私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
昼下りのひととき、【YouTube】のサイトを開き、
《 あなたへのおすすめ (すべてを表示) 》のコーナーを見て、少し驚ろいたのである・・。
「シャンソンの殿堂 銀巴里」1/3
と題された曲が紹介されて、私自身のプログ・サイトに『銀巴里』のことも綴って折、
何よりも、【YouTube】のサイトで、私がシャンソンの名曲を数多く視聴してきたので、
【YouTube】のシステムの検索の結果として、
《 あなたへのおすすめ (すべてを表示) 》にで於いて、選定されたと理解したのである。
この後の私は、「シャンソンの殿堂 銀巴里」の三篇を視聴し、
微笑みながらも少しため息もし、苦笑したりした。
http://www.youtube.com/watch?v=l4sl0g9v4W0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=rhT4R-dufG0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=ZwooRF9T5qA&feature=related
この後、私は『銀巴里』に通った前、シャンソンの魅せられた初めの頃を思いだしたのである。
私はこの頃の思いとして、2005年5月21日に於いて、
【 『ナントに雨が降る』の想いで・・♪ 】
と題して、投稿しているが、あえて再掲載をする。
【・・
私は大学を中退し、映画、文学青年の真似事をして、あてどもない先行きが見えない生活をしていた。
養成所の講師から、ある月刊誌の記事の取材、下書きを分けて貰い、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。
確固たる根拠もなく、その後もアルバイトをしながら、小説の習作していたが、
幾度も小説新人の応募で最終候補作に漏れ、
ある年のお彼岸の懇親の折、親戚の小父さんから、
『30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と結婚した時に家庭を築き妻子を養えるかと素朴に叱咤されると、
私は自身のつたない才能に自信を失くした。
この後は、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
大手の民間会社に中途会社にできたのは、25歳の昭和45年4月であった。
この会社は、レコード部門があり、私のたっての願いがとおり、
この部署に配置された。
その後、レコード部門のひとつが独立会社となり、
私は独立したレコード会社に移動した。
まもなくして、私はコンピューターの専門職となり、恵まれた職場の一員となった・・。
夜、残業をしていた時、
夜の闇からつぶやくような神秘性のあるフランス語が聴こえてきた。
私は仕事の手を休め、煙草を喫いながら、聴き入った・・。
♪Il plent sur Nantes
Donne-moi la main
Le ciel de Nantes
洋楽販売促進課の誰かが掛けたのだろう・・。
私はレコードプレイヤーに近ずくと、
レコードのジャケットがそばに置かれていた。
バルバラの『私自身のためのシャンソン』
とタイトルは綴られていた。
私はそれまでのシャンソンの知識は、越路吹雪、岸洋子ぐらいは知っていた。
本場のシャンソンとしては、
ダミアの『暗い日曜日』が私の先代の人たちが夢中になったり、
ジュリエット・グレコとか、やはりエディット・ピアフに尽きる、
とかはあくまで知識としてである。
このバルバラの『ナントに雨が降る』には、
私の屈折の多い青春と私自身は父親を幼児の時に死去された想いか加味され、
瞬時に魅了されてたのである。
《・・
『ナントに雨が降る』
訳詩・永田文夫
♪ナントに雨が降る
私を放ってほしい
ナントの空は 私の心を悲しくしてしまう
ちょうど一年前の
そんな朝
ナントの街は やはりどんよりとして
私が駅から出た時
今まできたことがなかった街は
私にとっては見知らぬ街
メッセージが来なければ
旅行などしなかったでしょう
”マダム、グランジュ・オー・ルー通り25番地へ
お越し下さい
忙いで! 希望はあまりありません
彼の最期の時に
あなたに会いたいといいました”
