やがて私が高校に入学した1960(昭和35)年の春、
私たち子供は中学、高校、そして大学が進むあいだ、
入学金や授業料はもとより、何よりも育ち盛りで家計が多くなった。
そして母は、ラブホテルのような旅館を小田急線とJRの南武線の交差する『登戸駅』の多摩川沿いに建て、
仲居さんのふたりの手を借りて、住み込み奮闘して働いた・・。
やがて、私達の生活は何とか普通の生活になった。
この当時の母は、里子として農家に貰われ、やがて跡取りの父と結婚し、
これといった技量といったものはなく、素人の範囲で何とか子供の五人を育ちあげようと、
なりふりかまわず連れ込み旅館を経営までするようになった、と後年の私は思ったりしたのである。
確かに母の念願したとおり、兄ふたりと私は大学を入学し、
妹ふたりは高校を出たあとは専門学校に学ぶことができたのである。
この間の母は、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、
子供たちを何とか世間並みの生活に、と働らいたくれた成果として、
ふつうの生活ができた上、私たち五人の子供は成人したのである。
まもなく、この地域で10数件あったラブホテル、連れ込み旅館は、
世情が変貌して衰退する中、母もアパートに改築した。
そして私達はお互いに独立して、社会に巣立ち、
私も25歳で遅ればせながら、民間会社に中途入社した後、
結婚する前の3年足らず、母が住んでいるアパートの別棟に同居したりした。
この後、私は結婚して、千葉県の市川市の賃貸マンションで新婚生活を過ごした後、
実家の近くに一軒屋を建て、2年後に次兄は自営業に破綻して、自裁した。
私は次兄に声ばかりの支援で、私も多大のローンを抱えて、
具体的な金策の提案に立てられない中、突然の自裁に戸惑いながら、後悔をしたりした。
何よりも、親より先に絶つ次兄を母の動揺もあり、私なりに母を不憫に思ったした時でもあった。
そして特にこれ以降、私達夫婦は、毎週の土曜日に母と1時間以上電話で話し合っていた。
母は食事に関しては質素であっても、衣服は気にするタイプであったが、
古びたアパートの経営者では、ご自分が本当に欲しい衣服は高く買えなく、
程ほどの衣服を丸井の月賦と称せられたクレジットで買い求めていた。
私は民間会社のサラリーマンになって、賞与を頂くたびに、
母には衣服を買う時の足しにして、とある程度の額をお中元、お歳暮の時に手渡していた。
この頃、親戚の裕福のお方が、身体を壊して、入院されていたが、
母が見舞いに行った時は、植物人間のような状態であった、と教えられた。
『あたし・・嫌だわ・・そこまで生きたくないわ』
と母は私に言った。
母は寝たきりになった自身の身を想定し、
長兄の宅などで、下半身の世話をなるのは何よりも険悪して、
私が結婚前に同居していた時、何気なしに死生観のことを話し合ったりしていた。
容態が悪化して、病院に入院して、一週間ぐらいで死去できれば、
多くの人に迷惑が少なくて良いし、何よりも自身の心身の負担が少なくて・・
このようなことで母と私は、自分達の死生観は一致していたのである。
このことは母は、敗戦後の前、祖父の弟、父の弟の看病を数年ごとに看病し、
やがて死去された思い、
そして近日に植物人間のように病院で介護されている遠い親戚の方を見た思いが重なり、
このような考え方をされたのだろう、と私は確信したりした。
やがて昭和の終わり頃、古びたモルタル造りとなったアパート経営をしていた母に、
世間のパプル経済を背景に、銀行からの積極的な融資の話に応じて、
賃貸マンションを新築することとなった。
平成元年を迎えた直後、賃貸マンションは完成した。
そして3ヶ月過ぎた頃、
『あたし、絹のブラウス・・買ってしまったわ・・少し贅沢かしら・・』
と母が明るい声で私に言った。
『お母さんが・・ご自分の働きの成果で買われたのだから・・
少しも贅沢じゃないよ・・良かったじゃないの・・』
と私は心底からおもいながら、母に云ったりした。
この前後、母は周辺の気に入ったお友達とダンスのサークルに入会していたので、
何かと衣服を最優先に気にする母にとっては、初めて自身の欲しい衣服が買い求めることが出来たのは、
私は、良かったじゃないの・・いままでの苦労が結ばれて、と感じたりしていた。
母が婦人系の子宮ガンが発見されたのは、それから6年を過ぎた頃であった。
私達兄妹は、担当医師から教えられ、
当面、母には悪性の腫瘍があって・・ということにした。
それから1年に1ヶ月程の入院を繰り返していた。
日赤の広尾病院に入院していたが、
母の気に入った個室であって、都心の見晴らしが良かった。
1997(平成9)年の初春、母の『喜寿の祝い』を実家の長兄宅で行った。
親族、親戚を含めた40名程度であったが、
母は集いに関しては、なにかしら華やかなさを好んでいるので、
私達兄妹は出来うる限り応(こた)えた。
そして翌年の1月13日の初春に死去した。
母は最初に入院して、2回目の頃、
自分が婦人系のガンであったことは、自覚されたと推測される。
