今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

岐阜城周辺を歩く

2015年04月27日 | 城巡り

せっかく岐阜に来たのだし、急いで帰る用事もないので、市内観光して帰ることにした。
実は以前、長良川を河口から水源まで沿って車で遡る旅をした時、一泊目を岐阜市の長良川温泉にとって、岐阜城には立寄ったので、それ以来となる。

温泉ホテルをチェックアウトし、荷物は預かってもらって、何はともあれ再び岐阜城を目ざした。
金色に輝く信長像が立っている(右写真)JR岐阜駅前のバスターミナルは岐阜バスがひっきりなしにやってくる。

その12番と13番の乗り口ならどれでも行けるといわれた。
岐阜市は市街地の南にJRと名鉄の駅があり、旧市街は北に拡がっている。
つまり市街地に行くには、駅からバスに乗る必要がある(駅前だけを見て、街の印象は語れない)。 

旧市街の北の区切りである「岐阜公園歴史博物館前」で降りる。
バスはこの先長良川を越えて、新市街地に進む。
目の前にそびえる金華山の頂きには復元された岐阜城天主閣が見おろしている。 

ロープウエイに乗って金華山の肩に達し、そこから岩の階段路を岐阜城に向う。

金華山は露岩だらけで、濃尾平野の北を区切る堅い残丘であることがわかる。
だからこそ、ここからの濃尾平野の眺めは広い(右写真)。
濃尾平野を制し岐阜城に入城した信長が「天下布武」を意識したのもうなづける。

かすかに小牧城の残丘も見える。
そう、実は山城巡りとして、清洲城→小牧城→岐阜城と、信長の足跡を追っているわけだ(次は安土城)。 

麓のロープウエイ乗り場の近くでは、信長居館跡の発掘調査が行なわれている。
居館跡がそれなりに復元されれば、新たな名所となろう。

公園を出て、近くの岐阜大仏を見上げて、 南に向う。
向った先には、岐阜善光寺があり、ここも御開帳をやっているが、2時間おきで、あいにく1時間後なのであきらめる。

善光寺の奥が、というより善光寺も門前の寺の1つとなっている長い参道と石段の奥には、金華山の鎮守のような伊奈波(イナバ)神社が鎮座している。

敷地も広く社殿も立派だ(右写真)。

ここもパワースポットだという看板があったので、iPadminiに入れてある愛用の幽霊探知器「ばけたん」を作動してみる。
この「ばけたん」を使ってきたおかげで私もだんだん霊感が鍛えられたので、
自分が何かを感じたら、「ばけたん」で探知するようにしている。
するとやはり「守り神の出現に期待」と出た。
さらにこの地にもともとあったという黒竜社も探知すると、同じく「守り神の出現に期待」と出た。
かように「ばけたん」を使うと、それなりの場所はそれなりの反応をしてくれるが、メジャーであっても何も感じない寺社では「何もない」と出る。

 あのホテルは気に入ったので、また岐阜に来ることになろう。
次に訪れるのは鵜飼関係かな。 


片倉城・平山城址

2015年04月19日 | 城巡り

帰京中の今回の日曜は、国会図書館はもとより都立中央図書館も休館なため、
ノーパソ持参で長居できる所がないので、いっそ日帰り旅に出かけようと思った。

最初に思い浮かんだのが御開帳中の長野・善光寺だが、気持ちと旅費が準備不足なため次回にまわす(5月中には行きたい)。
ではどこに行こうかと決め兼ねているうちに、当日の朝を迎えてしまった。

今の私にとって、ふらりと気楽に行きたい先はといえば、それは城址(しろあと)
戦国期にあちこち造られた城は観光地でない所にあり、その城址だけが目的なので、下調べやルート計画などもほとんどいらない。

そこで思いついたのは、前回の八王子城の手前にある同じ八王子市の片倉城趾(じょうし)
京王線の「京王片倉」駅からすぐ行けるのがいい。
ここだけでは物足りないので、同じ京王沿線で昔(高校時代)から気になっていた(駅名にもなっている)「平山城趾」もハシゴしよう。

日曜の午前中なので、高尾山に行く客をのせた京王線に乗り、高尾の数駅手前の「片倉」で降りる。下車したのは私を入れて二人。
駅から国道16号沿いに南下し、湯殿川をこえて丘陵が近づき、「片倉城跡」の案内板通りに、右折する。