長い長い放浪の後
やっと彼は私の心の中へ戻ってき
彼の叫びは沈黙を破り・・
彼が去ってしまってから
長い間、私はこの放浪者、この不明者を
待っていた
ああ ついに彼は私のところへ戻ってきた
グランジュ・オー・ルー通り25番地
私はあの出会いをなつかしく思い出し
廊下の奥にあったこの部屋を
思い出の中に深く刻みこんだ
私が行くと、暖炉のそばに座っていた
4人の男が立ち上がり
部屋の明かりは寒くて白く
彼等は晴れ着を着ていた
その見知らぬ人たちに
何も質問せず
何も言わず、ただ彼等をみただけで
私はすでにもう遅すぎたことが解った
それでも私はそこにいた
グランジュ・オー・ルー通り25番地に
彼はもう決して私に会うことなく
すでに世を去っていた
さあ これがあなたの知っている物語
彼がある晩戻ってきて
それが彼の最後の旅
最後の岸辺になってしまった
彼が死ぬ前に
私の微笑で暖まりたがっていた
けれどその夜のうちにこの世を
去ってしまった彼
別れの言葉も ”ジュ・テーム”もいわないで・・
海に続く道にある
石の庭に横たわって
安らかに眠ることを祈ります
私は彼をバラの花の下に横たえた
神よ、神よ・・
ナントに雨が降る
そして私は思い出す
ナントの空は
私の心を悲しくしてしまう・・
・・》
http://www.youtube.com/watch?v=DXYiTu9tzEU&feature=related
この歌は、父の死をしみじみバルバラ自身が綴り、唄ったものである。
この時のレコードから聴こえたのは、
フランスの原語であったが、何となく歌詞の概要は解り、職場であったが、目頭が熱くなった。
その後、バルバラに傾倒して、
アルバムのレコードが12枚聴き込んだころになると、
『黒いワシ』の異色作品を携え、日本に来日した。
日生ホールで公演され、私は駆けつれて、観たのである。
いずれにしても、このバルバラの『ナントに雨が降る』が
シャンソンに傾倒する10年の始まりだった・・。
・・】
私はこのようにバルバラに魅せられたシャンソンに物狂いとなり、
数多くのシャンソンを唄われる方たちのレコードを購入したり、
『銀巴里』に通ったりしたのである。
この時の想いは、その後の新婚時代の時のことは、
【 そして、あの時、貴女は・・♪ 】
と題して、このサイトの2009年3月8日に投稿しているが、再掲載する。
【・・
東京郊外の調布市は、どんよりとした曇り空で朝を迎えている。
夕方からは雨となる、と地元の天気情報が報じられている。
私はぼんやりと、庭のテラスに下り立ち、
煙草を喫いながら、白梅、紅梅の大半散った花を眺めたり、
日本水仙を眺めたりしていた。
そして、どうした心境か解からないが、ひとつの歌が私の心を占領したのである。
♪静かな雨 並木の雨
あなたを待つ 胸に降る
【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三】
私は心の中で唄いだした・・。
♪流れる唄 懐かし唄
夢をささやく あのメロディー
【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三】
私は自分自身、どういう心情で唄いだしたのか、解からなかった。
♪いつの日にか また逢いみん
溢れくるわ 涙
【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三】
私は定年退職後の5年生であるが、
ふと遠い昔の日々が甦(よみがえ)ったのである・・。
37年前の前後、この頃の私は銀座の一角にある『銀巴里』に行き、
数多くのシャンソン歌手が近くで唄われるのを、
私はコーヒーを飲みながら、名曲の数々を聴いたりしていた。
そして、近くにあるカフェ・バー形式のような『蛙たち』にも行き、
私は濃い目の水割りのウィスキーを呑みながら、数多くのシャンソン歌手が唄われるのを、
聴き惚れ、心酔していた時期であった。
銀座でなかった場合は、
渋谷の外れのカンツォーネ、シャンソンを聴かせてくれる所で、
食事兼オンザ・ロックのウィスキーを呑んだりしていた・・。
この後、家内と結婚前に交際していた時も、
この『銀巴里』とか、『蛙たち』にも行ったりしていた。
新婚まもない時、東急ホテルの小さなレストランで、
デイナー形式でシャンソンを聴きながら、夕食を頂くのに、私達は参加した。
