今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

高尾山で滝行

2023年05月06日 | 仏教・寺巡り

先週の土曜は、奥多摩の御岳山にある御嶽神社で式年祭に参列し(→記事)、一週間後の今日は、高尾山の琵琶滝で滝行(高尾山の薬王院では”水行”(すいぎょう)という)に参加した。

滝行は、2009年のGWに、御岳山で神道式の行を経験したが(→記事)、今回は真言宗式。
もっとも滝行のルーツは修験道なので、御岳山も高尾山も根っこは同じ。

高尾山での水行の場は、琵琶滝と蛇滝、それにケーブル駅前の清滝の3箇所あるが、着替えなどの設備が整っているのは前の2つで、しかもそれぞれ毎月二回水行指導の日がある。

今年3月の高尾山行きで、蛇滝と琵琶滝の行場をチェックし(→)、アプローチのしやすさから琵琶滝での5月6日の水行指導を電話予約しておいた。

いつもは使わない目覚ましで目覚め、いちおう登山の格好(タオルと替え下着を追加)で出発。

琵琶滝の行場に着いて(写真:建物は不動堂)、行者だけが入れる右側(写真外)にある建物に入る。
そこで受付を済ませ、指導料3000円を払い、行衣を借りる。
私と同じく指導を受ける人たちが次々やってきて、20名以上になった。
年齢は10代の若者から私より年上らしき人まで幅広いが、それらの中間の中年が多い。
女性は5名ほど。

まずは服の上に借りた行衣を羽織って、館内で待機。
行衣姿の若い僧侶が来て、彼の説明を聞く。

まずは水行を含む”修行”の意味について。
御岳山では滝行はパワー(験力、神通力)をつける的なニュアンスだったが、真言宗のこちらでは、そういう志向性を否定し、水行のような山中の修行は、非日常性に身を置く経験によって、日常の有り難さ(感謝の心)を認識するためだという。
修行の目的は、苦るしむことではなく、心の在り方の(実感を伴った)変質にあるというわけだ。
仏教では、神通力のようなパワーは方便に過ぎず、それを目的とすることは低レベルの状態に満足する事であり、目指すべきなのは”悟り”という心の在り方の進化にある。

そして修行によって得られる”ご利益”というのは、個人的欲望を満たすことではなく(それは方便)、感謝を新たに感じる事で幸福感が増す事だという。
実際、汗水垂らして山に登って痛感するのは、冷房の効いた部屋でアイスを食べる日常生活のありがたさだ。

修行は身体を痛めつけること・苦しむことが目的でないという言葉を僧侶から聞けて安心した。

さていよいよその行が始まる。
まず塩で口を清め、滝手前の不動堂で、僧侶の読経の中、行衣姿のわれわれが「南無大聖不動明王」という名号を皆で唱える(珍しそうに眺めている登山客の視線を感じながら)。

ここから行者以外立入禁止の行場に入り、下着と行衣だけに着替えて、まず行場のゴミを払い、指導僧の指導の元、バケツに入った塩を両手でつかんで、全身を清め(最後は地面の塩を足で踏んで足の裏も清める)、一人ずつ順次、名号を唱えながらバケツで水をかぶってから、滝の下に進む。

滝の前で、指導されるままに、不動明王たる滝に向って名号を三唱し、滝つぼの石の座に右手をかけて名号を唱え、滝の真下の石の座に座ると、頭から落水を浴びて、いっきに体が冷たくなる。
ここでも指導僧の読経と名号に合わせて、名号を唱えるのだが、水の冷たさと滝の水圧に負けそうになる。
そんな中、あえて両手で脚や胴に滝の霊(冷)水を行き渡らせる。
寒さと水の力に負けまいと、大声で名号を唱えるために、
自分の力を内側から絞り出す。

自分の内に備えている力、それこそが自分自身の真正なパワーである。
その内なるパワーを”仏性”というなら、
滝に打たれてなお力強く名号を唱える瞬間、”即身成仏”を実現しているといえまいか。
これが水行(滝行)の意義だと実感した。
水行は単なる苦行ではなかった。

滝に向って今一度名号を三唱し、指導僧に一礼して、水行を終える。
一部記述を省略したが、おおむね以上のような流れ。

乾いた服に着替え、濡れた行衣は洗濯機で脱水し、元の場所に戻す。

待合室には、自前の行衣、袋入りの塩と一合酒の瓶を持参している人がいた。
尋ねると、今から一人で水行をするという。
水行の作法は先達から教わったという。

薬王院では指導を受けないと、個人での水行は受付ない。
ならば、今回指導を受けた私は、今後は一人で水行してもいいのか。
でも一回の経験では所作は覚えきれない。

指導僧が戻ってきたので、これについて尋ねると、今回の指導は団体用なので、個人で水行をする場合は別の指導をするという。
自立して行をするには3回ほどの指導が必要らしい。

10時半から説明が始まって、11時から水行が始まり、すべて終ったのが13時半頃(参加者数によって時間が異なる)。
なので高尾山に登るのはやめにした(水浴びした後は汗をかきたくないし)。
今日の水行に満足して下山する。

以前紹介した加門七海氏の本(→記事)の中で、修験本宗宗務総長が言うには、山で修行したまま下界(俗世間)に戻ると、”聖なるケガレ”を持ち帰ることになるので、「精進落し」をすべきということだ。
それに従って、高尾山口駅の売店で、缶ビールとつまみを買って、水辺の公園のベンチに腰掛けて精進落しをした。


豊川稲荷東京別院に行く

2023年01月29日 | 仏教・寺巡り

帰京中、荼枳尼(だきに)天を拝みたくなったので、東京港区の赤坂にある豊川稲荷東京別院に行った。

豊川稲荷は、もちろん愛知県豊川市にある曹洞宗寺院妙厳寺境内に祀られている稲荷だが(稲荷は”神仏分離”後の現代でも、寺の境内に祀られている)、お寺本体よりも人気で、しかも全国規模での人気を誇っているので、東京にも別院がある。

稲荷といっても、神道系の(ただし神社本庁には属さない)伏見稲荷※と違って、こちらはインドの夜叉(人肉を喰らう)でありながら大黒天の眷属となって衆生済度を担う荼枳尼天 (だきにてん)である。
※:伏見稲荷の東京別院は、西武新宿線沿線(西東京市)にある東伏見稲荷。

曹洞宗寺院境内に稲荷(荼枳尼天)が祀ってあるのは珍しくないが、本尊を凌ぐ人気になっているのはこの豊川稲荷くらいで、よほど庶民にとっての御利益があるのか。

地下鉄の赤坂見附から少し進むと、ビル街の中に赤い稲荷の幟(のぼり)がひしめく豊川稲荷に達する。
お寺なので、入り口に鳥居はない(写真)。

まずは、本堂で本尊に参拝するが、すでに行列になっている。
行列先頭の人たちは、ちゃんと仏式の礼拝(合掌)をしていたが、ある列から神道式の礼拝をしだすと、その後の列も神道式の礼拝を続ける。
私は、それに抗うように仏式の合掌をしながら、光明真言を唱える。

続いて、荼枳尼天を祀る堂(写真:堂内撮影禁止)を仏式で礼拝し、さらに他の神道系の稲荷(宇賀神)も礼拝。
境内にはこのほか、大黒天(荼枳尼天のボス)や弁天をはじめとする七福神、愛染明王も祀ってある。

本来この寺は、只管打坐を旨とする禅寺なのだが、坐禅道場の雰囲気よりも、現世利益を謳う真言宗寺院の雰囲気に近い(だから、禅寺に不似合いなくらい参拝者が多い)。

一通り参拝して(こういう御利益を謳う所でも私は祈願をせず、無心に礼拝するのみ)、大黒天と荼枳尼天の御影セット(300円)を購入。
実質的にはこれが目的で、自分の御影コレクションに荼枳尼天を加えたかったのだ。

境内を抜けた先に売店が並んでいて、稲荷にちなんで店内で”きつねそば”を食べた(550円:そばとうどんが選べる時は、できるだけ小麦粉よりも蕎麦粉を摂取したいからそばの方を選ぶ)。

ちなみに、わが御影コレクションは、自宅でクリアファイルケースに入れて保管していたが、考えてみれば、御影はそれぞれのお寺の御本尊の代りだから、家でも礼拝の対象とすべき。
なのでファイルケースを見開きにして立てて、他の仏像(フィギュア)と同じく毎日拝むことにした。


寺社で”礼拝”してます?

