夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

「知的能力」全盛期は50代、と67歳の私は教示されても、どうしてなの、と呟(つぶや)き・・。

2011-11-21 10:05:39 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨日の深夜、パソコンを開き、【YAHOO! JAPAN】のトップページに【トピックス】があるが、
この中のひとつの見出しに、

《 「知的能力」全盛期は50代 》

と明記されていたので、どのようなことなのかしら、と好奇心ばかり強い私は、
こっそりとクリックした・・。

《 ビジネスマン「知的能力」全盛期は50代だった! 》

と題された記事で、リクルートが発行している25歳以上の男性ビジネスマン向けのフリーマガジンで、
この雑誌の記事をウェブサイトとして、
【web R25(ウェブ アールニジュウゴ)】を命名されたサイトから配信された記事と私は解った。

私は2004〈平成16〉年の秋に民間会社を定年退職し、
その後は年金生活をし、サラリーマンを卒業したので、
もとよりビジネスマンとは疎遠になっているが、好奇心を失くしたら、この人生は終わりだ、と信念もあり、
読みだしたのである。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20111120-00000011-rnijugo-bus_all
☆【YAHOO! JAPAN】<==
     【web R25】<==《 ビジネスマン「知的能力」全盛期は50代だった! 》 ☆

記事を綴られた呉 琢磨さんに寄ると、
《・・
職場においては若手~中堅にあたるR25世代。
「働き盛り」なんて言葉もあるけれど、実際のところ、僕らが働くうえでもっとも能力が高まるのって何歳ごろなんだろう? 

職種によって異なるとはいえ、人間の能力は大別すれば「身体能力」か「知的能力」のはず。
そこでサンプルとして、両者の象徴的な職業におけるトップ集団の全盛期を探ってみた!

まずは肉体エリートの代表として、
今年度のプロ野球12球団の開幕スタメンの年齢を調べてみると、平均は29.9歳。
より運動量の多いサッカーJ1の開幕スタメン平均は26.7歳。
競技特性の違いもあるが、20代半ば~後半が身体能力のピークというのはイメージ通りかも。

それに対して、頭脳エリートの全盛期はいつ頃か。
プロ棋士のデータを見てみると、囲碁の日本七大タイトル保持者の平均年齢は意外と若く32.2歳。
将棋の七大タイトル保持者は、やや上の39.3歳だった。
肉体に依存しない知的能力は30代がピークということ?


「人間の知能構造は、記憶力や瞬間的な計算力、運動能力などを左右する『流動性知能』と、
マネジメント能力に相当する『統括性知能』、
知識や経験に相当する『結晶性知能』の3種類によって成り立っています。

流動性知能は18~25歳をピークに衰えていきますが、
統括性知性と結晶性知能は年齢を重ねるほどに伸びていき、50代でピークを迎えるんです」
と教えてくれたのは、脳神経科学を専門とする諏訪東京理科大学の篠原菊紀教授。

「立場によっても異なりますが、マネジメント的な役割が求められるビジネスマンなら、
必要なのは頭の回転の速さより、深い経験と洞察に基づいた思考力や判断力です。
ビジネスマンの脳(能)力の全盛期は50代といえるでしょうね」

ルールが複雑な現実社会のビジネスでは“年の功”が勝る領域が大きいということかも。
将来の全盛期に力を発揮すべく、多くの経験を積んでおきたいものだ。

(呉 琢磨)
web R25 11月20日(日)7時15分配信
(R25編集部)

※コラムの内容は、フリーマガジンR25およびweb R25から一部抜粋したものです
※一部のコラムを除き、web R25では図・表・写真付きのコラムを掲載しております
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


この記事を精読した後、高齢者3年生の67歳の私としては、
何かとこの人生の歩みに遅れてきた半生なので、年金生活の今が、「知的能力」全盛期と確信をしているので、
微苦笑をしたりした。

私は東京郊外の調布市の片隅の世田谷区と狛江市に隣接した地域に住み、
結婚した前後の5年間を除き、早や60年は過ぎている。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


私は1944(昭和19)年9月に、今住んでいる北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)近くの実家で生を受け、
祖父、父、母、そして父の妹の叔母2人、
長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊として乳児の時を過ごした・・。
敗戦の大戦の一年前の頃であるので、もとより戦争を知らないひとりでもある。

