どうも最近自分の写真が面白くない。
写真を撮るという行為は自身のアーティスティックな何かを消費することのように思う。
写真を撮るばかりなので、どんどん消費され、枯渇しかかっているのではないか。
そんな感覚である。
外部から芸術的エネルギーを補給しないと、何も撮れなくなってしまいそうだ。
そんな時の補給源のひとつが映画鑑賞。
他者がアイデアを絞って作り出した見慣れぬ映像から刺激をもらうのだ。
別に小難しい映画である必要はなく、自分の知らない映像イメージに触れられればいい。
ちょうど「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」が公開されたところなので、大画面で観てきた。
まずは作品そのものの感想を。
少しだけどネタバレご注意。
ハリソン・フォードが歳取っちゃったので、舞台は時の進んだ1960年代後半。
人が宇宙に行ってしまう時代。
冒険の最後に設定される超常現象も、オカルトや古代の超文明ではなく、時間に関する科学的なもので、時代背景にあったいいアイデアだった。
超常現象部分が荒唐無稽なのは分かっている事なのですんなり納得できるのだが、いつも気になるのは現実的にあり得そうなシチュエーションで、よく考えたらそうはならないでしょ的な場面。
今回も、おいおいそれって本当?と思わせる箇所が山盛り。
各登場人物の行動に向かう動機の描写も弱い。
でも頭から開き直ってる感があったので反対に気にならず。
心の中でツッコミを入れるだけにして単純に楽しんだ。
さて、芸術的エネルギーは手に入れる事ができたのか。
映像はこれまでのアクション映画で出てきたあらゆる場面のオンパレード。
息もつかせぬ手に汗握るシーンがたっぷり。
でも新たな感性を拡げる元となるのは、そんなアクションシーンの合間にある繋ぎの場面だ。
そこで物語の背景や環境、人物の関係性が説明される。
落ち着いて見られるそんなシーンの描き方で心に残るイメージや印象が決まる気がする。
特殊効果を使っているのだろう遺跡のシーンより、インディの住んでる部屋や大学の講義室の映像が良かったな。
映画を観た直後はもっとたくさん映画を観るべきだよなあと思うが、上映時刻に縛られるので行きにくく、時間が経つとそんな気持ちも冷めていく。
別の方法として中古でいいからDVDソフトを買うのもありだな。
映画館で観るのと違って好きな時に何度でも観れる。
そのうち新鮮味がなくなると今回の目的には使えなくなるけど。
最近は覚えておくということが出来なくなって来たから、少しでも興味を持った映画はメモに残しておいて、ソフトが安くなった頃買えるようにするとしよう。
写真を撮るという行為は自身のアーティスティックな何かを消費することのように思う。
写真を撮るばかりなので、どんどん消費され、枯渇しかかっているのではないか。
そんな感覚である。
外部から芸術的エネルギーを補給しないと、何も撮れなくなってしまいそうだ。
そんな時の補給源のひとつが映画鑑賞。
他者がアイデアを絞って作り出した見慣れぬ映像から刺激をもらうのだ。
別に小難しい映画である必要はなく、自分の知らない映像イメージに触れられればいい。
ちょうど「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」が公開されたところなので、大画面で観てきた。
まずは作品そのものの感想を。
少しだけどネタバレご注意。
ハリソン・フォードが歳取っちゃったので、舞台は時の進んだ1960年代後半。
人が宇宙に行ってしまう時代。
冒険の最後に設定される超常現象も、オカルトや古代の超文明ではなく、時間に関する科学的なもので、時代背景にあったいいアイデアだった。
超常現象部分が荒唐無稽なのは分かっている事なのですんなり納得できるのだが、いつも気になるのは現実的にあり得そうなシチュエーションで、よく考えたらそうはならないでしょ的な場面。
今回も、おいおいそれって本当?と思わせる箇所が山盛り。
各登場人物の行動に向かう動機の描写も弱い。
