないのである。
もっといえば、メリット・デメリット論に支配されていない。
やりたいからやっているのだ。まったくそう思う。
私もそうだ。失うものはなんにもない。そもそも失うほどのものを所有していない。ゴミのような本だけだ。これもまた私が死んだら、古本店に引き取ってもらうしかない。つまらない本しかない。ノートや、読書カードなんか、焼いてもらうしかない。
私の死と一緒になくなっちまうだけである。それはそれで仕方がない。一介の田舎爺として、生き、死んだだけであるから。時間を無駄に過ごしたと言われるかもしれない。それならそれでいい。
知らないうちに生まれてきたのだ。そして、知らないうちに老人となって、知らないうちに病院から入院を宣告されて、そして、わけのわからないうちに死んでいくのだろうから。
当然、生まれ変わりということは信じない。
輪廻転生ということをである。そういう意味での期待はしない。私が、生まれ変わってなにになろうとも、私の周囲の人々は関係がないからである。私も、死んでから後、生まれ変わってなにになろうかとは考えていない。そんなの期待するほうがおかしい。
霊魂の不滅ということも信じられない。
だから、いろいろと宗教のことも拙ブログには書くが、私は信仰心がまったくないのである。
こういうのをなんと「分類」するのだろうか。
唯物論者?
違うなぁ。
無宗教?
これも違う。
だって、宗教なしには人間は生きられないと思っているからである。特定の宗教ではなくてである。Walkingで出会う、路傍の地蔵様、房総の地に多い馬頭観音像とかに、ひそかに手を合わせている私自身もいるからである。日本古来の伝承とか、そういう土地土地に根付いた信仰心というのは、なくならないと感じているからである。
今日は日曜日か。
雨が降っている。
数学の問題集でも解いて、それから英文解釈3冊、英作文1冊とやって、古文書を解読する。徒然草と、土佐日記。これが終わったら伊勢物語が待っている。塾のバイトをやっているのだから、それくらいやらないと教えられない。マジにである。教材研究というやつだ。それから雑書の読書ノートをつけ始める。一週間に一冊のペースでやっている。だから拙ブログのようなゴミブログが書けるのである。
午後は、昼食をありがたくいただいてから、市営のgymに行く。雨が降っているので、午前中のwalkingはできないからだ。
おかげで、今朝の体重は、66.7キログラムになった。中学校以来である。デブであった高校時代から、異常な太り方をしていたから、だんだんと良くなってきた。血圧も116である。順調である。
爺になって、体調管理だけは慎重にやっている。酒も、四ヶ月まったく呑んでいない。呑んだら死んじまう。
先日、呑み会の案内がきた。現役時代にお世話になった部署のである。それで断った。
理由が「alcoholと香水のにおいと、miniskirtのおねーちゃんを見ると失神するから」というのである。「皆様によろしく」と書いて「お笑いくださいませ」とやった。
まったくお笑いだけの爺である。そういう「分類」になるのだろう。
わはははっははははは。
さ、これくらいにする。際限がないからだ。
(^_^)ノ””””