2023年01月07日 | 仏教・寺巡り

多くの人が初詣に寺社に行くが、果たしてそのうち何割の人が礼拝しているか。
多くの人は、礼拝ではなく、祈願をしているのではないか。

祈願とは、神仏に対して、何らかの願い事の実現を祈ること。
絵馬や護摩木に書かれる内容であり、おみくじに書かれていることである。
実際、多くの寺社は”ご利益”を謳って参詣者を呼び込んでいるので、ご利益の祈願目当てに詣でるのも致し方ない。

ところが私は、寺社に足を運んだ時はもっぱら礼拝だけをし、よほどの事でない限り祈願はしない(ブログで寺社を訪問した時は全て礼拝)。

礼拝とは、神仏を礼の心で拝すること。
すなわち、神仏に対する敬の想念を心に満たし、それを所作(合掌)として表現すること。
※:礼とは、敬の想いを形に表すこと(礼記)
なのでその瞬間は、想い(情)に満ちて思考は停止し、意識はほぼ無心になっている(ここが言語を要する祈願と異なる)。

礼拝することで、御神体や御本尊に対して敬の念(エネルギー)が放射される(という)。
このような参詣者たちの礼拝(エネルギー放射)によって、御神体や御本尊はさらにパワーが増す(という)。
そのようにしてパワーを高めた結果、人々の祈願を受け入れることが可能となる(という)
※こういう論理は、永久保貴一画・秋月慈童語り『密教僧秋月慈童の秘儀 霊験修法曼荼羅』第4巻にも載っている。

祈願だけの人は、自分の少ない賽銭だけで、神仏のパワーを過分にもらおうとする。
しかも祈願の内容は自己利益(欲の充足)そのものだったりする
※:ご利益が有名で参詣者が全国レベルで多い神社が、ばけたんで霊を探知すると”何もいない”と出たりする。祈願者のエゴの念が境内に充満しているためだろう。そもそも安易な欲の充足を謳うことは人の心を正しい方向に導かず、宗教としては悪手である。一方、山中の素朴な祠は、少人数ながらも純粋な礼拝対象のため霊は捕捉される。

私が礼拝だけをするのは、こういう場ではまずは礼拝(敬の念の放射)をすべきものだから。
祈願を滅多にしないのは、たいていの願い事は、人間の努力で達成すべき(できる)ものだから。
特に自己の利益に関する事は自分で何とかする(たとえば”健康”は生活習慣と医療によって祈らずとも実現している)。
唯一、姪の大手術の時は、自分は手術に関与できないため、護摩木に書いて成功を祈願した(手術は大成功)。

かように祈願で期待するパワーはそれまでの礼拝の念の集積が前提とされる。
なので、まずは(祈ることがなくても)礼拝しよう。


仏教の超多重意識論

2022年10月28日 | 仏教・寺巡り

期待の仏教改革者らの”私の二重性”の言を紹介し、それと関連して私の「心の多重過程モデル」による”意識の多重性”を論じたが、考えてみれば、すでに伝統仏教において、意識は2重・3重どころか、”8重”にもなっていた。

まずは五感に対応する五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識。すなわち、各感覚相ごとに識がある)、それを統括する第六識としての意識(「意識」の原語はここ)。
ここまでは仏教全体に共通。
さらに大乗仏教の唯識思想では、第七識としての末那(マナ)(自我意識)、そして第八識としての阿頼耶(アーラヤ)が想定されている。
五感(知覚)も識(認識作用)だという発想は、それらを統覚する高次の意識を前提としない発生論的視点としてむしろ科学的でさえある。
また仏教(唯識)で夢を明瞭な意識作用とみなしている(”唯識”の重要な論拠が夢の意識経験)のは、私の考えと一致している。

末那識は自我意識で、システム2に対応する。
システム2はすばらしい人間的心だと思っているが、仏教では苦の源泉の1つとみなしている。
仏教では苦の原因を、渇愛我執においているが、この二つは、動物的欲望(システム0)と人間固有の執着(システム2)という互いに異質のサブシステムであるのだが、この点(異質性)を仏教は強調しない(後者を強調するのは大乗仏教のようだ)。

阿頼耶識は、いわゆる無意識を含めるが(仏教はとっくの昔に無意識を認めていた)、それにとどまるものではでなく、輪廻を超えて作用する(カルマ)の原因とされ、いわゆる生死を超えて輪廻する当体とされる(中村元氏の解釈)。
すなわち、来世とか前世とかを巡るのはこの阿頼耶識であって、生命活動によって現世のみで作動する意識や末那識(自我)は決して来世や前世を体験できない。

ただし、このような宗教的神話を心理学的意識論としては認めるわけにはいかないので、阿頼耶識については私のモデルとの接点はない。

もっとも、(大乗)仏教の目的はこれら識にあるのではなく、これらの識を””に変換するところにある。
すなわち識のままではダメで、それを超克しなくてはならない。

心の多重過程モデルは、スピリチュアル系の心のモデルと同じく、意識の進化・高次化を志向しているが、仏教では、識がいくら進化しても、識である限りは”悟り”には至らず、識を智に質的に変換して初めて意味があるという。

それを明確に述べているのが空海だ。
空海の『十住心論』、すなわち心の10段階進化モデルでは、阿頼耶識にまで達した”唯識”は、レベル6の「他縁大乗心」で、大乗仏教段階としては最初期で最低レベルにすぎない。
最高位のレベル10の「秘密荘厳心」(密教)では、五識、意識、末那識、阿頼耶識がそれぞれ成所作智、妙観察智、平等性智、大円鏡智に転換し(ここまでは唯識レベル)、さらに阿頼耶識の先に第九識「菴摩羅(アンマラ)」を追加し、その識が大日如来の智である「法界体性智」となるという(合せて五智)。
識のままでいてはいけないのだ。
かくも伝統的仏教の心の理論は、私の心の多重過程モデルのはるか先を行っている。


『〈仏教3.0〉を哲学する』:”私”の二重性

2022年10月01日 | 仏教・寺巡り

高校時代から宗教とりわけ仏教に親しんできた私だが、宗教では一般に「教祖の教えに準拠すべき」という原理主義が最も説得力があるため、自分も自然にその立場となり、日本に広まっている大乗仏教は釈尊の直接の教えから乖離したもの(大乗仏典に登場する釈尊はすべてフィクション)として、しばらく価値を見出せないでいた(さらにより純粋(素朴)な宗教形態を示している神道の方に関心を移した)。

ところが、(他宗教における)宗教原理主義のアナクロニズム(戯画)性を目の当たりにし、また真理を追究するために常に前説を乗り越えて進化する科学に身を置いている(つもりの)者として、宗教自体も積極的に進化する必要があるという反原理主義に移行する事になり、大乗仏教も仏教の進化形として受け入れられるようになった。

むしろ、その大乗仏教もそろそろ新しい進化の段階に達していいのではないかと思う昨今、仏教の当事者としてそれを試みているのが、藤田一照・山下良道の両氏で、『アップデートする仏教』(幻冬舎)の続編にあたる『〈仏教 3.0〉を哲学する』(春秋社)は、この二氏に哲学者の永井均氏を加えた(朝日カルチャーセンターでの)鼎談の書籍化である(以下、本書)。

