2007(平成19)年11月3日に於いては、たまたま沖縄本島に旅行中であった。
家内の母が、『ひめゆりの塔』を死ぬ前に一度は参拝したい、念願に基づいて、
私たち夫婦との三人の旅路で、
高齢者に見合った日程の沖縄本島を8泊9日間で周遊した。
このことについては、このサイトに【沖縄本島滞在記】と題して紀行文のように投稿しているが、
私達夫婦は家内の母を誘い、3人で沖縄本島を8泊9日で訪れている。
那覇のシティホテルで連泊しながら南部観光をした後、
中北部のリゾートホテルで6泊し、中北部の観光を周遊している日であった。
もとより私は家内の母と温泉滞在旅行を含めて3人で旅行をする際は、
私は出来る限り、家内達と日中は別行動をしている。
婦女子の周遊する所と私は殆ど別要望であり、
家内達もそれぞれの思いで、母と娘の2人で好きなところを廻れば良い、
と思っているからである。
今回、この旅先の11月3日の出来事などを異例であるが、抜粋する。
【・・
特別第7章 『美ら海(ちゅらうみ)桔梗(ききょう)』に魅了され
11月3日
私達3人は、『海洋博公園』に行き、
家内達は『美ら海水族館』やイルカを観に行くので、私は予定通り別れた。
私は日頃から中年女性のしぐさ、言葉が好きである上、
植物を愛するひとりとして、樹木、草花を観るので、園内の遊歩道を歩きはじめた・・。
国営沖縄記念公園の別称に相応しく、園内は小奇麗に整備がゆきとどいている。
いかにも沖縄の風土に適した樹木、草花が適度に配置されて折、
私の目を楽しませてくれた。
遊歩道の所々、海が目の前に観える展望台に行ったり、
或いは海岸の歩道を歩(あゆ)めば、険しい岩の崖に波が押し寄せている・・。
空は雲がわずかに浮かび、青一色で無限のような拡がり、
そして海は蒼く、果てることのないように彼方まで望み、風は爽やかに私の身体を通り過ぎていく・・。
このような光景を眺めたりしていると、
古来より沖縄の人々から、『美ら海(ちゅらうみ)』として慕われているのが、
私なりに理解ができた。
植物園に戻ると、つる植物園の中で、蔦(ツタ)のように緑色の葉が生い茂って折、
この中で数多くの薄紫色の花が、ひっそりと咲いていた。
私の住む東京の郊外では見かけることのできない花であり、
あえて表現すれば、アサガオの満開の花びらのようでも思え、
色合いは桔梗に似ているかしら、と感じたりしたのである。
いずれにしても、私のつたない感性であるが、
まぎれなく奥行きのあり品性がただよう、数少ない花のひとつである。
私は、この薄紫色の花を、
文化の日に伴い、秘かに『美ら海桔梗』と名付けた。
園内を辞する時、植物に詳しい係員の方から、
『その花は・・べンガル・ベヤハズ・カズラ・・と思いますよ・・』
と私に教えてくれた。
今回、本島を8泊9日で旅をしている身であるが、私はこの薄紫色の花に最も魅了され、
のちの想いとしても、深く私の心に残った花である。
特別第8章 旅先で投稿するには
私はこのサイトで、10月31日~11月4日に於いて、
第1章から第7章まで投稿した場所は、りゾート・ホテルの一角からであった。
http://www.kariyushi.co.jp/beach/
☆ 『沖縄かりゆしビーチリゾート・オーシャンスパ』ホームページ ☆
昨夜、沖縄本島から帰宅し、今こうして自宅で綴っているが、
滞在先のホテルのインフォーメション・センターと称された観光遊覧の相談所で投稿していた。
この相談所は20代の女性が3人いて、常時2名で対応している。
机上にはパソコン等があり、ある程度はお客様の相談事を笑顔で応じている。
このルームは15坪前後の広さがあり、
壁際にインターネットが対応されたパソコンが2台あった。
お客様自身が観光先などを検索されるのに設置されていると思われる。
私はこの中で1台を使わして貰い、ホテル内の滞在客の多い中、ときおり投稿したのであった。
この相談所の女性たちと、私は良くお話をした・・。
こぼれ話のひとつとしては、
モンゴル800の『あなたに』のことで、
