今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

富士駅近くの寺に墓参

2019年03月16日 | メモリアル

卒業式も終えたので、春休みとして、18切符で帰京の途につく。
ただし、今回は、静岡県の富士駅で途中下車。

この駅近くの寺に墓参のため。
学生時代の友人がその寺の住職だったのだが、亡くなったのだ。

友人といっても私が名古屋の大学に就職する時に、
祝いの席に来てくれたのが生前会った最後なので、かれこれ四半世紀は会っていなかった。 
一昨年に訃報を間接的に知り、18切符で富士駅を通るたびに寺を見ていたので、
いつか途中下車して墓参に立ち寄ろうと思ってたが、なかなかその一歩が踏み出せなかった。
今回、別の友人の半強制的な誘いによって、やっと墓参が実現した。

その友人と富士駅で落ち合い、献花用の花束を買って、寺に向った。
奥さんに案内されて、まず墓参をした。
歴代住職の墓をまとめた新しい卵塔を造った彼は、自分も入る墓を造ったことになり、
その新しい墓の唯一の墓誌に彼の名が彫ってあった。
寺の内部を案内され、あとは3人で故人を偲ぶ話をした。

その寺は、生前の彼によって、屋根の上にチベット仏教風の搭を作り、
またビルマの涅槃像が講堂に本尊として据えられている。
寺の宗旨は曹洞宗だが、そのたたずまいは町中の禅宗寺院としては、はっきり言って異様だ。
それは、彼の視野が、彼にとっての寺の在り方が、
一宗派や日本の慣習的仏教に限定されない、仏教全域を包含しているためだ。
本来の仏教の在り方を彼なりに追求し、形として実現したことになる
(資金的な苦労もあったろう)。 

型にはまらない行動力は学生の頃からあった。

ただ、彼なりに強いストレスを受けていたようで、永平寺での修行時に大病を患って手術をし、
それが結果的に、最期を早めてしまった。

早すぎる死ではあるが、彼が形として実現した寺を見れば、
彼自身の人生を全うしたといっていい。
実際、彼は病を従容と受け入れ、治療に専念することをよしとしなかったという。
奥さんからすれば、彼は生き急ぎすぎたような印象だという。
彼からすれば、やりたいことを先延ばしせず、”今”を懸命に生きたのだろう。

そういえば、かの日本曹洞宗の開祖・道元も50代で亡くなった。
なしとげられた業(わざ)は、寿命の長さに比例するものではない。 


秋川高校八期会(2017)でメタセコイアを想う

2017年11月26日 | メモリアル

年に一度、この時期に必ず開かれる(今は亡き)都立秋川(アキカワ)高校の同期会に出席した。
名古屋からは他に1名、大阪、北九州、八丈島、ハワイからも同期が駆け付ける。 

われわれ元生徒だけでなく、当時の先生も招待される。
出席される先生方は80歳を越えながらもお元気で、顔の色つやもいい(逆にここ最近欠席される先生は体調が思わしくない)。

互いの近況をひとくさり語った後は、高校(寮生活)時代の思い出話。
先生を交えて、今だから話されるエピソードもあり、 あの3年間の思い出が新たに追加される。

その中で、最近避けて通れない話題が、同期生の訃報。
今回も新たな訃報がもたらされた。
その同期生は、私が入学して最初に口をきいた相手で、2年の時に退学したのだが、会いたかった。

われわれ全寮制の高校では、途中退学しようと、途中から編入学して来てたった1年間だけであろうと、一宿一飯の縁があれば皆仲間。
実際、常連というかむしろ同期会の幹事がそれらの該当者。 
言い換えれば、たった1年間だけでも一生ものの強烈な経験だったのだろう。