でも頭から開き直ってる感があったので反対に気にならず。
心の中でツッコミを入れるだけにして単純に楽しんだ。
さて、芸術的エネルギーは手に入れる事ができたのか。
映像はこれまでのアクション映画で出てきたあらゆる場面のオンパレード。
息もつかせぬ手に汗握るシーンがたっぷり。
でも新たな感性を拡げる元となるのは、そんなアクションシーンの合間にある繋ぎの場面だ。
そこで物語の背景や環境、人物の関係性が説明される。
落ち着いて見られるそんなシーンの描き方で心に残るイメージや印象が決まる気がする。
特殊効果を使っているのだろう遺跡のシーンより、インディの住んでる部屋や大学の講義室の映像が良かったな。
映画を観た直後はもっとたくさん映画を観るべきだよなあと思うが、上映時刻に縛られるので行きにくく、時間が経つとそんな気持ちも冷めていく。
別の方法として中古でいいからDVDソフトを買うのもありだな。
映画館で観るのと違って好きな時に何度でも観れる。
そのうち新鮮味がなくなると今回の目的には使えなくなるけど。
最近は覚えておくということが出来なくなって来たから、少しでも興味を持った映画はメモに残しておいて、ソフトが安くなった頃買えるようにするとしよう。
山で着るカッパが寿命を迎えた。
外見はまだまだ使えそうだが、内側の防水のための目貼りなのだろう、生地と生地の境目に貼り付けてあったテープが剥がれてしまった。
それも一ヶ所ではなくあらゆる箇所のテープが剥がれたようだ。
広げると内側に簾状にテープがぶら下がっている。
少しづつ破れていくのでなくて、一斉に破れるというのが、日本製品の品質の良さというか、品質のバラツキのなさを見たようで、感心してしまった。
ということは新しいカッパを買わないと山に行けないということか。
こういう買い物って結構面倒に思う質だ。
一般的に新しく買い物するという行為は心躍るものなのだろうが、必要に迫られて購入しなければならないものはその限りではないよう。
ゴアテックスにすべきだし、そうなると出費が嵩む。
必ずしも必要で無いものを買おうとするのは楽しいんだけどなあ。
外見はまだまだ使えそうだが、内側の防水のための目貼りなのだろう、生地と生地の境目に貼り付けてあったテープが剥がれてしまった。
それも一ヶ所ではなくあらゆる箇所のテープが剥がれたようだ。
広げると内側に簾状にテープがぶら下がっている。
少しづつ破れていくのでなくて、一斉に破れるというのが、日本製品の品質の良さというか、品質のバラツキのなさを見たようで、感心してしまった。
ということは新しいカッパを買わないと山に行けないということか。
こういう買い物って結構面倒に思う質だ。
一般的に新しく買い物するという行為は心躍るものなのだろうが、必要に迫られて購入しなければならないものはその限りではないよう。
ゴアテックスにすべきだし、そうなると出費が嵩む。
必ずしも必要で無いものを買おうとするのは楽しいんだけどなあ。
暑いからなのだろう、何かしら身体の調子が万全でない。
お休みの日、なんにもしていないのにめまいを感じたり、気分が悪くなりそうな気配がしたりした。
暑気中りという奴だろうか。
出かけなくて良い時間は、部屋で横になっていた。
寝不足の日が続いたり、そこに酒を過ごしたりすると、自律神経が不調に陥ることはあったが、そうした無理はしていないのに危うい気配が漂うのだ。
暑さには強い方だと思っていたが、そうでも無くなってきたのかな。
去年の夏の始まりはどうだっただろう。
昔は暑くなると、できるだけ喉を乾かして帰ってきて、冷たいビールを喉で味わっていた。
熱中症が話題になって、それは実は危険な行為だと知った。
(喉が渇いた状態の時は血中の水分量の不足を補うため、血管を狭めて血圧を保持しているようで、そこにアルコールが入ると血管が拡がり血圧が急激に下がって失神してしまったりすることがあるらしい。)
体調の不安もあり、でも酒は飲みたくて、まずは水分を充分に摂ってから酒を飲むようになった。