『・・モンパチの『あなたに』に魅了され・・ベランダで鼻歌を唄ったり・・していますよ』
と私は云ったりしていた。
『好い歌ですよね・・私が中学3年の時・・大ヒットし・・私も大好きな歌のひとつです・・』
と微笑みながら答えてくれたりしていた。
私は齢を重ねた63歳のお客の身であるので、、
相手のお方は私よりは40歳以上確実にお若い20代の沖縄美人は、さりげなく応じてくれる。
この後、私は沖縄出身のモンパチの件で、お互いに微笑みながら話し合ったりしていた。
http://www.youtube.com/watch?v=G2mRUU8WI8w
☆【『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu、作曲・モンゴル800】☆
特別第9章 乙女たちのエメラルド・ビーチ
『海洋博公園』で私が散策した樹木、草花園のもう一方の反対側には、エメラルド・ビーチがある。
白いペンキの大きな休憩所が二つほど並びあり、
その先端には憩いの浜、眺めの浜、そして遊びの浜と称された浜は、
白い砂浜が拡がり、椰子(やし)の樹木、空の青さ、海は蒼く、彼方の海上は解けてしまうような光景である。
こうした中で、波が白い砂浜に押し寄せ、
数多くの白いサンデッキが並び、そして色鮮やかなパラソルがある・・。
今回の旅の初め頃から、首里の王陵、首里城、南部のひめゆりの塔、平和祈念公園、玉泉洞を私達3人は観て廻ったが、
幾つかの高校の修学旅行の生徒と出会ったりした。
タクシーのドライバーの方から教えて頂いた話であるが、
生徒たちの3、4人でタクシーで好きな場所を周遊するのが昨今の傾向となっている、とのこと。
事前に先生の了解を得て、各観光の周遊プランをタクシー・ドライバーと再調整しながら、
あちらこちらに観たりしているのが多い、と教えてくれた。
エメラルド・ビーチを私は散策していると、
高校生の女学生の4人は歓声をあげて、お互いに携帯電話で写真を撮ったりしていた・・。
『よかったら・・小父さん・・みんなの記念写真・・撮ってあげるよ・・』
と私は女学生のひとりに大声で云った・・。
ひとりの女学生が、もじもじと家内と同様の写ルンを取り出して、
『嬉しい・・小父さん・・お願い・・』
と私に簡易カメラを手渡した。
4人の女学生は、それぞれのポーズを取りながら、右手はVサインであり、
私は微苦笑しながら、シャッターを押した・・。
『小父さん・・有難うございました・・』
と2人の女学生が大声で云われ、私は照れた。
その後、4人の女学生は波打ち際に歩き出して行き、微風の吹く中、スカートの裾が揺れていた。
私は南国の白い砂浜と陽射しのまぶしさ、そして海の蒼さの光景は、
乙女たちの夢のひとつ、あこがれが、目の前に拡がっていることを了解できた。
・・】
このようなことが2007(平成19)年11月3日の出来事であり、
『べンガル・ベヤハズ・カズラ』の薄紫色の花を、この年の文化の日に初めて見て、
瞬時に圧倒的に魅了させられ、私は秘かに『美ら海桔梗』と名付けた花を思い浮かべ、
今の私は微苦笑しながら、まぎれない美のひとつ、と今でも確信を深めたりしている。
そして2006(平成18)年11月3日に於いては、
この日は3通ばんり投稿しているが、
この中のひとつ【 読書から文化のひとつを教示・・♪ 】を掲載する。
【・・
ここ数日、嵐山光三郎・著の『追悼の達人』(新潮文庫)を読んでいる。
特にこの中で教えを受けたのは、宮沢賢治は追悼によって世に出た、と読んだ時は驚いたりした。
著作者の嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)氏の格調たかい名文を引用させて頂く。
《・・
昭和8年、花巻で無名の詩人が急性肺炎で死んだ。
・・・
(宮沢)賢治の死は、詩人仲間の草野心平の手で友人たちに知らされたのみであった。
・・・
没後、唯一、次郎社より「宮沢賢治追悼」雑誌が出た。