そもそも、仏教を含めた宗教は、”信じること”(信仰)を求める。
何を信じるのか。
その宗教固有の物語(フィクション)である。
アップデートは、皮肉的に言えば物語の書き換えにすぎないかもしれないが、少なくとも現代の知性に適うレベルに上げてほしい(仏教はキリスト教やイスラム教と違って現代科学と齟齬がなく、その意味でも現代化できる)

一方、哲学は既存の自明視された知を”疑うこと”を実践する知的営為である。
なので仏教がアップデートするために必要なのは哲学の実践である。

仏教が真にアップデートを試みるなら、信じていた物語そのものを疑うことから始めなくてはならない。
二人の仏教者は、仏教の基本命題である「諸法無我」にずっと違和感をもっていて(普通の仏僧だったら、さもわかっているような顔をしてこれを説く)、これは哲学者の永井氏からみれば幼稚な言説にすぎないという(他の基本命題「諸行無常」は「そんなの当たり前じゃん」で終わる)。

本書で問題となるのは、諸法無我の(自我)である。
「比類無き私」を問題にしてきた永井氏と、瞑想で無我の境地に達している二人の仏僧の計三人は、いずれも「私であること」の二重性に気づいている。

ただその話を、聴衆や読者は、自分の”私”の問題としてどこまで理解できただろうか。
なぜなら、通常はその二重性は気づかれない(一体の)状態として、同一視されているから。

その二重性は本書では、「私」と〈私〉を皮切りに、以下のように多様に表現されている。
「私」:本質、中身、有心、雲、映画(物語的)
〈私〉:実存、存在、無心、青空、気づき(マインドフルネス)

哲学者なら論理的に説明できることでも、読者にとっては実体験を伴わない論理はまさに物語と同じで、単なる”お話し”でしかない。
また瞑想でしかそれを経験できないなら(永井氏も瞑想者)、瞑想でそこまで達していない人には、やはり実感を伴った理解ができない。

これがこの本の限界といえるが、少なくともその二重性を主題にして、それを仏教のアップデートのキーワードとしていること=限界にまで達していることは画期的といえる。
なぜならこの問題こそが、これまでの仏教1.0(日本の伝統的葬式仏教)および2.0(マインドフルネスで人気のテーラワーダ仏教)でもウヤムヤにされてきたから。

その限界性をあえて指摘すると、本書には心理学・精神医学、すなわち”心の科学”の視点がない(哲学が扱う心はおおざっぱすぎる)。
それがこの二重性についての理論的・経験的説明の不足をもたらしている。

鼎談のメンバーにその説明可能者が思いつかなかったのは仕方がないが、
2022年の現在なら、私が「心の多重過程モデル」の視点でこの問題を心の構造からもっとすっきり記述できる。

とりあえずその視点で本書の議論の限界を指摘してみる。
本書では哲学的な議論は進んでいるが、いまだ前提としているものがある。
たとえば〈私〉・「私」の二元論(同一視していた段階よりは進んだ)。

では、自己はこの2つのどちらかに分属されねばならないのか。
多重過程モデルでいえば、上の二元論・二重性はあくまでシステム2内の問題であって、これにシステム0の「内界」・システム1の「主体」などの次元を異にする”自己”現象との階層的関係の方が根源的問題である。

実は二重性の問題は、すでに(私以前に)学的に言及されている。
上の対比にフッサール、安永浩、私の概念を照合させると下のようになる(特に安永の概念が重要)。
「私」:経験的自我、極自我(思考・行動主体)、システム2
〈私〉:超越論的主観性、現象学的自極(主観点)、システム3

本書で話題となった「無心か有心か」という問題も、”心”を単一とみなすと、無と有は両立できない矛盾となるが、心は多重過程からなるとみなせば、無心と有心の対象とする”心”の過程(サブシステム)がそれぞれ異なることで矛盾でなくなる(もちろん有心=システム2、無心=システム3)。
私が他の記事で書いたように、形式論理性を確信犯的に無視した大乗仏典の”論理”も、心を多重過程とみなすことで矛盾でなくなり、仏典の論理の言いたい事が見えてくる。

一方で私が膝を打ったのは、「あとがき」で山下氏が心理療法(認知行動療法)としてのマインドフルネスの限界を指摘していること。

瞑想が、世間的適応を目標とするメンタルヘルスの単なる技法になることは、瞑想本来の目的と違って、世俗的価値の枠内に人間の心をとどめさせることになる。
心理学徒の私がシステム2(既存の「二重過程モデル」)を超えたシステム3(テーラワーダ仏教段階)を見出した後、そこで終らずにその次のシステム4(大乗仏教段階)を志向し、科学的心理学の枠(限界)を破ってあえてトランスパーソナルの世界に向かったのも、そのためである。
言い換えれば、マインドフルネスは世俗的価値と宗教的価値の接点であり境界でもある。

超個的な慈悲を根源的態度とする宗教的マインドフルネスこそ、人類の心をアップデートする方向性としての意義をもっている。
それが仏教3.0の進むべき道だということが山下氏にとっての本書での結論となっている。
その意味では本書に(システム2までの視野しなかい)心理学者は不要だった。
これこそ私が期待した仏教の進化であり、人類の心の進化の方向性である。

ただし、本書の主題である「私であること」の二重性は、本書のまま(アップデート以前)では心理学的説明になっておらず(哲学的・宗教的な抽象レベルのまま)、また私の「心の多重過程モデル」のミソでもあるため、本書とは別の心理学的説明を稿を改めてしてみたい。
"私”の二重性の心理学1:病理現象として


はじめてのおおさか:国宝観音を巡る

2022年04月18日 | 仏教・寺巡り

この歳になるまで、”大阪”に降り立ったことがなかった。
仕事での用事がなかったことが第一で、観光で関西に行くならどうしても京都になる(次点は奈良)。
ライフワークにしていた小笠原家史跡の旅でも訪れたのは京都と明石。
結局、私が関西で2泊以上滞在したのは、京都、明石、飛鳥、南紀、滋賀(湖東、甲賀・信楽)。
見事に大阪が避けられている。
なにも毛嫌いしているわけではなく、行き先がなかったのだ。


そして今年2022年、ついに大阪の行き先が発生した。
ただし、4月18日に限定の行き先。
そう、一年の一日だけ、4月18日は大阪が行き先になる日
この日、大阪にある国宝の観音様がすべて御開帳となるのだ。

まずは、観心寺の如意輪観音
年に4月17,18の2日間だけ開帳される貴重な観音様。
次いで道明寺の十一面観音
毎月18日と25日に開帳される。
そして、葛井寺(ふじいでら)の千手観音
今年は4月16−20日の間開帳。
以上3つの共通日は、4月18日しかない。
そして、今年の4月18日は月曜で、私は大学に出勤する用事がない曜日(来年は会議日の火曜になるのでダメ)。
観心寺と葛井寺なら17日(日)でもいいのだが、日曜は観心寺が絶対に混む。
なので、17日は名古屋城に行って、18日に”満を持して”どころか”生まれてはじめて”大阪に向った。

もともとは1泊で行くつもりだったが、観心寺の起点になる河内長野には1人客が泊まれる宿がなく、手前の堺でないとビジホがない。
よく考えたら、名古屋からなら新幹線を使えば京都や大阪は日帰り圏だから、泊まる必要はない。
名古屋を朝発てばよい。
というわけで、月曜の朝、早起きして、朝のラッシュで混雑する(階段規制!)名古屋から新幹線で新大阪に向った(車内で朝食としておにぎり2個食べる)。
大阪の鉄路は無知なのでネットの”ジョルダン”でルートを検索し、それに基づいて、新大阪から地下鉄御堂筋線で難波に行き、そこから南海で河内長野に向う。


