夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

パティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』、私の若き彷徨期に於いて、思いでのひとつの歌・・。

2011-11-05 21:22:53 | 青年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昼下がりのひととき、ラジオからパティ・ペイジの唄歌が聴こえ、『テネシー・ワルツ』の歌だと気付いた・・。

そして、しばらくすると、私の若き日々の頃が想いだされた・・。


私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
二十歳になった私は大学を中退して、映画・文学青年の真似事をした。

まもなく銀座の松屋の裏手にあった俳優・演出・シナリオ等の養成所があり、
私はシナリオライターを目指していたので、
確か俳優コース、演出コースの中で、演出コースに所属し、シナリオの習作を学んでいたのである。

この養成所からの斡旋で、アメリカのテレビ劇の出演のアルバイトをしたり、
講師がある大手の月刊誌の連載を契約していたので、
私は取材をして下書きして、講師からいくばくかのお金を頂いたり、
新劇のある劇団の人たちの紹介も受けたりしていた。

この中の60歳前後で新劇の著名な方で、映画にときおり準主役に出演される方から、
映画の製作は縮小される昨今、ますます君のようなシナリオライター希望は厳しいょ、
同じ創作されるのであるならば、小説もひとつの方向だね、
と教示されたことがあった。

確かに映画の製作は縮小されるし、企画が通っても共同作業だし、
その上、何かと制約もあることだしと思いながら、小説の習作をはじめ、
これまでの交流関係の人たちから私は絶ったのである。


そして新聞の人事募集を見て、ある警備会社に契約社員として採用されたのは、
1968(昭和43)年の初春であった。

この警備会社の派遣先は、新宿から10分たらず駅に隣接した大きなショピング・センターであった。
商店街の再開発の一端で、時計・宝石店、本屋、レコード店、毛糸・手芸屋、紳士服店、婦人服店、
パン屋、お菓子屋、魚屋、肉屋など昭和40年の初めの頃に大きな商店街に観られる状態を
小奇麗なビルの場所に移転集約したようなショピング・センターであった。

私の勤務体制は朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そしてショピング・センターの営業時間は、朝の10時に開店し、
夜の8時に閉店していた。

私が朝の9時に警備室に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりしたのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したのである。

学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

こうした心情があったりしたが、私は勤務時間の表面上は明るく振舞っていた。

こうした間、私が勤めて半年過ぎた頃、閉店まぎわに『テネシー・ワルツ』が流れてきたのに、
気付いたのである。
レコード屋であり、日中はこの頃流行っていた千昌夫の『星影のワルツ』が盛んに流れていたが、
10数年前の小学生だった私がラジオから盛んに流れていた『テネシー・ワルツ』を、
今頃に、どうしてなの、と私は不思議に思ったりしたのである。


このレコード屋さんは40代の男性が経営者であり、
35歳前後の女性が常駐し、ときおり経営者が来店して、お客さんが居ない時、
この店員さんである35歳前後の女性と談笑をしたりしていた。

この35歳前後の女性は、背の高い理知的な人で、
私に明るい笑顔を見せながら、挨拶をされる方であった。

閉店まぎわになると、店の周囲をカーテンで閉めながら、
少し沈んだような表情で『テネシー・ワルツ』をプレイヤーでかけていたのである。


この間、私はこのビルの上階にある名の知れた大手の民間会社の女事務員の方と顔なじみとなり、
交際をはじめて数ヶ月頃、この女事務員のお宅に招待されたのである。

結果としては、この方の父はある官庁の課長をされている方であり、
大学中退でフラフラした挙句、警備員などで契約社員のくせに、
将来性が全く見込めない私に娘との交際は許さない、
と後日にこのような意味合いの電話を頂き、そして私達はきまづくなり、私は失恋したのである。


このような状況の時、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたのである。

私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、と進路を大幅に変えたのである。


やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
私は民間会社に中途入社する為、コンピューターの専門学校で一年ばかり学んだ後、
知人のご尽力もあり、ある大企業に中途入社ができたのである。

この後、2年後にあるレコード会社の本社で情報畑に勤務し、
夜の8時過ぎに隣席に近い販売促進の人が、
たまたまパティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を聴いていたのである。

私は微苦笑しながら、警備員の時代で知り合ったレコード店の女性を思い浮かべたのである。
『上の階の女性との貴方の交際・・偶然に見かけてしまったの・・
あの方は気付いて、過日、私に事情を話されたのょ・・
私・・人生経験あなたより豊富でしょう・・ご免なさい、生意気言って・・
あなたはお若かいのだから・・警備員などでくすぶっては駄目ょ・・
もっと社会の第一線に出て・・溌剌としてほしいわ・・
あなたの齢だったら、充分やり直しができるわ・・』
と閉店した後のレコード店の少し暗くなった店先で、私は言われたのである。

私はこうした人生の激励を受けたりし、何とか社会人のひとりなり正社員で奮闘し勤務していたが、
煙草を取りだし喫いながら、この人を思い浮かべると、煙が目にしみたようになった。


こうして私は綴っているが、パティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を聴いたりすると、
今だに私はこの人の表情が浮かぶのである。


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『ワンピース』の第64巻、書籍史上初めて400万部に、読書好きな私は驚きながら、そして・・。

2011-11-05 09:21:54 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳となった身であるが、
昨夜、読売新聞の夕刊を読んでいたら、14面にある記事のひとつに動顚させられた・・。