するともうそこは「片倉城跡公園」という立派な公園になっており、園内の路沿いに彫刻像が展示されている。
池畔には、一羽の大きなアオサギが、片足で立っている(写真)。
谷間には山吹色の山吹草の群落が広がり、城址なしでも楽しめる。
さて丘の上にある城主不明(扇谷上杉氏方らしい)の片倉城の縄張りは、本丸とその4倍ほどの二の丸からなっており、いずれも芝生の広場になっている。
虎口(曲輪の出入口)は不明瞭だが、一般向きでない、山城ファン専用の細い踏跡をたどると、虎口らしき跡や帯曲輪跡にも行ける。
城の地続きの台地上には家庭菜園やバーベキュー広場があり、家族連れが休日を楽しんでいる。
台地上なので八王子市街を見下ろし、奥多摩や丹沢の眺めがいい。
南側の向かいの台地には日本文化大学の広いキャンパスが見える。
ここ八王子市は大学がたくさんあり、そのどこかに奉職できたら、京王線沿いに住みたいと思っているのだが…。

駅に戻り、再び京王線に乗って「平山城址公園」で降りる。
平山城趾は、平安末期の武蔵七党の一派・平山季重(すえしげ)の居城。
戦国時代ではなく、源平の坂東武者の時代だ。
駅前に居館の碑があり、もうここから彼の史跡が始まる。
南側の丘陵に登ると、ここからも高尾から奥多摩の山並みが一望で、しかも高台の住宅地になっており、居ながらにしてこの展望が味わえるとは羨ましい。
どうも私は日野~八王子あたりの風景が居住地として気に入っているようだ。

丘の上は一応「平山城趾公園 」となっているが、居館は駅前だし、丘の上は見張所があった程度らしい(城郭の時代でない)。
その代わり、頂上部に平山季重神社なるものがあって毎年4月に顕彰の祭があるという(二週間前!)。
麓の宗印寺には、居館跡の菩提寺・大福寺(明治に廃絶) にあった季重の墓(五輪塔)や僧形の木像(写真)が移されていて、見ることができる。
それに、駅前の日野市立図書館内に「平山季重ふれあい館」として資料コーナーがある(説明パンフもあり、最初に訪れるとよい)。
かように、季重はこの”平山”の地の英雄として親しまれて、その実像に迫ることができる。
日野といえば、高幡不動近辺の土方歳三が人気だが(私もファンの一人で、自サイト内に彼の応援ページを作っている→「旅と山の世界」)、 季重ほど昔の人というのも珍しい。
これで高校時代からの懸想を達成(五日市線沿いの寮からは行きづらかった)。

城址めぐりは、ハイキングよりは楽で、散歩よりは充実した歩きができる。
ただ建築や仏像のような美的価値のある見物対象はまったく無く、
曲輪(平地)や切岸(崖)、空堀(窪地)などを見て往時を頭の中で再現するのが主となる、すこぶる地味で物好きな営為だ。
もっとも、武士(サムライ)の生き様を訪ねる精神的な営為でもあるが。


八王子城を歩く

2015年03月28日 | 城巡り

戦国の関東をほぼ掌中にした小田原北条氏が誇る名城とえいば、本拠地小田原城に次ぐのが、都下八王子市にある八王子城。
ここは四代当主氏政の弟氏照の居城で、(前回訪れた)滝山城を捨て、新たに築城したものだ。

標高460mの深沢山の麓に広い御守殿を構え、山全体、いや山をかこむ周囲一帯が山城を形成している(小田原城に匹敵する広さ)。

戦国末期というか、戦国が終了する時の城でもあったので、かなりの豪勢な造りだったようだが、いかんせん豊臣軍(前田利家・上杉景勝)の攻撃で落城炎上したため、しばらくは自然の開析にまかせられていたが、最近になって復元が進んでいるらしい。

標高的に山歩きにもなるので、リュックにストックという登山装備で出かけた
(カメラを入れ忘れてしまったので、撮影はiPadminiで代用)。

高尾駅でバスに乗り、「霊園前」で降り、ありし日の城下町の一本道を歩く。
家臣が居住していた根古屋地区からは目ざす城山が見える(上写真)。
途中氏照の墓(実際には元禄時代に建てられた慰霊塔)に立寄り、最近できたガイダンス施設でトイレを借りる。

まずは山麓の川沿いの御守殿跡を見る。
ここは城主氏照の居館跡で、会所や庭園も発掘され、会所の平面が復元されている。
また石段や腰石垣も復元され(右写真)、 復元にもうひと頑張りすれば立派な観光名所になりそう。