なるほど、大阪はエスカレーターでは右側に立っている。
東京は左側で、名古屋も左側だったが最近は2列(両側)に立つように案内している。
立つ位置の境となる駅(名古屋〜大阪の間)はどこなのだろう(名古屋が境ともいえる)。
私個人は、どちらか開けてくれた方が急ぐ時にありがたい(実際、今回も空いた側を歩いた)。
ちなみに、安全を第一とする武家礼法の基準では、いざという時のために「利き手を空けておく」のが基本だから、左側に立つのが正しい。空いている右側を歩く人は動いている分だけ危険なので、いざという時(たとえばエレベータが停止した時)こそ利き(右)手で素早く確実に手すりにつかまる必要がある。そういう意味で、エレベータで歩く人の危険度は大阪>東京。武家礼法は実際、江戸の方が大坂より浸透していたらしい。

また、かつて大阪出身の人から、大阪では、東京のように降りる人が済んでから乗るような無駄なことはせず、電車に乗り降りするのは同時にスムースにすると自慢していた。これって乗客が少ないから可能で、東京のラッシュ時にできることではないと思っていた。而して今回、大阪のどの駅でも、東京と同じく降りる人が降りきってから乗るようになっている。


河内長野に降りると、観心寺を通るバスが丁度出るところで、急いで乗ると中は満員。
ほとんどの客が観心寺で降りた。
月曜の平日なのに、なんでこんなに人が多いの?
定年後の年齢層だけでない。
普通の会社員と学生は来れないはずなので、きっと月陽が休みの理・美容業界と博物館職員なのだろう。

開帳日だけの特別拝観料1000円払うと、12:30と書かれた紙とパンフをもらう。
これは80名・30分単位の予約票で、その時刻になったら金堂前に集まれという。
なるほど、これならずっと行列している必要はない(コロナ対策も兼ねている)。
まだ1時間以上あるが、それまで広い境内の諸堂(重要文化財建築が多数)を見学していればいい。
境内には開帳日臨時の弁当屋も出ていて、せっかくなので手製のすきやきおにぎり(300円)を買う。
昨日の日曜の人出はどうだったか尋ねると、今日は半分だという。
すなわち、昨日は拝観まで2時間待ちだったわけだ。
やっぱり休日ではなく平日に来たのは正解だ。


さていよいよ金堂(これも国宝)内に入る。
堂内正面に国宝・如意輪観音(坐像)の扉が開かれている。

まずは着席させられて僧侶による堂内の説明を聞く。
そのあと一列になって、如意輪観音の正面を巡回する。
真正面では、立ち止まって手を合わせることができるが、人の列は動いているので、じっくり眺めるわけにはいかない。
なので、座席に戻って今一度遠くから観音を眺める。
でも30分ごとに次のグループと入れ替わるので、最大30分しか拝めない。
しかも、距離を隔てての拝観なので、間近に見る事ができない。

それでも等身大の本物は違う(写真:寺で販売の絵はがきより)。
もし先入観なしで、開帳してこの像を初めて目にしたら、きっと生身の人間と見まがうのでは、と思うほど、人肌の色が”生々しい”(これほど色が残っているのは長年秘仏だったため)。
仏像でこれほど人間に近いのはこの如意輪観音だけ。
仏像にふさわしくない表現だが、生々しく”妖艶”なのだ。
薄衣から露出した肌の色だけでなく、切れ長の目、それになにより片膝ついて頬に手をやるアンニュイな姿(肢体)がその雰囲気を見事に造っている(如意輪観音以外では形態的に不可能)。
美仏は他にもあるが、上の特性をもったこの像に、私を含めた老若男女が魅了されている。
実は、本日のこの如意輪観音参拝こそ、私自身の”女神様詣で”のクライマックスでもあった。
※:一連の吉祥天・弁才天・美観音詣で

30分しか拝む事ができず名残惜しいが、※イスムで買ったこの観音の模像が我が書斎に飾ってあるので、実はそれを眺めて暮せる(でも本物にはかなわない)。→その記事


バス停に戻るとすぐにバスが来た(バスの便はいいらしい)。
河内長野から今度は近鉄に乗って富田林を北上する。
地元の高校生が乗り込んでくる。
コテコテの河内弁が聞けると思ったら、女子高生は「〜でさー」という口調で、東京と違和感ない。
もっとも名古屋でも、コテコテの名古屋弁を話すのは河村市長くらいだし。

道明寺駅で降りて、町中を抜けて、天満宮と宝物館を巡り、思ったよりこじんまりした道明寺に着く。
それでも国宝拝観日だからか観光バスが停車している。
500円払って本堂に上がると、尼さんの住職が説明をしている。
本尊の国宝・十一面観音(立像)は、観心寺よりは小振りで、黒ずくめなので、暗い堂内だとちょっと見づらい。
しかもガラスケースに入っているので、立体感もとらえにくい。
ここの十一面観音は、オーソドックスな造りだが、仏像にありがちな無機質な面立ちではく、ふくよかでやさしいお顔だ(写真:寺で販売の絵はがきより)。
なのでここの十一面観音もお気に入り(十一面観音ではベスト)。


ここから土師駅まで歩き、そこから一駅先の藤井寺で降りる。
おなじ発音の葛井寺は駅から商店街を抜けてすぐで、庶民的(商売熱心)な雰囲気。
重要文化財の本堂に入って拝観料500円払って内陣に入ると、奥に本尊の千手観音が開帳されている。
ここの国宝・千手観音(坐像)は、本当に手が千本(以上)あり、しかもぞれぞれの手に目がついているのだが、これらは東博で間近に見る事ができたが、こうやって本尊として開帳されると、遠目に拝むだけで、この像の本当の凄さを味わえない。→東博の記事

そう、今回はすべて本尊としての開帳だから、美術品としてじっくり間近に見る事はできなかった。
そういう鑑賞は美術展での出品に期待するしかない。
もとより、こういう室内の固定された位置からの見学には、双眼鏡などを持参すべきだった。


近鉄で阿倍野=天王寺に戻ったので、最後に大阪第一の寺・四天王寺を挨拶代わりに拝観しようかと思ったら、ネットのルート検索によると、到着する頃は拝観時間終了後と出たので諦め、大阪環状線で大阪→新大阪と進み、そこからのぞみで名古屋に戻った。

以上、それぞれ如意輪観音、十一面観音、千手観音の最高傑作であり、それらが大阪に集まっていて、しかも本日限定で一斉に拝観でき(交通の便がいいのも有難かった),”はじめての大阪”の目的は達した。
次回は、仏像以外の史跡などを巡ってみたい。


浅草のダブル弁天開帳

2022年04月10日 | 仏教・寺巡り

本日「巳の日」は、巳(蛇)年生まれの守護神である弁才天の縁日というわけで、浅草寺内の普段は閉まっている弁天堂がこの日だけ開帳される。

最近の私の参拝対象は吉祥天や弁才天、あるいはどう見ても女性の観音像に集中していて、いわば”女神様詣”になっている。

それならなおさら、本日拝める弁天詣でをしないわけにはいかない。

いつものように自宅近くから都バスに乗り、「浅草六区」で降り、まずは挨拶の順として浅草寺本堂に参拝。
人出、とりわけ若者が増えた印象。
本堂内の本尊前で、若者たちが、私の目の前で、参拝の仕方について「二礼二拍手一礼」だと確認し合っていたので、さすが黙っているわけにいかず、彼らの肩を叩いて「お寺では合掌だけでいいのです」と諭した。
人気の寺に行くたびにこのような場面に遭遇するので、いっそのこと終日本堂内に待機して、仏教での参拝指導をしたい気持ちになる。

本堂の参拝をすませて境内の南東隅に進むと、小高い丘の上にある弁天堂の扉が開いている。
堂の正面で焼香を済ませて、堂内を見ると、正面奥に黒い八臂の弁天像が本尊としてあり、手前の厨子に収まっている小さめの白髪の弁天が開帳されている(写真)。
一度に2躰の弁天を拝めるわけだ。
背後の弁天は武器を手にして、白目だけが目立ってちょっと不気味。
手間の弁天は白髪なので「老女弁天」とも言われているが、お顔は皺1つなく、優しい面立ち。
弁天堂は参拝者が誰も来ないので、1人でじっくりダブル弁天を鑑賞できた。
堂内の写真撮影は禁止されているため、お堂全体を撮る位置に退いてズームで撮った。

