私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
今朝、何気なしにカレンダーを見ると、『七夕』と明示されていたので、
きょうは『七夕(たなばた)の日』だったか、と教えられたりしたのであった。
そして、私は改めて由来などを知りたくて、
日頃何かとネット上で頼りにしている【日本文化いろは事典】のサイトを開き、
確か七夕は『五節句』のひとつと思いながら、検索したのである・・。
この結果、下記のように優しく解説されていたので、私は読み込んだ。
《・・
七夕〔たなばた〕とは「7月7日の夕方」を意味しています。
七夕行事は、中国に古くから伝わる牽牛・織女星の伝説から発達した乞巧奠〔きこうでん〕の行事に、
日本古来の棚機津女〔たなばたなつめ〕の信仰が混ざり合って形成されたものでした。
織姫と彦星が逢瀬を重ねる日
7月7日は、織姫と彦星が逢瀬を重ねるのを星を見守る日として知られています。
この日、芸技が上達するように、出会いがありますようにという願いを
詩歌にした短冊を竿竹にくくりつけると祈りが届くとされています。
また、この時期はお盆(旧7月15日)を迎えるための準備(七夕盆)としての意味をもち、
畑作の収穫祭を祝う祭りが人々の間で行われていました。
この時、健康を祈り素麺の元となったお菓子「索餅〔さくべい〕」が食べられていました。
索餅は熱病を流行らせた霊鬼神が子供時代好きな料理で祟りを沈めるとされていました。
やがて、索餅は舌触りのよい素麺へと変化し、
七夕に素麺を食べるようになったそうです。
七夕と機織娘
日本では古来より、「棚機つ女」といわれる女性が、機〔はた〕で織った布を神におさめ、
病気や災厄が起こらないように願ったという話がありました。
7月7日〔しちせき〕を「たなばた」と呼ぶのは、この「棚機つ女」がもとになっています。
そして、中国の文化に強く影響を受けた平安貴族たちは、
竹竿に糸をかけて願いを星に祈るとかなえられるという乞巧奠の習わしに従い
梶の葉に歌を書き付けて手向ける「星祭り」を行うようになりました。
その後、乞巧奠が大衆の間にも広まり、
やがて棚機つ女と結びつき現在のように7月7日の七夕となっていったようです。
江戸時代に入ると、短冊に詩歌を書き、
笹竹に軒先に立てる風習が寺子屋の普及とともに浸透していきました。
明治になり、各地の商店街などで大規模な七夕祭りが開かれるようになり、
さらに一般の人々の風習として広まっていったようです。
各地の七夕伝説
7月のはじめ頃に竹に願い事を書いた短冊を作ります。
短冊を軒下に飾るのは6日の夜で、
7日は七夕飾りを海や川へ流して神様に持ち去ってもらいます。
現在は環境汚染問題から川に流すことは困難である為、
神社で燃やしてもらうのが一般的なようです。
(略)
・・》
注)解説された原文より、あえて改行を多くした。
http://iroha-japan.net/iroha/A03_goseku/04_tanabata.html
このように優しく解説されていたので、齢ばかり重ねた私は、
こうした由来があったのか、と遅ればせながら教示されたのである。
そして、私は幼年期に七夕の飾り、短冊のことを思いだされた・・。
この思いでに関しては、このサイトに於いて、
【 私の幼年期、七夕(たなばた)の想いで・・♪ 】
と題して、昨年の7月7日に投稿しているが、再掲載をする。
【・・
私は昭和19年の秋、東京の郊外で農家の三男坊として生を受けた。
祖父と父が中核となり、程々に広い田畑を小作人の手を借りながら、
農家を営んでいた・・。
敗戦後、農地改革などである程度は狭まったが、
それなりに旧家として維持されていた。
そして、七夕(たなばた)に関しては、
