内気(ないき)よりは外気(がいき)を感じたい私としては、気功や経絡よりも、風水の方が関心領域に近い。
風水は、外気の1つである地の気(エネルギー)が顕現する地形を龍に見立て、地形を読むことによって、たとえば特定地点の地エネルギーの状態を読む、というもの。
これぞ”パワースポット”を探る理論装置といえそうではないか。
そこで風水、といっても香港や台湾で盛んな宅地の風水ではなく、地形を読む”地理風水”の理論的な本を幾つか読んでみた(三浦國雄『風水談義』、盧恆立『風水大全』、御堂龍児『地理風水』、山道帰一『地理風水大全』など)。
それでわかったことには、そもそもの風水は、家の裏山あたりの墓地選定のための理論で、
よい墓を建てるための周囲の微地形の解釈図式にすぎなかった
(もちろん、墓を拡大解釈して都市にあてはめることは可能)。
しかも肝腎の地のエネルギーが空想的な”龍”とされていて実体性が無く、すなわちその理論には実在エネルギーによる根拠が全く無い(空想の産物)。
あえてリアルに解釈すれば、墓にとって風の当らない三方に囲まれた微地形をよしとしている。
というわけで、私が期待した正しい意味での”地のエネルギー”という、地形をエネルギー論的に説明してくれる地球科学的視野をまったく有していないことがわかって本当にがっかりした。
たとえば、地のエネルギーの顕現ならば、地震(断層)や火山、あるいは隆起(沈降)が考慮されてしかるべきだが、
誰でも地のエネルギーの顕現とわかる”活火山”さえもが理論的視野にないのはいただけない。
同じ気の理論にもとづいている中国医学(鍼灸、漢方)が、信頼に足る代替医学としてWHOに認められているのとは大違い(実際、気功や中医学は唯物論を奉じる中華人民共和国でも盛んだが、風水は迷信として排除されている)。
また、易のように、科学的には説明できなくても、心の底を見透かしたかのようなアドバイスを与えてくれる神秘性があるわけでもない。
このような風水を、実際の日本の風景に当てはめる気がおきないのは、
たとえば富士山のような独立峰は、いかに雄大・秀麗であっても「独山」というエネルギーが集まらない山とされるから。
なので日本では神体山とされる神奈備型の独立峰(三輪山など)は、エネルギー無しなのでパワースポットとされない。
独立峰である岩木山、鳥海山、磐梯山、男体山、皆神山、御嶽、大和三山(のうちの2山)、大山(だいせん)らはパワースポット失格。
活火山である那須岳、浅間山、箱根山、阿蘇山、桜島、あるいは火山地帯で温泉が湧いている草津、玉川なども地のエネルギーが認定されない。
壮大な思惟ができる古代中国人の地気理論が、なぜ墓地選定レベルのちまちました発想におさまったのか。
思うに、中国の中原地帯は安定したユーラシアプレートの真上で、伝説の崑崙山は西方はるか彼方、雲南の南にはヒマラヤから続く山脈があり、北東部の朝鮮半島の付け根には火山の長白山があるが、いずれも中原からは遠すぎて視野の外。
要するに地のエネルギー理論を構築するには、地盤が安定(不活発)すぎた。
そう考えると、地気理論の構築にふさわしいのは、2つの大陸プレートと2つの海洋プレートが衝突し、世界的にも地震と火山の巣窟となっている日本こそではないか。
ただ残念がら、古代日本人は、中国人やギリシャ人のような壮大な理論構築の才に恵まれなかった。
風水に代わる、地気の理論構築(地球科学とは異なった発想の地のエネルギー論)は今からでも遅くはないかな。