いよいよ山に登る。
馬蹄段という段々になっている曲輪に沿って登り、やがて八王子神社(八王子の地名の元) が現れる。
このあたりは広い曲輪が連なっている。
そして裏の山頂が本丸(実はこの山頂に立つのは2回目)。
少し下った所に「坎井」(かんせい)という井戸があり、手押しポンプがついているので、ありがたくいただく(やはりここも山上に枯れない井戸がある)。

本丸背後の本丸より標高が高い詰の城まで行き、引き返す。
といっても往路を戻るのはつまらない。
登城路はガイダンスの地図では1本しか記されていないが、持ってきた冊子『八王子城』(峰岸純夫他編 揺籃社)によれば、あと3本ある。 

そのうちの1つ、心源院ルート(北東尾根)は分岐に指導標があったので、それを下ることにする。
踏跡は細いが、標識は完璧で迷うことはない。
途中、氏照墓への分岐を見送り(そちらに下ってもよい)、大六天という小ピークで一休み。
この道の所々に材木を切って腰かけが作られているが、ここは夫婦桜のうちの一本が勝手に切られ、ベンチの材料にされようとしているらしく、切られた桜に十字架が、そして手書きによる怒りと悲しみが吐露された看板が立て掛けてあった(切る木に関して行き違いがあったようだ)。

さらに下ると、麓がよく見える向山北砦に出る。
北からの侵入に対しての頼もしい砦(のはずが…)。
秋葉神社を抜けて終点の心源院の広い境内に下り立つ。
心源院は、大石氏が開基した曹洞宗の寺で八王子城より古い。山号は「深澤山」。

ここからは平地でバス停に向う。

トンネルを抜けた所にバス停があるが、バスの便が多いのを確認して、バスに乗らずトンネルの上に上る。
そこは段差のある山になっているが、山城巡りに慣れた目には、腰曲輪であることがわかる。
そう、ここは小田野城跡という八王子城の出城なのだ。
小田野という家臣の屋敷跡という言い伝えがあるが、空堀や曲輪があり”城”といえる。
ただしここの解説版は城跡を出た向かい側の公園にある(地元の人に教わった)。 

という具合に、このルートは出城巡りができるのが利点。
往路を戻るより山城歩きとしてはずっと充実。
山の下りでいつも痛む左膝靭帯もなんともなかった。 


佐野:唐沢山城

2015年03月22日 | 城巡り

戦国関東において、争奪戦となった山城といえば、佐野氏が守る唐沢山城(栃木県佐野市)。
関東管領として関東を治めたい上杉謙信が幾度も攻略したが、結局は北条方に落ちた。
関東に織豊系の高石垣が残る珍しい山城でもあり(上写真)、昨年国指定史跡になった。

城のある佐野市は、同じ両毛線沿いの足利や栃木に比べるとマイナーだったが、売り出しに成功して、むしろ最近では一番耳にするようになった。どうせなら町も楽しみたい。

東京からだと東武鉄道で、館林で乗り換えて佐野市街を越えて「田沼」で降りる(北千住から1000円未満)。

ここが城の正面口で、麓には屋敷跡がある。
登り口にある「県立田沼高校」は、今年3月で廃校となり、同窓会による感謝の幕が張ってある。
我が高校と同じか。
卒業生の親子らしき2人が閉じられた校門から中を見ていた。

車道から登山道に入り、深い竪堀を右に見ながら登る。

山上に出ると石垣の升形虎口があり、ここから曲輪が続く。
山の上なのに枯れない井戸があるのも、優れた山城の証拠。

二の丸・本丸には関東では珍しい織豊系の高石垣がしっかり積まれている(上写真)。
本丸には唐沢山神社の社殿(明治になってからの創建)があり、最初にここに城を築いたと伝説のある藤原秀郷を祀ってある(後の城主佐野氏は秀郷末裔)。

山の上で気分が良く、もっとゆっくりしたいのだが、電車が1時間に1本なので、時間を見計らって急いで下山する。

田沼駅に戻って駅付近を歩いたら、「日本列島中心」の石碑があった。
ここは北海道~九州と本州の両側からの中央部に位置するのだという。

電車で佐野に戻り、駅北側の佐野城跡を見る。
ここは戦国時代の唐沢山城を廃城にして平和な江戸時代に街中に移った城。
城の目的が異なるわけだ。

佐野市郷土博物館まで20分歩く(バスの便がない)。 
ちょうど唐沢山城跡国指定史跡記念として「上杉謙信がやってきた」展をやっている。
それと郷土の英雄・田中正造の展示も。