個人的に心を惹かれた情報(出席者全員が資料をもらった)は
我が母校の跡地に残っているメタセコイアの並木について。
そもそも開校後に特別な思いで植えられたこの生きた化石、学名メタセコイア・ヤポニカ・ミキ。
もらった資料はその木を我が高校のシンボルとして植えることに奔走された、我が校の親、ミスター・秋川こと宗方先生の手記。
メタセコイアは廃校後の現在もすくすくと成長しつづけているのだが、都が管理している跡地はいつもは門が閉められ進入禁止。
その跡地が開門され通行できるイベントが先月あった。
それに参加した同期によれば、メタセコイアにとても強い”気”を感じたという。

「パワースポット鑑定士」を自認する私には、あのメタセコイアから”気”が出ているのは容易に想像できる。
これはぜひ、鑑定に行きたい。
来年は、東京都開催の「育樹祭」時に開門されるという。


懐かしい秋川八期会2016

2016年11月27日 | メモリアル


今はなき都立秋川高校の同期会が、いつもの時期・いつもの場所で開催され、数年ぶりに参加した。
といっても、年一回はなんらかのイベントには参加している。

まずは、毎年この会を開いてくれる幹事たちに感謝。

当時の先生も5名参加して、我々との外見の差が縮まっていくのを感じる(我々側が歳とっている)。

全寮制の高校で、生活をともにしてきて、全員が顔見知りであったため、当時のエピソードは腐るほどある。
いまだに初めて聞く話に事欠かない。 

湧き上がる「懐かしさ」に浸っていると、時間的存在者たる”現存在”の根本気分である「懐かしさ・郷愁」に思いをはせる。

過去という時間性に対する気分である「懐かしさ」。
かつては存在し、今は存在していないという、記憶の中の存在に対して抱く気分。
存在と不存在の双方を体験したからこそ、その存在を正しく受けとめることができる。
その時とはまた異なる追体験によって、自分の歴史性(時間によって創られた自分)が確認される。
懐かしさは、忘却していた存在との再会による存在実感の気分なのだ。
しかもその実感は、過去を共有していた他者たちとの共感を伴っている。
他者たちと共に味わえる存在実感なのだ。 

懐かしさに浸るのは、後ろ向きの態度で生産的ではないという懸念がないことはない。
だが、「存在忘却せずに存在を実感して生きる」というハイデガーの格率を生きたい私は、
未来や現在だけでなく、どんどん増えていく過去に対してもきちんと存在を実感したいのだ。
だから、懐かしさを大切にしたい。

そういえば、参加者の中に、私のブログの読者になってくれている同期生がいた。
せっかくならコメントを残してくれるよう頼んだ。

懐かしさに浸って、2次会まで行き、久しぶりに酔った。
翌日は日曜だからよかった。
懐かしさの代償が少々体にきた。


秋川高校跡を訪れた時の気持ち

2016年05月15日 | メモリアル

今は亡き「都立秋川(あきかわ)高校」の残り火を消すまいとする頼もしい同期会幹事がイベントを企画してくれた。
皆で高校跡地を訪問し、さらに秋川(あきがわ)の河畔でバーベキューをし、上流の秋川渓谷の温泉宿で宿泊し、翌日はもっと上流の集落で同期が住職している禅寺で坐禅するというもの。

すばらしい企画だが、都合で当日には行けない。
元々その温泉宿に泊ってみたかったこともあって、1日遅れで、一人で挙行した(といっても跡地と宿のみ)。

まずはJR五日市線の「秋川(あきがわ)」駅で降りて、高校跡地を訪れる。
敷地はそのままにされ、周囲を柵で囲まれ、立ち入り禁止となって草が生い茂るままに放置されている。
校舎や寮などの建物はすでになく、唯一現存しているのは、メインストリート沿いの大きく成長したメタセコイアの並木(写真)。
その並木も無駄に成長しているようにしか見えない。

敷地の広大な周囲を一周してみたら、敷地の西半分にできた「都立あきる野学園 」(養護学校)がわが秋川高校の卒業証明書の発行を請け負っているという表示板があった(写真)。
受付は学校が開いている平日のみだが、あえて今は亡き高校の卒業証明書が欲しくなった。

