夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『梅ちゃん先生』の父親のような男には、無念ながら見果てぬ夢となった私・・。

2012-08-19 16:14:24 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
家内は朝のひととき、居間でNHKの連続テレビ小説『梅ちゃん先生』を視聴していることが多く、
そばのソファーで新聞か雑誌を読んでいることの多い私も、ときおり見たりしているが、
ヒロインの下村梅子の父親に微苦笑したりしている。

この父親は一家の主(あるじ)として、家族を養う責務がある中、
いつもしかめっ面で言葉少ない為、
家族には近寄りがたい昭和時代によくみられた頑固な親父(おやじ)であるが、
心の奥底は限りなく優しいタイプである。

そして私は心の中で、いいよなぁ、と呟(つぶや)いたりすることもある・・。


私は1944(昭和19)年に農家の子として、生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵(くら)、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と小学校の先生たちは称していた。

私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

そして幾たびか悪戯(いたずら)をしたりするたびに、
私は父から叱咤され、蔵(くら)に叩き込まれ閉じ込まれたり、
夕食のさなか、妹と同じようなスプーンである匙(さじ)をくれ、と私は言ったりすると、
母屋から放りだされ、私は泣きながら母屋の周囲を廻ったりした。

このした中で長兄、次兄は、学校の成績は優等生であり、
私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。
父が私が小学2年3学期になると、黄疸〈おうだん〉で長らく自宅治療をした後、
42歳の若さで肝臓が悪化して、病死した。

この少し前、自宅で寝込んでいた父が、町の医師が来宅して、治療を受けていた時、
『煙草(タバコ)は・・身体にいけないと・・あれほど言ったのに・・』、
と町の医師に父か叱咤されていたのを、偶然に私は見てしまい、
この世に父に怒る人がいる、と私は幼児ながら驚いていたのである。

後年になると、長兄、次兄と共に亡き父の話題を話したりすると、
俺もよく怒られたよ、と兄府ふたりは私に言ったりしたので、私は苦笑したりした。
父は肝要の祖父の跡継ぎの身ながら、身体を壊し、自宅治療の無念さもあり、
ともすれば苛立(いらだ)つことが多く、
悪戯を盛んにする男の子の三人に叱咤することが多かったのだろう、と解釈できたりした。

この後、翌年に祖父は胃がんで最寄の大学病院で亡くなった。
そして、大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめたのである・・。

母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私達の兄、妹の5人の子供が残され、
私たち子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった・・。

この後、確か小学6年生の頃か、テレビのドラマで山村聡(やまむら・そう)が父親で、
和気藹々と一家の団欒のドラマを視聴したりすると、
あのような楽しげな家庭は信じられない、と私は思ったりした。

私は結婚して、一家の主(あるじ)として、
息子には、社会がどのように変貌しても逞(たくま)しく生き続ける、
そして娘には、人さまから愛される良き性格になれるよう人に、
徹底的にしつけをしょうと夢想したりしていた。

しかしながら、もとより息子、娘に恵まれるのには、
天上の神々の采配に寄る、と私は後年に諭(さと)されたのである・・。


私が家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
妹は1969〈昭和44〉年の秋に嫁ぐ前に長兄宅に同居していたが、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、こよなく文學を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方で、
私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父からは、苦笑されながら、何かと私は可愛がれたりしていた。

こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975〈昭和50〉年の秋であり、
私たちは交際をはじめ、やがて翌年の1976(昭和51)年の春に結婚した。

千葉県・市川市の国府台で賃貸マンションで新婚生活を始めた。
私はこの当時は会社に勤めて、社内のシステム改定などで多忙で孤軍奮闘したりしていたが、
家内は中学生の時から茶事を学んできた延長として、週に一度にお茶の先生の宅に訪れて習ったりし、
料理、洗濯、掃除も手を抜くこともなく、何かと従順な新妻であった。

こうした中で、愛(いと)しき新妻に私は毎晩のように性愛を重ねて、
仲良し恋しを深めたりしていた。

そして少し狭い2DK賃貸マンションであったので、
子供ができて、這(は)いずりまわった時は狭いなぁ、
と私は思いながら、マンションか一戸建てを考えなければ、と次期の住まいを私たち夫婦は検討した。