若ければ身体がなんとかしてくれたが、もうそうは言っていられない状態になってきたんだろうな。
見返すかどうか分からないが、書き留めておこう。
お休みの日、なんにもしていないのにめまいを感じたり、気分が悪くなりそうな気配がしたりした。
暑気中りという奴だろうか。
出かけなくて良い時間は、部屋で横になっていた。
寝不足の日が続いたり、そこに酒を過ごしたりすると、自律神経が不調に陥ることはあったが、そうした無理はしていないのに危うい気配が漂うのだ。
暑さには強い方だと思っていたが、そうでも無くなってきたのかな。
去年の夏の始まりはどうだっただろう。
昔は暑くなると、できるだけ喉を乾かして帰ってきて、冷たいビールを喉で味わっていた。
熱中症が話題になって、それは実は危険な行為だと知った。
(喉が渇いた状態の時は血中の水分量の不足を補うため、血管を狭めて血圧を保持しているようで、そこにアルコールが入ると血管が拡がり血圧が急激に下がって失神してしまったりすることがあるらしい。)
体調の不安もあり、でも酒は飲みたくて、まずは水分を充分に摂ってから酒を飲むようになった。
若ければ身体がなんとかしてくれたが、もうそうは言っていられない状態になってきたんだろうな。
見返すかどうか分からないが、書き留めておこう。
6月も終わろうかという頃、家に帰ると見知らぬ観葉植物がいた。
うわあと驚いて思い出した。
そうだ、毎年6月は連れが新たな観葉植物を家に連れて来る月だった。
5月に一度それを思い出して忘れていた。
新しい子はモンステラという。
名前は知らなかったが、鉢に差してある名札に描かれた葉っぱの形には見覚えがあった。
平たい葉っぱに切れ込みが入る、南国イメージの奴だ。
でも今付けている葉っぱには切れ込みはひとつも入っていない。
連れが言うにはそのうち切れ込みが入るようになるらしい。
今付けてる葉が成長して窪みができていくのか、少し大きくなってから新しく出てくる葉に初めから切れ込みがあるのか。
どう現れるのか今後が楽しみ。
少し心配なのは、2~6mに育つという情報があること。
そんなに大きくなったらどうしようとあまり成長しない事を祈りもする。
我が家の観葉植物はこれで5つ目。
置き場所にそろそろ困り出した。
来年は貰わないようにするべきか、相談しておかねばならない。
うわあと驚いて思い出した。
そうだ、毎年6月は連れが新たな観葉植物を家に連れて来る月だった。
5月に一度それを思い出して忘れていた。
新しい子はモンステラという。
名前は知らなかったが、鉢に差してある名札に描かれた葉っぱの形には見覚えがあった。
平たい葉っぱに切れ込みが入る、南国イメージの奴だ。
でも今付けている葉っぱには切れ込みはひとつも入っていない。
連れが言うにはそのうち切れ込みが入るようになるらしい。
今付けてる葉が成長して窪みができていくのか、少し大きくなってから新しく出てくる葉に初めから切れ込みがあるのか。
どう現れるのか今後が楽しみ。
少し心配なのは、2~6mに育つという情報があること。
そんなに大きくなったらどうしようとあまり成長しない事を祈りもする。
我が家の観葉植物はこれで5つ目。
置き場所にそろそろ困り出した。
来年は貰わないようにするべきか、相談しておかねばならない。
今、パソコンの後ろに置いている酒は、球磨焼酎である。
5月の熊本旅行で土産に買って帰った奴だ。
パソコンで写真を見ながらしこたま飲み、あともう少し飲んで今日は終わりって時、台所まで行かずとも飲める。
そこにある酒は一日の飲みの最後を飾る酒となっている。
球磨焼酎は米焼酎でアッサリ系。
好みの焼酎はクセの強い奴なので、お店で購入する時そんな奴を紹介してもらい買った。
しかし封を開けて飲んだ時は、「これでクセ強いの?」と思わすさっぱりした味。
米だとやはりそんなものなのかなと、時々ちびちびやっていた。
しかしこの頃、いや違うぞ、と思うようになった。
そのさっぱりした印象の中で、コクと甘みの濃度が違う気がするようになった。