この弁天堂についてのネットの書き込みに、「カップルで参拝するのは、弁天が嫉妬するから、避けるべき」などの邪説が騙(かた)られているが、そういう教典にない無根拠の大嘘(フェイク)がネットに書き込まれいるので注意が必要。
芸能神サラスバティは、そんな狭量な女神ではない(女=嫉妬、というステレオタイプの発想もさもしい)。
おそらく、日本の山の神あたりの俗説と混同しているのだろう(日本の神は、人間的感情に満ちていて煩悩から自由でないと自覚しているので、仏に救済を求めている、というのが神仏習合の出発点)。
※:大山津見の神の娘。女性は山に入ってはいけないのは山の神が女性に嫉妬するから、という俗説がある。江戸時代を通じて、女性が多くの専門業的空間から排除されていった論理の1つで、こういうイデオロギーに無批判であってはいけない

この後は、ここから北上して、二天門・被官稲荷を巡り、もう一度ダブル弁天を拝んで、西に渡って、東本願寺(立派な本堂)を参拝した。
浅草寺境内にも見どころはたくさんあるが→記事
浅草界隈は寺町を形成していて、浅草寺以外にも見る寺がある。


『世界は「関係」でできている』:量子論と龍樹

2022年03月14日 | 仏教・寺巡り

これは2020年にイタリアで出版された最新の量子論の本(邦訳はNHK出版より2021年)。
伝統的な物質観では矛盾してしまうものの、実証されている”量子論”をなんとか理解したいがために購入した。
※:たとえば以下が伝統的な物質観が通用しない量子(陽子、電子、光子など)現象
①量子は粒子でありかつ波動である:相補性
②量子は複数の場所に同時に存在しうる:重ね合わせ
③量子のペアは互いに影響しあわずに(遠く離れていても)組合せられる:もつれ

量子が”特定の性質をもった物質”という前提であるかぎり、理解不能なのである。
そこで、量子は分子→原子→の先にある究極の物質としてより、モノを可能にするコトとして理解すべきではないか、という視点ができつつある。
※:ハイデガー的に言えば、”存在者”(存在するモノ)を可能にする”存在”(存在するコト)。

この本の著者であるイタリアの理論物理学者カルロ・ロヴェッリは『時間は存在しない』(NHK出版)でも知られている。

本書のタイトルから、言わんとする事は予想できるので、理解を確かにするため、本書を読む前に龍樹(ナーガールジュナ)の本(『根本中頌』(中論)の解説本)を読んでおいた。
龍樹は、大乗仏教の基本概念である”空”(くう)、すなわち有でも無でもなく、そのどちらでもある存在の本質を主張した。
※龍樹の実際の論理はこの2倍複雑。空は有と無の両端に対する”中道”であるという。空は有/無の二元論理そのものを否定しているわけだ。二元論理はシステム2の概念的思考そのものが胚胎するバイアス(自覚されない認知的偏り)で、龍樹はそのバイアスを批判しているのだ。

そして事象はこれらの縁起(相互作用)によるものとして、存在の単独性が否定されている(量子はもつれているのが当たり前)。
※:縁起説は、釈尊の頃(阿含経)から言われている。

果たして本書を開いたら、あにはからんや(実はうすうす期待していた)、そのナーガールジュナについて語られていた。

といってもロヴェッリは、仏教にはとんと無縁で、ナーガールジュナについても知人に「読んでみろ」と紹介されて初めて知ったという。
そしてナーガールジュナの著作の英訳(イタリア訳は無いらしい)を読んで、21世紀の量子論者が達した物質観が2千年近く前のインドで主張されていたことに「深い感銘を受けた」という。

肉眼レベルでは物質に見えるものも、その構成要素を突き詰めて分解すると、物質ではなく、相互作用の網の目になるという。
すなわち世界は縁起のネットワークであり、「色即是空」なのだ。
※:般若心経を知っていれば、あえて龍樹を読まなくても空観は理解できる。
さらにロヴェッリは自我の実体視も否定していて、「諸法無我」に達している。

結局、現象として在ること(測定可能性)は実体(モノ)として在ることではない。
今までの科学は、現象の背後に実体があると想定していたのだが、実証科学である量子論でそれが否定された。

このような世界認識(空観)は、ニヒリズムでも懐疑主義でもない。
ロヴェッリ自身、ナーガールジュナの主張を読んで「自身を愛着や苦しみから解き放つ助けとなる」と言っている。
それこそが仏教の目的だ。

本書はこの話題で尽きているわけではないが、関係論という主題部分にナーガールジュナ(龍樹)が燦然と輝いていたので、そこの部分を紹介した。


吉祥天をお迎え

2021年08月14日 | 仏教・寺巡り

仏像好きの私であるが、その好きの一部は”美女”好きであるためかもしれない。
なぜなら、イスム(精巧な仏像フィギュア販売)で大枚はたいて買ったのは、観心寺モデルの妖艶な如意輪観音だし(→仏像フィギュアを大人買い)、それに今回、浄瑠璃寺モデルの吉祥天(きっしょうてん)が発売されると知って迷わず予約購入したほど(製造時の美しさを再現した彩色モデルを選択)。

その吉祥天が、やっと手元に届いた。
さっそく本尊としている如意輪観音の脇に配置(右写真)。
本尊の前方に、護衛として毘沙門天(カプセルフィギュア)を置いていた。
吉祥天の夫が毘沙門天だという(ともに元ヒンズーの神なので、性別があり夫婦となりうる)ので、丁度いい。
真言「オン・マカ・シュリエイ・ソワカ」を唱えて、直径26cmのガンモモを響かせる。

名前からして幸せになりそうな吉祥天こそ、”美女”の神(仏教では天女)で、この像の元である浄瑠璃寺の像(国法)には、僧が恋をしたという逸話がある。

せっかくなので都内の吉祥天を祀る寺をネットで探したら、区内の清土鬼子母神という所に祀ってあるというので、都バスに乗って参拝に行った。

そこは、近く(豊島区)のあの有名な雑司ヶ谷鬼子母神の本尊が出土したという由緒ある地で、本堂内は確認できなかったが、外に吉祥天の石像がある(右写真)。
それなりの技量の人が作ったと思われ、無個性な造形ではなく、吉祥天にふさわしい美しさ※が表現されているのがうれしい。

※:浄瑠璃寺像と比べると、目が吊り目でなく水平、頬が長くなく膨らんでいない、口角がやや上ってほんのり笑顔になっている点が現代的な美人になっている。

上と同じく、左手に宝珠を持っているのが吉祥天の特徴。
ちなみに鬼子母神は吉祥天の母。

実はこのほかに陶器の吉祥天もAmazonで購入済みで、千円台の安物ながらこちらも美しい顔立ちをしている。
吉祥天という美女に囲まれて幸せ。
※:美を愛でるのは人間的に正当な反応。


牛久大仏に行ってきた

2021年02月23日 | 仏教・寺巡り

天皇誕生日という祝日、湘南で観梅をと思ったが、混雑との情報を受け、急きょ方角を北東に変えて、牛久大仏(茨城県牛久市)を観に行く事にした。

常磐線からも遠望できる、平成5年公開のこの巨大な大仏に対しては、実は当初から関心がなかった。
仏像といえば数百年経た古仏にしか関心がなかったためでもある。

ただ、昭和以降の大仏でも、お顔が美しい大船観音(神奈川県鎌倉市)は前から好きだったし、最近では真新しい東京の鹿野大仏(東京都日の出町〕に行ってきた→鹿野大仏〜阿伎留台地を歩く
こういう”大仏”は観光のためのモニュメントではなく、まじめな信仰の場であったりするので、行って見るとそれなりに充実する。
なので毛嫌いする理由がないことに気づき、行く気になった次第。

