私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
ここ一週間、今井清一・編集の『ドキュメント昭和史 5 敗戦前後』(平凡社)を再読したりしている。
この本は、1975(昭和50)の夏に、偶然に本屋の棚にあった『ドキュメント昭和史』(平凡社)として、
『1 昭和初年』、『2 満州事変と二.二六』、『3 日中戦争』、『4 太平洋戦争』、『5 敗戦前後』、
『6 占領時代』、『7 安保と高度成長』、『8 問われる戦後』の全8巻で、
私は恥ずかしながら昭和史にも少し知っている程度であったので、
学ぶために購読し、若き30歳の時に全8巻を読んだりしてきた。
それぞれの分冊は、この当時に優れた知識者の基で編集された渾身の『ドキュメント昭和史』と感じたりしていた。
改めて今回、37年ぶりに『5 敗戦前後』を再読し、若き30歳の時に深く理解できなかったこともあり、
多々教示を受けたりした。
読了後、ぼんやりと防空壕、防空頭巾、高射砲台のことなどに、思いを馳せたりした。
私は1944(昭和19)年9月に、
今住んでいる近くの北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)実家で生を受けた。
農家の子として、長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊となる。
かの大戦の敗戦の一年前の頃であるので、もとより戦争を知らない身なので、
後年になると祖父、父、母、叔母の同居する人たちから、
或いは親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰ったりしてきた・・。
北に軍事戦闘機を製造する中島飛行機の工場があり、
西に軍事物資を生産する軍需工場とされた東京重機が数キロ先にあったので、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた生家の崖の雑木林にある防空壕に避難した、と話していた。
祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、
人手の足らない時は小作人の人々の手も借りたりしていた。
そして空襲警報が発令されると、何をおいてもとりあえず防空壕に避難したので、
慌しい恐怖の時代でもあった。
少しばかり遠方にあった軍事物資を製造する場所、軍用機を生産している場所を目標に、
米軍の爆撃機が幾たびか飛来し、爆弾を大量に落としたのであるが、
ときには付近の田畑、雑木林に落下した、 と後年に親戚の叔父さんに私は教えて貰ったりした。
250キロの爆弾と言われても私は定かでないので、
更に教えを乞うと、今で言うとプロパンガスの大きな物ぐらいよ、と叔父さんは私に云われた。
私は大きなプロパンガスのような爆弾が、空から大量に降ってくる状況を想像すると、
身も心も身震いをしたのは、高校生の頃であった。
そして後年に、1944〈昭和19〉年11月24日、アメリカ軍は、
大型長距離爆撃機の『B29』がマリアナ諸島を飛びだった111機が東京に初空襲し、
目標は中島飛行機の工場だった、と学んだりした。
その後、幾たびか東京も空襲し遭い、決定的な東京の大惨事は、
1945〈昭和20〉年3月10日、『B29』が320機以上が、
1600~2200メートルの超低高度で、夜間に焼夷弾攻撃という新戦術が、
本格的に導入された初めての空襲であった。
その目的は、市民の生活の場である木造家屋が多数密集する下町の市街地を、
そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。
結果として、大きくの街は焼かれ、焼け焦げた遺体の山となり、死者・行方不明者は10万人だった、
と記載されたいた。
我が家の生家は、戦時中の頃は、
玄関の中は広い土間となり、その一角の壁面に、各自の綿入れの布地の防空頭巾をつるしていた。
そして空襲警報が発令されると、祖父、父、母、叔母の人々に導かれて、
私が生まれてまもない頃の時は、長兄は5歳、次兄は2歳であったので、
防空頭巾をかぶしてもらい、手をひかれながら、防空壕に避難された・・。
私は乳児であり、おしめの取れない時期であったので、
母たちは何かと大変だっただろう、と思い返したりしている。
後年になると、叔母たちが話されたので聞いたりすると、
この当時は、防空壕の内部の土の上に藁(わら)を敷いた上に、莚(むしろ)か茣蓙(ござ)に座り、
家族全員で互いの安否を確認した上で過ごした、
そして2歳過ぎた次兄が一度ばかりであったが、うんちをしたので少し困った、
と私たちは微苦笑したりした。
私が小学3年生の頃になると、
図画の授業で先生に引率されて、学校の近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台の跡が数多く見受けられた。