歌い手は私が魅了されている金子由香里さんで、
家内に『銀巴里』、『蛙たち』と違った面がこのお方は表現できる人であり、
せひ観て欲しかったのである。
3曲を唄った後、ボーイさんがリクエスト曲の用紙を廻してきた・・。
私は万年筆で、『小雨降る径』と書き込んだ。
20分過ぎた頃、リクエストの3番目として、
『どなた様が・・この《小雨降る径》をリクエストして下さったのでしょうか・・』
とこのお方は言った。
私は少し恥ずかしげに、片手を少し挙(あ)げた。
このお方は少し驚いた表情されたが、唄いだした・・。
この後、数曲唄われた後、私達のテーブルに近寄ってきた。
『今晩・・来て下さって・・
あたくしの歌を・・よく聴いてくださる方よねぇ・・』
と私に向って、このお方は言った。
私はカフェ・バーの『蛙たち』などにも、よく通ったので、
ときおりリクエストなどをしていたのであった。
そして、このお方は、
『あなた方・・お若くて・・
これからの人生・・何があろうとも・・
お互いに思いやりがあれば・・大丈夫だから・・』
と微笑みながら、このような意味合いの言葉を私達に言った。
私は、人生の駆け出しのあどけない私達を観て、
慰めと励ましでわざわざ、私達のテーブルに寄って下さった、
と思ったりしている。
このようなささやかな思いでが私達夫婦にはあったので、
どんよりとした曇り空、いつ雨が降ってもおかしくない情景なので、
このような心の片隅にあることが想いだされたのかしら、
と感じたりしたのである。
そして、若き日々人生を歩みだした時、
『小雨降る径』をリクエストしたのだから、
この頃の私は人生に気負っていたのかしら、と先程から苦笑したりしている。
・・】
このように金子由香里さんの唄声に熱愛したこともあった。
そして、シャンソンに関しての最新としては、
このサイトの2009月3月28日に於いて、
【 戸川昌子の『リリー・マルレーン』の名曲を久しぶりに聴いて・・♪ 】
と題して、投稿しているが、再掲載をする。
【・・
私は東京郊外に住む64歳の年金生活の身であるが、
午後のひととき、【YouTube】を開き、
シャルル・アズナヴールの『帰り来ぬ青春』、『遠い想い出』、『イザベル』、
『ボエーム』、『愛のために死す』等を視聴したりした。
この後、エディト・ピアフの『水に流して』などを聴いたりしたが、
この曲も数多くの歌手に歌い継がれている。
日本の私にとっては未知の歌手も唄って折、
私は視聴した後、この方は『リリー・マルレーン』の曲も唄っていたので聴いたりした・・。
『リリー・マルレーン』の名曲に関しては、
フリー百科事典として名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』に於いて、
【・・
『リリー・マルレーン』(Lili Marleen)は、第二次世界大戦中に流行したドイツの歌謡曲。
1915年にロシアへの出征を前にドイツの詩人ハンス・ライプ (Hans Leip) が
ベルリンのある兵営の営門に歩哨に立った時に
創作した詩集 "Das Lied eines jungen Soldaten auf der Wacht" に収録されていた詩をもとに、
第二次世界大戦直前の1938年に、作曲家ノルベルト・シュルツェ (Norbert Schultze) が曲をつけ、
歌手のララ・アンデルセンが歌った。
歌詞は、兵営の大門の前に街灯が立っている。
そこで恋人と再会したいと熱い思いを歌ったものである。
男性の気持ちを歌った詩であるが、女性歌手によって歌われることが多い。
第二次世界大戦下では、21時57分にベオグラードのドイツ軍放送局から流れるこの歌に、
多くのドイツ兵が、戦場で耳を傾け故郷を懐かしみ、涙を流したといわれている。
また、ドイツ兵のみならずイギリス兵の間にも流行したため、
北アフリカ戦線のイギリス軍司令部は同放送を聞くことを禁じた。
日本ではベルリン出身のハリウッド女優、マレーネ・ディートリッヒの持ち歌として知られている。
第二次世界大戦当時、ナチス政権下のドイツを離れ、
アメリカの市民権を得ていたディートリヒは進んで連合軍兵士を慰問、この歌を歌った。
このためにドイツでは彼女は敵側の人間(反逆者)と見なされ、戦後も不人気であった。
・・】
このように解説されているが、
私はマレーネ・ディートリッヒに敬意しながら、彼女の歌声に心酔した後、