休日だと牛久駅前(2番乗場)から通常の路線バス以外に直行バスが走り、東京から意外にすんなりと行ける。

「牛久大仏」のバス停を降りると、目の前に高さ120mの超巨大な阿弥陀立像が聳えている。
なんと奈良の大仏が手のひらに乗る大きさだ。
タワーや高層ビルのようなその高さだけで、拒否感があったのだが、
こうして直接目の前で眺めると、造形が丁寧で”仏像”として違和感ない姿であるため、
不気味さや威圧感などがなく、超越的な阿弥陀様がこの地に降臨された!という見立てができる。

入口で拝観料(胎内こみで800円)を支払い、まずは食堂に入って天そばで腹ごしらえ。
公園状の園内から一歩一歩大仏に近づき、さらに後ろにまわって、胎内に入る(土足厳禁、トイレなし)。
コロナの時期でしかも花の季節の前なので、客が少ないのが幸い。
大仏の胸の高さにある5階にエレベータで上がると、仏舎利(釈尊の遺骨)が納められており(ここだけ撮影不可)、釈尊の生涯などが紹介されている。
また四方の縦長の窓から外が眺められる。
4階に階段で降り、そこからエレベータでずっと下の3階に行くと、壁面にずらりと阿弥陀像(胎内仏)が居並んだ収骨廟になっている。
廟の名号(個人名)を見ると、タイ語など、東南アジア系の氏名が散見する。
ここは浄土真宗東本願寺派なので、大乗仏教の中でも南伝仏教とはかなり離れているはずなのだが…。
そういえば一緒の見学者の中にもマレー系の若者がいる。
ここで東京本願寺発行の小冊子のうち牛久大仏建立の意味を説明した「方便化身の浄土」を購入(300円)。

2階には売店があり、念仏・法話の部屋があり、壁面は写経空間になっている。
せっかくなので壁に向って正座して写経(200円)した。
以上、大仏の胎内は、単なる展望台ではなく、きちんとした宗教空間(寺院)になっていた。

外に出て、大仏手前の池のある庭園に行く。
ここは浄土を摸しているという。
花の季節だったら、さぞ美しかろう。
大乗仏教が示す仏の世界は、禁欲三昧の無味乾燥な世界ではなく、”楽”や”喜”の肯定的感情に満ちた情景であってほしい。

園内を一周して、帰りのバスに時間があるので、大仏がよく見える広場のベンチに座る(写真)。
ずっとこの大仏を眺めていたいから。
いや、むしろずっとこの大仏に眺められていたいから。

巨大な大仏がかくも安心感を与えてくれる。
ただ大きいだけではなく、仏としての優しさがきちんと表現されているからだ。
牛久大仏は、高さ120mの、確かな”仏像”である。

バスの時間が近づいたので、大仏に向って合掌して園を出た。


不動明王に祈る

2021年02月20日 | 仏教・寺巡り

どうやら自分は不動明王とご縁があるらしい。
自分の身体条件で行ける山が高尾山と丹沢の大山に絞られているのだが、両山とも不動様の霊山だし、そもそもわが東京宅は、向ヶ丘の目赤不動(江戸五不動の1つ)と谷田川の不動に挟まれた(不)動坂にある。

そして自室にAmazonで購入した不動三尊像(不動明王・コンガラ童子・セイタカ童子の三尊。作家作品)を置き※、毎日手を合わせている。
仏像(フィギュア)コレクターでもある私は、不動三尊の真後ろに大日如来、左右の斜め後ろに降三世明王と軍荼利明王を配置している。

せっかくなら、きちんと念誦しようと思い立ち、数珠を購入した。
数珠は108個の珠から成っていて、念誦の回数を数えるのに使う。

本来の念誦は、不動明王の真言(ノウマク サンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソハタヤ ウンタラタ カンマン)を千遍唱えるのだが、まずは練習として百遍すなわち数珠一周分(正確には108遍)やってみた。
問題ない。

翌日の今日、五百遍に挑戦してみた。
数珠五周分。
上の真言を間断なく数百回もくりかえし唱えていると、その行動がシステム1の自動運動に移行し、暇になったシステム2が別のことを考え出してしまう。
よくいえばルーチンワーク化して苦もない”作業”となるのだが、これでは祈り行為でなくなる。

そうなってしまう理由の1つが、自分にとって無意味な音にすぎない真言のせいだ。
真言の単語ごとの意味を理解せずに、丸暗記してしまった。
だから自分でも訳の分からない呪文を唱えているのに等しい。
いやむしろ、滑舌の練習にすぎなくなっている。

密教の行は”三密”で、身・口・意が融合していなくてはならない。
身は本来は手による印だが、今は数珠を繰る動作。
口は真言を唱える。
だが意(システム2)が真言と離れてしまう。

これではいけないと思い、五百遍に達したところで、一旦終了し、真言の逐語訳を参照した。
手元にある『真言宗在家勤行講義』(坂田光全著 東方出版)によると
ノウマク(帰命する) サンマンダ(あまねく) バザラダン(諸々の金剛) センダ(暴悪者よ) マカロシャダ(大忿怒者よ) ソハタヤ(摧破せよ) ウンタラタ(忿怒の聖語) カンマン(不動尊の種子)となる。
そしてテキストの意訳をさらに簡略にすると「すべての金剛に帰命したてまつる。暴悪・大忿怒の相を示す明王よ、煩悩諸魔等を摧破せよ」という文になる。
なので、「ノウマク、サンマンダバザラダン。センダ・マカロシャダソハタヤ、ウンタラタカンマン」と区切って(忿怒部分に力点)、その”意”を心に浮かべながらあと五百遍唱えることにした。
ということで、後半の五百遍は念誦できたといえる。

念誦の間、Amazonで買った不動三尊を見つめながら唱えるのだが、その像はお寺で”開眼”をしていない良く言っても”美術品”。
私は仏教は偶像崇拝教ではないと思っている。
目の前にある仏像は、単なる造形であるが、それは仏をイメージ化した模像(イコン※)である。
※イコン(icon):原義はキリストの聖画像

仏像(icon)は仏そのものではない。
仏の在り方を可視化したものであり、それを見つめることで(目を閉じずに)仏を観想できるのだ。
物としての仏像は火事に遇えば焼け焦げるし、それでなくてもいつかは朽ちる。
だがそこに仏のなんたるかが視覚的に表現されている(文字表現の教典に対応)。
仏の本体は物質的な存在者ではなく、法(ダルマ)であるため、本来不可視なのだ(存在者を可能にする”存在”が不可視なように)。
人間は視覚情報が重要だから、可視化された仏像を通して、仏を観じ、そして仏に対して拝礼をする。
不動明王などの諸仏(明王や菩薩も含める)は、法の部分集合(一定のまとまり)といえ、忿怒の表情は大慈悲の部分集合である。


鶴見に行く

2020年10月25日 | 仏教・寺巡り

鶴を見に行ったのではなく、横浜市の鶴見に行った。
鶴見に何があるか。
曹洞宗の大本山・総持寺(正しくは、總持寺)がある。

昔、一度行った記憶があるが、やたら広かったという印象しか残っていない。
東京近郊で宗派を代表する大本山クラスの寺院というと、ほかには鎌倉にある臨済宗の建長寺と円覚寺、藤沢にある時宗の遊行寺、都内だと池上にある日蓮宗の本門寺、芝の浄土宗の増上寺、千葉だと中山にある日蓮宗の法華経寺、それに真言宗では成田山新勝寺くらいか。

福井の永平寺に並ぶ曹洞宗の大寺が東京近郊にあるのは寺好きとしてはありがたい。
もっとも明治年間に石川県から移転したので、歴史や文化財には乏しいが、
永平寺と違って街中(300万都市)にありながら、広大な敷地に大伽藍が並ぶのは貴重な風景だ。