こうして学校敷地を一周して、この高校跡地を訪れるたびに、心の中で泣いている自分がいる。

この気持ちは何なのか。
単なる「懐かしさ」では説明しきれない。
そこには、ほのぼのとしたあるいは感動的な過去との再会とは違う、心の痛みがある。

自分が通った小学校も中学校も今の家の近所にあり、在学当時の建物さえ残っている。
脇を通っても懐かしさすら感じない。
大学は遠方だが、やはり在学当時の建物が残っている。
だが行く気がおきない。

高校だけが違う気持ちになる。 
その高校が廃校になり、跡地だけがかろうじて残っているためであるのは確かだ。
心の中で泣いているのも、その無惨な姿がそうさせているといえる。
だが、それだけではないと思う。

その高校時代の想いが特別だった。
親元を離れた全寮制で厳しい生活の辛さ。
生活を共にした同級生たちとの濃いつながり。
いつも見守ってくれた奥多摩の山々。 
その時の思いが切なく蘇ってくる。

「懐かしさ」 を「望郷の念」と言い換えるなら、
”ここ”に在学当時の望郷の対象は、”ここ”ではない家族のいる自宅であった。
親しい故郷から遠い見知らぬ土地にいる違和感こそが当時の”ここ”での思い。

そして今感じる望郷の対象は、3年間を過した”ここ”。
他所では体験できなかった”ここ”だけの思い出。

”ここ”に居た時の辛さが蘇り、その蘇った思いを結びつける”ここ”が跡地になってしまったことが新たに辛くなる。
私が心の中で泣いているのは、望郷の念を噛みしめていた場所を失ったという二重の故郷喪失のためであるようだ。
これだけは当時と変わらぬ奥多摩の山並みを見ている時も、心の中で泣いしまうのもそのためだ。 

このような感情を抱かせる所は、私にとってここしかない。 


大同窓会:Akikawa50

2015年10月18日 | メモリアル

我が母校にして今は亡き、全寮制の「都立秋川高等学校」は今年で創立50周年。
もちろん、それを祝う母校はもうこの世にない。

だが、ここでの3年間の青春の想いは幾歳たっても断ち切れるはずがなく、同窓生が集って、中野区のホールを借りて盛大な同窓会が挙行された。 
同輩での同期会はそれぞれ定期的に行なわれているが、1期生から最後の34期生までを集める同窓会はそう頻繁に開催できるものではない。
母校が物理的に存在しないわれわれにとって、まずそれをやる場所がない。 

このような困難を手弁当で乗り越え、この同窓会の開催を実現してくれた実行委員の方々にまずは感謝。

ホールに埋め尽くされた同窓は、各期に分れて座り、我等が8期生も数十人が集った。

オープニングは、我が母校の遺品を保管してくている、兄弟校とも言える都立五日市高校生による和太鼓部の演奏。
現役の高校生がさっそうと演奏する姿を見て、彼らが我が後輩であったならばどんなに頼もしい気持ちになれたことか。
いやその思いは、こうして他校の行事に参加してくれた彼らに向けよう。 

校歌(作曲諸井三郎)は、男子全寮制校としてはいささか上品に過ぎることもあり、残念ながら歌詞を見ないと歌えなくなっていた。

一方、旧制高校のバンカラ気風を受け継いだ寮歌(生徒による作詞作曲)は、忘れるわけがない。

この会場を埋め尽くし、記念のTシャツを着ている男たちと自分が同じ集団に属しているという感覚に身震いした。

会場が開いた後は、三々五々、先生を囲む。 
今となっては、先生との年齢差は同窓間の差に埋もれる程度。 
われわれの方の老け方が大きいせいで、見た目もたいした差がなくなっている。
都立高の先生は、数年すれば異動するので、生涯に幾校も経験するものだが、
卒業後、数十年たっても呼んでくれるのはわが校だけとも言われた。