芋焼酎だと芋の種類も白やら黒やら赤やらそれぞれで味の傾向があり、さらに製品による個性もあってその特徴の振り幅が大きい。
そんなイメージで球磨焼酎にも突出した何かを期待していた。
芋焼酎ほど突出した味の差は無いが、飲み続けているとその差が感じられるようになった気がする。
写真で例えると、芋は原色が際立つカラー写真で、赤だったり青だったり他と違う部分がとても明らか。
対して米はモノクロ写真で、色は二色しかないが、そのグラデーションの濃淡を味わう感じ。
派手さはないがその鑑賞の仕方をようやく知ったというところか。
5月の熊本旅行で土産に買って帰った奴だ。
パソコンで写真を見ながらしこたま飲み、あともう少し飲んで今日は終わりって時、台所まで行かずとも飲める。
そこにある酒は一日の飲みの最後を飾る酒となっている。
球磨焼酎は米焼酎でアッサリ系。
好みの焼酎はクセの強い奴なので、お店で購入する時そんな奴を紹介してもらい買った。
しかし封を開けて飲んだ時は、「これでクセ強いの?」と思わすさっぱりした味。
米だとやはりそんなものなのかなと、時々ちびちびやっていた。
しかしこの頃、いや違うぞ、と思うようになった。
そのさっぱりした印象の中で、コクと甘みの濃度が違う気がするようになった。
芋焼酎だと芋の種類も白やら黒やら赤やらそれぞれで味の傾向があり、さらに製品による個性もあってその特徴の振り幅が大きい。
そんなイメージで球磨焼酎にも突出した何かを期待していた。
芋焼酎ほど突出した味の差は無いが、飲み続けているとその差が感じられるようになった気がする。
写真で例えると、芋は原色が際立つカラー写真で、赤だったり青だったり他と違う部分がとても明らか。
対して米はモノクロ写真で、色は二色しかないが、そのグラデーションの濃淡を味わう感じ。
派手さはないがその鑑賞の仕方をようやく知ったというところか。
蝉の声が聞こえだした。
そうか、夏が本格的に始まるのか。
まだ少し汗ばむくらいで済んでいる朝晩の通勤が、汗だくで歩かねばいけない日々に変わろうとしている。
蝉って何かしら不思議なところがある。
ある時一斉に鳴き始め、そういえば夏は蝉が鳴いてたんだとその存在を思い出す。
思い出してしまえば、朝からやかましいなとか聞くだけで暑苦しいなと、その声が聞こえて当たり前の日々になる。
そして突然鳴き終わり地上から姿を消すのだ。
お盆を過ぎる頃、静かな朝を迎えると、夏が終わるんだと、秋が来るんだと、季節がまたひとつ進もうとしていることを知る。
声が聞こえなくなり、涼しくなるとやかましかった日々は過去のもの。
毎年同じように忘れ、そして翌年同じように思い出す。
一年のサイクルの中でこれだけ劇的に生活の一部となり、劇的に一切の気配を消し去る存在を他に知らない。
そんな感慨をもたらす蝉の声が、今年も夏の記憶を連れて帰ってきた。
そうか、夏が本格的に始まるのか。
まだ少し汗ばむくらいで済んでいる朝晩の通勤が、汗だくで歩かねばいけない日々に変わろうとしている。
蝉って何かしら不思議なところがある。
ある時一斉に鳴き始め、そういえば夏は蝉が鳴いてたんだとその存在を思い出す。
思い出してしまえば、朝からやかましいなとか聞くだけで暑苦しいなと、その声が聞こえて当たり前の日々になる。
そして突然鳴き終わり地上から姿を消すのだ。
お盆を過ぎる頃、静かな朝を迎えると、夏が終わるんだと、秋が来るんだと、季節がまたひとつ進もうとしていることを知る。
声が聞こえなくなり、涼しくなるとやかましかった日々は過去のもの。
毎年同じように忘れ、そして翌年同じように思い出す。
一年のサイクルの中でこれだけ劇的に生活の一部となり、劇的に一切の気配を消し去る存在を他に知らない。
そんな感慨をもたらす蝉の声が、今年も夏の記憶を連れて帰ってきた。
ただの観光旅行をしている時は旅が終わりに近くなると、帰りたくないなあ、もっと旅していたいなあと思うものだが、山行きの時はそうでもない。
山小屋での宿泊は快適とは言い難いし、歩いてしんどいし、でも山の気はしっかり取り込んで、帰る時は清々としてさくさく帰る。