草野心平が逸見猶吉と企画した同人雑誌「次郎」が形を変えて出版された追悼集で・・・
この薄い一冊の追悼文集に寄り、宮沢賢治への評価の起爆剤となった・・・
そして、著作者の嵐山光三郎は、
いまの日本詩壇に、無名詩人を発掘する第二の草野心平がいるだろうか・・
と結びの文として綴っている。
・・》
私は宮沢賢治に関しては、無知なほうである。
数年前、雪の降る時節に、花巻温泉に滞在して、
その折、宮沢賢治記念会館に行き、見学し、多少学んだ程度である。
東北地方の観光面に携わる関係者は、何かと松尾芭蕉、宮沢賢治の両名を活用し、
知名度の向上を果たしたりしているのが、昨今の実態である。
いずれにしろ、無名で亡くなった詩人が詩人達の好意により薄い追悼文集が起爆剤となり、
詩壇はもとより文化のひとつまで足跡を残させた史実に驚いている。
・・】
そして、初めて定年退職の一年を過ぎた2005(平成17)年11月3日に於いては、
やはり3通の投稿文の中から、
【 改めて、文化の日とは・・♪ 】と題したのを掲載する。
【・・
今朝、インターネットの検索をした所、
この日は戦前に於いて、『明治節』と呼ばれ、明治天皇の誕生日を寿(ことほ)ぎ、偲(しの)ぶ日とあった。
1948〈昭和23)年7月20日に『祝日法』が公布され、
《 自由と平和を愛し、文化をすすめる 》趣旨により、『文化の日』となった。
私は1944(昭和19)年9月に生を受けたが、このような由来は無知であった。
私は、この日に関しては簡潔に解釈している。
人々の営みの集積が文明であり、その一端に文化がある、と思っている。
山川草木の美しい日本の風土を秋の或る日、
その人となりに思いめぐらせ感謝すれば良い、と信じている。
・・】
このように定年退職後、毎年『文化の日』を過ごしているが、
この時の私の思いを投稿文をしてきたが、
過ぎてしまえば少しはかなくも、やはり私の心には微苦笑を重ねながらも、愛惜がある。
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家内の母が、『ひめゆりの塔』を死ぬ前に一度は参拝したい、念願に基づいて、
私たち夫婦との三人の旅路で、
高齢者に見合った日程の沖縄本島を8泊9日間で周遊した。
このことについては、このサイトに【沖縄本島滞在記】と題して紀行文のように投稿しているが、
私達夫婦は家内の母を誘い、3人で沖縄本島を8泊9日で訪れている。
那覇のシティホテルで連泊しながら南部観光をした後、
中北部のリゾートホテルで6泊し、中北部の観光を周遊している日であった。
もとより私は家内の母と温泉滞在旅行を含めて3人で旅行をする際は、
私は出来る限り、家内達と日中は別行動をしている。
婦女子の周遊する所と私は殆ど別要望であり、
家内達もそれぞれの思いで、母と娘の2人で好きなところを廻れば良い、
と思っているからである。
今回、この旅先の11月3日の出来事などを異例であるが、抜粋する。
【・・
特別第7章 『美ら海(ちゅらうみ)桔梗(ききょう)』に魅了され
11月3日
私達3人は、『海洋博公園』に行き、
家内達は『美ら海水族館』やイルカを観に行くので、私は予定通り別れた。
私は日頃から中年女性のしぐさ、言葉が好きである上、
植物を愛するひとりとして、樹木、草花を観るので、園内の遊歩道を歩きはじめた・・。
国営沖縄記念公園の別称に相応しく、園内は小奇麗に整備がゆきとどいている。
いかにも沖縄の風土に適した樹木、草花が適度に配置されて折、
私の目を楽しませてくれた。
遊歩道の所々、海が目の前に観える展望台に行ったり、
或いは海岸の歩道を歩(あゆ)めば、険しい岩の崖に波が押し寄せている・・。
空は雲がわずかに浮かび、青一色で無限のような拡がり、
そして海は蒼く、果てることのないように彼方まで望み、風は爽やかに私の身体を通り過ぎていく・・。
このような光景を眺めたりしていると、
古来より沖縄の人々から、『美ら海(ちゅらうみ)』として慕われているのが、
私なりに理解ができた。
