1950年代のハリウッドを支えた3人の女優,オードリー・ヘップバーン,マリリン・モンロー,そしてエリザベス・テイラーの年代記を並列したノンフィクション。
ドル箱スターとしての価値,奔放な私生活,そして映画というメディアに与えた影響の大きさという点で,「大」よりも「怪物」という形容詞の方が相応しいと思われる3人の女優が,基本的には交わることなく,しかし常に互いを意識しながら生きた1950年代という時代の温度が,淡々とした筆致の行間から生々しく伝わってくる。
本書に,オードリーとリズは晩年,固い友情を結んだ,とあるが,全体を通してみると,常に「演技とは」,ひいては「生きるとは」と自分に問いかけることで自分を追い込んでいったモンロー対他の二人という構図が浮かび上がってくる。
「スタニスラフスキー・システム」という演技メソッドにのめり込むことから始まり,演技を巡っての監督との対立やヌード写真の公表まで,死の直前まで涙ぐましいまでのセルフ・プロデュースを続けたモンローが,生前はついに演技を評価されなかったということと,映画での演技はリズという人生を演じる上での余録にしか見えなかったエリザベス・テイラーが,サクサクと2度もオスカーを受けてしまったという事実の対比は,特に鮮やかだ。
それにしても,ハリウッドにおける輝ける才能の多くが,同性愛者と赤狩りのターゲットだったという事実は,こうして突きつけられてみるとずしりと重い。
「ローマの休日」を書いた脚本家が,赤狩りでハリウッドを追放され,その後名誉を回復して「ジョニーは戦場へ行った」を撮ったドルトン・トランボの変名だったというのは有名な話だが,「ローマの休日」そのものがハリウッドでは反王制思想に基づいた物語と見なされ,フランク・キャプラが降りた後でワイラーが引き受けたという話は初めて知った。政治とは距離を置いていたという印象が強いオードリーが,晩年にユニセフの活動に力を入れたということも,そういう視座から見てみると違った色合いを帯びてくる。
幾つかある作品紹介も,簡潔で当を得ているが,同時に駄作・失敗作とされた作品を観たくなるような毒も含んでいる。
期待しなかったのが申し訳なくなるような,短いけれども楽しくてちょっと切ない読書タイムを約束してくれる好著だ。
ドル箱スターとしての価値,奔放な私生活,そして映画というメディアに与えた影響の大きさという点で,「大」よりも「怪物」という形容詞の方が相応しいと思われる3人の女優が,基本的には交わることなく,しかし常に互いを意識しながら生きた1950年代という時代の温度が,淡々とした筆致の行間から生々しく伝わってくる。
本書に,オードリーとリズは晩年,固い友情を結んだ,とあるが,全体を通してみると,常に「演技とは」,ひいては「生きるとは」と自分に問いかけることで自分を追い込んでいったモンロー対他の二人という構図が浮かび上がってくる。
「スタニスラフスキー・システム」という演技メソッドにのめり込むことから始まり,演技を巡っての監督との対立やヌード写真の公表まで,死の直前まで涙ぐましいまでのセルフ・プロデュースを続けたモンローが,生前はついに演技を評価されなかったということと,映画での演技はリズという人生を演じる上での余録にしか見えなかったエリザベス・テイラーが,サクサクと2度もオスカーを受けてしまったという事実の対比は,特に鮮やかだ。
それにしても,ハリウッドにおける輝ける才能の多くが,同性愛者と赤狩りのターゲットだったという事実は,こうして突きつけられてみるとずしりと重い。
「ローマの休日」を書いた脚本家が,赤狩りでハリウッドを追放され,その後名誉を回復して「ジョニーは戦場へ行った」を撮ったドルトン・トランボの変名だったというのは有名な話だが,「ローマの休日」そのものがハリウッドでは反王制思想に基づいた物語と見なされ,フランク・キャプラが降りた後でワイラーが引き受けたという話は初めて知った。政治とは距離を置いていたという印象が強いオードリーが,晩年にユニセフの活動に力を入れたということも,そういう視座から見てみると違った色合いを帯びてくる。
幾つかある作品紹介も,簡潔で当を得ているが,同時に駄作・失敗作とされた作品を観たくなるような毒も含んでいる。
期待しなかったのが申し訳なくなるような,短いけれども楽しくてちょっと切ない読書タイムを約束してくれる好著だ。