著名な海外の歌手の3名のお方のも視聴したりした。
この後、日本語も聴きたくなり、
【YouTube】の検索で、戸川昌子、とキーインしたら、
数々の歌曲が明示されたので、驚いたのである。
♪ いくさに行く前の夜
子どものように泣きじゃくり
私の名前をあなたはつぶやく
※いとしいリリー・マルレーン
いとしいリリー・マルレーン
【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】
私は37年前の前後、この頃の私は銀座の一角にある『銀巴里』に行き、
数多くのシャンソン歌手が近くで唄われるのを、
私はコーヒーを飲みながら、名曲の数々を聴いたりしていた。
そして、近くにあるカフェ・バー形式のような『蛙たち』にも行き、
私は濃いめ水割りのウィスキーを呑みながら、数多くのシャンソン歌手が唄われるのを、
聴き惚れ、心酔していた時期であった。
このした中で、フランスはもとより、日本の方の唄ったシャンソンのアルバムを購入し、
シャンソンに無我夢中の時期であった。
アルバムの中で、日本人の中では、特に金子由香里さんに熱中していた。
『時は過ぎていく』、『ミラボー橋』、『スカーフ』、『愛の砂漠』等の50数曲に、
まぎれなく時を忘れたくらいに熱愛したのである。
こうした時に、東芝レコードから、戸川昌子の『失くした愛』と題されたアルバムを知り、
購入して聴いたのであるが、仰天したのである。
私は戸川昌子さんに関しては、推理分野を書く小説家であり、数作品は読んでいた折、
以前に『銀巴里』で唄っていた、この程度しか知らない私であったが、
桁外れに上手いのである。
♪ 窓の下を兵隊の
長い列が町を出る
私を見あげてあなたは叫んだ
※(くりかえし)
【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】
この『リリー・マルレーン』は『失くした愛』と題されたアルバムの中のB面の一曲目に収録されてあるが、
この曲はもとより、『私はひとり片隅で』、『金曜日の晩に』、『暗い日曜日』、
『人の気も知らないで』、『ボンボヤージュ』等12曲であるが、
深く魅了されて、人生の姉貴である、と敬意したのである。
♪ 夜空の下鉄砲を
抱えたまま眠る歌
汚れた私の写真を取り出し
※(くりかえし)
【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】
こうして、『失くした愛』と題されたアルバムを百回前後、
レコード・プレイヤーで聴いたりしている間に、
私はレコード会社の本社でコンピュータの専任者で管理畑の身であったが、
洋楽の編成者、責任者に、
『東芝レコードで・・シャンソンで戸川昌子さんの今度のアルバム・・
凄いですよ・・私はシャンソンが好きなので良く聴きますが・・
桁外れに上手いです・・』
と他社のアーティストであったが絶賛し、友人にも話したりしていた。
♪ 地獄のような戦いに
身を捧げて傷ついて
倒されたあなたは最後に叫んだ
※(くりかえし)
【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】
私は35歳を過ぎた頃、他の分野の音楽に夢中になったが、
ほぼ10年間にシャンソンに熱中し、アルバムとして150枚ばかり残った時、
私にとってはピアフ、バルバラはもとより最上の神であるが、
日本語で唄われたシャンソンは、戸川昌子さんの『失くした愛』が傑作であり、
私はつたない観賞歴であるが、これ以上のアルバムは知らない。
♪ 平和の日は来たけれど
あなたはまだ帰らない
瞳を閉じれば聞こえるあの声
【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】
http://www.youtube.com/watch?v=HoBb5QJRs0c
このようなことを思い重ねて、私は2回ばかり、
20年ぶりに聴いたりした・・。
そして、私は齢を重ねた64歳の身となったが、
今でも戸川昌子さんの『リリー・マルレーン』の唄声を聴くと、
まぎれなく人生の姉貴だ、と感じたのである。
・・】
このように戸川昌子さんの唄歌に心酔し投稿したのであるが、
改めて振り返れば、これまでの私の人生に於いては、シャンソンの限りなく深い百数十曲が