植物園に戻ると、つる植物園の中で、蔦(ツタ)のように緑色の葉が生い茂って折、
この中で数多くの薄紫色の花が、ひっそりと咲いていた。
私の住む東京の郊外では見かけることのできない花であり、
あえて表現すれば、アサガオの満開の花びらのようでも思え、
色合いは桔梗に似ているかしら、と感じたりしたのである。
いずれにしても、私のつたない感性であるが、
まぎれなく奥行きのあり品性がただよう、数少ない花のひとつである。
私は、この薄紫色の花を、
文化の日に伴い、秘かに『美ら海桔梗』と名付けた。
園内を辞する時、植物に詳しい係員の方から、
『その花は・・べンガル・ベヤハズ・カズラ・・と思いますよ・・』
と私に教えてくれた。
今回、本島を8泊9日で旅をしている身であるが、私はこの薄紫色の花に最も魅了され、
のちの想いとしても、深く私の心に残った花である。
特別第8章 旅先で投稿するには
私はこのサイトで、10月31日~11月4日に於いて、
第1章から第7章まで投稿した場所は、りゾート・ホテルの一角からであった。
http://www.kariyushi.co.jp/beach/
☆ 『沖縄かりゆしビーチリゾート・オーシャンスパ』ホームページ ☆
昨夜、沖縄本島から帰宅し、今こうして自宅で綴っているが、
滞在先のホテルのインフォーメション・センターと称された観光遊覧の相談所で投稿していた。
この相談所は20代の女性が3人いて、常時2名で対応している。
机上にはパソコン等があり、ある程度はお客様の相談事を笑顔で応じている。
このルームは15坪前後の広さがあり、
壁際にインターネットが対応されたパソコンが2台あった。
お客様自身が観光先などを検索されるのに設置されていると思われる。
私はこの中で1台を使わして貰い、ホテル内の滞在客の多い中、ときおり投稿したのであった。
この相談所の女性たちと、私は良くお話をした・・。
こぼれ話のひとつとしては、
モンゴル800の『あなたに』のことで、
『・・モンパチの『あなたに』に魅了され・・ベランダで鼻歌を唄ったり・・していますよ』
と私は云ったりしていた。
『好い歌ですよね・・私が中学3年の時・・大ヒットし・・私も大好きな歌のひとつです・・』
と微笑みながら答えてくれたりしていた。
私は齢を重ねた63歳のお客の身であるので、、
相手のお方は私よりは40歳以上確実にお若い20代の沖縄美人は、さりげなく応じてくれる。
この後、私は沖縄出身のモンパチの件で、お互いに微笑みながら話し合ったりしていた。
http://www.youtube.com/watch?v=G2mRUU8WI8w
☆【『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu、作曲・モンゴル800】☆
特別第9章 乙女たちのエメラルド・ビーチ
『海洋博公園』で私が散策した樹木、草花園のもう一方の反対側には、エメラルド・ビーチがある。
白いペンキの大きな休憩所が二つほど並びあり、
その先端には憩いの浜、眺めの浜、そして遊びの浜と称された浜は、
白い砂浜が拡がり、椰子(やし)の樹木、空の青さ、海は蒼く、彼方の海上は解けてしまうような光景である。
こうした中で、波が白い砂浜に押し寄せ、
数多くの白いサンデッキが並び、そして色鮮やかなパラソルがある・・。
今回の旅の初め頃から、首里の王陵、首里城、南部のひめゆりの塔、平和祈念公園、玉泉洞を私達3人は観て廻ったが、
幾つかの高校の修学旅行の生徒と出会ったりした。
タクシーのドライバーの方から教えて頂いた話であるが、
生徒たちの3、4人でタクシーで好きな場所を周遊するのが昨今の傾向となっている、とのこと。
事前に先生の了解を得て、各観光の周遊プランをタクシー・ドライバーと再調整しながら、
あちらこちらに観たりしているのが多い、と教えてくれた。
エメラルド・ビーチを私は散策していると、
高校生の女学生の4人は歓声をあげて、お互いに携帯電話で写真を撮ったりしていた・・。