結果的には、私の生家の近くの空き地に一戸建てを構えたのは、
1978(昭和53)年の春であった。
そして子供部屋の2室も設計に配慮したりし、
私は33歳の若さで世間知らず、気負いもあり住居の中で茶室を設けたりしたので、
更に多額な住宅ローンとなったりした。


こうした一年が過ぎた頃、父の妹のひとりの叔母が体調を崩して入院していたので、
私の幼年期に何かと私の面倒をみてくれたりしていたので、私たち夫婦はお見舞いに病室に訪れた。
私は叔母にお見舞いの言葉を述べたりした後、
『あなたたち・・結婚して4年目なのに・・子供に恵まれないの・・
XXX(私の名前)は5歳の時・・「おたふく」になったせいかしら・・』
と叔母は私に言った。

私は帰宅する時、確か3歳過ぎた時、
風邪をこじらせて肺炎となり、町の内科の医師に来て貰い、診察を受けたのである。
父と母は、幼児を放置していたかのような状態に、医師から叱咤を受けたりした。

しかしながら、あの頃は敗戦後のまもない時であり、
あの当時の私の地域の農家は、富山の薬の販売員が、担当地域のそれぞれの家を2ヶ月に1度ぐらいで巡回し、
家庭置き薬として常備薬を配布していた時代であった。

そして家庭の誰かが風邪などの場合は、この常備薬の風邪薬を飲んでいたし、
腹痛、歯の痛みなどは、この常備薬に対応した薬を飲んで、治したりしていた。

まして、あの当時は専門の小児科などは私の住む地域にはなく、
1955〈昭和30)年の頃から、住宅街に変貌して、
初めて小児科の病院が開業された時代であった。

私は医師から診察を受けたが、
熱が高く、ときおり呼吸が困難となり、やがて危篤の状態となった・・。
そして、医師から父と祖父に、
手遅れで治療のしょうもないので、残念ながら、まもなく・・
と宣言された後、
この後、やむなく祖父は、親戚のひとりに、
3番めXXX(私の名前)が危篤状態であるが、無念ながら助からない、
と意味合いの言葉を親戚、隣人、知人に伝達するように依頼をしたりした。

私は次第に青ざめ心臓が止まったかのような状況が30分ぐらい続き、
死の淵をさまよう表情に苦悶し、
まもなく祖父と父は断念して、ガーゼを水に浸したのを私の唇につけたのである。

私の住む地域では、古くから医師などにより死の宣告をされると、
家族はもとより兄弟姉妹などをはじめとした近親者が、
ガーゼなどで水に浸し、亡くなった人の唇につけてあげる習慣があり、
長老の言葉に寄れば、『末期の水』と称していた。

そして、母、叔母に続いて、長兄、次兄は、ガーゼを私の唇につけたのである。
この後は、『死に水』と称された、おのおの茶碗に少し水を入れ、
各自が飲んだのである。

このような状況の時、医師が、祖父と父、そして母に向かい、
『残念ながら・・まもなく亡くなると思われますが・・
この注射を最期の手段で・・試みて診(み)ます・・』
と言いながら、強心剤の注射をした。

そして、30分過ぎた頃、私は赤味を取り戻した身体になり、蘇生した・・。


このようなこと後年に私は教えられたが、
『おたふく風邪』はどこまで影響するのかは、母、小母たちからも教えてもらった記憶がないのである。

この後、私は医学の本で《睾丸などに生殖機能に後遺症が残る》と学び、
私は恥ずかしいので、少し遠方の病院で検査を受けたりした。
そして診断の結果としては、精液の量は普通ですが、やや精子が少ない、と医師から告げられた。

帰宅後、私は家内に包隠(つつみかく)すことなく伝えたりした。
色々と対策を医師から提示されたことも私たちは話し合ったりしたが、
結果としては自然のままの性愛の結果にゆだねるとした。

このような状況で、私は40歳過ぎた頃になった時、
私たち夫婦は子供のいない家庭に違和感もなく過ごしたりし、今日に至っている。

昨今、ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良し恋し、と好評を頂いている私たちでも、
ここ10数年、少子高齢化が社会の難題となり、
私は社会に対して、子供をさずかり、子供を育てる重責の一面を果たしていないことを思い浮かべ、、
ときおり後ろめたさを感じたりする時もある。

このように私たちは子供に恵まれずに、たったふたりだけの家庭であるので、
死後のお墓のことは、もとより一代限りなので、やむなく樹木葬などで土に還る、
ことなどを私たち夫婦は話し合ったりしている。

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