 ただ唐沢山城については、神社の社務所で買った『戦国唐沢山城』(出居 博)が分かりやすい。

ここまで来たからついでに、佐野厄除け大師(関東三大師の1つとして売出しに成功)に立寄り、
電車の時刻に間に合わせるため、地元名物「佐野ラーメン」も「イモフライ」も食べずに「佐野市」駅に急いだ。

メインの山城は堪能したが、佐野市内は足早に通りすぎ、”味わえなかった”のが心残り。
でも、もう行く機会がないかな…。 


滝山城跡から秋川校跡へ

2015年03月04日 | 城巡り

実質的に春休みとなり、帰京しているので、平日ながら、山城を訪問する(先週の水曜は清洲城に行った)。
さて今回は「滝山城」(八王子市)。

実は、ここは高校1年の時、入学した近くの全寮制の高校から自転車で訪れた所。
その頃は城=天守閣というイメージだったので、堀や曲輪を見ても「何もない」という印象だった。
だが、ここを訪れたことで、この地域の中世戦国史に興味をもち始め、高校の「地歴部」に入った。
同じ東京でも区部にいると、太田道灌と徳川家康の存在感が強すぎ、その両者の間が抜け落ちてしまう。

それが西多摩になると、滝山城の大石氏と北条氏照を経由して、後北条氏中心の関東の戦国戦乱史に目が開かれる。

高校の時と異なり、滝山城跡の曲輪群をくまなく歩く。
本丸や中の丸からは、多摩川と秋川の合流点が眼下にひろがり、城攻めに武田軍が布陣した対岸の拝島大師も見下ろせる。
それどころか、狭山丘陵の西武ドームや、はるか上越国境の谷川岳(謙信の越山ルートあたり)まで望め、優れた城であることが今でも納得できる。
ただこの名城も、戦略的理由からか、氏照の代に八王子城に引越し、廃城となる。 

滝山城の次は、我が高校の跡(廃校)に足を運ぶ。
バスの便が悪いので、戸吹までバスで行き、そこから先は徒歩で峠を越えて、秋川(アキガワ)を渡り、青春の3年間を過した秋留台地に入る。

まず、道沿いの中村酒造(ここの黒い板塀は昔のまま)で「千代鶴」という地酒を(初めて)買う。
高校時代はもちろん飲まなかったが、私にとって大事な土地の酒として味わいたい。

昔と比べて道路と住宅がやたら立派になったものの、高校時代の運動部で筋トレ場だった通称”蛇神社”(白瀧神社)は昔のままだった。

そして、金網で周囲が閉ざされた都立秋川(アキカワ)高校の跡地に達する。
わが3年間を見守ってくれていたメタセコイアの並木がずいぶん成長して立派だ(写真)。
だが、そこに達する入口はない。
こうして柵の外から眺めるだけ。
懐かしさとやるせなさで心の中で涕泣している自分がいる。 

小学校には6年、大学には院も含めて9年通ったが、ここの高校3年間ほど濃い思い出はない。
廃校になってしまったということもあろうか。
ただ、全寮制だったことで、地域の人たちとはほとんど接触がもてなかった。
だから風景には締めつけられるほどの懐かしさを覚えても、道行く人たちへはその思いは広がらない。
”懐かしい人”がこの地にいないのだ。

道行く人たちにとっても、わが母校などとっくに消滅してしまっているわけだし。 
私にとってこの特別な懐かしさを、この地に対する自分なりの愛を、
地元の人たちと共有できないのがなんとも歯がゆい。


清州城界隈を歩く

2015年02月25日 | 城巡り

今日は世間的には完全なる平日だが、授業も会議もなく、確定申告も提出したので、気分転換に愛知で城巡りをしたい。
関東の城は、北条・上杉・武田の三雄の抗争の跡だが、こちらは信長・秀吉・家康という天下人三傑の跡だ。 

名古屋城と犬山城はもちろん、岐阜城も訪問済みなので、次はどこにしようと考えたら、頭に浮かんだのは、東海道線で名古屋から岐阜方面に向ったとき線路脇に天守閣が見える清洲城(写真:あれは最近の模擬天守だが)。