『よかったら・・小父さん・・みんなの記念写真・・撮ってあげるよ・・』
と私は女学生のひとりに大声で云った・・。
ひとりの女学生が、もじもじと家内と同様の写ルンを取り出して、
『嬉しい・・小父さん・・お願い・・』
と私に簡易カメラを手渡した。
4人の女学生は、それぞれのポーズを取りながら、右手はVサインであり、
私は微苦笑しながら、シャッターを押した・・。
『小父さん・・有難うございました・・』
と2人の女学生が大声で云われ、私は照れた。
その後、4人の女学生は波打ち際に歩き出して行き、微風の吹く中、スカートの裾が揺れていた。
私は南国の白い砂浜と陽射しのまぶしさ、そして海の蒼さの光景は、
乙女たちの夢のひとつ、あこがれが、目の前に拡がっていることを了解できた。
・・】
このようなことが2007(平成19)年11月3日の出来事であり、
『べンガル・ベヤハズ・カズラ』の薄紫色の花を、この年の文化の日に初めて見て、
瞬時に圧倒的に魅了させられ、私は秘かに『美ら海桔梗』と名付けた花を思い浮かべ、
今の私は微苦笑しながら、まぎれない美のひとつ、と今でも確信を深めたりしている。
そして2006(平成18)年11月3日に於いては、
この日は3通ばんり投稿しているが、
この中のひとつ【 読書から文化のひとつを教示・・♪ 】を掲載する。
【・・
ここ数日、嵐山光三郎・著の『追悼の達人』(新潮文庫)を読んでいる。
特にこの中で教えを受けたのは、宮沢賢治は追悼によって世に出た、と読んだ時は驚いたりした。
著作者の嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)氏の格調たかい名文を引用させて頂く。
《・・
昭和8年、花巻で無名の詩人が急性肺炎で死んだ。
・・・
(宮沢)賢治の死は、詩人仲間の草野心平の手で友人たちに知らされたのみであった。
・・・
没後、唯一、次郎社より「宮沢賢治追悼」雑誌が出た。
草野心平が逸見猶吉と企画した同人雑誌「次郎」が形を変えて出版された追悼集で・・・
この薄い一冊の追悼文集に寄り、宮沢賢治への評価の起爆剤となった・・・
そして、著作者の嵐山光三郎は、
いまの日本詩壇に、無名詩人を発掘する第二の草野心平がいるだろうか・・
と結びの文として綴っている。
・・》
私は宮沢賢治に関しては、無知なほうである。
数年前、雪の降る時節に、花巻温泉に滞在して、
その折、宮沢賢治記念会館に行き、見学し、多少学んだ程度である。
東北地方の観光面に携わる関係者は、何かと松尾芭蕉、宮沢賢治の両名を活用し、
知名度の向上を果たしたりしているのが、昨今の実態である。
いずれにしろ、無名で亡くなった詩人が詩人達の好意により薄い追悼文集が起爆剤となり、
詩壇はもとより文化のひとつまで足跡を残させた史実に驚いている。
・・】
そして、初めて定年退職の一年を過ぎた2005(平成17)年11月3日に於いては、
やはり3通の投稿文の中から、
【 改めて、文化の日とは・・♪ 】と題したのを掲載する。
【・・
今朝、インターネットの検索をした所、
この日は戦前に於いて、『明治節』と呼ばれ、明治天皇の誕生日を寿(ことほ)ぎ、偲(しの)ぶ日とあった。
1948〈昭和23)年7月20日に『祝日法』が公布され、
《 自由と平和を愛し、文化をすすめる 》趣旨により、『文化の日』となった。
私は1944(昭和19)年9月に生を受けたが、このような由来は無知であった。
私は、この日に関しては簡潔に解釈している。
人々の営みの集積が文明であり、その一端に文化がある、と思っている。
山川草木の美しい日本の風土を秋の或る日、
その人となりに思いめぐらせ感謝すれば良い、と信じている。
・・】
このように定年退職後、毎年『文化の日』を過ごしているが、
この時の私の思いを投稿文をしてきたが、
過ぎてしまえば少しはかなくも、やはり私の心には微苦笑を重ねながらも、愛惜がある。
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