今回も最初は気分よくバスに乗り車窓を眺めていたが、乗り継いで乗り継いで電車に乗る頃から疲れが出てきた。
帰りも行きと同じルート。
伊那北駅から岡谷行きの普通電車に乗った時、変な格好で眠ってから急にしんどくなった。
判断力が低下していたようで、岡谷駅で次に乗る塩尻へ行く電車のホームを間違えてしまった。
移動する必要はなかったのに隣のホームに行ってしまい、すぐに来た電車に乗り損ねる事態が発生。
鉄道好きなのにこんな乗り換えの失敗をして、結構なショックを受けてホームのベンチに座り次の電車を待った。
幸い、先の電車に乗れたとしても、塩尻駅で特急電車を一時間待つ必要があったため、次に塩尻へ行く40分後の電車でも間に合ったのではあった。
思えばその日は朝の3時半から活動を始め、いつもより体力・注意力を使う登山をして11時間が過ぎようとしていた。
日帰りで遊ぶ休日なら、家に帰っていていい時間だ。
疲れていたから仕方ないと慰めて、塩尻から乗った特急「しなの」では座席を倒して爆睡だ。
名古屋駅手前でスッキリした気分で目を覚まし、だいぶ元気になったと電車を降りたのだが、またやってしまう。
新幹線に乗り換え、ホームで切符を見て覚えた指定席に行ったら座ってる人がいた。
「そこ、私の席なんですけど。」
その人は自分の切符を私に見せようと取り出そうとするので、私も切符を取り出し、その人に見せる前にふと見ると、なんてこった、私が号車を間違えてる。
ここは6号車で切符の記載は5号車だ。
「私が間違ってました、申し訳ありません。」と謝ってそそくさとその場を離れた。
んもー、乗る直前に見たのに一桁の数字を覚え損なうか、恥ずかしい。
5号車の該当の席は当然空いていて、やれやれと座る。
しかし失敗したなあ。
今後の生活に一抹の不安を覚えてしまう出来事となってしまった。
ついでに、いい記事ネタができたなと考えている自分もまたいるのだった。
<岡谷駅にて>
山小屋での宿泊は快適とは言い難いし、歩いてしんどいし、でも山の気はしっかり取り込んで、帰る時は清々としてさくさく帰る。
今回も最初は気分よくバスに乗り車窓を眺めていたが、乗り継いで乗り継いで電車に乗る頃から疲れが出てきた。
帰りも行きと同じルート。
伊那北駅から岡谷行きの普通電車に乗った時、変な格好で眠ってから急にしんどくなった。
判断力が低下していたようで、岡谷駅で次に乗る塩尻へ行く電車のホームを間違えてしまった。
移動する必要はなかったのに隣のホームに行ってしまい、すぐに来た電車に乗り損ねる事態が発生。
鉄道好きなのにこんな乗り換えの失敗をして、結構なショックを受けてホームのベンチに座り次の電車を待った。
幸い、先の電車に乗れたとしても、塩尻駅で特急電車を一時間待つ必要があったため、次に塩尻へ行く40分後の電車でも間に合ったのではあった。
思えばその日は朝の3時半から活動を始め、いつもより体力・注意力を使う登山をして11時間が過ぎようとしていた。
日帰りで遊ぶ休日なら、家に帰っていていい時間だ。
疲れていたから仕方ないと慰めて、塩尻から乗った特急「しなの」では座席を倒して爆睡だ。
名古屋駅手前でスッキリした気分で目を覚まし、だいぶ元気になったと電車を降りたのだが、またやってしまう。
新幹線に乗り換え、ホームで切符を見て覚えた指定席に行ったら座ってる人がいた。
「そこ、私の席なんですけど。」
その人は自分の切符を私に見せようと取り出そうとするので、私も切符を取り出し、その人に見せる前にふと見ると、なんてこった、私が号車を間違えてる。
ここは6号車で切符の記載は5号車だ。
「私が間違ってました、申し訳ありません。」と謝ってそそくさとその場を離れた。
んもー、乗る直前に見たのに一桁の数字を覚え損なうか、恥ずかしい。
5号車の該当の席は当然空いていて、やれやれと座る。
しかし失敗したなあ。
今後の生活に一抹の不安を覚えてしまう出来事となってしまった。
ついでに、いい記事ネタができたなと考えている自分もまたいるのだった。
<岡谷駅にて>