>先生方は、この高校に真の教育の実現を目ざして、あるいはその課題に直面させられて、難しい年ごろの生徒と寝食をともにしてぶつかってくれた。
われわれは、それを肌身で感じた。
もしかしたら、先生に対してこれほど感謝している”生徒”たちがいる高校って他にないのでは…
書評記事『玉成寮のサムライたち』

この後は、各期ごとに同期会。
話は近況よりも、当時の話題となり、今になって初めて知る裏話も披露される。

一期後輩の九期生が数人われらの宴会場にやってきた。
一学年違うだけなので、先生や部活のメンバーの話も共有できて楽しい。
今の年齢からすれば一歳の差などなきに等しいが、高校時代の一期下は永遠の”弟”だ。 

私は、本来的に過去に生きることをよしとしない生き方をしてきた。
それが必要以上に対人関係の”絆”を弱くしている。
そのような私にとっても、高校だけは特別な過去なのだ。 


秋川同期会2013

2013年12月01日 | メモリアル

11月末恒例の今は亡き(廃校になった)都立秋川高校第八期生の同期会(八期会)が
今年も恒例の場所(同期が経営・シェフをやっている築地のイタリアレストラン”カヴァタッピ”)で開催された。

昨年は、私側のメールミスで出席できなかったので、2年ぶり。
私は名古屋からの参加だが、大阪や北九州からもこの会のために毎年やってくる者もいる。
彼ら常連の面々との再開も楽しいが、
毎回、初参加、すなわち卒業以来の再会となる顔もあり、彼らとの約40年ぶりの再会もまた格別。
なにしろ、全寮制で、しかも1部屋8人の大部屋暮しだったから、
皆血を分けた兄弟のような感覚があるのだ。

当時の先生も毎年複数名いらしてくれて、年齢差はそのままなので、かなり高齢なのだが、
当時は話せなかった高校運営にまつわる裏話などを聞かせてくれる。

ただ、どうしても、昔の仲間の訃報にも接さざるをえない。
今回も、一年の時、同室だった仲間の訃報に接した。
学年ごとに部屋のメンバーは変わるのだが、1年間同室だった仲間とはさらに格別な近さを感じるのだ。
それだけにショックもひとしお。

最後は、蒲田名物木村屋の甘納豆をみやげにもらう。
久々に酔った。


大学院の同窓会

2012年10月22日 | メモリアル

大学院以降の同窓会に初めて参加した。
「院以降」という意味は、学部は同じ大学でも別系統だったから。

同窓会には会費だけは払っていたものの、ずっと名古屋に行っていたこともあり、
一度も会合には出席できなかった。
今回あえて出席した理由は、会長がお世話になった同分野の先生で、
これまたお世話になった先輩の講演があり、そのテーマが面白そうだったから。

会場となっている茅場町のホテルに行ってみたら、
ホテルからして意外に小規模でこじんまりしていた。
その分気安い雰囲気。
院時代の先生や先輩、そして同輩と超久しぶりに会って、昔話や現況に花を咲かせた。
有名人である大御所の先生とも直接話せたのもうれしい。

この歳になると、新たな出会いがほとんどなくなることもあり、
旧い縁を大切にしたくなる。
一般的に、同窓会には若手より年配者の出席が多いのはそのため。
あまり望みのない未来より、長く生きてきた過去が重要になるということか。

毎年出られるものではないが、とにかく楽しかった。


秋川八期会2011

2011年11月27日 | メモリアル

都立秋川高校(すでに廃校)の同期会(八期会)が昨晩開催された。
会場は例年どおり同期の1人が開いている築地のイタリアレストランで、私も名古屋から参加した。
名古屋からは私を含めて3人、さらに遠方の大阪、北九州、アメリカからそれぞれ1人。
さらに当時の先生が6名も出席していただいた。
80歳を過ぎた今でもお元気に活躍されている姿に接して、我々も元気づけらた。
今では先生と生徒の外見上の差もおおいに縮んで、ほとんど追いついた同期もいる。
※上の写真はクリックすると拡大される。写っている先生は5名、私はどれでしょう。

