私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨日の朝、購読している読売新聞をいつものように読んでいたら、
日曜版の好例記事の『名言巡礼』の記事に於いて、
《 満月 光り輝く海の道 》と大きく明記された言葉に瞬時に魅せられて、
この記事を精読した。
そして今回の名言は、《 曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照らしてぞ行く 》
と戦国時代の乱世の終盤時期に歴史を遺(のこ)した伊達政宗の辞世の和歌が掲載されていた。
恥ずかしながら私はこの辞世の和歌は、無知だったので、藤原善晴さんの綴られた解説文に縋(すが)った・・。
そして無断であるが要約すれば、
《 仙台藩の正史「貞山公治家記録」は、藩祖・伊達政宗が1936〈寛永13〉年に江戸で死去し、
曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照らしてぞ行く
と辞世の和歌だったとして、簡潔に記している。
戦国乱世の終盤に台頭し、一部の歴史が、
「あと20年早く生まれていたら天下を取ったかもしれない」と評する隻眼の武将。
関ヶ原の合戦から36年が過ぎ、世の中は天下泰平となる中、
世を去る時の心情は、悟りの境地だったのか、
或いは果たせなかった夢の無念の思いだったのか。
政宗が何度も満月を見ていたという名勝の地の松島で、
町の中心部に入る手前の双観山の近くで、松島湾の島影から満月がのぞかせた。
日没の約10分前で、青みがかった薄暮の空に丸い月が浮かび、海面は光が映り始める。
約一時間後、闇夜の中で光源は月だけとなり、
海面には一本の黄金色の道がくっきりと照らしだされた。
・・》
このように前半は綴られていた。
私は中小業の民間会社に35年近く勤めて2004年〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。
ときおり家内と共通趣味のひとつの国内旅行をしたりすると、
このような月の光り輝く中で海の道の光景を観ることもあり、圧倒的に魅せられて長らく見惚れたりする。
そして拙(つたな)い私のこれまで歩んできた人生のひとこま、ひとこまが走馬灯のように思い浮かび、
微笑させられたりしてきた。
ある北海道に住む敬愛している著名人の方が、
あるエッセイで船便で来道するのが最良です、といったような綴りを20年前の頃に読んだりした。
そして確か10年前の頃に、雑誌の『サライ』で、国内航路のフェリーの特集記事があった。
この中には、新潟港から小樽港が紹介され、特等A個室でテラス付きの記事が綴られていた。
私の定年退職となる2004〈平成16〉年の秋、
この部屋を取って北海道に行き、適当に周遊した旅をしょう、と私たち夫婦は退職記念旅行と決めた。
そして私の定年退職の直前に、
入退院を繰り返していた家内の父が亡くなり、ちょっと慌しくなったので、
退職記念旅行は延期とした。
この後、一年を過ぎた頃に、ある旅行会社の小冊誌が郵送され、
この中の企画に団体観光ツアーでこの航路を利用し、
ランクアップすればこの船室が取れる、旅行プランがあったので、申し込んだ。
4泊5日の団体観光ツアーであり、東京駅より新潟駅に新幹線で行き、新潟港に移動し、
この港からフェリー船で小樽港に向かい1泊しながら、翌日の早朝に小樽港に着く。
小樽を出た後は、芦別の三段の滝を観て、富良野から美瑛を抜けて、
旭岳の裾野のリゾートホテルに宿泊する。
翌朝、旭岳ロープウェイに乗り、周辺を散策する。
その後、天人峡の羽衣の滝を観た後、札幌の奥まった定山峡まで移動し、宿泊する。
翌日は、豊平峡で電気バスに乗って、ダム周辺を観た後、
小樽市で観光し、札幌駅に行く。
夕暮れの札幌駅より『北斗星号』を乗車し、宿泊しながら上野駅に到着する。
このような日程であった。