もちろん織田信長の居城たっだ城。

ちなみに清州城は清須市にあり、清須市内に清州という地名がある。

名古屋からJR東海道線で2駅目の清州で降りる。
たった2つめなのだが、昔の町のまま鄙びた感じで駅前にコンビニもない。

江戸時代の幹線道路・東海道は名古屋市熱田から海路で桑名に向ってしまい、北の清州は美濃街道という脇道になってしまったせいもある。

駅からひたすら線路沿いに歩くと、清州古城跡公園に出る。

ここが本来の清洲城跡で、新築の模擬天守(清洲城では「天主」の字を宛てる)は、対岸にある。
城跡には、信長を祀る祠と、石垣の一部が残っている。
そこから赤い欄干の橋を渡って資料館になっている天主閣に入る(300円)

平日の真っ昼間なのに、就学前でも定年後でもない年齢の観光客が来ている。

中の解説は、すべて「信長公」で通してある。
そうえいば萩では「松陰先生」だし、渥美半島の田原町では「崋山先生」だった。

清洲城は、信長没後、信雄(ノブカツ)の時代に全盛期を向え、天主閣もあった。
武家屋敷も町屋も擁した城郭の面積は広大だった。
それが徳川家康の指示で名古屋が尾張の本拠地となったことで、廃城となる。

その後の清州は美濃街道の宿場町として生き残った。

線路を隔てた公園内に城主時代の若き信長の銅像がある(濃姫とともに)。

あと付近は美濃街道の風情が残っており、本陣跡とか、時代がかった家並もある。

私は南に足を伸ばして、日吉神社に向う。

途中の旧街道沿いに、清州桜醸造があった。
今宵の晩酌はもちろん「清州城鬼ころし」と決めていたが、その本拠地で買わない手はない。
工場向かいの販売所に入ると、スーパーで売っている安い紙パック(鬼ころし)だけでなく、ちゃんとした瓶の純米吟醸もあるではないか。
歩き中ということもあり、小さい300mlの吟醸酒「清洲城信長」を買った。

さてそれなりに広い日吉神社に着く。
この神社は信長在城の頃の清州の総鎮守で、近在の信仰を集めていた。
境内には「子産石」という一種の形象石が鎮座しており、その岩に触ると子宝を授かるという。
当時、日吉神社のこの石に子宝を祈った地元の女性が、御利益がかなって男の子を産み、神社にちなんで名を「日吉丸」とした。

残念ながらその子の容貌はいつまでたってもお猿さんのようだったが、両親はそれさえもよろこんだろう。
なぜなら日吉神社は山王信仰により、猿が神の使いだから(狛犬の代わりに猿の像が置かれている)。
この子はもしかして天下を取るような傑物になるかもと、親ばか的な期待したのではないか。

ということで、信長巡りの次ぎは、秀吉巡りとするか。 


比企の山城訪問

2015年02月15日 | 城巡り

大学の仕事は大方終わったので、東京に帰省した。

帰省後最初の日曜。昔なら山歩きをする所を、歩きとしてはグレードダウンした山城巡りにすることにした。

山城は戦国時代に雨後の筍のように作られた。

その戦国時代は、かつての京都中心史観では早くて応仁の乱(1467年)からとされたが、すでに京に対抗する地域となっていた関東では享徳の乱(1453年)から始まっている(東日本を管轄する鎌倉府の没落による関東の争乱)。
そして戦国の終焉(天下統一)は、もちろん秀吉の小田原の役(1590年)。
つまり、戦国時代は関東で始まり、関東で終わったのだ。 

その関東でも諸勢力の最前線となったのが関東の中央部である武蔵の国。

私の山城巡りは、東海地方と関東という2つのひのき舞台が対象となる(この二つの地域だけで、武田、北条、上杉、今川、織田、(羽柴)、徳川という大河主役級の戦国大名が揃う。

関東の戦国前期(古河公方と両上杉の対立)は高校時代から興味があったので、この時代の史跡を本格的に巡れるのは楽しみだ。 

ということで、第1弾として、武蔵武士の故郷ともいえる比企郡に足を運ぶ。
比企と言えば、鎌倉幕府を支えた御家人・比企能員だが、今回は戦国の山城なので彼とは無関係。 

東武東上線の武蔵嵐山(らんざん)で降り、菅谷城跡(国指定史跡) に向う。
まずは城内にある「嵐山史跡の博物館」を見学。
そこで開催されていたのがなんと「 戦国時代は関東から始まった」展。
資料も購入して、館外の城跡を巡る。
ここは元々は鎌倉時代の御家人・畠山重忠の居館だっといわれ、昭和初期に造られた彼の石像もある。
ちなみに木曽に移る前の義仲もこの近くで誕生した(次回に巡ろう)。
その後、ここは関東管領・山の内上杉氏の勢力内となる。
城主は不明だが、郭(曲輪)周囲の土塁と堀がしっかり残っている。

