今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

2023年を振り返る:世相編

2023年12月29日 | 時事

東京宅の正月準備も、本日の大掃除でほぼ終わった。
あと正月三が日続く酒宴の具材の買い出しだが、刺身などの生物は直前に買う必要があるので、本日はまだ早い。

そこで、今年2023年を振り返ってみる。
まずは世相編。
一言で言えば、過去の膿が次々と明らかになった印象。
政治の世界も、産業界も、そして芸能界も。
過去の半ば公然と黙認されてきた不正・犯罪行為が、あからさまになった。

それらは許されないこととして是正されることで、社会が変わる。
言い換えると、日本社会はこれらの膿を出し切って、変わらなければならない。

変わるとは、それらの主役(担当者)を交代させることだ。
そのためには、我々国民側が、交代を促す選択行動(選挙、消費など)をするしかない。
社会を変える選択行動なので、従来の二番手(次善)ではなく、新たな選択肢が増える必要がある。

過去に縛られない新しい人たちが出てきてほしい。
2024年は社会が変わり始める年になってほしい。


池袋西武とヨドバシカメラ

2023年09月01日 | 時事

池袋西武百貨店がストを挙行した翌日、アメリカの投資会社にそごう・西武が破格値で売却された。

私にとって池袋西武は、最も身近なデパートで、愛着もひとしおある。
何しろ、池袋といえば西武ばっかりで、駅の反対側に東武デパートがあるのを知ったのは小学校6年になってから。
大人になってからは、服や靴などは新宿の伊勢丹が気に入っていたが、伊勢丹は駅から遠いのが難点。
その点池袋西武は駅と直結しているからなおさら足を運びやすく、とりわけ書店が気に入っていた(糸井重里の有名なコピー「おいしい生活」のポスターを部屋に貼っていた)。
それに西武のカルチャースクールにも通っていた(なんとジャズダンス!)。

だが、その私がここに足を運ぶのは、今では年末に正月食品としての萩のかまぼこを3本買うだけとなった。
まず本、 CD・DVDはそれ自体を買わなくなり(ダウンロード)、服もデパートでは買わなくなった(特定ブランドの専門店で買う)。

というわけで、ここだけでなく、デパートそのものにまったく足を運んでいない(寄ってもデパ地下)。
その意味では、デパートの業態が変わるのは、気持ちとしては寂しいが、実際には支障がない。

むしろヨドバシなら今より足を運ぶに違いない。
もともと高校時代写真部だったので、新宿のヨドバシカメラは、本当にカメラ・写真が趣味の人向けの貴重な店として現像用の印画紙などを買うために通っていた。
だから新宿なら断然地元のヨドバシだが、それが秋葉にできた時は反発し、もっぱら電気街に足を運んだものの、普通の家電やスマホケースなど多くの種類から選びたい時、仕方なくヨドバシに足を運ぶようになった。

家電量販店としては昔はビックカメラ(池袋本店)ご用達だったが(一時期ヤマダ電機)、今ではほとんどヨドバシ一択になっている(プリンタは下取りしてくれるので今でもビック)。

反対側の東武デパートもすでにフロアをテナント貸しになっていて(ニトリやユニクロ)、これからの日本はどう見ても外商向けの高級路線ではなく、大衆向けの量販店タイプになっていくだろう。
私にとっても、ヨドバシ、ビック、ヤマダと量販店をはしごしてまわれた方が価値がある。


慶応を応援した理由

2023年08月23日 | 時事

甲子園の決勝戦がある今日は、自宅の居間のテレビで観戦していた。

仙台育英の連覇ではなく、慶應義塾高等学校(昔から”塾高”って呼ばれているので以下そう呼ぶ)の優勝を期待して。
実力は仙台育英の方が上だと思っていたが、先頭打者ホームランがあったように、塾高の勢い(打力)が優っていた。

なんで自分が地元でも母校でもない塾高を応援するのか、説明しにくいが、気持ちがそうだから仕方ない。

あえて説明するならば、まず横浜の日吉にある塾高は神奈川代表だけど、慶應義塾って本拠地は東京の三田(中等部もある)だし、実際東京から通っている生徒も普通にいるはずだから、心理的距離では私の地元の東東京代表と同じ。