新潟港を10時30分に離れた『らいらっく号』は、翌朝の4時10分に小樽港をめざして出港した。
私たちはランクアップした専用のテラス付きの特等A個室は、
船体から海に出たような形で、予期した以上に広い6畳ぐらいのテラスであった。
夕食はデイナー付きであったので、
昼食を私はラーメンとビールにし、家内はサンドイッチにした。
そして部屋に戻った後、私はテラスに下り立ち、
日中のひととき日本海の雲の間に晴れ間が果てしなく広がっている情景を眺めながら、
簡易椅子に座り、ゆっくりとビールを呑んだりした。
そしてこうした贅沢の時を過ごせるのは、年金生活の特権かしら、と心の中で微笑んだりした。
こうした満足な時を一時間ばかり過ごした後、少し眠くなってしまった・・。
今朝、東京駅7時12分発の新幹線に乗る為、 集合時間は6時半であったので、
我が家を早朝に、タクシーで新宿駅に向かった。
その後は、新宿駅より中央線の始発近い電車で東京駅に到着し、
自動販売機でコーヒー缶を買い求めて、待機していたのであった。
この後、私はベットにもぐり、まどろんだ後に寝付いたりした。
そして目覚めた後、午後4時過ぎに、大浴場で身体をさっぱりさせた後は、
喫煙室で煙草を喫っていたら、数多くのトラックのドライバーに会ったりした。
もとよりフェリー船であるので、彼らは業務で休息のひとときで、
楽しげに話し合っているのに、やはり働いている現役の諸兄は溌剌としているので、
私は中小業の民間会社で奮戦してきた体験があるので、好感したりした。
ディナーの際、イタリアン料理だったので、
小樽ワインの辛口を注文し、家内と呑みながら談笑したりして食事をしたりした。
こうした旅先の夕食も私たち夫婦は、長年楽しんできた。
そして齢を重ねるたびに、食べ物に多少のこだわりを持つのは、
多くの人が経験するのだろう、と思ったりした。
部屋に戻り、夜の海を眺めた。
月の光の帯が、遠方から波間を通して、あたかもテラスに向かって部屋に差し込んでいるように思えた。
その後しばらくすると、月は空高く昇ると、海上の一辺に月の光の溜(た)まり場となり、
この範囲に月の光を寄せ集めていた。
或いは過ぎし2002010〈平成22〉年の初め、
家内が海上で遊泳している鯨(クジラ)を観てみたいわ、と私に言ったし、
色々と調べた結果、海外旅行には苦手な私たち夫婦は、
小笠原諸島の『父島』で2、3月にザトウクジラが観られることが多いと知った。
往復路は『おがさわら丸』を利用して、片道だけでも都心から1000キロ南下する25時間半の船旅となり、
船室はトイレのある部屋を家内が要望したので、『特一等客室』で程ほどに揺れ、
宿泊先の選定は、父島の静寂で景観の良い海辺のリゾートホテル『ホライズン』に宿泊した。
結果的には、2月24日から3月7日まで船中泊往復路2泊、『父島』のホテル滞在9泊となった。
そして宿泊した『ホライズン』は、海岸を目の前にしてシーサイド・ホテルで、
部屋の前にある共同通路も兼ねた広いベランダとなり、
このベランダからは扇浦の白色の砂浜、打ち寄せる波、
海の色合いは青い色、薄い蒼い色、蒼い色、そして濃い蒼い色と四色の色合いを織り成して海原が続き、
右側の前方には二見港の桟橋、街並みが観え、
前方の彼方に切立った小山の上に三日月山の展望台のあるウェザー・ステーションが聳(そび)えていた。
私が若い女性であったならば、『凄い・・綺麗だわ・・』と歓声を上げると思われるが、
私は家内に、『まぎれない美しい景観だね・・』と言ったりしていた。
そして夜のひととり、月が上がると、前方の扇浦海岸の海上には、
月の光が帯状となり、あたかも私の方に向い、照らしているようだった。
このような情景を思い馳せたりし、日本は古来より幾千年、奈良時代にしても、平安の女人からも、
月の光に思いを託したりしてきた、と思ったりした。
そして伊達政宗公の歩んできた人生には恐れ多いが、ぼんやりと辞世の一首に思いを重ねたりしたのである。