確かに心の片隅に残って折、心の宝物かしら、と微苦笑している。

昼下りのひととき、【YouTube】のサイトを開き、
《 あなたへのおすすめ (すべてを表示) 》のコーナーを見て、少し驚ろいたのである・・。
「シャンソンの殿堂 銀巴里」1/3
と題された曲が紹介されて、私自身のプログ・サイトに『銀巴里』のことも綴って折、
何よりも、【YouTube】のサイトで、私がシャンソンの名曲を数多く視聴してきたので、
【YouTube】のシステムの検索の結果として、
《 あなたへのおすすめ (すべてを表示) 》にで於いて、選定されたと理解したのである。
この後の私は、「シャンソンの殿堂 銀巴里」の三篇を視聴し、
微笑みながらも少しため息もし、苦笑したりした。
http://www.youtube.com/watch?v=l4sl0g9v4W0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=rhT4R-dufG0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=ZwooRF9T5qA&feature=related
この後、私は『銀巴里』に通った前、シャンソンの魅せられた初めの頃を思いだしたのである。
私はこの頃の思いとして、2005年5月21日に於いて、
【 『ナントに雨が降る』の想いで・・♪ 】
と題して、投稿しているが、あえて再掲載をする。
【・・
私は大学を中退し、映画、文学青年の真似事をして、あてどもない先行きが見えない生活をしていた。
養成所の講師から、ある月刊誌の記事の取材、下書きを分けて貰い、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。
確固たる根拠もなく、その後もアルバイトをしながら、小説の習作していたが、
幾度も小説新人の応募で最終候補作に漏れ、
ある年のお彼岸の懇親の折、親戚の小父さんから、
『30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と結婚した時に家庭を築き妻子を養えるかと素朴に叱咤されると、
私は自身のつたない才能に自信を失くした。
この後は、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
大手の民間会社に中途会社にできたのは、25歳の昭和45年4月であった。
この会社は、レコード部門があり、私のたっての願いがとおり、
この部署に配置された。
その後、レコード部門のひとつが独立会社となり、
私は独立したレコード会社に移動した。
まもなくして、私はコンピューターの専門職となり、恵まれた職場の一員となった・・。
夜、残業をしていた時、
夜の闇からつぶやくような神秘性のあるフランス語が聴こえてきた。
私は仕事の手を休め、煙草を喫いながら、聴き入った・・。
♪Il plent sur Nantes
Donne-moi la main
Le ciel de Nantes
洋楽販売促進課の誰かが掛けたのだろう・・。
私はレコードプレイヤーに近ずくと、
レコードのジャケットがそばに置かれていた。
バルバラの『私自身のためのシャンソン』
とタイトルは綴られていた。
私はそれまでのシャンソンの知識は、越路吹雪、岸洋子ぐらいは知っていた。
本場のシャンソンとしては、
ダミアの『暗い日曜日』が私の先代の人たちが夢中になったり、
ジュリエット・グレコとか、やはりエディット・ピアフに尽きる、
とかはあくまで知識としてである。
このバルバラの『ナントに雨が降る』には、
私の屈折の多い青春と私自身は父親を幼児の時に死去された想いか加味され、
瞬時に魅了されてたのである。
《・・
『ナントに雨が降る』
訳詩・永田文夫
♪ナントに雨が降る
私を放ってほしい
ナントの空は 私の心を悲しくしてしまう
ちょうど一年前の
そんな朝
ナントの街は やはりどんよりとして
私が駅から出た時
今まできたことがなかった街は
私にとっては見知らぬ街
メッセージが来なければ
旅行などしなかったでしょう
”マダム、グランジュ・オー・ルー通り25番地へ
お越し下さい
忙いで! 希望はあまりありません
彼の最期の時に
あなたに会いたいといいました”
長い長い放浪の後
やっと彼は私の心の中へ戻ってき