そもそもなんで総持寺を再訪する気になったかというと、本当は今週末は久々に山歩きをしたかったのだが、狭心症気味になってしまい、心臓に負荷のかかる山登りは禁止となった。
そこで平地で、負荷のかからない行き先を探したが、行き先が尽きていたので、再訪バージョンに切り替えたところ、ここ総持寺が駅から近く、しかも大伽藍の割りに前回の印象が定かでないということで白羽の矢が立ったというわけ。


晴天の日曜、10時過ぎに家を出て、品川で京急に乗り換えて「京急鶴見」で降りた。
 京浜東北線で鶴見に乗換えなしに行けるJRを使わなかった理由は2つある。
1つは、JRの駅とほぼ隣接しながら、京急の方が運賃が安いこと(特快のボッスクシートで旅気分にもなる)。
そしてもう1つは、ランチで行きたい店が、こちらの駅側にあるため。

歩き前の腹ごしらえに選んだ店は、私が外食の第一選択肢とする”五目焼そば”の専門店「ちぇん麺」。
まず、五目焼そばの専門店というだけで感動ものだ。
客が混む前の11時台、本日の一番客で入り、自販機から「カレー味」「並」を選び、あとは口頭で「よく焼き」「辛さは最低の0」を指定。
初の店なので、まずはオーソドックスな「野菜」にしようと思ったが、ネットの口コミで「カレー」がおいしいというので、それに従った(辛さが強いというので、おとなしく辛い度を0)。
皿ではなく大きめの鉢に盛られたそれは、大きめのばら肉やタケノコ・キクラゲなどさまざまな野菜にカレーがかかっている。
五目焼そばの麺は、カリカリに硬い麺と柔らかい麺とがあるが、私が一番好きなのは、柔らかい麺に硬いお焦げがついてるもの。
この店の麺はまさにそれだ。
五目焼そばは、食べる前にその豪勢な盛り付けを見ただけで、おいしさがわかる。
一口食べて、次に鶴見に来る用事はないものか心の中を探った。
心の中の五目焼そばを食べる店のリストに登録されたからだ。


これで満足した気になり、この後は腹ごなしに総持寺に向う。
鶴見駅から近い脇道から境内に入り、まずは三松閣という鉄筋の信徒会館的建物に靴を脱いで入る(寺を訪れる時は紐のない靴で来る)。
喫茶店と売店があるが、コロナ対策のため他の空間には入れない。
トイレに行くと、入口に東司(禅寺のトイレ)の本尊が置いてある。
観光目的の訪問客の一人だが、用便といえども修行のひとつという緊張感が与えられる。
寺を訪れることの意味はこういうことにあると実感する。

ついで受付がある香積台という大きな建物に入る。
堂内は板敷きで、禅宗寺院の内部を味わえる(写真)。
客が廊下を歩くなか、修行僧が作務(さむ)として廊下をぞうきんがけする。
なので木の廊下は写真の通りピカピカ。
廊下の突き当たりにある大黒天を参拝し、写真左側の売店で、お札(お姿)と「雲水さん」という手巻き海苔の縦長の揚げ煎餅、それに瑩山禅師についてよく知らないので『一仏両祖』という道元・瑩山両祖の簡単な解説本を買った(一仏は教主釈迦牟尼仏)
残念ながら、今はコロナ対応のため境内の多くは閉鎖中で、見学できるのはここ香積台のほかは仏殿三宝殿だけだという。
観光寺院でないので、観光客はほとんどおらず、法事で訪れる檀徒が中心。
それだけに修行道場たる本来の寺の雰囲気を味わい、仏殿の本尊を拝み、また梵鐘のある高台にあがってこの寺の守護神である三宝荒神(購入したお姿)を参拝した。
さらに、東日本大震災慰霊のためという平成救世観音(被災地の方角を向いている)脇の”祈りの鐘”を鳴らした。
山門の仁王像は、細かい金網越しなので詳細な観賞はできないが、しっかりした造形でしかもポーズが特有なのでもっとよく見えたらいいのに(写真)。


総門を出て、ついでに近くの東福寺(真言宗)も訪れ、片手を上げた白い慈悲観音を見て、最寄りの京急駅「花月園総持寺」(鶴見川を河口から歩いた時に利用)から帰宅した。
東京に15時に着き、軽い半日旅を終えた。


浅草寺ご本尊の御姿

2020年07月19日 | 仏教・寺巡り

梅雨の合間の貴重な晴天(雲量的には曇り)の今日。
家(東京宅)にいるのがもったいないので、都バスで浅草に行った。

六区前でバスを降りると、すぐに浅草演芸場の通りに達する。
インバウンド頃並みではないが、それなりに人出があり、浴衣姿(若い女性)の観光客が目につく〔京都と同じくレンタルなんだろうな)。

通り沿いは、外にテーブルを出した居酒屋が並び、昼間からジョッキ片手に楽しい飲み会風景。
仲間と居酒屋で飲み食いしながら談笑するって、ホントに楽しいよな(自分には最近なくなった)。
飲食なのでさすがにマスクは外しているが、屋外なので、感染予防的には、問題はないか。

以前よりは格段に人がまばらな仲見世に出て、浅草寺の本堂に向う(右写真)。
写真にあるように、通りを歩く老若男女、皆マスクをしている。

以前は、本堂周囲に屋台村ができていたが、いまはそれがないこともあって、こちらも人がまばら。

本堂には、参拝の列ができていて(横に拡がればいいのに)、先頭の若い人が、堂々と神社式の拝礼をしている。
最近つとに目にするようになったので、この問題については、1つ前の記事にして、ネット検索できるようにした→1コ前の記事

さて、私は、朱印収集にはまったく興味ないが、仏像好きということもあり、御姿はほしい。
自宅から都バス一本で行ける浅草寺には幾度も来ているが、御姿をゲットしていなかった。
今日の目的はこれ。

ところが、本堂下の販売所にも、本堂中の販売所にも、見本の列に御姿がない。
あえて、販売所の人に尋ねてみた。
すると、奥から、御姿の大(200円)と小(100円)をもってきた。
大はA4の高さなのに200円、て安すぎ(1000円してもおかしくない)。
迷わず大を買った(右画像)。

なぜ御姿が見本として掲示されていないのか。
本尊が秘仏だから、御姿もおおっぴらにしたくないのか。
でも、口頭で求めれば、こうして普通に販売してくれる。
こういうこともあることを知った。
なので、こういうことに関心ある人用に情報提供のつもりでこの記事を書いた。

ついでに、隣の浅草神社に行き、そちらでも恵比寿様の御姿を求めた(500円、これが相場)。

浅草には観光客が多いが、浅草寺と仲見世だけでなく、花屋敷や演芸場・劇場、さらには隅田川の遊覧船などを含めると、一日つぶせる観光地だといえる。
飲食の店も豊富にあるし。


お寺での参拝の仕方:二拝二拍手一拝でない

2020年07月19日 | 仏教・寺巡り

おことわり:この記事はわがブログの読者向けではなく、ネット検索用にアップするものです。

最近、参拝者の多いお寺(仏教寺院)に参拝に行くと、

二拝二拍手一拝の神社式拝礼を、自信たっぷりと、ご本尊の前でやる人(しかもいい歳した人)が少なからずいて(場違いの拍手の音が響き渡り)、とっても悲しくなる。
日本文化の断絶に直面した思いがして。

こういう人の家には、仏壇はなく、親族の法事に参加する(社会的学習の)機会を得なかったようだ。

でも、初詣や祭礼で神社には行くのだろうな。

神社に行くと、拝殿の前に上の参拝の仕方が書いてある。
そして、お寺には書いてない。

上野の清水観音堂(寛永寺)には、神社式の柏手(かしわで)を打つ人の多さに見かねて、
ここでは手を打たないことと、仏式のやり方が日本語で(日本人向けに)書いてある。