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昨日の朝、購読している読売新聞をいつものように読んでいたら、
日曜版の好例記事の『名言巡礼』の記事に於いて、
《 満月 光り輝く海の道 》と大きく明記された言葉に瞬時に魅せられて、
この記事を精読した。
そして今回の名言は、《 曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照らしてぞ行く 》
と戦国時代の乱世の終盤時期に歴史を遺(のこ)した伊達政宗の辞世の和歌が掲載されていた。
恥ずかしながら私はこの辞世の和歌は、無知だったので、藤原善晴さんの綴られた解説文に縋(すが)った・・。
そして無断であるが要約すれば、
《 仙台藩の正史「貞山公治家記録」は、藩祖・伊達政宗が1936〈寛永13〉年に江戸で死去し、
曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照らしてぞ行く
と辞世の和歌だったとして、簡潔に記している。
戦国乱世の終盤に台頭し、一部の歴史が、
「あと20年早く生まれていたら天下を取ったかもしれない」と評する隻眼の武将。
関ヶ原の合戦から36年が過ぎ、世の中は天下泰平となる中、
世を去る時の心情は、悟りの境地だったのか、
或いは果たせなかった夢の無念の思いだったのか。
政宗が何度も満月を見ていたという名勝の地の松島で、
町の中心部に入る手前の双観山の近くで、松島湾の島影から満月がのぞかせた。
日没の約10分前で、青みがかった薄暮の空に丸い月が浮かび、海面は光が映り始める。
約一時間後、闇夜の中で光源は月だけとなり、
海面には一本の黄金色の道がくっきりと照らしだされた。
・・》
このように前半は綴られていた。
私は中小業の民間会社に35年近く勤めて2004年〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。
ときおり家内と共通趣味のひとつの国内旅行をしたりすると、
このような月の光り輝く中で海の道の光景を観ることもあり、圧倒的に魅せられて長らく見惚れたりする。
そして拙(つたな)い私のこれまで歩んできた人生のひとこま、ひとこまが走馬灯のように思い浮かび、
微笑させられたりしてきた。
ある北海道に住む敬愛している著名人の方が、
あるエッセイで船便で来道するのが最良です、といったような綴りを20年前の頃に読んだりした。
そして確か10年前の頃に、雑誌の『サライ』で、国内航路のフェリーの特集記事があった。
この中には、新潟港から小樽港が紹介され、特等A個室でテラス付きの記事が綴られていた。
私の定年退職となる2004〈平成16〉年の秋、
この部屋を取って北海道に行き、適当に周遊した旅をしょう、と私たち夫婦は退職記念旅行と決めた。
そして私の定年退職の直前に、
入退院を繰り返していた家内の父が亡くなり、ちょっと慌しくなったので、
退職記念旅行は延期とした。
この後、一年を過ぎた頃に、ある旅行会社の小冊誌が郵送され、
この中の企画に団体観光ツアーでこの航路を利用し、
ランクアップすればこの船室が取れる、旅行プランがあったので、申し込んだ。
4泊5日の団体観光ツアーであり、東京駅より新潟駅に新幹線で行き、新潟港に移動し、
この港からフェリー船で小樽港に向かい1泊しながら、翌日の早朝に小樽港に着く。
小樽を出た後は、芦別の三段の滝を観て、富良野から美瑛を抜けて、
旭岳の裾野のリゾートホテルに宿泊する。
翌朝、旭岳ロープウェイに乗り、周辺を散策する。
その後、天人峡の羽衣の滝を観た後、札幌の奥まった定山峡まで移動し、宿泊する。
翌日は、豊平峡で電気バスに乗って、ダム周辺を観た後、
小樽市で観光し、札幌駅に行く。
夕暮れの札幌駅より『北斗星号』を乗車し、宿泊しながら上野駅に到着する。
このような日程であった。
新潟港を10時30分に離れた『らいらっく号』は、翌朝の4時10分に小樽港をめざして出港した。