彼の叫びは沈黙を破り・・
彼が去ってしまってから
長い間、私はこの放浪者、この不明者を
待っていた
ああ ついに彼は私のところへ戻ってきた
グランジュ・オー・ルー通り25番地
私はあの出会いをなつかしく思い出し
廊下の奥にあったこの部屋を
思い出の中に深く刻みこんだ
私が行くと、暖炉のそばに座っていた
4人の男が立ち上がり
部屋の明かりは寒くて白く
彼等は晴れ着を着ていた
その見知らぬ人たちに
何も質問せず
何も言わず、ただ彼等をみただけで
私はすでにもう遅すぎたことが解った
それでも私はそこにいた
グランジュ・オー・ルー通り25番地に
彼はもう決して私に会うことなく
すでに世を去っていた
さあ これがあなたの知っている物語
彼がある晩戻ってきて
それが彼の最後の旅
最後の岸辺になってしまった
彼が死ぬ前に
私の微笑で暖まりたがっていた
けれどその夜のうちにこの世を
去ってしまった彼
別れの言葉も ”ジュ・テーム”もいわないで・・
海に続く道にある
石の庭に横たわって
安らかに眠ることを祈ります
私は彼をバラの花の下に横たえた
神よ、神よ・・
ナントに雨が降る
そして私は思い出す
ナントの空は
私の心を悲しくしてしまう・・
・・》
http://www.youtube.com/watch?v=DXYiTu9tzEU&feature=related
この歌は、父の死をしみじみバルバラ自身が綴り、唄ったものである。
この時のレコードから聴こえたのは、
フランスの原語であったが、何となく歌詞の概要は解り、職場であったが、目頭が熱くなった。
その後、バルバラに傾倒して、
アルバムのレコードが12枚聴き込んだころになると、
『黒いワシ』の異色作品を携え、日本に来日した。
日生ホールで公演され、私は駆けつれて、観たのである。
いずれにしても、このバルバラの『ナントに雨が降る』が
シャンソンに傾倒する10年の始まりだった・・。
・・】
私はこのようにバルバラに魅せられたシャンソンに物狂いとなり、
数多くのシャンソンを唄われる方たちのレコードを購入したり、
『銀巴里』に通ったりしたのである。
この時の想いは、その後の新婚時代の時のことは、
【 そして、あの時、貴女は・・♪ 】
と題して、このサイトの2009年3月8日に投稿しているが、再掲載する。
【・・
東京郊外の調布市は、どんよりとした曇り空で朝を迎えている。
夕方からは雨となる、と地元の天気情報が報じられている。
私はぼんやりと、庭のテラスに下り立ち、
煙草を喫いながら、白梅、紅梅の大半散った花を眺めたり、
日本水仙を眺めたりしていた。
そして、どうした心境か解からないが、ひとつの歌が私の心を占領したのである。
♪静かな雨 並木の雨
あなたを待つ 胸に降る
【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三】
私は心の中で唄いだした・・。
♪流れる唄 懐かし唄
夢をささやく あのメロディー
【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三】
私は自分自身、どういう心情で唄いだしたのか、解からなかった。
♪いつの日にか また逢いみん
溢れくるわ 涙
【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三】
私は定年退職後の5年生であるが、
ふと遠い昔の日々が甦(よみがえ)ったのである・・。
37年前の前後、この頃の私は銀座の一角にある『銀巴里』に行き、
数多くのシャンソン歌手が近くで唄われるのを、
私はコーヒーを飲みながら、名曲の数々を聴いたりしていた。
そして、近くにあるカフェ・バー形式のような『蛙たち』にも行き、
私は濃い目の水割りのウィスキーを呑みながら、数多くのシャンソン歌手が唄われるのを、
聴き惚れ、心酔していた時期であった。
銀座でなかった場合は、
渋谷の外れのカンツォーネ、シャンソンを聴かせてくれる所で、
食事兼オンザ・ロックのウィスキーを呑んだりしていた・・。
この後、家内と結婚前に交際していた時も、
この『銀巴里』とか、『蛙たち』にも行ったりしていた。
新婚まもない時、東急ホテルの小さなレストランで、
デイナー形式でシャンソンを聴きながら、夕食を頂くのに、私達は参加した。
歌い手は私が魅了されている金子由香里さんで、