わが秋川高校は全寮制なので、普通の高校と較べて、学校と寮とで二重(二倍)のつながりがある。
この固有の”絆”が、出会ってから40年たった今でもしっかり生きていることを実感できるのが、この日なのだ。
先生方も、長年の教師の立場から、あの高校がいかに理想的なものであったかを力説し
(理想的すぎて結局は生徒が集らず廃校になってしまった)、
われわれも、今となっては、夢のような厳しくも楽しかった3年間であったと納得する。

いや、こうして集まる”仲間”には、途中で退学していった者や、
3年から転校してきて1年間しか一緒でなかった者もいるのだが、その間には何の違いもない。
だから、この絆は、3年の年月を要するのではなく、
あの高校・寮での一宿一飯の縁で成立する不可思議なものなのだ。

だから当時はクラスも寮室も異なりほとんど会話する機会がなかった者同士も、
顔と名前、それに噂を通しては知っていたこともあり、この場で出会い直しをすることができる。

腰を痛めている自分は、1次会だけで失礼するつもりでいて、
実際、1次会終了時には退席の挨拶をして、店から出たものの、
「一緒に飲もう」と促されると、断る気持ちにはまったくなれず、
結局最後まで一緒に過した。

ただいつも心残りなのは、次々と相手が替ってのおしゃべりに夢中になって、
せっかくの料理を充分味わえない点。
黙々と食べているわけにもいかないので致し方ないか…

とにかく、1年のうち1回でも、高校時代の仲間と”共に在る”という夢のような時間を過せることは、
自分が日頃忘れかけている”絆”の存在を確認する意味でも貴重だ。


秋川高校同期再会の意味

2010年11月30日 | メモリアル

先日の高校の同期会の余韻がさめないうちに、
はるか昔の旧友と集ることの心理的意味を考えたい。

まず、われわれ都立秋川高校の同期会(同窓会より小さく、クラス会より大きい)は、
全寮制ゆえの特有の関係の”範囲”であり、点呼・体操、食事などの集団生活の基本的集合単位なのだ。
そして24時間生活を共にしたという関係の濃さは、
通常の学校での関係とは異なることはいうまでもない。
そのようなちょっと異質な同期会を題材に考えてみる。

同期会において感じるのは、「新鮮さ」と「安心感」。
普通の対人関係では、この両者は両立しがたい。
新鮮な関係は、(安心とは正反対の)緊張や警戒をもたらし、
逆に安心な関係は、ややもすると惰性に陥り、退屈になりやすい。
つまり「新鮮で安心」な関係というのは他ではなかなか体験できないものだ。

なぜ新鮮なのか。
日頃の生活での固定化してしまった関係でないからだ。
確かにはるか昔では毎日の関係だった。
だがその過去は遠く断絶したものであり、現在とのつながりがない。
非日常的な相手に対する自分もまた非日常的となる。
つまり、日頃の自分とは異なる(懐かしい)自分を体験する。
それはすでに忘れられ・失われた自分であり、その自分の体験がまた新鮮だ。

一方、安心感は、もちろん相手が近しい者たちだからだ。
彼らには本当の自分が知られており、また自分も彼らの本当の姿を知っている。
不必要に関係が持続しなかったため、利害の対立もなく、
感情の行き違いは過去のものとなっている。
彼らとは一瞬で過去の共同世界に戻れる。
その過去は、自分の妻子との関係よりも古い。
彼らと共に在った世界は心の故郷なのだ。
自己の原点なのだ。