私たちはランクアップした専用のテラス付きの特等A個室は、
船体から海に出たような形で、予期した以上に広い6畳ぐらいのテラスであった。
夕食はデイナー付きであったので、
昼食を私はラーメンとビールにし、家内はサンドイッチにした。
そして部屋に戻った後、私はテラスに下り立ち、
日中のひととき日本海の雲の間に晴れ間が果てしなく広がっている情景を眺めながら、
簡易椅子に座り、ゆっくりとビールを呑んだりした。
そしてこうした贅沢の時を過ごせるのは、年金生活の特権かしら、と心の中で微笑んだりした。
こうした満足な時を一時間ばかり過ごした後、少し眠くなってしまった・・。
今朝、東京駅7時12分発の新幹線に乗る為、 集合時間は6時半であったので、
我が家を早朝に、タクシーで新宿駅に向かった。
その後は、新宿駅より中央線の始発近い電車で東京駅に到着し、
自動販売機でコーヒー缶を買い求めて、待機していたのであった。
この後、私はベットにもぐり、まどろんだ後に寝付いたりした。
そして目覚めた後、午後4時過ぎに、大浴場で身体をさっぱりさせた後は、
喫煙室で煙草を喫っていたら、数多くのトラックのドライバーに会ったりした。
もとよりフェリー船であるので、彼らは業務で休息のひとときで、
楽しげに話し合っているのに、やはり働いている現役の諸兄は溌剌としているので、
私は中小業の民間会社で奮戦してきた体験があるので、好感したりした。
ディナーの際、イタリアン料理だったので、
小樽ワインの辛口を注文し、家内と呑みながら談笑したりして食事をしたりした。
こうした旅先の夕食も私たち夫婦は、長年楽しんできた。
そして齢を重ねるたびに、食べ物に多少のこだわりを持つのは、
多くの人が経験するのだろう、と思ったりした。
部屋に戻り、夜の海を眺めた。
月の光の帯が、遠方から波間を通して、あたかもテラスに向かって部屋に差し込んでいるように思えた。
その後しばらくすると、月は空高く昇ると、海上の一辺に月の光の溜(た)まり場となり、
この範囲に月の光を寄せ集めていた。
或いは過ぎし2002010〈平成22〉年の初め、
家内が海上で遊泳している鯨(クジラ)を観てみたいわ、と私に言ったし、
色々と調べた結果、海外旅行には苦手な私たち夫婦は、
小笠原諸島の『父島』で2、3月にザトウクジラが観られることが多いと知った。
往復路は『おがさわら丸』を利用して、片道だけでも都心から1000キロ南下する25時間半の船旅となり、
船室はトイレのある部屋を家内が要望したので、『特一等客室』で程ほどに揺れ、
宿泊先の選定は、父島の静寂で景観の良い海辺のリゾートホテル『ホライズン』に宿泊した。
結果的には、2月24日から3月7日まで船中泊往復路2泊、『父島』のホテル滞在9泊となった。
そして宿泊した『ホライズン』は、海岸を目の前にしてシーサイド・ホテルで、
部屋の前にある共同通路も兼ねた広いベランダとなり、
このベランダからは扇浦の白色の砂浜、打ち寄せる波、
海の色合いは青い色、薄い蒼い色、蒼い色、そして濃い蒼い色と四色の色合いを織り成して海原が続き、
右側の前方には二見港の桟橋、街並みが観え、
前方の彼方に切立った小山の上に三日月山の展望台のあるウェザー・ステーションが聳(そび)えていた。
私が若い女性であったならば、『凄い・・綺麗だわ・・』と歓声を上げると思われるが、
私は家内に、『まぎれない美しい景観だね・・』と言ったりしていた。
そして夜のひととり、月が上がると、前方の扇浦海岸の海上には、
月の光が帯状となり、あたかも私の方に向い、照らしているようだった。
このような情景を思い馳せたりし、日本は古来より幾千年、奈良時代にしても、平安の女人からも、
月の光に思いを託したりしてきた、と思ったりした。
そして伊達政宗公の歩んできた人生には恐れ多いが、ぼんやりと辞世の一首に思いを重ねたりしたのである。
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