祖父と父が中心となり、小作人だった人たちのご厚意の手を借り、
程々の広さの田畑を耕し、宅地の周辺には竹林、雑木林があった。

長兄、次兄に続いて私は生を受けたが、跡取り候補の男の子は2人いたので、
祖父、父らは、3番目は何かしら女の子を期待していたらしかった。
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
いじけた可愛げのない劣等感のある幼年期を過ごした。

このした中で長兄、次兄は、学校の成績は優等生であり、
私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。
父が私が小学2年3学期になると、黄疸〈おうだん〉で長らく自宅治療をした後、
42歳の若さで肝臓が悪化して、病死した。
この後、まもなくして祖父は胃がんで最寄の大学病院で亡くなった。

そして、大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめたのである・・。

母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私達の兄、妹の5人の子供が残され、
私達子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。

母は私が中学校に入学した1957(昭和32)年の春、
やむなく田畑を売り、小田急線の狛江駅の近くにアパート経営をしたが、
何とか明日の見える生活となったが、学業に何かと経費を要する5人の子供がいたので、
家計は余裕もなかった。

そして私が高校に入学した1960(昭和35)年の春、
母はラブホテルのような連れ込み旅館の経営に打って出て、孤軍奮闘したので、
私達の生活は何とか普通の生活になった。


幼年期の頃、本といえば、農協の月刊誌だったと思われる『家の光』しかなく、
小学5年の時に都心から引越してきた同級生の家には沢山の本があり、
愕然としたこともあった。

私は都心の私立の高校に通い、
地元から離れ、都心の空気と兄達の影響のない高校であったので、
私なりに純粋に伸び伸びとして育ち、高校時代になって初めて勉学が楽しくなった。
そして遅ればせながら、読書にも目覚めたり、文学、歴史などに深く興味を持ち、
小説らしき習作を始めたりした。

この後、大学を中退し、アルバイトなどをしながら映画・文学青年の真似事をし、
やがて幾度も小説新人の応募で最終候補6作に漏れ、落胆し、やがて挫折した。

やむなく民間会社に中途会社にする為に、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
この当時は映像・音響メーカーのある大手の民間会社に中途会社にできたのは、
1970(昭和45)年の春であった。

そしてまもなく、この会社の中の音楽事業本部のひとつのレーベルが、
外資レコード会社として新設されて、私も異動させられた。
そして六本木にある本社でコンビュータの専任者となり、
もとより音楽業界とコンピュータ業界に関連していたので、
時代の最先端にいると勘違いしたりした。

この間、幾度も恋をしたが、失恋の方が多く困惑したり、
結婚後の数年後に、若気の至りで一軒家に茶室まで付け足して建てて、
住宅ローンの重みに耐えたりていた。

そして私は30代の後期になると、次兄が自営業していたのであるが、
経済的な理由で、突然に次兄は自宅の布団の中で、睡眠薬を過剰に飲み自裁された・・。

私は援助も出来なかったことを知り、さいなまれながら、
たとえどのようなことがあっても、少なくとも父の死の42歳を乗り越えなければ、
という思いが強く意識した。

そして、55歳を迎える寸前に、音楽業界はリストラ旋風の中、
私は30年近い本社勤務から、出向となり、都落ちの失墜感の中、
家内と退職後の生活設計を改めて話し合い、
定年後の私は年金生活に入り、お互いに残された人生の歳月を趣味の時間で過ごそう、と決意した。


このように私は大手企業のサラリーマンの一部に栄進したエリートでなく、
勤めた会社の出世競争にも取り残されて、屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎え、
半生記は何かと自慢史が多いと伝えられている中、私は限りなく遠い存在である。

私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。
そして、ある時には、その分野で専門知識があり優れた人の前では、
卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。

こうした負け戦のような半生を過ごしてきたが、
3年前に中学時代の有志で懇親会を開催した時、同級生の初恋の美麗な女性から、
『人生は・・誰しも公平にできているわょ・・
XXクン、あなたの人生・・これから良くなるわょ』
と大いに私は励まされた。

そして私たちはカラオケを共に唄いながら、この同級生から手を握られ、
私としては50年来の夢が叶(かな)えられたのである。


年金生活を過ごしている今、
働いていた35年は、もとより税金などで社会人のひとりとして責務を果たし、
それなりに苦楽のある半生を歩んできたが、
定年退職後は趣味の「知的能力」を深めたりしているので、我が人生の全盛期かしら、
と微苦笑しているのである。


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