私が小学生の頃まで、自宅の庭の隅に竹に短冊を吊るす慣わしだった。
東京の都心は、もとより7月7日が『七夕(たなばた)の日』であったが、
郊外の付近の一部の地域では一ヶ月遅れの8月7日であった。
孟宗竹の今年成長した5メートル前後の若竹を一本伐って、
杭を打ち、安定させていた。
父の末妹の叔母が嫁ぐ前だったので、お正月の小倉百人一首と同様に、
叔母の指導の下で、私は妹と飾りだてをした。
そして私が小学2年の3学期、父に死去され、
その後、まもなくした3年生の5月に祖父が亡くなった。
農家の大黒柱の2人が亡くなり、母と叔母、
そして長兄、次兄、私、そして妹の2人が残されたが、
農業の技量、大人の男手を失くしたので、我家は没落しはじめた・・。
私はこの後、学校に行くと、担任の女の先生から、職員室に呼ばれた。
『XXくん、貴方のお父さん、お祖父さんも亡くなってしまい、
可哀想だか・・貴方、男の子でしょう・・
お母さんに心配させるようなことは・・分かっているわよね・・』
と私に云った。
そして
『男の子は、頑張るのよ・・』
と私に握手してくれた。
私は、その夏、短冊に書こうとしたが、少しためらっていた・・。
《 せんせい、あくしゅもいいけど、
だきしめてほしい・・ 》
叔母や妹が短冊に何かしら綴っているので、私は本心を書けなかった。
そして私はやむえず、
【 せいせいもげんきで
ぼくもがんばります 】
と何とか読める汚い字で書いた。
短冊を吊るしている時、叔母が、
『どういうこと・・』
と私に云った。
『何でもない・・何となく・・』
と私は下を向きながら答えた。
私は小学生の時は、兄達は優等生で、
私はいじけた劣等生で可愛げもない児であったが、
齢を重ねた63歳の今、
それなりに苦くも懐かしい想いでとなっている。
・・】
このように投稿していたのであった。
そして、短冊に関しても、10数年前のことであるが、私は深い思いで、
今でも鮮明に私の心の片隅に残っている。
このことも、このサイトに於いて、
【 改めて、ある短冊の想いで・・♪ 】
と題して投稿していたが、改めて再掲載をする。
【・・
10数年前、私は現役のサラリーマンで数多くの人と同様に、多忙な時期であった・・。
春先に大幅な人事異動であり、私も異動し、ある部署に落ち着いたと感じた夏休みに、
家内と宮城県の作並温泉に3泊4日で滞在した。
上野駅から仙台駅までの新幹線は、わずか2時間ばかり、
そして在来線に乗り継ぎ作並駅まで1時間弱で、
駅前から観光ホテルの迎えのマイクロバスで到着した。
http://www.ichinobo.com/sakunami/
そして、私達はホテルの周辺のラベンダーの丘陵、渓流で魚釣りをしたり、散策をしたりし、
のんびりと過ごしていた。
翌日のひととき、ホテルのロビーの一角に、
3メートル前後の竹に5色の短冊が飾り付けられていたことに気付いた。
私は昼の風呂上り、何気なしロビーの一角を歩いていた時、
この短冊を何気なしに読んだのである・・。
数多くの短冊を読んだが、ひとつの短冊に心を惹(ひ)かれた・・。
《 らいねんもこのホテルに
家族そろってこられますように 》
と小学生の上級生の女の子らしい綴りで書かれていた。
私は作並温泉に訪れる途中で、
仙台市内の華麗で豪壮な七夕(たなばた)を少し観えたが、
この女の子のひとつの短冊に籠(こ)められた願いが心に沁みた。
そして私は華美な仙台の七夕より、遥かにこの短冊に魅了され、
この人生の微笑みを頂き、心を寄せたのである。
・・】
このように投稿していたが、こうした情愛が私にとっては限りなくいとおしく、
華美な飾りより、遥かな尊ぶ心は64歳の今でも変わらない、
と少しボケた身であるが微笑んだりしている・・。
