風・感じるままに

身の回りの出来事と生いたちを綴っています。

生い立ちの景色(35) Dのこと

2012-06-08 | 生い立ちの景色
1961年14歳の冬、2月。

午後の授業の始まる前に英語の先生といっしょに担任がやってきて、廊下にいたやつらに、「みんな教室に入ってくれ」といった。ぞろぞろ入ってきて着席したみんなに向かって、「こんど、うちのクラスでM電器を受けたFとYに合格の知らせが来た。F・Yおめでとう。みんなで拍手しよう」といった。
学校に通知が来るとは知らんかったので、びっくりしたが、みんなが拍手してくれてうれしかった。二人は立って小さな声やったが〝ありがとう〟といって頭を下げた。

「通知書」は家に来るというので、授業が終わるのを待ちかねて自転車を思いっきり飛ばして帰った。軒下の郵便受けの箱に手を突っ込むと少し大きめの封筒があった。オモテの下の方に「合格通知書」の判が押してあった。封を切ろうとして手に持ったハサミが震えた。
「貴方はこのたび、M電器産業株式会社○○事業部の入社試験に合格されましたのでご通知いたします。云々」と書いてあった。うれしくてうれしくて何回も読み返した。

晩ごはんの時に、「合格通知が来たで」というと、親父が「みんなに見せてやれ」といったので、通知書をマサル兄に渡すと、「よかったのう」といって兄嫁にも見せ、順番に回して家族みんなが見てくれた。
もう一枚の紙には「家庭訪問」と「入社式」のことが書いてあった。「家庭訪問」はキョウコ姉ちゃんがM電子に入社した時にもあったので、親父は〝心得ている〟という感じで、日にちと時間をもう一回聞いて、おっ母ァにいって、カレンダーに印を付けさせた。

次の日学校に着くなりFが寄ってきて、「Dが落ちたらしいぞ」といった。Dというやつは、M電器を受験した6人(男5人、女1人)の中の一人で、クラスが違っていたが頭は俺より良かったやつ。
一度だけDの家に行ったことがあった。家といっても私鉄駅の駅前広場の向かいにあった二階建ての古い瓦葺きの大きなアパートだった。入口を入ると、左手に二階への階段があり、真ん中にはコンクリートの暗い通路がづーと奥までつづいていた。両側に7、8部屋あって、Dの部屋は左側の手前から三軒目だった。どの部屋の前にもカンテキやゴミ箱・下駄箱が置かれ、履物が散らばっていた。チラッと見えた部屋の中は二間のようだったが、仕切はなく部屋の周りに箪笥やら物がいっぱい置いてあった。Dは俺らに部屋の中を見られるのが嫌だったようで、出入りするときにはすぐにドアを閉めた。

一次の筆記試験は全員が合格していたので、Dが不合格になったのはやっぱりあの面接試験か。誰にも聞かなかったが、俺の面接のときの〝世間から嫌われている共産党をどう思いますか〟という最後の質問はDにもあったのだろうか。それにDはどう答えたのだろうか。まさか、〝共産党は貧乏人の味方だから、私は嫌いではない…〟と答えたのではないだろうか。その日はずーとDのことが頭から離れなかった。