それに甥っ子が現在慶大生で日吉に通っている(塾高出身ではない)。
私と慶應の今の接点はこの程度。

あと個人的な思い出で、東京六大学野球の早慶(慶早)戦で、あえて慶應側の応援席に座って観戦していた時(チアは慶應女子の高校生だった)、慶應の応援歌(若き血)や塾歌を一緒に歌った記憶が呼び覚まされたから(今でも歌える)。
甲子園での慶應側の応援が高校離れしていたのも、六大学野球での慶大の応援に倣っているから(応援はともに内野と外野の2箇所でやるので四方から響く。ただ、応援の騒音で仙台育英の外野手2人がフライを取る役割確認ができなかったのは可哀想)。

それにヘアースタイルに象徴されるように、超古豪ながら野球スタイルが新鮮なのがいい。

結局、塾高って神奈川のローカルな高校ではなく、慶應義塾系列として、東京も含んだより大きな存在だから、私のような部外者も巻き込まれるのか。
こういうのって、塾高が実現しているブランド性なんだろうな。

こういうブランド(影響)力のある高校が、高校野球を現代化してくれることも期待したい。


死んで生まれ変われるか

2023年05月20日 | 時事

「死んで生まれ変わろう」という目的で死ぬと、望み通り生まれ変われるだろうか。
その可能性はほとんど無いといえるだろう。
少なくとも、生まれ変わりたいと思っている当の「自我」は、脳死とともに消滅するので、”自分”は生まれ変われない。

個人を構成する自我ではなく、その背後の”霊体”は生まれ変わりが可能だとしても、六道輪廻思想によると、人間に生まれ変われる保証はない。
生前の行ないによって転生先が決まるので、人間として恥じる行為をしたなら、転生先は餓鬼や畜生、あるいは地獄となる(良くて修羅)。

冒頭の発言を私の母は、死ぬのではなく「死ぬ気になって生まれ変ろう」と決心すべきと批判した。
まさにその通り、人間としての”生”の中で、生まれ変わることが可能なのだ。
生前に積んでしまった業(カルマ)は、その生の中においてこそ、最も手早く清算することができる(人は「悔い改める」ことが可能)。

人間界に生まれた者に与えられた”生きる目的”は、霊的に成長することにある※。
※:六道的には、天部に転生すること。いいかえれば、死後にカミ・ホトケにグレードアップすること。

それは人間として、真っ当に正しく生きれば叶う目的だ(特定の宗教宗派の信仰者に限定されない)。
学校教育的に言えば、”人間としての課程”を修了することだ。

なので人間としての努力を放棄する目的の死は、残念ながら霊的にグレードダウンこそすれ、決して高まることはない。


中毒と依存の違い

2023年05月19日 | 時事

今だから、「薬物中毒」と「薬物依存」の違いについて明確にし、両者の混同を一掃したい(「ヤク中」という俗語にしか接しない人が混同している)。

中毒とは、毒に中(あ)たることで、毒による作用(症状)が発現している事を言う。
その典型が「食中毒」であり、これを理解しない人はいない。

その流れで言うと、アルコール中毒は、アルコール毒による症状が出ている事で、急性で軽い場合は酩酊ですむが、重症になると意識混濁、最悪の場合は呼吸停止で死亡する。
そして慢性症状は、手足の震えや精神症状(幻覚)などがあり、これがいわゆる「アル中」の症状として演技などで示される(この限りでは「アル中」の用法は間違いでない)。

その慢性症状は、アルコール依存によって起こる。
すなわち、アルコール依存は、アルコールの常用が生活に悪影響が出るほどに進んだ場合で、その結果として、本来毒物であるアルコールによる中毒症状が出るわけだ。
依存には心理的依存と身体的依存がある。
身体的依存は、それが切れると身体反応(離脱症状)が起こる状態。
この症状(いわゆる禁断症状)は中毒症状とは異なる。

アルコール依存はアルコール中毒の原因にはなるが、100%直結するわけではない。
急性アルコール中毒はアルコール依存とは関係なく、人生たった一回の飲酒(新歓コンパ)でも起こる。