a href="http://www.blogmura.com/">
今朝、何気なしにカレンダーを見ると、『七夕』と明示されていたので、
きょうは『七夕(たなばた)の日』だったか、と教えられたりしたのであった。
そして、私は改めて由来などを知りたくて、
日頃何かとネット上で頼りにしている【日本文化いろは事典】のサイトを開き、
確か七夕は『五節句』のひとつと思いながら、検索したのである・・。
この結果、下記のように優しく解説されていたので、私は読み込んだ。
《・・
七夕〔たなばた〕とは「7月7日の夕方」を意味しています。
七夕行事は、中国に古くから伝わる牽牛・織女星の伝説から発達した乞巧奠〔きこうでん〕の行事に、
日本古来の棚機津女〔たなばたなつめ〕の信仰が混ざり合って形成されたものでした。
織姫と彦星が逢瀬を重ねる日
7月7日は、織姫と彦星が逢瀬を重ねるのを星を見守る日として知られています。
この日、芸技が上達するように、出会いがありますようにという願いを
詩歌にした短冊を竿竹にくくりつけると祈りが届くとされています。
また、この時期はお盆(旧7月15日)を迎えるための準備(七夕盆)としての意味をもち、
畑作の収穫祭を祝う祭りが人々の間で行われていました。
この時、健康を祈り素麺の元となったお菓子「索餅〔さくべい〕」が食べられていました。
索餅は熱病を流行らせた霊鬼神が子供時代好きな料理で祟りを沈めるとされていました。
やがて、索餅は舌触りのよい素麺へと変化し、
七夕に素麺を食べるようになったそうです。
七夕と機織娘
日本では古来より、「棚機つ女」といわれる女性が、機〔はた〕で織った布を神におさめ、
病気や災厄が起こらないように願ったという話がありました。
7月7日〔しちせき〕を「たなばた」と呼ぶのは、この「棚機つ女」がもとになっています。
そして、中国の文化に強く影響を受けた平安貴族たちは、
竹竿に糸をかけて願いを星に祈るとかなえられるという乞巧奠の習わしに従い
梶の葉に歌を書き付けて手向ける「星祭り」を行うようになりました。
その後、乞巧奠が大衆の間にも広まり、
やがて棚機つ女と結びつき現在のように7月7日の七夕となっていったようです。
江戸時代に入ると、短冊に詩歌を書き、
笹竹に軒先に立てる風習が寺子屋の普及とともに浸透していきました。
明治になり、各地の商店街などで大規模な七夕祭りが開かれるようになり、
さらに一般の人々の風習として広まっていったようです。
各地の七夕伝説
7月のはじめ頃に竹に願い事を書いた短冊を作ります。
短冊を軒下に飾るのは6日の夜で、
7日は七夕飾りを海や川へ流して神様に持ち去ってもらいます。
現在は環境汚染問題から川に流すことは困難である為、
神社で燃やしてもらうのが一般的なようです。
(略)
・・》
注)解説された原文より、あえて改行を多くした。
http://iroha-japan.net/iroha/A03_goseku/04_tanabata.html
このように優しく解説されていたので、齢ばかり重ねた私は、
こうした由来があったのか、と遅ればせながら教示されたのである。
そして、私は幼年期に七夕の飾り、短冊のことを思いだされた・・。
この思いでに関しては、このサイトに於いて、
【 私の幼年期、七夕(たなばた)の想いで・・♪ 】
と題して、昨年の7月7日に投稿しているが、再掲載をする。
【・・
私は昭和19年の秋、東京の郊外で農家の三男坊として生を受けた。
祖父と父が中核となり、程々に広い田畑を小作人の手を借りながら、
農家を営んでいた・・。
敗戦後、農地改革などである程度は狭まったが、
それなりに旧家として維持されていた。
そして、七夕(たなばた)に関しては、
私が小学生の頃まで、自宅の庭の隅に竹に短冊を吊るす慣わしだった。
