夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

熊(クマ)に遭遇しない方法のひとつとして、私のささやかな成功体験は・・。

2012-08-06 21:49:06 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
山里に熊(クマ)に遭遇して、もとより人は動顚し、被害を遭われたり、
ここ数年は人家の近くまで熊(クマ)が出没されて住民は困苦する、
とニュースを聞いたりしている。

山里の多い県公園自然課のヘテランの担当者は、
熊(クマ)は警戒心が強く、鈴など音の出るもので人の存在を知らせることが大切であり、
遭遇したら、背を向けずに後ずさりをして逃げること、
と私は学んで来たりしている。

そしてリックサックを背負っていたら、ザックを音を立てないように地面に落として、
ゆっくりと背を向けずに、後ずさりをして立ち去ること、と教えられている。


これまでの私は、幸いにも熊に出会ったことはないが、
遭遇しないような方法として、ささやかな成功体験のひとつを発露する。

私は若き大学時代には、中退するまではワンターフォーゲル部に所属し、
冬山の登山、岩登り以外は、先輩の指導の下で、山の奥地、登山路、そして里山まで歩いたりしてきた。
もとより、キスリングと称される大きなザックに個人装備、共同装備を背負い、
テント生活に明け暮れていたが、幸いに熊に出遭うことはなかった。

このような理由は、少なくとも団体の15名以上のパーティであり、
登山路の不整備などで枝、小枝、竹藪の竹など払い切り落とし、
或いは炊事の時などの枝を拾い集めて、薪(まき)などにするために、
大きめの鉈(ナタ)を全員持参し、身に付けたりしていた。

熊(クマ)だって、牛肉、豚肉、鶏肉に飢えていた山男の集団に入ったならば、
逆に熊肉料理にされてしまうので、恐れをなして隠れていた、と私は今頃になって思ったりしている。


昨今は家内との共通趣味の国内旅行をした時に、
たまたま独りで里山を歩いていた時、熊に出遭うことのないように予備対策をした。

過ぎ去りし2006(平成18)年10月中旬、
私たち夫婦は、家内の母が死ぬまで一度は北海道に行って観たいわ、
と要望を受けて、三人で道央、道東めぐりを7泊8日で周遊した。

この旅の中で、知床半島のウトロにある観光ホテルに連泊していた。

家内達は漁港周辺を散策するので、
私は独りで『知床自然センター』の周辺を散策することにした。

この館内の映像展示館で『知床の四季』を観た後、
売店、案内所のフロアーに行き、
私は、『乙女の涙』と称される海岸の滝までの遊歩道の路を、
係員の方に訊(たず)ねたりした。
そして係員の方から、
『熊除けの鈴・・無料で貸し出ししていますので、持たれたらいかがでしょうか・・』
と好意の言葉を私に言った。

少しためらいながら私は、微苦笑しながら、
『ご好意・・ありがとう・・でも、大丈夫でしょう』
と私は係員に熊除けの鈴を受け取らず、歩きだした。

私は登山、ハイキング時などで、鈴の音を聴いたりすると、
何かしら拒絶反応するタイプであり、苦手であった。

そして歩きだすと樹林の中のゆるやかな坂道を下り、
やがて辺(あた)り一面平地となり、遥か彼方に知床の連山が観られる一帯であった。
前方に団体観光客の方たちが見えたので、
私はこの方たちにまぎれて、お互いに談笑しながら、『乙女の涙』まで同行した。

私は、『乙女の涙』の周辺の海岸の光景に見惚れて、
ゆっくりと時間を過ごしたので、帰路は独りぼっちになってしまった。

樹林に近づくと、いつでも熊が出できても、おかしくないよなぁ、
と小心者の私は恐怖心がつのったりした。

やむなく熊に出遭うことのないように、
私が小学生の時にラジオから流れてきた歌を覚えていたので、
唄いだしたのである。

♪イヨマンテ
 燃えろ かがり火
 あゝ満月よ
 今宵 熊祭り

【『イヨマンテ(熊祭)の夜』 作詞・菊田一夫、作曲・古関祐而 】

私は歌手の伊藤久男のように朗々と唄えないが、
今回の旅行前から『イヨマンテ(熊祭)の夜』の歌を秘かに練習をしていた。
そして熊避(よ)けには、音痴な私の唄声でも、鈴などより余程効果があると信じていた。


この後の数日後、阿寒湖の湖畔の観光ホテルに滞在した時、
家内達は、観光船でマリモ展示観察センター観たりするが、
私は興味がないので、湖畔周辺を散策することにした。