家内に『銀巴里』、『蛙たち』と違った面がこのお方は表現できる人であり、
せひ観て欲しかったのである。
3曲を唄った後、ボーイさんがリクエスト曲の用紙を廻してきた・・。
私は万年筆で、『小雨降る径』と書き込んだ。
20分過ぎた頃、リクエストの3番目として、
『どなた様が・・この《小雨降る径》をリクエストして下さったのでしょうか・・』
とこのお方は言った。
私は少し恥ずかしげに、片手を少し挙(あ)げた。
このお方は少し驚いた表情されたが、唄いだした・・。
この後、数曲唄われた後、私達のテーブルに近寄ってきた。
『今晩・・来て下さって・・
あたくしの歌を・・よく聴いてくださる方よねぇ・・』
と私に向って、このお方は言った。
私はカフェ・バーの『蛙たち』などにも、よく通ったので、
ときおりリクエストなどをしていたのであった。
そして、このお方は、
『あなた方・・お若くて・・
これからの人生・・何があろうとも・・
お互いに思いやりがあれば・・大丈夫だから・・』
と微笑みながら、このような意味合いの言葉を私達に言った。
私は、人生の駆け出しのあどけない私達を観て、
慰めと励ましでわざわざ、私達のテーブルに寄って下さった、
と思ったりしている。
このようなささやかな思いでが私達夫婦にはあったので、
どんよりとした曇り空、いつ雨が降ってもおかしくない情景なので、
このような心の片隅にあることが想いだされたのかしら、
と感じたりしたのである。
そして、若き日々人生を歩みだした時、
『小雨降る径』をリクエストしたのだから、
この頃の私は人生に気負っていたのかしら、と先程から苦笑したりしている。
・・】
このように金子由香里さんの唄声に熱愛したこともあった。
そして、シャンソンに関しての最新としては、
このサイトの2009月3月28日に於いて、
【 戸川昌子の『リリー・マルレーン』の名曲を久しぶりに聴いて・・♪ 】
と題して、投稿しているが、再掲載をする。
【・・
私は東京郊外に住む64歳の年金生活の身であるが、
午後のひととき、【YouTube】を開き、
シャルル・アズナヴールの『帰り来ぬ青春』、『遠い想い出』、『イザベル』、
『ボエーム』、『愛のために死す』等を視聴したりした。
この後、エディト・ピアフの『水に流して』などを聴いたりしたが、
この曲も数多くの歌手に歌い継がれている。
日本の私にとっては未知の歌手も唄って折、
私は視聴した後、この方は『リリー・マルレーン』の曲も唄っていたので聴いたりした・・。
『リリー・マルレーン』の名曲に関しては、
フリー百科事典として名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』に於いて、
【・・
『リリー・マルレーン』(Lili Marleen)は、第二次世界大戦中に流行したドイツの歌謡曲。
1915年にロシアへの出征を前にドイツの詩人ハンス・ライプ (Hans Leip) が
ベルリンのある兵営の営門に歩哨に立った時に
創作した詩集 "Das Lied eines jungen Soldaten auf der Wacht" に収録されていた詩をもとに、
第二次世界大戦直前の1938年に、作曲家ノルベルト・シュルツェ (Norbert Schultze) が曲をつけ、
歌手のララ・アンデルセンが歌った。
歌詞は、兵営の大門の前に街灯が立っている。
そこで恋人と再会したいと熱い思いを歌ったものである。
男性の気持ちを歌った詩であるが、女性歌手によって歌われることが多い。
第二次世界大戦下では、21時57分にベオグラードのドイツ軍放送局から流れるこの歌に、
多くのドイツ兵が、戦場で耳を傾け故郷を懐かしみ、涙を流したといわれている。
また、ドイツ兵のみならずイギリス兵の間にも流行したため、
北アフリカ戦線のイギリス軍司令部は同放送を聞くことを禁じた。
日本ではベルリン出身のハリウッド女優、マレーネ・ディートリッヒの持ち歌として知られている。
第二次世界大戦当時、ナチス政権下のドイツを離れ、
アメリカの市民権を得ていたディートリヒは進んで連合軍兵士を慰問、この歌を歌った。
このためにドイツでは彼女は敵側の人間(反逆者)と見なされ、戦後も不人気であった。
・・】
このように解説されているが、
私はマレーネ・ディートリッヒに敬意しながら、彼女の歌声に心酔した後、
著名な海外の歌手の3名のお方のも視聴したりした。