お互いに言葉にせず、時間が過ぎていった。
ご自分でトイレに行っている、と私が見舞いに行った時、看護婦さんから教えられた、
私は母の身も感じ、何よりも安堵したのである。
私たち兄妹は無念ながら次兄は40歳前に自裁され、欠けた4人となり、
そして60、50代となった私たち兄妹は、
もとより亡き母へのつぐないもこめて、葬儀は実家の長兄宅で出来うる限り盛会で行った。
母は昭和の時代まで何かと苦労ばかりされ、
晩年の10年間は、ご自分の好きな趣味をして、ご自分の欲しい衣服を買われたのが、
せめての救いと思っている。
納骨の四十九日目の納骨の『七七忌』法要、そして『百カ日』と続き、夏の新盆となった。
この少し前、長兄から盆提灯のことで電話連絡があり、、
『親戚、知人から思ったより多く盆提灯を頂いているので・・
悪いけれど妹たちと一緒にひとつにしてくれない』
と私に連絡してきた。
そして私は妹のひとりがデパート関係に勤めていたので、長兄から事情を話し、
お母さんの好きな桔梗の入った盆提灯を買って欲しい、
と私は言った。
そして妹のひとりは、絹地の高価な盆提灯を買い求め、
お母さんには何かと苦労をかけたので、相応しいよ、と私は妹に微笑みかけたりした。
そして長兄宅で新盆飾りの中、私たち三人が捧げた盆提灯を私は見ながら、
これまでの母の歩んできた人生の幾つかのしぐさ、言葉を思い馳せたりした。
こうした中でも、私の心は、母親の死去で失墜感、空虚感があった。
世間の人々は残された息子は幾つになっても、父親の死より、母親の死の方が心痛と聞いたりしていたが、
私の場合は父は小学2年に病死され、もとより母、そして父の妹の叔母に育てられたので、
53歳を過ぎた私でも心は重かったのである・・。
このような思いが盆提灯に私は秘めているので、我が家の居間に飾れば良いかしら、
と思っているのであった。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たったふたりだけの家族であり、
いずれ片割れとなり、確率は少ないけれど、私が『おひとりさま』になった時、
秘かに決意していることがある。
家内の写真を定期入れに愛用していた皮のケースに入れて私は持ち歩き、
独り住まいの居間には、盆提灯を置き、私たち夫婦が歩んできた人生に思いを重ね、
叱咤激励されたり、ときには優しかったりしてきたが、楽しかったょ、
と私は心の中で呟(つぶや)く、と思われるのである。
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私たち子供は中学、高校、そして大学が進むあいだ、
入学金や授業料はもとより、何よりも育ち盛りで家計が多くなった。
そして母は、ラブホテルのような旅館を小田急線とJRの南武線の交差する『登戸駅』の多摩川沿いに建て、
仲居さんのふたりの手を借りて、住み込み奮闘して働いた・・。
やがて、私達の生活は何とか普通の生活になった。
この当時の母は、里子として農家に貰われ、やがて跡取りの父と結婚し、
これといった技量といったものはなく、素人の範囲で何とか子供の五人を育ちあげようと、
なりふりかまわず連れ込み旅館を経営までするようになった、と後年の私は思ったりしたのである。
確かに母の念願したとおり、兄ふたりと私は大学を入学し、
妹ふたりは高校を出たあとは専門学校に学ぶことができたのである。
この間の母は、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、
子供たちを何とか世間並みの生活に、と働らいたくれた成果として、
ふつうの生活ができた上、私たち五人の子供は成人したのである。
まもなく、この地域で10数件あったラブホテル、連れ込み旅館は、
世情が変貌して衰退する中、母もアパートに改築した。
そして私達はお互いに独立して、社会に巣立ち、
私も25歳で遅ればせながら、民間会社に中途入社した後、
結婚する前の3年足らず、母が住んでいるアパートの別棟に同居したりした。
この後、私は結婚して、千葉県の市川市の賃貸マンションで新婚生活を過ごした後、
実家の近くに一軒屋を建て、2年後に次兄は自営業に破綻して、自裁した。
私は次兄に声ばかりの支援で、私も多大のローンを抱えて、
具体的な金策の提案に立てられない中、突然の自裁に戸惑いながら、後悔をしたりした。
何よりも、親より先に絶つ次兄を母の動揺もあり、私なりに母を不憫に思ったした時でもあった。
そして特にこれ以降、私達夫婦は、毎週の土曜日に母と1時間以上電話で話し合っていた。
母は食事に関しては質素であっても、衣服は気にするタイプであったが、
古びたアパートの経営者では、ご自分が本当に欲しい衣服は高く買えなく、
程ほどの衣服を丸井の月賦と称せられたクレジットで買い求めていた。
私は民間会社のサラリーマンになって、賞与を頂くたびに、
母には衣服を買う時の足しにして、とある程度の額をお中元、お歳暮の時に手渡していた。
この頃、親戚の裕福のお方が、身体を壊して、入院されていたが、