新鮮さと安心感が合わさることで、後腐れのない、すっきりした出会いを楽しめる。
そこでは単に過去の再現ではない、新たな”再会”の場となる。
当時は言えなかったことが言え、聞けなかったことが聞ける。
当時の誤解も解消できる。
現在の状況を伝えあい、互いの成長した姿を示しあう。

ついでに、このような価値ある同期会はどうあればよいのかを考えたい。

まず言えることは、新鮮さと安心感が維持されるとよいということ。
新鮮さのためには、開催は頻繁すぎず、適度な間隔をあけるとよい。
参加メンバーの一定割合が毎回異なるのも、結果的に新鮮さを強める。

安心感のためには、逆にコアとなる常連が必要。
そもそもコアメンバーこそが会の開催・維持を可能にする。
彼らは多くの旧友を親しく迎え入れ、安心感を与えてくれる。

以上で充分説明できたわけではない。
数十年間のブランクの影響と影響の無さとの不可思議な関係
(それは記憶と感情の関係に関連)については、まだまだわからない。
旧友という、不即不離の関係の意義についてもわからない。
わかるためにも、参加を重ねていこう。


秋川高校の八期会2010

2010年11月28日 | メモリアル

27日夜は、年に一度の恒例となった”都立秋川高校(全寮制)”の同期会。
場所は、中央区築地の「つきぢ田村」
の並びにある 同期の一人が昨年開業したイタリアレストラン。

集ったのは、当時の先生(寮の舎監担当)4名を含む、50名ほど(上の写真は、いっぺんに全員撮れないので半分に分けた人数)。
地元東京にいる者だけでなく、
名古屋からの私のほかに、大阪、北九州、八丈島(3人も)、それにロサンゼルスからもやってきた。
昨年以来の一年ぶりのメンバーだけでなく、
卒業以来の再会となる者も多い。
はっきり言って、外見の変化が先生よりも大きく、貫録も着いているので、
その先生たちの一人かと見誤ってしまうほど。
でも声を聞くと当時の顔を思い出す。

皆、働き盛りの歳(もちろん同い年)なので、名刺を交換するとそれなりの役職名がついている。

中には、銀座で個展を開いた画家(高校時代から部員2人の美術部員だった)や、
八丈島町議会議員となった、八丈太鼓の名手もいる。

イタリアのワインと日本各地の素材をつかった料理を堪能し
(いや、正確には、談話に夢中になって食べ損じたので、残りをかき集めてもらって食べた。
それに、今年は二日酔いにならたいために、酒はセーブ気味にした)、
最後にメンバーがやっている店の蒲田名物”甘納豆”を土産にもらう。

教室だけでなく24時間生活を共にした者同士ならではの、家族的な近さ
(当時は接点がなくて話した記憶がなくても感じる”共同性”)を全員に感じる。
この関係は貴重だ。
そのような友たちと再会するという、年に一度の大きな行事が終った。


秋川高校のワンゲル同窓会

2010年02月21日 | メモリアル

我が母校・都立秋川高校は、10年程前に廃校となり、
昨年、敷地も整備対象となって、物理的にも存在しなくなった。
でもそれが却って、母校への思慕を増大させ、
同窓会・同期会が活発になった。
昨年末に盛大な同期会が開かれ、私のような地方の人間も東京に集り、旧交を暖めた。

そして今回は、所属していたワンダーフォーゲル部の同窓会。
すなわち、横(同期)ではなく、縦(同好)の集り。
後輩が開いている飲み屋を自ら解放して開催。
クラブでは、直接顔を知っているのは、同期±2期。
だが、直接の顔見知りの連鎖で、20歳も年下までが集った(写真)。
残念ながら、我等が最年長だったが。