すなわち中毒は身体的毒物反応であり、依存は悪影響が出ている過度の常用という行動を言う。
なので中毒の対処は医学(薬理)的だが、依存の対処は心理学(行動修正)的となる。

従って、科学的な概念の世界では、腐った食べ物による食中毒が”腐った食べ物依存”のことでないように、薬物中毒は薬物依存とは別個の現象である。


ファッションのジェンダーレス化を歓迎

2023年03月28日 | 時事

あちこちで制服がジェンダーレスになりつつある。
それはLGBTQに対する配慮からだろうが、もとも世界中の文化はジェンダー(社会的性別)を過剰に峻別してきたきらいがある。

男である私(自称詞にジェンダーは不要で、”僕”を使わない)も、
生物学的な性別はそのまま受容するも、過剰なジェンダー化には辟易してきた。

それを一番感じるのはファッション。
若い頃、同世代の女性たちの夏の7部丈パンツが涼しそうで見た目もスッキリして羨ましかった
(男物は長ズボンか膝上の半ズボンしかなかった)。
冬は、彼女(他称詞も本来は”彼”一択でいいと思う)たちのレッグ・ウォーマーが暖かそうで羨ましかった
(男物はモモヒキきしかなく、下腿だけの物がなかった)。
服の本来の機能は、身体気候の調整である。
ところが男の服装は、固定的で種類が少なく、
このように身体気候の微妙な調整ができない(特に暑さに対して)。
もちろん機能以外に、デザインとしての楽しさがない。

時計や靴も同様。
男物の腕時計は、腕の細い私には、デカすぎで不恰好にしか見えないので、
より小柄のユニセックスタイブしかつける気がしない。
革靴も、定番を買うとあとは買うものがない。
デザイン的に惹かれるのは、いずれもレディース。
ファッション(服装)に関して、ほんと男は選択肢が乏しくつまらない。
服装のデザインにジェンダーを外して、サイズだけで選べるようにしてほしい。

面白いことに、日本の伝統的な着物は、世界的に珍しく男女で同じ作り。
なので、今でも旅館の浴衣はジェンダーレスで、サイズの違いだけで選べる。
着物の柄や帯にはジェンダーがあったが、
室町時代の”バサラ”といわれたぶっ飛んだ男たちは、女物の着物を着て街を闊歩していたという。
※:女性の着物は丈が身長以上に長かった(裾を地面に広げていた)ため、男が着ても短くならない。江戸時代になると、おはしょりをして裾を上げるようになった。
一方、江戸時代の男子の正装を構成する袴は、幕末に日本に来た欧米人にはスカートに見え、
スカートをはいた男たちとして奇異の目で見られたという。
でも袴の末広がりのシルエットは、見た目に安定感があって悪くない
(私は着物で外出する時は必ず袴を着ける)。
なのでジェンダー意識をはずせば、男のスカート姿も見た目に悪くないはず
(すね毛の関係でミニはちょっと…)。


祝、 WBC優勝!

2023年03月22日 | 時事

春休みなもんで、朝から洗濯物を干しながら、 WBCの決勝(アメリカ)戦をテレビ観戦できた。

村上のスタンド中段に飛んだホームランはすごかったし、9回の大谷vsトラウトの最強勝負で、三振に打ち取ってゲームセットなんて、昨日に続いての出来すぎのシナリオ。
相変わらず試合時間が長かったが、結果オーライ。
なんだかんだ言われても”世界一”の称号にケチをつける理由はない※、まずは選手たちに祝福を!
※:武家礼法(非暴力的武士道)に携わる者としては、たかがスポーツのチームに”侍”呼称をしてほしくないという気持ちがずっとあったが、彼らが世界に示した礼(=敬:リスペクト)に則ったプレースタイル+抜群の強さは”侍”と呼んでいい(片方だけではダメ。両方必要)。

昨日、アメリカに勝ったメキシコに勝ったから、そのメキシコに負けたアメリカにも勝てると思っていた(実際、昨日の方が危なかった)。
ちなみに、この図式でいくと、この日本代表チームが唯一敗北を喫したのは中日ドラゴンズなので、真の”世界一”は、昨年セリーグ最下位のこのチームなのかも。

かように、試合時間の長い野球は、短期決戦ならば観戦に耐える。
なので、これからもじきに開幕するペナントレースは長い予選期間として遠くから眺め、クライマックスシリーズ以降を楽しみにする。


なんちゅー試合だ!

