今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

秋川高校同期再会の意味

2010年11月30日 | メモリアル

先日の高校の同期会の余韻がさめないうちに、
はるか昔の旧友と集ることの心理的意味を考えたい。

まず、われわれ都立秋川高校の同期会(同窓会より小さく、クラス会より大きい)は、
全寮制ゆえの特有の関係の”範囲”であり、点呼・体操、食事などの集団生活の基本的集合単位なのだ。
そして24時間生活を共にしたという関係の濃さは、
通常の学校での関係とは異なることはいうまでもない。
そのようなちょっと異質な同期会を題材に考えてみる。

同期会において感じるのは、「新鮮さ」と「安心感」。
普通の対人関係では、この両者は両立しがたい。
新鮮な関係は、(安心とは正反対の)緊張や警戒をもたらし、
逆に安心な関係は、ややもすると惰性に陥り、退屈になりやすい。
つまり「新鮮で安心」な関係というのは他ではなかなか体験できないものだ。

なぜ新鮮なのか。
日頃の生活での固定化してしまった関係でないからだ。
確かにはるか昔では毎日の関係だった。
だがその過去は遠く断絶したものであり、現在とのつながりがない。
非日常的な相手に対する自分もまた非日常的となる。
つまり、日頃の自分とは異なる(懐かしい)自分を体験する。
それはすでに忘れられ・失われた自分であり、その自分の体験がまた新鮮だ。

一方、安心感は、もちろん相手が近しい者たちだからだ。
彼らには本当の自分が知られており、また自分も彼らの本当の姿を知っている。
不必要に関係が持続しなかったため、利害の対立もなく、
感情の行き違いは過去のものとなっている。
彼らとは一瞬で過去の共同世界に戻れる。
その過去は、自分の妻子との関係よりも古い。
彼らと共に在った世界は心の故郷なのだ。
自己の原点なのだ。

新鮮さと安心感が合わさることで、後腐れのない、すっきりした出会いを楽しめる。
そこでは単に過去の再現ではない、新たな”再会”の場となる。
当時は言えなかったことが言え、聞けなかったことが聞ける。
当時の誤解も解消できる。
現在の状況を伝えあい、互いの成長した姿を示しあう。

ついでに、このような価値ある同期会はどうあればよいのかを考えたい。

まず言えることは、新鮮さと安心感が維持されるとよいということ。
新鮮さのためには、開催は頻繁すぎず、適度な間隔をあけるとよい。
参加メンバーの一定割合が毎回異なるのも、結果的に新鮮さを強める。

安心感のためには、逆にコアとなる常連が必要。
そもそもコアメンバーこそが会の開催・維持を可能にする。
彼らは多くの旧友を親しく迎え入れ、安心感を与えてくれる。

以上で充分説明できたわけではない。
数十年間のブランクの影響と影響の無さとの不可思議な関係
(それは記憶と感情の関係に関連)については、まだまだわからない。
旧友という、不即不離の関係の意義についてもわからない。
わかるためにも、参加を重ねていこう。