東京の都心は、もとより7月7日が『七夕(たなばた)の日』であったが、
郊外の付近の一部の地域では一ヶ月遅れの8月7日であった。
孟宗竹の今年成長した5メートル前後の若竹を一本伐って、
杭を打ち、安定させていた。
父の末妹の叔母が嫁ぐ前だったので、お正月の小倉百人一首と同様に、
叔母の指導の下で、私は妹と飾りだてをした。
そして私が小学2年の3学期、父に死去され、
その後、まもなくした3年生の5月に祖父が亡くなった。
農家の大黒柱の2人が亡くなり、母と叔母、
そして長兄、次兄、私、そして妹の2人が残されたが、
農業の技量、大人の男手を失くしたので、我家は没落しはじめた・・。
私はこの後、学校に行くと、担任の女の先生から、職員室に呼ばれた。
『XXくん、貴方のお父さん、お祖父さんも亡くなってしまい、
可哀想だか・・貴方、男の子でしょう・・
お母さんに心配させるようなことは・・分かっているわよね・・』
と私に云った。
そして
『男の子は、頑張るのよ・・』
と私に握手してくれた。
私は、その夏、短冊に書こうとしたが、少しためらっていた・・。
《 せんせい、あくしゅもいいけど、
だきしめてほしい・・ 》
叔母や妹が短冊に何かしら綴っているので、私は本心を書けなかった。
そして私はやむえず、
【 せいせいもげんきで
ぼくもがんばります 】
と何とか読める汚い字で書いた。
短冊を吊るしている時、叔母が、
『どういうこと・・』
と私に云った。
『何でもない・・何となく・・』
と私は下を向きながら答えた。
私は小学生の時は、兄達は優等生で、
私はいじけた劣等生で可愛げもない児であったが、
齢を重ねた63歳の今、
それなりに苦くも懐かしい想いでとなっている。
・・】
このように投稿していたのであった。
そして、短冊に関しても、10数年前のことであるが、私は深い思いで、
今でも鮮明に私の心の片隅に残っている。
このことも、このサイトに於いて、
【 改めて、ある短冊の想いで・・♪ 】
と題して投稿していたが、改めて再掲載をする。
【・・
10数年前、私は現役のサラリーマンで数多くの人と同様に、多忙な時期であった・・。
春先に大幅な人事異動であり、私も異動し、ある部署に落ち着いたと感じた夏休みに、
家内と宮城県の作並温泉に3泊4日で滞在した。
上野駅から仙台駅までの新幹線は、わずか2時間ばかり、
そして在来線に乗り継ぎ作並駅まで1時間弱で、
駅前から観光ホテルの迎えのマイクロバスで到着した。
http://www.ichinobo.com/sakunami/
そして、私達はホテルの周辺のラベンダーの丘陵、渓流で魚釣りをしたり、散策をしたりし、
のんびりと過ごしていた。
翌日のひととき、ホテルのロビーの一角に、
3メートル前後の竹に5色の短冊が飾り付けられていたことに気付いた。
私は昼の風呂上り、何気なしロビーの一角を歩いていた時、
この短冊を何気なしに読んだのである・・。
数多くの短冊を読んだが、ひとつの短冊に心を惹(ひ)かれた・・。
《 らいねんもこのホテルに
家族そろってこられますように 》
と小学生の上級生の女の子らしい綴りで書かれていた。
私は作並温泉に訪れる途中で、
仙台市内の華麗で豪壮な七夕(たなばた)を少し観えたが、
この女の子のひとつの短冊に籠(こ)められた願いが心に沁みた。
そして私は華美な仙台の七夕より、遥かにこの短冊に魅了され、
この人生の微笑みを頂き、心を寄せたのである。
・・】
このように投稿していたが、こうした情愛が私にとっては限りなくいとおしく、
華美な飾りより、遥かな尊ぶ心は64歳の今でも変わらない、
と少しボケた身であるが微笑んだりしている・・。
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