2023年03月21日 | 時事

休日の朝、 もちろんWBCの日本・メキシコ戦のテレビ観戦。
といっても長い試合時間になるのはわかっている。
日本が3点取られて旗色悪くなっている間、気分転換に近所に買い物に出かけた。

諦めたわけではない。
ただあと一本が出なくてもどかしい展開が続く。
それでも7回裏に吉田の起死回生の3ランで試合が振り出しに戻った。

ところが、また8回表で山本が連打を浴びて2点のビハインドとなり、
その裏に山川の犠牲フライで1点は返したものの、1点のビハインドで最後の9回裏を迎えた。
幸い、打順は三番大谷からのクリーンアップ。
大谷は気迫溢れる初球2塁打。
そして試合時間が4時間近くなる、正午前。
なんと本日3三振だった五番村上が2者を返す2塁打を打って、サヨナラ勝利。
これまで打てなかったあの村上だ。
ここで打たなきゃどうする!という究極の場面でのサヨナラ打。

このサヨナラ劇を見ていて、「なんちゅー試合だ!」と半笑いするしかない感想。
もちろん守備にも見所があった。
これ、マンガやドラマだったら、あまりに出来すぎの展開で逆に文句が出る。

それが現実に起きるのだから、やはり最高水準の選手たちの試合は面白い(両チームエラー0)。

この面白さで明日の決勝に進めたのだから、明日のアメリカ戦も楽しみだ(春休みなのでテレビ観戦できる)。
※アメリカは日本に負けたメキシコに負けている。


WBCを観て痛感したこと

2023年03月18日 | 時事

日本では視聴率歴代上位を次々に更新している WBC(ワールドベースボールクラシック)。
私も快進撃の日本チームの試合を連日テレビ観戦していた。

実は、日頃はプロ野球のペナントレースは観ずに、クライマックスシリーズと日本シリーズだけ観る(甲子園の高校野球もほぼ同様)。

要するに、にわかファンレベルなのだが、そうなったのは、普遍的な理由があるから。
試合時間が長すぎるのだ。

今回の WBC日本戦でもそれを痛感した。
毎回3時間を超えた。
サッカーなら2試合分。
映画だったら、例外的な長編。
夕食後に観始めると、試合終了したらもう寝る時間(球場観戦者は終電に間に合わず)。

そもそも、人生で最も大切なのは時間だ(減る一方だから)。
すなわち、時間の無駄遣いこそ、最も避けたい事。

なので、今回もテレビで試合を流している間、別のことをしたり、音声をオフにして読書に充てた。

野球人気が本場アメリカでさえ下火なのも、時間がかかりすぎることが一番の要因だろう(日本を除いて民間に広がりにくいのは、広い専用グラウンドと特殊な用具、それに複雑なルールのせいもある)。

観ていて実感するのが、9回までが長すぎること。
投手のコントロールが悪かったり、打線が強力だと1イニングが長引く。
延長後は得点が入りやすいタイブレークにしているが、最初からそれではつまらない。
やはりイニングの回数が問題だ。
個人的には6回くらいでいい(飽き始めるのがだいたいそのあたり)。


サッカー日本代表を振り返る

2022年12月06日 | 時事

これまでサッカーW杯日本代表の活躍を記事にしていたので、その締めくくりをしないわけにはいくまい。

スポーツにおいては勝ち試合は神がかったようなプレーが見られ、負け試合は凡ミスが目につくもので、毀誉褒貶のジェットコースターとなるのが常。

もっともクロアチア戦は試合に負けた訳ではなく、次に進むための PK戦に負けただけ。

当初は”ベスト8を目指す”なんて大風呂敷にしか聞こえていなかったが、ドイツ・スペインと破って、実現可能な所まで来た。
その期待を抱かせただけでも、われわれに夢を与えてくれた。