この後、日本語も聴きたくなり、
【YouTube】の検索で、戸川昌子、とキーインしたら、
数々の歌曲が明示されたので、驚いたのである。
♪ いくさに行く前の夜
子どものように泣きじゃくり
私の名前をあなたはつぶやく
※いとしいリリー・マルレーン
いとしいリリー・マルレーン
【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】
私は37年前の前後、この頃の私は銀座の一角にある『銀巴里』に行き、
数多くのシャンソン歌手が近くで唄われるのを、
私はコーヒーを飲みながら、名曲の数々を聴いたりしていた。
そして、近くにあるカフェ・バー形式のような『蛙たち』にも行き、
私は濃いめ水割りのウィスキーを呑みながら、数多くのシャンソン歌手が唄われるのを、
聴き惚れ、心酔していた時期であった。
このした中で、フランスはもとより、日本の方の唄ったシャンソンのアルバムを購入し、
シャンソンに無我夢中の時期であった。
アルバムの中で、日本人の中では、特に金子由香里さんに熱中していた。
『時は過ぎていく』、『ミラボー橋』、『スカーフ』、『愛の砂漠』等の50数曲に、
まぎれなく時を忘れたくらいに熱愛したのである。
こうした時に、東芝レコードから、戸川昌子の『失くした愛』と題されたアルバムを知り、
購入して聴いたのであるが、仰天したのである。
私は戸川昌子さんに関しては、推理分野を書く小説家であり、数作品は読んでいた折、
以前に『銀巴里』で唄っていた、この程度しか知らない私であったが、
桁外れに上手いのである。
♪ 窓の下を兵隊の
長い列が町を出る
私を見あげてあなたは叫んだ
※(くりかえし)
【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】
この『リリー・マルレーン』は『失くした愛』と題されたアルバムの中のB面の一曲目に収録されてあるが、
この曲はもとより、『私はひとり片隅で』、『金曜日の晩に』、『暗い日曜日』、
『人の気も知らないで』、『ボンボヤージュ』等12曲であるが、
深く魅了されて、人生の姉貴である、と敬意したのである。
♪ 夜空の下鉄砲を
抱えたまま眠る歌
汚れた私の写真を取り出し
※(くりかえし)
【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】
こうして、『失くした愛』と題されたアルバムを百回前後、
レコード・プレイヤーで聴いたりしている間に、
私はレコード会社の本社でコンピュータの専任者で管理畑の身であったが、
洋楽の編成者、責任者に、
『東芝レコードで・・シャンソンで戸川昌子さんの今度のアルバム・・
凄いですよ・・私はシャンソンが好きなので良く聴きますが・・
桁外れに上手いです・・』
と他社のアーティストであったが絶賛し、友人にも話したりしていた。
♪ 地獄のような戦いに
身を捧げて傷ついて
倒されたあなたは最後に叫んだ
※(くりかえし)
【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】
私は35歳を過ぎた頃、他の分野の音楽に夢中になったが、
ほぼ10年間にシャンソンに熱中し、アルバムとして150枚ばかり残った時、
私にとってはピアフ、バルバラはもとより最上の神であるが、
日本語で唄われたシャンソンは、戸川昌子さんの『失くした愛』が傑作であり、
私はつたない観賞歴であるが、これ以上のアルバムは知らない。
♪ 平和の日は来たけれど
あなたはまだ帰らない
瞳を閉じれば聞こえるあの声
【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】
http://www.youtube.com/watch?v=HoBb5QJRs0c
このようなことを思い重ねて、私は2回ばかり、
20年ぶりに聴いたりした・・。
そして、私は齢を重ねた64歳の身となったが、
今でも戸川昌子さんの『リリー・マルレーン』の唄声を聴くと、
まぎれなく人生の姉貴だ、と感じたのである。
・・】
このように戸川昌子さんの唄歌に心酔し投稿したのであるが、
改めて振り返れば、これまでの私の人生に於いては、シャンソンの限りなく深い百数十曲が
確かに心の片隅に残って折、心の宝物かしら、と微苦笑している。