私を含めた多くのメンバーは山をリタイアしているが、中には今でも山に入り続け
ボーター(荷揚げ)で生活している者もいる。

次回は、慣れ親しんだ奥多摩の山行を計画。
ワンゲルの同窓会にふさわしい。


秋川高校八期会2009

2009年12月06日 | メモリアル

東京で、高校(すでに廃校)の同窓会(同期会)に出席した。
同期の一人が開店したイタリアレストランで。
30名ほどの同期だけでなく、当時の先生も4名参加。

私にとっては、数年前の閉校式での集まり以来の出席。
その時以来の再会もあれば、卒業以来の再会もある。
顔や体型、それに頭髪は変わったが、声はその当時のまま。
名刺を交換すると、皆それなりの役職につき、活躍している。

近況と高校時代の思い出話に花を咲かせるのに夢中になり、
デジカメを持参したのに撮らずじまい(写真は写真担当の同期による)。
当時は本人には言えなかった本音を語り合い、今さらながら心の交流を深めた。

最後は肩を組んで、寮歌を歌った。
そう全寮制の高校だったので、とても濃い3年間だったのだ。


高校時代に戻る

2006年11月07日 | メモリアル

わが都立秋川高校(5年前に廃校)のワンゲル部の同輩と後輩が東京で私に会おうとセッティングしてくれた。
そこに2年先輩(自分が1年のとき3年生)の元部長が登場(当時は、怖かった)。
10秒ほど誰だかわからず、じっとみつめてしまった。

現在の自己紹介をすませれば、もう気持ちは高校時代に戻る。
全寮制の高校のしかもワンゲル。
当時のつらい練習のおかげで、いまだに山に行っても歩くスピードは衰えない(下りの膝は痛いけど)。
なによりもサバイバルする精神力が鍛えられた(3年間の兵役生活だったから)。
あの3年間を生きてこれたから、その後の人生で辛いものなんてないよなぁ。
これが、卒業30年後のオレたちの結論。


今日で半世紀

2006年07月29日 | メモリアル

自分がこの世界に生き続けて、今日7月29日で半世紀になった。
その手前の歳で死んでしまった織田信長や上杉謙信よりも長生きした事になる。
自分を生かし続けてくれた、この世界に感謝。
誕生日って、大人になってからは、自分が周囲に感謝する日にしてもいい。

幸い、昨日で大学の前期の用事は終わり(採点のみ残っている)、昨晩は部署内で打ち上げ(私は新人扱いなのでご招待)をした。
そして今日は、そういう日なので、いつもなら18きっぷで安く帰京する所を、あえて新幹線のグリーン車を使った(ただ博多発の列車だったので混んでいた)。

そして、私の帰省を迎えたふるさと東京では、私の生誕日を祝して隅田川で盛大に花火を打ち上げてくれる。
今さら都民の盛大な祝福を受けるのも気が引けるので、
近所の高台からこっそり見物することにしよう(上の写真はデジカメの望遠で撮ったもの)。


卒業記念パーティ

2006年03月16日 | メモリアル

卒業式の翌日、今日は名古屋駅のホテル・アソシアで学部の卒業記念パーティ(謝恩会とちがって教員も会費は払う。これが正しい在り方)があった(自分が学生の時は学内の食堂が会場だった…)。
シャイな私としては、この手のイベントは出たくないのだが、自分も学部を去る身なので、所属がこの学部になって初めて出席した。
学生を見送ると同時に、自分も学生と一緒にさよならする意味で。

ちなみに、前いた東京のファッション系大学では、この手のパーティだと男性教員はブラックタイの礼装が当然だったので、そのノリでタキシードくずしの格好でいった(私一人だった)。

なぜくずすのかというと、前の大学のパーティ会場のホテルで、純タキシード姿で館内のエレベータを待っていたら、他の客に「新館はどっちですか?」とホテルの従業員に間違えられたから。

ボウタイではなくクロスタイにすればまず大丈夫。
うちの大学って、在学中は不満が多いだろうけど、自分の娘や妹をまた入学させるケース(リピーター)が多い点からすると、総じて居心地(顧客満足度)がよい、いい大学だといえる。