次は、ずっと北に向う。
公共交通機関がないのでひたすら歩く。
でも山歩きに比べれば平地の舗装道路なので、ウォーキングのつもりでいい。

そして着いたのが、杉山城跡(国指定史跡、史料では「椙山」表記) 。
ここは戦国期城郭の”最高傑作”といわれる山城で、縄張の配置が教科書的。
つまり関東の山城巡りでまず最初に訪れたい所。
敷地は完全に私有地なのだが、樹木も切り取ってあり、縄張り地形が見やすい(写真は本郭に向う帯郭、途中に堀が切ってある)。
大手門の手前に簡易トイレも設置してあり、助かる。

城跡に踏み込む時は、城攻めの先兵になったつもりで歩く。
この城では、”虎口”(郭の出入口)をのほほんと抜けようとすると、側面の”横矢掛り”から、弓や鉄砲の一斉射撃にさらされる。
この城の本郭に達するまで、自分は幾度射貫かれたことか…
逆に城兵のつもりになって郭の端に立てば、下から侵入してくる敵兵の動きが手に取るようにわかる。 
あとは弓なり鉄砲なりで射降ろせばいい。
城とはそういう所だと、ここは教えてくれる。

「佐野:唐沢山城」

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山城を趣味にするか

2015年02月01日 | 城巡り

昨年から右脚に腸脛靭帯炎を患ったため、およそ700m以上の山には行けなくなり(正確には「下れなくなり」)、
中学以来
趣味としていた”登山”(高校でワンゲル、大学で山岳部)を諦めざるをえない状況になった。
これはわが人生にとって由々しきことである。 

標高を下げてでも依然として”山”を楽しめる趣味はないだろうか。

奥高尾の景信山(724m)では膝がダメだったが、その東に連なる400m台の八王子城山なら問題ない。

そうだ、山歩きならぬ”山城歩き”にしよう!

ということでまずは山城について勉強しはじめた。

さしあたっては”縄張り図”を読めるようにしなくてはならない。
縄張り図とは伝統的な城の平面図で、城跡の地図記号がそれを摸している。

そう、城の本質は縄張りであり、まちがっても天守閣ではない。 

縄張り図を読むとは、図の記号を理解するだけでなく、その城の目的(存在理由)を理解することを意味するという(西股総生『「城取り」の軍事学』)。

折しも、世は「山城ブーム」であるらしく、各地の山城ガイドの本が出ている。
特に戦国のヒノキ舞台といえる東海地方は「山城ベスト50」シリーズの各県版があって充実している。

さっそく中津川への定宿湯治の道すがら、いつもは素通りしている「岩村城趾」に立寄る。

ここは以前にも来たことはあるが、その時は単なる史跡見学のつもりでしかなく、
ただてっぺんの本丸を目ざし、本丸周囲の石垣を見ただけで「行った」ことになった。

だが、今回は違う。

山麓の藩主邸跡から長い石段を縄張り図と睨めっこしながら登る。
本丸だけを目ざした前回には素通りした途中の数々の門や櫓の跡をチェックする。
山中の侍屋敷の敷地が登城道を上から挟むようにあって、侵入者を火器で挟撃できる態勢であることを確認。
吊上げ式の畳橋の両端がどこに掛かっていたのかを確認し、
曲輪(クルワ)の端まで歩いて、切岸(璧)がどうなっているかチェックする。
本丸や二の丸の虎口(コグチ)をすべて通り、虎口の構造の違いを確認。
なるほど、こうやって歩けば、登山としては物足りない山であっても充実できる。 

といってもこの岩村城、本丸は標高717mで、日本最高所の山城だという。
確かに本丸からの眺めはよく、麓の城下町(岩村)から雪の恵那山まで望める(上写真)。 

ということは私の登山限界(およそ700m)以下で全国の山城を楽しめるというわけだ
(ちなみに岩村城は麓からの比高は150mで済んでいるので無問題)。

ただし、山城探索は、ハイキングのようにただ線(道)を進めばいいというのではなく、上述したように面を歩きまわらねばならない。
しかも当然道がない所にも足を踏み入れる。
人里近いので遭難の危険はないが、逆に 私有地に無断侵入するおそれがある。