 W杯にやっと出られたレベルの頃は、得点するにしてもセットプレーで体ごとゴールに突っ込むしかなかった。
その頃に比べれば、確実に力をつけている。
試合後に選手たちがみせた悔し涙が更なるレベルアップを約束している。

おかげていい夢を見させてくれたが、正直、夜更かしは辛かった。
これで普通の(平凡な)生活に戻れる。


スペイン戦勝利を後から知る

2022年12月02日 | 時事

正直言って、私もドイツには勝ってもスペインには勝つとは思えなかった。
だから日本がコスタリカに負けた時点で、グループリーグ突破は難しいと思った(ただ負けたことの批判は控えていた)。
なので、本日午前四時からの放送は、無理してリアルタイムで見ることをせず、録画して起床後に見た。
要するに日本代表の力を信じきれなかったのだ。

起床後、真っ先に録画を再生して、結果を知らないままリアルタイムの気分で観戦した。
前半は失点し、ボールを支配されていたが、ドイツ戦と同じ展開なので希望は保てた。
そして後半、三笘などを入れて攻勢できると期待していたら、案の定そういう展開になった(同点に追いついた堂安のミドルシュートは、昔の日本代表では拝めなかった)。
ただ同点に追いついても、すぐに逆転できるとは思っていなかった。

2点目のボールの問題だが、ボールの鉛直上の中心軸(地球でいうと南北の極軸)がラインから出ていても(明らかに出ていた)、ボールの水平上の中心軸(地球で言うと赤道軸)がライン上にかかっていればOKで、 VARはそこを判定したのだ。
ただし、本当にギリギリだった。
仮りに、これがノーゴールであっても、スペインの監督が試合後に述べたように、日本は追加点を取れたろう。

結果的にドイツとスペインに(幸運でも敵失でもなく)実力で勝ったことは(私はこれで充分「歴史を作った」と思う)、他の強豪国とも対等に戦える自信をもたらし、決勝トーナメントもそれなりに頑張ってくれそう。
 次のクロアチア戦は中継(Abema)で観るぞ!。


祝!ドイツ戦勝利

2022年11月24日 | 時事

23日から24日にかけていい夜を過せた。

サッカー・ワールドカップで日本がドイツに勝利した感激を味わえたから。

結果的に、サウジアラビアがアルゼンチンに勝利したのとおなじ得点パターン。
すなわち PKの失点の後の2本のゴールによる逆転勝利。

1点の重みが大きいサッカーでは前半での失点が重たかったが、
2点目と思われてた失点がオフサイドで帳消しにされて、望みがつながれた。

気分一新した後半は、攻撃が奏効しはじめ、またドイツのシュートの精度が悪かったので(キーパー正面か枠外)、いけそうな気がした。
といっても負けていたので、引き分けで御の字と思っていたら、堂安のゴールで息を吹き返し、さらに浅野の神業的トラップ&シュートで逆転してしまった。

日本の勝利が決まった瞬間、感動が込み上げた。
それは思いも寄らぬ奇跡だからではなく、
日本代表のレベルが確実に上がっていることを確信できた嬉しさだから(昔とは違う力強さ)。
その意味での歴史的瞬間を共有できた。

日本代表チーム、ありがとう。
次も期待する。

 


軽口の重さ

2022年11月11日 | 時事

法務大臣が発したパーティで笑いをとるつもりの軽口が、重い結果となってしまった。
失敗した他人を責めるのではなく、わが身を引き締めるためにこの問題を考えてみよう。

パーティの挨拶で笑いを取ることはまったく問題ない(期待されている)。
問題は、どう笑いと取るかだ。

自分を卑下(自虐ネタと)して笑いを取るのは、揶揄する相手が自分自身だから問題ない(むしろ一番安全)。

そのバリエーションとして、自分が担当している仕事を卑下して笑いを取るのは、同じレベル同士(だけ)の集まり、たとえば、大臣同士だけの内密の会話で己の担当を卑下するなら問題ない。