仏式の拝礼は、とても簡単。
ただ心を込めて合掌するだけ。
回数を数える動作がない分、雑念なしに心を込めることができる(逆に言えば、神式の拝礼って異なる動作をそれぞれ頭で回数を数えるので身体運動的)
さらに読経(念仏・題目)や礼文(らいもん)、本尊の真言(マントラ)を唱えたらなおよし。
そして一礼。
その後、(余裕があったら)焼香するのが正しい。

そもそも、神社での拝礼も、神仏習合だった江戸時代は、合掌だったようで、→神仏習合での来拝の仕方
現代の神式の作法は、明治の神仏分離以降にでき上がった。

仏前で神式の拝礼をあえてする人は、信念で神式を貫いてるわけではなかろう。
そういう信念の人が、寺に参拝することはないはずだから。

やはり、仏式拝礼そのものを知らないためだ。
おそらく、キリスト教会ではやらないと思う(いや、そのうち「同じ”神様”だから」と解釈してやってしまうかも)
ということは、神社のように、お寺がそれを教示するしかない。
すでに”常識”ではなくなっているのだ。


心の多重過程モデルで理解する仏教:1

2020年03月20日 | 仏教・寺巡り

前回の記事を前提として、いよいよ仏典を「心の多重過程モデル」で解読したい。→前回へ

ここで題材にするのは、『大乗仏典1:般若部教典』(中央公論社 2001)にある『善男猛般若経』
(戸崎宏正訳)からの一節。
もちろん大乗仏典だから、釈迦の口伝ではなく、数百年後の思想的展開によるもの。
そこでは、”思考”がやり玉にあがっている。
以下に引用する(一部略)。

「すべて愚かな凡夫たちは、思考から生まれたものであり、彼らのいだく観念は妄想に起因する。
思考するというのは、一つの偏りである。思考しないというのも第二の偏りである。
思考することもなく、思考しないこともないところに、偏りもなく(、)中正もない。 
中正があると思考するとき、それはもはや偏りである。
思考がなく、思考しないこともないとき、そのばあい、思考を断つことになる。」※(,)は私があえて付加

これを読んだだけで、すんなり了解できた人は、以下を読む必要はない。
論理的にひっかかった人は、以下をどうぞ。


これらを前回の記事で紹介した「心の多重過程モデル」で解釈してみる。
①「すべて愚かな凡夫たちは、思考から生まれたものであり、彼らのいだく観念は妄想に起因する」
われわれ(凡夫)が運用する思考活動は、創作された観念(概念)の論理運用のため、現実から離れた妄想に陥りやすい(良くいえば創作能力ともいえる)。
この思考こそが言語を用いた意識過程、すなわちシステム2である。
教典の別の箇所で思考を「ことばあそび」にすぎないとしている。

そして②「思考するというのは、一つの偏りである」という。
この偏り(かたより)を心理学では”バイアス(bias)”といい、行動経済学が指摘したシステム2における論理バイアス、”節約された思考(ヒューリスティックス)”であり、認知行動療法でいう「誤った信念」に相当する。

それに続いて③「思考しないというのも第二の偏りである」という。
ここで読み手の論理的思考がつまづくだろう。
なぜなら、思考することが否定されるなら、論理的には、思考しないことは肯定されてしかるべきであろうから(2価論理で1=not0なら not 1=0)。
どうしていいのかわからなくなる。

「思考しない」とは何か。
凡夫の心(システム1またはシステム2)においてシステム2が作動しないことは、システム1の作動を意味する。
システム1とは思考ではなく、直感で反応するレベルで、思考的吟味をしない=自明視する(われわれの日常行動のほとんどはこのシステム1による自明視された反応)。
だから、「くよくよ考えずにパーッといっちゃえ!」ということになる。
このシステム1は思考以前の認知的バイアス(見間違えなど)の宝庫なので、確かに思考とは別個の”偏り”である。
認知行動療法では「誤った学習」に相当する(システム2よりシステム1の方が不正確)。
すなわち、人はシステム2でもシステム1でもそれぞれの偏り(バイアス)から逃れられない、といっているわけで、これは21世紀の最新心理学である行動経済学や認知行動療法の知見と合致している。

そして教典は④「思考することもなく、思考しないこともないところに、偏りもなく、中正もない」としている。
前半を飛ばして、後半の「偏りなく」は分るが、「中正もない」と否定的なのは何でだろう。

⑤「中正があると思考するとき、それはもはや偏りである」と続いている。
「中正がある」と”思考”してしまっては、システム2で判断していることになるわけだ。

そして前半、「思考することもなく」(システム2を停止し)、「思考しないこともない」(システム1を停止し)、とは、心の二重過程そのものの超克を意味する。
思考(システム2)を停止するだけではダメなのだ。


ではどうすればいいのか。
二重過程モデルではお手上げだが、
多重過程モデルによれば、二重過程の超克なのだから、システムでもでもない、システム3を作動する、ということになる。
システム3の作動によって、⑥「そのばあい、思考を断つことになる」

通常の人(凡夫)の心はシステム1かシステム2の”二重過程”でしかない、と現代心理学さえも思い込んでいる(学問自体がシステム2の洗練された営為であるから仕方ない)。
その二者択一の次元にとどまっている限り、その次元(心の偏り)から逃れることはできない。
システム1 は知覚と記憶・感情に束縛されており、システム2は概念・表象と論理に、すなわち心は仏教でいう”五蘊"、すなわち”色、受、想、行、識”という心理過程に束縛されている。
この五蘊の束縛から脱するため、システム1を停止し同時にシステム2を停止するとは、具体的には、日常の心の営為を停止し、無念無想になること、すなわち”瞑想”することである。


瞑想の発見、これがポイント。
釈迦は、日常の安逸から脱して、身体を痛めつける苦行に専念したが、それはシステム0を酷使するだけだった。
その状態だと、意識が変性して幻覚を体験してしまう(この脳内麻薬の自家中毒レベルで満足する人たちも多い)。
釈迦が求めたのはそんなレベルではなく、より高次の(hyper)レベル、すなわちシステム
釈迦がシステム3に達したのは、安逸と苦行の中間(中道)、すなわち川のほとりの菩提樹の下での瞑想によってであった。
仏教の”行”に瞑想(禅定)が必須なのは、 システム12を停止し、システム3を作動させるためだ(瞑想自体が目的ではない)。
そしてシステム3を任意に作動できるレベルに達すれば、システム12を停止させる必要がなくなり、システム1の自動反応も、システム2の思考もシステム3で眺めることができる(これこそが心の多重過程の実現!)。
眺めることは、対象を肯定も否定もせずに、それに巻きこまれず、距離をおき、執着しないことである。


この教典では、二価論理(システム1かシステム2か〕を否定し、システム3の状態を口酸っぱく繰り返している。
ただ、読み手の頭が二価論理に留まっている限り、論理破綻にしか読めない。

いいかえれば、凡夫の心理メカニズムを代弁するだけの現行の心理学(二重過程モデル)では、人間の潜在能力であるシステム3の扉を開くことはできない。

私がやろうとしている心理学は、仏典とはちがった心理学的概念を使って、すなわちシステム2を可能な限り駆使して、システム3という言語思考を超えた次元の心の状態を説明することにある(だから仏典がとても参考になる)。
実は、仏教そのものが宗教というより精緻な心理学理論だ(釈迦は人類最初にして最高のカウンセラー)。
もちろん、それを理解するにはシステム3の体験を必要とする。
システム3の奥行きは果てしないが(瞑想修行に終りはない)、その入口に立つことは誰でもできる。

ただ、システム3を問題にするだけなら、「マインドフルネス」のように南伝(テーラワーダ)仏教で済む。
私があえて”大乗仏典”を題材にしたのは、多重過程の視野がシステム3の先の次元にあるから。

本ブログでは、学術論文として論理構築する以前の、ひらめき的構想段階を披露していきたい(文章にする=考えを整理することだから)。