なので、平城の”天守閣”を訪れるような観光気分では全くダメで、正確な地図と山用の靴が必要だ。 
しかも低山の薮なので、夏はまったくダメ。
シーズンは下草のない(ヤブ蚊も蛇もいない)冬が中心で、遅くともGWまでだという。 

 私の第1の旅先であるここ”東濃”は、濃尾平野と木曽谷を結ぶ地域で、甲信を制した武田氏と美濃を本拠とする織田氏のせめぎ合いの場となったので、当時の山城に恵まれている。
「山が立っている」と称される急峻な木曽山脈(中央アルプス)に登ることは諦めたが、 これからの旅の楽しみが増えた。 

「比企の山城訪問」


寄居・鉢形城

2010年03月22日 | 城巡り

今年の日帰り旅のテーマ”埼玉の城跡巡り”の、忍城(行田市)に続く第二弾として、
寄居町にある鉢形城を訪れた。
ここは関東管領上杉氏の家宰・長尾景信の嫡子・景春がこの城で下克上の乱を起こした
まさに関東戦国の幕開けの城。
その後は小田原北条の氏邦(氏康四男)が居城し、北条氏の北関東進出の拠点となった。
だが、戦国時代を終わらせる、秀吉の小田原征伐の折り、前田・上杉ら5万の兵に囲まれ、やむなく開城した。

現在は、曲輪や堀の跡が残るだけだが、歴史資料館が域内にあり、公園として整備されている。

秩父の山から関東平野への境目である寄居は、南関東の大河川・荒川が横切り、
それに沿った地元私鉄の秩父鉄道が横に、JR八高線が縦に貫き、
そして都心につながる大手私鉄の東武線が終点として斜めに入り込む交通の要所。
私は当然、池袋から東武線で行ったが(小川町乗換)、
ディーゼルでボックスシートの八高線はローカル線の風情があるし、秩父鉄道にはなんとSLが走っていた。
次回はぜひ八高線の旅をしたい。

さて、寄居駅に降り立ち、城跡のある南の丘に向って進む。
荒川にかかる橋を渡ると、そこから広大な城跡の敷地が始まるのだが、
正午の合図が鳴った丁度そこにそば屋があったので、地元の蕎麦を賞味
(山里の風情を味わいたいので「きのこそば」)。

まずは城主の館があったという伝御殿曲輪。
高台に立つと、眼下には”玉淀”といわれる荒川の流れ。
寄居の町がある正面は西の秩父から続いた山が尽きる鐘撞堂山。
東北方面には遠く雪の残る男体・女峰の日光連山が連なっている。

歴史館に行く途中には、エドヒガン桜の大木があり、まだ三分咲き程度だが、
でかいので見映えがして、すでにたくさんのカメラのシャッターを浴びていた(写真)。
歴史館では城の復元模型と3DCGの城内バーチャルツアーを楽しんだ。

二の曲輪から秩父曲輪にかけては公園状となっていて、
秩父曲輪には門と簡素な館が復元されている(写真)。
山の上でありながら広大な鉢形城は、武家屋敷も含んでいて、生活空間でもあったわけで、
これでは籠城もしやすいわけだ(城内に川が流れているので、水に不自由しない)。

城跡だけだと物足りないので、氏邦夫妻の墓があるという正龍寺まで足を伸ばす。
途中、玉淀に降り立ち、対岸の岸壁の上にある城跡を見上げる。

正龍寺は曹洞宗の大寺で、墓地の最上段に氏邦夫妻と、義理の両親である藤田康邦夫妻の墓(宝篋印塔が四基)がある。
ここからは鉢形城の丘の奥に外秩父の連山が見える。

寺の東、ちょっと行った所に、氏邦の妻で藤田康邦の娘である大福(おふく)御前の慰霊碑がある。
畑の中のその地に行くと、「大福御前自刃の地」と彫られた大きな自然石の碑があり(写真)、横の石に由来記が彫ってある。
それによると、
五万の秀吉軍に囲まれた鉢形城主北条氏邦の妻大福御前には弟がいて、
その藤田信吉は、皮肉なことに攻撃側の上杉景勝の先鋒であった。
御前は彼を頼りに和睦開城にこぎつけ、数千の家臣の命を救った。
その後、御前はここ正龍寺に薙髪した。
そして千日普門品千部満願の日、庵内で自刃したという。
それから四百年後、御前に命を救われた家臣の子孫たちが、資金を出しあって彼女の慰霊碑を建てたのである。
戦国大名北条氏とはいえ、その分家・支城にすぎないが、しっかりとここに独自の歴史が刻まれているのだ。