ところが、それ以外の第3者に開かれた場面でこれを言うと、その仕事にかかわる他者(仕事の相手、同僚)をも卑下(軽蔑)することになってしまう。
たとえば大学教員の私が自分の仕事を仮に「つまらない仕事」と言ったなら、学生と同僚を軽蔑したことになる。

つまり、自分を卑下しているつもりで、他者をも一緒に卑下(軽蔑)してしまう。
これは本人の気持ちの当否にかかわらず、論理的(客観的)な含意の問題なのだ。
なので野党の悪意の解釈も無用だが、「そのつもりはなかった」という弁明も無効。

それゆえ、卑下の範囲と聴衆の範囲によって、軽口の社会的適否が異なる。
こういう配慮に慣れない限り、安直に卑下して笑いを取りにいかない方がよい。
軽口は意外に”重い”ことを肝に銘じたい。


事件か事故かの二価論理

2022年10月05日 | 時事

江戸川で発見された少女の遺体は、溺死ということだった。
これで、世間は一気に事故死説に傾き、ネットでは事件説を唱えた者への揶揄が始まった。

私は、この件は、道志村での行方不明少女の件と同じく、事件と事故の合わさった内容の可能性を否定できないと思っている。
すなわち少女はともに、自発的に最後の場に赴く可能性が物理的障害によってかなり低く、誰かにその場所に連れていかれ、突き落とされた結果の死亡、言い換えれば、犯人は少女を直接自らは殺害はせず、「未必の故意」の状況に持っていって、結果的に死に追いやった可能性である(犯人がいるとすれば、衝動的でなく、特殊な嗜好性を持っていて、犯行を繰り返しそう)。

もちろんそれは、状況証拠をすべて考慮した結果で、証拠を自分のストーリーに合わせて任意に取捨選択し事件が事故のどちらか一方に結論を持っていくことをしなかったためである。
事件と事故は両立せず、どちらか一方しか該当しない、という発想は、私が本来的に採用を控える”二価論理”である。

二価論理は、素朴な概念操作(論理)に潜むバイアス(判断の歪み)であり、二価的でない、より複雑(確率論的)な現実事象に適用できない(二次元は三次元を正確に記述できないように)。

単なる思考癖に過ぎない二価論理に甘んじている限り、主観的に解った気になるだけで満足する通俗知に止まり、複雑性に満ちた現実をその複雑性もろとも理解しようとする学知には永遠に至らない
※:大学では複雑性に謙虚に立ち向かう探求姿勢を教えているが、社会に出ると単純化することだけが求めらるようだ(単純化の限りを尽くしてA4一枚に収める思考の節約が求められる)。私がマスコミの関与を避けるのも、心理現象を暴力的なまでに単純化をしたがる姿勢に迎合したくないため。

こういう人には、瞑想する暇があったら、まずはシステム2の知を洗練させることをお勧めする。


国葬ではなく国葬儀というらしい

2022年09月16日 | 時事

安倍元首相の葬儀は厳密には「国葬」ではなく、「国葬儀」というものだという。

国葬なら、休日となり、天皇陛下をはじめ内外の国家元首も参列し、国全体が喪に服する。

国葬儀※はそれではないので、平日で、国家元首の参列はないので、当然外国の元首も参列しない。
平日だから、国民は普通に過ごせばよい。
※:法的に内閣の決定で問題ないという。

私自身は、安倍元首相の在任中の業績を評価しており(もちろんすべてではない)、「反アベ」では毛頭ない。

なので実際、家族葬で霊柩車が都内を巡回している映像を名古屋の地からテレビで観ている時、テレビに向かって合掌をした。
私自身はその時に心から弔意を感じ表現したので、私にとっての故安倍氏の葬儀はそれで終わった。

だから、今の”国葬(儀)”騒ぎには今更感が強く、全く興味がない。
すなわち安倍氏を支持した者であっても、今月の行事の必要性は感じない。
もし当日に弔意を示せと強制されたら、私も反発する。

今月の葬儀をメインにしたかったら、あの家族葬は真に身内だけで極秘にやって、マスコミ(国民)には非公開にすべきだった。

今の状況では、エリザベス女王の真の国葬との落差だけが目立ってしまう。

岸田首相はこの件について、(いつものように)もっと慎重に”検討”すべきだった。