《 ワンピース 初版400万部
                第64巻、書籍史上最多 》

という見出し記事であり、ここ10数年に出版業界は不況と学んだりしている私は、
ほんと~う、どうして、と読書好きな私は思いながら記事を精読したのである。

無断ながら、この記事を転載させて頂く。

《・・
4日に発売された尾田栄一郎さんの漫画単行本「ONE PIECE」第64巻(集英社)の初版発行部数が、
日本の書籍史上初めて400万部に達したことが分かった。

同作は、2010年3月の第57巻で、
「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」(静山社、上下巻)の持つ初版部数記録290万セットを抜く300万部台に到達。

東日本大震災後の今年5月を除き新刊発売のたびに初版部数をアップさせ、
1年8か月で100万部上積みした。

集英社によると、1巻からの累計発行部数は2億5000万部以上。

2011年11月4日 読売新聞の夕刊 
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は遅ればせながら高校生の初めに、読書の底知れぬ魔力に取りつかれて小説、随筆など乱読し、
年金生活の今でも、日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
本屋に寄ったり、ときには古本屋に行き買い求めている。

そして出版業界は長年に不況であると学ぶと、
数多くの人たちが携帯電話でたわむれ時間があったならば、
もっと読書をされる方が、遥かに後年に自身を高められる、と余計なお節介を感じている。

こうした中で、たとえ漫画単行本であっても、初版発行部数の400万部は驚異である。
デフレ経済が続くと、何かと人々は一極集中になる、
と35年近く音楽業界のあるレコード会社の管理、情報畑に勤めた私の哲学のひとつであるが、
少しでも出版業界の売上に貢献できる作品で良かった、と喜んでいる。


恥ずかしながら私が漫画単行本『ONE PIECE』の名を知ったのは、
昨年の2010年11月1日であり、この時の心情は、
【 『ONE PIECE』・・何なの、と高齢者の私は心の中で呟(つぶや)き・・。】
と題して、このサイトに投稿し、発露している。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の66歳の身であるが、
朝のひととき、ネットでニュースを見ようと【YAHOO! JAPAN】を開き、

《 ONE PIECE 累計2億部突破へ 》

と題された見出しを見て、恥ずかしながらONE PIECE、という言葉は知らなかったのである。

私は何事も好奇心を失くしたら、この人生は終わりだ、という信念の持ち主であるので、
こっそりとクリックした。

無断ながら、記事の大部分を転載させて頂く。

《・・
        <ワンピース>60巻で累計2億部突破 初版340万部は5度目の日本記録更新
                         
                               まんたんウェブ 11月1日(月)4時1分配信

「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載中の尾田栄一郎さんのマンガ「ONE PIECE(ワンピース)」の
コミックス60巻(4日発売)の初版発行部数が340万部となり、
シリーズ累計で2億部を突破することが11月1日、明らかになった。
初版発行部数でも自身の持つ日本記録を5巻連続で更新する。

「ワンピース」は、手足が伸びるゴムのような体になってしまった少年ルフィが、
海賊王になるため、3本の刀を使う剣士ゾロや、女航海士のナミらと大海原を冒険する……という物語。

1997年の「週刊少年ジャンプ」34号から連載、1999年からアニメも放送され、世界的な人気作となった。
今年10月から完結へ向けた「最後の海 新世界編」がスタートしている。

60巻は、ルフィの義兄エースを失った「頂上戦争」と、
エース、サボ、ルフィの少年時代のエピソードが描かれる。

(略)

(毎日新聞デジタル)最終更新:11月1日(月)4時1分
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は「ワンピース」というのは、漫画の作品のひとつかょ、と思ったりしながら初めて学んだのである。

私は昨今は漫画は見ないし、確か漫画を読んだのは、
小学生の5年生の1956(昭和31)年の頃、漫画の月刊誌の『少年画報』を購入して愛読した。

その後は、1970年(昭和45年)前後に、散髪屋(理容店)に行って、待合室で待機している時に、
漫画の月刊誌名は忘れたが、『あしたのジョー』だけは、読んだりしていた。

そして、1990(平成2)年の前後に、
『美味(おい)しんぼ』の漫画の単行本を少なくとも20数冊は買い求めて、熱読した。

この程度が私の漫画のささやかな軌跡であり、
『ワンピース』は漫画の作品で大ヒットを重ね、アニメも放送され、世界的な人気作となった、
と学んだのである。

そして日本が世界に発信する創作分野としては、もとより小説、映画などがあるが、
漫画はアジアをはじめ、欧米の一部でも、言葉は翻訳され愛読されている、
と私は少し知っているので、今回のニュースは喜ばしい限りである、と私は感じたりしている。
・・】

このように短かな私の心情を発露していて、今の私は微苦笑をしている。

余談であるが、このような驚異的な発行部数は、できうれば、
作家・塩野七生(しおの・ななみ)さんが渾身された作品のひとつ『ローマ人の物語』があるが、
この作品は1992〈平成4〉年より、年一冊のペースで執筆し、
2006〈平成18〉年に『第15巻 ローマ世界の終焉』にて完結した名作がある。

或いは文庫版に於いても、2002〈平成14〉年から2011(平成23)年にかけ、
新潮文庫で単行本1巻を2冊から4冊に分け刊行され、文庫版全43巻が完結した巨編である。

こうした『ローマ人の物語』の作品が、『ワンピース』のように多くの方が購読したならば、
少なくとも日本の政治、外交、軍事、経済に大きく変貌できるのに、
と私は秘かに願ったりしている。


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