栗橋から関宿へ

2007年05月03日 | 城巡り

ふだんの週に旅行できる自分としては、GWはそうでない人たちに旅の機会を譲ってあげる。
だからこの期間は旅行はしないという戒を定めたのだが、今日から実質5連休なので、さすがにどこか行きたくなってしまう。
そこで、娯楽ではなく、業務上行かなくてはならない所を探す。

今、自分のサイトでは「小笠原氏史跡の旅」を完成させているのだが、いざ取りかかってみると、抜けている旅先があるのに気づかされる。
たとえば、関東平野にある栗橋城と関宿城。
ここにしよう。

この2つは関係する歴史は異なるが、距離的に近いので、いっぺんに廻りたい。
といっても田園地帯にあるので、両地点を結ぶ公共交通がない。
レンタカーやレンタサイクルも考えたが、それを借りる所から遠い。
ネットで調べると、栗橋城は鉄道の駅から徒歩で行け、関宿城はバスの便があるので、その間だけなんとかすればよさそう。
と楽観して、5月3日の晴天日に北千住から東武鉄道に乗った。

埼玉県の南栗橋で降り、さっそく腹ごしらえをと思ったが駅前には店がまったくない。
しかたなしにMioのナビを使って栗橋城方向へ進むと、セブンイレブンがあった。
でも今は「おにぎり」じゃなく、もっとちゃんとしたものを坐って食べたい気分なので、なにも買わずに出る。
付近は住宅街だがあいかわらず店はない。
朝食をとらずに来たので、へたしたら夜までの絶食を覚悟しつつ進むと、なんとアジア料理のカフェがある。
メニューには懐しの「ナシゴレン」があるので迷わず入る。
コンビニのおにぎりを買わないで良かった。

数年ぶりのナシゴレンを堪能して権現堂川を渡る。
この川はもとは利根川の一部だったが江戸時代に本流から外されて、今は湖沼状になっている。
川を渡ると茨城県五霞町。
ここの元栗橋に栗橋城がある。
といっても現地には、城があったという看板と空堀しか確認できない。
その先は民家の敷地内で入れない。

さてここから関宿城に向うのだが、Mioのナビで関宿城博物館を目的地にセットすると、9km以上もある。
ここからタクシーで行こうと目論んでいたのだが、田園地帯の集落では、タクシーなどまったく走ってない(南栗橋駅前にすらなかった)。
仕方なしにとりあえず歩きはじめる。
まぁ途中で路線バスかタクシーを捕まえられたらラッキーとしよう。
Mioのナビにしたがって国道4号線に出ると、下り車線だけが大渋滞。
貴重な連休にお疲れ様。

ナビの指定する4号線は歩道がないので、奥の平行する県道を歩く。
期待したバス路線はなく、あいかわらずタクシーも走ってない。
まぁ、9kmなんて日帰りハイキングなら標準だし、それに増えた体重を減らせるからいいかと楽観するも、右足の親指に靴擦れが発生。
それをかばいながら、とにかく歩いていると、前方左手に土手のような高みが見えてきた。
しかも道路上の表示には、左折すると1.5kmで「関宿城博物館」とある。
もしかしたら、MioMapに載っていない関宿にショートカットで達する道(橋が必要)ができたのかもしれない(ソフトは2006年版なんだが)。
表示を信じて土手に上がってみると、川向こうの目の前に、誰が見まがおう関宿城博物館の堂々とした建物がある(写真)。
そしてその手前にある江戸川の水門の上には歩道があって人が渡っている。
つまりこのショートカットルートは徒歩のみ可という道だった(だからナビされなかったの?。徒歩設定にしたのに)。
おかげで5kmも得したことになる。

橋を2つ渡って千葉県に入り、関宿城博物館と関宿城趾を廻って、バスで埼玉県の東武動物公園に出た。
埼玉・茨城・千葉の三県をまわったものの、幸か不幸か体重減の旅にはならなかった。