母が見舞いに行った時は、植物人間のような状態であった、と教えられた。
『あたし・・嫌だわ・・そこまで生きたくないわ』
と母は私に言った。
母は寝たきりになった自身の身を想定し、
長兄の宅などで、下半身の世話をなるのは何よりも険悪して、
私が結婚前に同居していた時、何気なしに死生観のことを話し合ったりしていた。
容態が悪化して、病院に入院して、一週間ぐらいで死去できれば、
多くの人に迷惑が少なくて良いし、何よりも自身の心身の負担が少なくて・・
このようなことで母と私は、自分達の死生観は一致していたのである。
このことは母は、敗戦後の前、祖父の弟、父の弟の看病を数年ごとに看病し、
やがて死去された思い、
そして近日に植物人間のように病院で介護されている遠い親戚の方を見た思いが重なり、
このような考え方をされたのだろう、と私は確信したりした。
やがて昭和の終わり頃、古びたモルタル造りとなったアパート経営をしていた母に、
世間のパプル経済を背景に、銀行からの積極的な融資の話に応じて、
賃貸マンションを新築することとなった。
平成元年を迎えた直後、賃貸マンションは完成した。
そして3ヶ月過ぎた頃、
『あたし、絹のブラウス・・買ってしまったわ・・少し贅沢かしら・・』
と母が明るい声で私に言った。
『お母さんが・・ご自分の働きの成果で買われたのだから・・
少しも贅沢じゃないよ・・良かったじゃないの・・』
と私は心底からおもいながら、母に云ったりした。
この前後、母は周辺の気に入ったお友達とダンスのサークルに入会していたので、
何かと衣服を最優先に気にする母にとっては、初めて自身の欲しい衣服が買い求めることが出来たのは、
私は、良かったじゃないの・・いままでの苦労が結ばれて、と感じたりしていた。
母が婦人系の子宮ガンが発見されたのは、それから6年を過ぎた頃であった。
私達兄妹は、担当医師から教えられ、
当面、母には悪性の腫瘍があって・・ということにした。
それから1年に1ヶ月程の入院を繰り返していた。
日赤の広尾病院に入院していたが、
母の気に入った個室であって、都心の見晴らしが良かった。
1997(平成9)年の初春、母の『喜寿の祝い』を実家の長兄宅で行った。
親族、親戚を含めた40名程度であったが、
母は集いに関しては、なにかしら華やかなさを好んでいるので、
私達兄妹は出来うる限り応(こた)えた。
そして翌年の1月13日の初春に死去した。
母は最初に入院して、2回目の頃、
自分が婦人系のガンであったことは、自覚されたと推測される。
お互いに言葉にせず、時間が過ぎていった。
ご自分でトイレに行っている、と私が見舞いに行った時、看護婦さんから教えられた、
私は母の身も感じ、何よりも安堵したのである。
私たち兄妹は無念ながら次兄は40歳前に自裁され、欠けた4人となり、
そして60、50代となった私たち兄妹は、
もとより亡き母へのつぐないもこめて、葬儀は実家の長兄宅で出来うる限り盛会で行った。
母は昭和の時代まで何かと苦労ばかりされ、
晩年の10年間は、ご自分の好きな趣味をして、ご自分の欲しい衣服を買われたのが、
せめての救いと思っている。
納骨の四十九日目の納骨の『七七忌』法要、そして『百カ日』と続き、夏の新盆となった。
この少し前、長兄から盆提灯のことで電話連絡があり、、
『親戚、知人から思ったより多く盆提灯を頂いているので・・
悪いけれど妹たちと一緒にひとつにしてくれない』
と私に連絡してきた。
そして私は妹のひとりがデパート関係に勤めていたので、長兄から事情を話し、
お母さんの好きな桔梗の入った盆提灯を買って欲しい、
と私は言った。
そして妹のひとりは、絹地の高価な盆提灯を買い求め、
お母さんには何かと苦労をかけたので、相応しいよ、と私は妹に微笑みかけたりした。
そして長兄宅で新盆飾りの中、私たち三人が捧げた盆提灯を私は見ながら、
これまでの母の歩んできた人生の幾つかのしぐさ、言葉を思い馳せたりした。
こうした中でも、私の心は、母親の死去で失墜感、空虚感があった。
世間の人々は残された息子は幾つになっても、父親の死より、母親の死の方が心痛と聞いたりしていたが、
私の場合は父は小学2年に病死され、もとより母、そして父の妹の叔母に育てられたので、
53歳を過ぎた私でも心は重かったのである・・。
このような思いが盆提灯に私は秘めているので、我が家の居間に飾れば良いかしら、
と思っているのであった。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たったふたりだけの家族であり、
いずれ片割れとなり、確率は少ないけれど、私が『おひとりさま』になった時、
秘かに決意していることがある。
家内の写真を定期入れに愛用していた皮のケースに入れて私は持ち歩き、
独り住まいの居間には、盆提灯を置き、私たち夫婦が歩んできた人生に思いを重ね、
叱咤激励されたり、ときには優しかったりしてきたが、楽しかったょ、
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