夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ひとり遊び、齢ばかり重ねた私は日々過ごし、恥ずかしながら上手になり・・。

2012-08-29 14:09:28 | 時事【社会】
私は中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めて、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職後した。
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

サラリーマンの現役時代の私は、もとより我が家の収入の責務があるので私なりに奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身で、洗濯、掃除、料理、買い物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官の責任を果たしてきた。

定年後の私は、年金生活を始め、家内の日常のペースを出来る限り、
乱したくないので、決意して実行してきた。

具体的には、家内は殆ど従来通りしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、独りで買物をしたりし、
その前後、独りで散策などをしている。

或いは茶坊主に徹し、殆ど朝は家内より早めに起き出して、
家内用のコーヒーを指定されたマグカップに淹れて、家内の枕元に置いたりしている。
そして日中のひととき、家内がコーヒーか煎茶を飲みたいようなことを素早く察して、
さりげなく淹れている。

このように家事に関しては、恥ずかしながら殆どしてこなく、
ときおり庭の手入れは、現役時代から私の専任者となっているぐらいである。


私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

平素の私たち夫婦の年金生活は、ご近所の方の奥様たちから、仲良し恋し、と好評を頂いている私たちでも、
いずれは片割れとなり『おひとりさま』となるので、
残された方は落胆しながらも、強い趣味があれば、やがて薄らいで、命果てるまで生きがいのひとつとなるので、
互いの趣味の時は大切にしている。

日常は私は、毎日のように独りで最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパーに行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
何かしら私は根がケチなせいか、路線バスに乗るのことなく、ひたすら歩いたりしている。
その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などを歩き廻ったりし、季節のうつろいを享受している。

そして時折、小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


定年後の年金生活を始めて、予期できなかったことがある。

小学生の4年の頃から映画に熱愛し、大学を中退し、映画青年の真似事をした体験のある私は、
映画の作品のDVDに興味が薄らいだのである、
或いは音楽の作品のCD、DVDにしても、私の感性が衰えてきたのか、作品自体が劣化した為か解らないが、
年金生活の8年生の今日まで、映画作品は3作品、音楽のアルバムは6作品ぐらい買い求めてきた程度である。

やむなく居間にある映画棚から、映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴く程度となった。

しかし本だけは相変わらず本屋に寄ったりして、単行本、新書本、文庫本などを買い求めたりし、
魅了された本に出逢えなかった時、ときおり古本屋まで行ったりしている。


会社の時代にめぐり逢えた先輩、同僚などの交流が薄らいだこともある。

殆どの方は年金生活をされて、ご自身の趣味を楽しまれながら、
ご自身の子供の家庭、そしてお孫さんが在て、愛おしく思いながら日々過ごしている、
と年賀状に認(したた)められている。

たまたま私が勤めてきた音楽業界は、1970、80年代はそれぞれのレコード会社は躍進したが、
1990年代を迎えると、特に外資系は、世界市場の中でアメリカに続いて、日本が第二位となり、
抜きん出た市場となり、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

そして1998年に売上の主軸となるCDがピークとなり、この少し前の年から
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社に30年近く勤め放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、
退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

私は定年退職の直前まで、失業保険の申請して、
勤める意志はなかったが、わずかばかりの額を甘受する予定であった。

しかし、私は長年に及び管理畑の身であったので、これといって特別な技術もなく、
たまたま家内の父が死去し、
退職直前は業務の引継ぎに加わり、多忙となったりした。

そして、この数年前の頃は大企業もリストラ烈風で失業された人達も多く、
真に職さがしをしている人に失礼と思い、失業保険の申請書を破棄したのである。
           
私は中小業のサラリーマンの身として、年収1千万円台で何とか卒業できたが、
大企業で栄進された方、或いは官公庁の上層部のように高額所得地位にも成れず、
程ほどの年収、退職金であったので、金融資産は程ほどである。

私の現役時代の財産といえば、
その時代と共に過ごした名曲の数多くが心に残り、
そして上司、同僚、後輩と共に音楽業界の空気を共にできたことである。

定年した後、年金生活を始めて、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする。


私は年金生活を始めて数年以内に、先輩、同僚の死去に接し、
余りにも若き60代なのに、と戸惑いながら、ご冥福を祈った。

私は現役サラリーマンの55歳の頃から、 定年退職の60歳から10年間だけ五体満足に生かしてくれれば、
70歳以降の人生は余生である、と公言し一部の方から険悪されたりしてきたが、
この根底は、長らく勤めた方のささやかな勲章として、
せめて退職後の10年は、ご自身の安息な時を過ごせるように、と信念を重ねたりしていたのである。


私は年金生活を始めて、まもなく丸2年を迎えようとした2006〈平成18〉年8月下旬、
山口文憲(やまぐち・ふみのり)・著作の『団塊ひとりぼっち』(文春新書)を読んだりした。

私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39年〉の秋に、
大学を中退し、映画・文学青年の真似事をし、あえなく敗退し、
やむなくある企業に何とか中途入社できたのは、
1970〈昭和45〉年の春で、満25歳の時だった。

この時代、定期採用で新入社した人達は、団塊の世代の人々である。
そして机を並べ、この業界の荒波の多い時代の苦楽を共にし、何かと友人には団塊の世代の人々が多かった、
団塊の世代の多くは、2007〈平成19〉年に定年を迎えるに際し、
数多くの団塊の世代について出版されていた・・。

山口文憲・著作の『団塊ひとりぼっち』からは、多々教示され、これからの時期も《ひとりぼっち》、
と学んだりした。
私は中途入社の身であったので、彼ら同期で何かと励まし合いながらも時代を過ごしてきたのを、
羨ましく感じたりしてきたので、私は衝撃を受けたのである。

そして私は定年後の年金生活は、何かと『ひとり遊び』の読書、本屋に寄ったり、散策などが多いので、
彼ら団塊の世代もについて《ひとりぼっち》かょ、と微苦笑したりし、今日に至っている。

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コメント (2)
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