観光船乗り場の脇道から遊歩道があると聞いていたので、歩き始めた・・。
私のほかは、周辺にもまったく人影を見かけなく、静寂であった。

湖畔沿いの小道は、エゾマツ、トドマツ、ダテカンバ、ナナカマドの針広混生樹林の中、
少し間引いた中が遊歩道として『湖畔コース』と名づけられていた。

湖畔に目を転じると、阿寒湖の情景が観え、快晴の中、遠方に遊覧船が見えたりした。

そして広葉樹林は、紅色、朱紅色、黄色に染められた錦繍の情景となり、
湖面の陽射しが差し込み、葉の一枚が枝から舞いながら水面に落ち、
微かな水紋でゆらいでいる・・。

このような光景に見惚(みと)れたりし、遊歩道をゆっくり歩きながら、
ときおりデジカメで風景を撮ったりし、15分過ぎたと思われるが、
相変わらず私のほかは、周辺にもまったく人影を見かけなく、静寂であった。

私は何となく熊が出そうな予感がしたので、

♪イヨマンテ
 燃えろ ひと夜を
 あゝわが胸に
 今宵 熊祭り

【『イヨマンテ(熊祭)の夜』 作詞・菊田一夫、作曲・古関祐而 】

こうした時も音痴でも大きな声で『イヨマンテ(熊祭)の夜』を唄いながら、
無事に通り抜けたのである。

最も熊だって、東京の田舎者の音痴な人には遭いたくない、
と隠れ潜んでいたと思われる。


昨今は齢ばかり重ねた私は、悪知恵ばかり覚えている。

《熊に山椒 鯉に胡椒》と同時に食べてはいけないもの名言を学んだりしたので、
熊が出そうな所を歩く時には、山椒の枝をトゲに注意しながら背負って歩けば、
熊だって食あたりするので敬遠するかしら、と思ったりしている。

或いは今年の1月下旬より、北海道の札幌市の郊外にあるリゾートホテルに6泊7日で滞在した。
こうした中で、たまたま和食処『大善』で夕食を頂く時に、
単品料理をアラカルト(選定)をしょうとメニューを見ていた時、
日本酒の中で、『熊ころり』という銘柄を見たりしたのであった・・。

『各地方には・・鬼殺し・・の銘柄はあるけれど・・
〈熊ころり〉なんで・・初めてだょ・・』
と私は微笑みながら家内に言った。

『珍しい銘柄名ね・・頂いたら・・』
と家内は笑いながら私に言った。

『北海道に相応しく・・熊かょ・・かなり辛口だけれど・・』
と私は言いながら、仲居さんに注文したひとつとなった。

蔵元は小樽市にある『山二(ゆまに)わたなべ』で、正式な銘柄名は『熊古露里』と明記されていたので、
風流を秘めた方が命名されたと確信を深めたりした。
超辛口で呑みやすく、たまたま私はホッケの焼いたのを食べながら頂いたので、心身の波長にあった。

この『熊ころり』を熊が出そうな所を歩く時に持ち歩き、
遭遇した時には、この4合瓶を差しだせば、熊だって酔いながら退散するかしら、
と思ったりしている。

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8月6日『広島原爆の日』は、無力な私でも西の空に向い、秘かに黙祷をして・・。

2012-08-06 07:45:51 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは朝の6時過ぎであった。

私は1944〈昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に敗戦となった。

そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
少なくとも8月6日のこの日の午前8時15分に、
対戦中のアメリカが人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下され、
少なくとも15万人の人が即死し、数多くの方が被ばくされた。

このことは戦勝国となったアメリカの歴史をどのように描いても、厳然たる事実である。

本日は、67回目の原爆の日を迎える。
そして恒例となっている広島市中区の平和記念公園では、
午前8時から市主催の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれ、
被爆者や遺族、野田佳彦首相らが参列し、犠牲者に祈りをささげることとなっている。


私は少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そして15日の『敗戦記念日』は、黙祷をして36年は過ぎている・・。

そして、かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
この日は広島の空に向い、人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。


東京の郊外の調布市では、この日の8時15分少し前になると、
私の自宅の近くの高台の拡声器からは、
『広島に原爆を落とされた日です・・
皆様で・・亡くなわれて多くの人たちに・・哀悼の意を表して・・黙祷しましょう・・』
とゆったりと判りやすいように、伝えられているのが、平年の習わしとなっている。

そして私は思わず、再び姿勢を正して、広島の方面に手を合わせて黙祷している・・。

しかしながら冷酷で厳然たる事実として、敗戦後の日本の長きの平和は、
国際の主要国の怜悧な国益に基づき、悪夢のようなことであるが、
核抑止を背景とした軍事力を根底とした政治・外交・経済で、
何んとか今日を迎えている事実も、確かなことであると思っている。

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