先日の高校の同期会の余韻がさめないうちに、
はるか昔の旧友と集ることの心理的意味を考えたい。
まず、われわれ都立秋川高校の同期会(同窓会より小さく、クラス会より大きい)は、
全寮制ゆえの特有の関係の”範囲”であり、点呼・体操、食事などの集団生活の基本的集合単位なのだ。
そして24時間生活を共にしたという関係の濃さは、
通常の学校での関係とは異なることはいうまでもない。
そのようなちょっと異質な同期会を題材に考えてみる。
同期会において感じるのは、「新鮮さ」と「安心感」。
普通の対人関係では、この両者は両立しがたい。
新鮮な関係は、(安心とは正反対の)緊張や警戒をもたらし、
逆に安心な関係は、ややもすると惰性に陥り、退屈になりやすい。
つまり「新鮮で安心」な関係というのは他ではなかなか体験できないものだ。
なぜ新鮮なのか。
日頃の生活での固定化してしまった関係でないからだ。
確かにはるか昔では毎日の関係だった。
だがその過去は遠く断絶したものであり、現在とのつながりがない。
非日常的な相手に対する自分もまた非日常的となる。
つまり、日頃の自分とは異なる(懐かしい)自分を体験する。
それはすでに忘れられ・失われた自分であり、その自分の体験がまた新鮮だ。
一方、安心感は、もちろん相手が近しい者たちだからだ。
彼らには本当の自分が知られており、また自分も彼らの本当の姿を知っている。
不必要に関係が持続しなかったため、利害の対立もなく、
感情の行き違いは過去のものとなっている。
彼らとは一瞬で過去の共同世界に戻れる。
その過去は、自分の妻子との関係よりも古い。
彼らと共に在った世界は心の故郷なのだ。
自己の原点なのだ。
新鮮さと安心感が合わさることで、後腐れのない、すっきりした出会いを楽しめる。
そこでは単に過去の再現ではない、新たな”再会”の場となる。
当時は言えなかったことが言え、聞けなかったことが聞ける。
当時の誤解も解消できる。
現在の状況を伝えあい、互いの成長した姿を示しあう。
ついでに、このような価値ある同期会はどうあればよいのかを考えたい。
まず言えることは、新鮮さと安心感が維持されるとよいということ。
新鮮さのためには、開催は頻繁すぎず、適度な間隔をあけるとよい。
参加メンバーの一定割合が毎回異なるのも、結果的に新鮮さを強める。
安心感のためには、逆にコアとなる常連が必要。
そもそもコアメンバーこそが会の開催・維持を可能にする。
彼らは多くの旧友を親しく迎え入れ、安心感を与えてくれる。
以上で充分説明できたわけではない。
数十年間のブランクの影響と影響の無さとの不可思議な関係
(それは記憶と感情の関係に関連)については、まだまだわからない。
旧友という、不即不離の関係の意義についてもわからない。
わかるためにも、参加を重ねていこう。