もとより戦時中、アメリカ軍の飛行機の来襲に備えて、高射砲で向かい撃つ態勢で、
造られた形跡であった。
そして上空から見えにくいようにコールタールの黒色に塗られていた。
この頃までは、小学校の帰路に寄り道をすると、数多くの防空壕が見受けられたり、
生家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。
雑木林の崖の一角に、縦横1.8メートルぐらいの入り口に木戸があり、
少し入ってまもなくすると、横に掘られ横幅が広くなり、奥は8メートルぐらいと感じたりした。
わずかに湿度を感じたりしたが、広間のようにゆったりとしていた。
後年の成人になった私は、
防空壕は入り口からまもなく角度が横になったのは、万一の爆風を避けることであろう、
そして幾分広めの内部は、平素の農作物の保存場所に併用していた、
とおぼろげに思ったりした。
この我が家の実家の防空壕は、私が中学に入学してまもない時、
都道が新設されることとなり、跡形もなく付近の田畑、雑木林も含め、大きく変貌したのであった。
このように戦争を知らない私は、防空頭巾、防空壕、高射砲台の跡、
この程度しか解からないひとりである。
このようなことを思い馳せたりしていたが、
もとより防空頭巾は、アメリカ軍の爆撃機が飛来して空から爆弾を落としたり、焼夷弾で焼き尽くしたり、
軍事生産地、住宅街などに大打撃を与え、住民も殺傷する目的を防ぐ目的であるので、
地上にいる人たちは余りにも残酷で、戦争は悲惨である。
敗戦となった日本は、数多くの方は家族を亡くされ、住まいも焼かれ、財産も失くしたが、
国からの賠償もなく、国民ひとり独りが立ち上がり、敗戦後の日々を歩みだしたことに、
私は圧倒的に感動させられ、当時の人々に思いを馳せると、胸が熱くなっている。
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ここ一週間、今井清一・編集の『ドキュメント昭和史 5 敗戦前後』(平凡社)を再読したりしている。
この本は、1975(昭和50)の夏に、偶然に本屋の棚にあった『ドキュメント昭和史』(平凡社)として、
『1 昭和初年』、『2 満州事変と二.二六』、『3 日中戦争』、『4 太平洋戦争』、『5 敗戦前後』、
『6 占領時代』、『7 安保と高度成長』、『8 問われる戦後』の全8巻で、
私は恥ずかしながら昭和史にも少し知っている程度であったので、
学ぶために購読し、若き30歳の時に全8巻を読んだりしてきた。
それぞれの分冊は、この当時に優れた知識者の基で編集された渾身の『ドキュメント昭和史』と感じたりしていた。
改めて今回、37年ぶりに『5 敗戦前後』を再読し、若き30歳の時に深く理解できなかったこともあり、
多々教示を受けたりした。
読了後、ぼんやりと防空壕、防空頭巾、高射砲台のことなどに、思いを馳せたりした。
私は1944(昭和19)年9月に、
今住んでいる近くの北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)実家で生を受けた。
農家の子として、長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊となる。
かの大戦の敗戦の一年前の頃であるので、もとより戦争を知らない身なので、
後年になると祖父、父、母、叔母の同居する人たちから、
或いは親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰ったりしてきた・・。
北に軍事戦闘機を製造する中島飛行機の工場があり、
西に軍事物資を生産する軍需工場とされた東京重機が数キロ先にあったので、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた生家の崖の雑木林にある防空壕に避難した、と話していた。
祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、
人手の足らない時は小作人の人々の手も借りたりしていた。
そして空襲警報が発令されると、何をおいてもとりあえず防空壕に避難したので、
慌しい恐怖の時代でもあった。
少しばかり遠方にあった軍事物資を製造する場所、軍用機を生産している場所を目標に、
米軍の爆撃機が幾たびか飛来し、爆弾を大量に落としたのであるが、
ときには付近の田畑、雑木林に落下した、 と後年に親戚の叔父さんに私は教えて貰ったりした。
250キロの爆弾と言われても私は定かでないので、
更に教えを乞うと、今で言うとプロパンガスの大きな物ぐらいよ、と叔父さんは私に云われた。
私は大きなプロパンガスのような爆弾が、空から大量に降ってくる状況を想像すると、
身も心も身震いをしたのは、高校生の頃であった。
そして後年に、1944〈昭和19〉年11月24日、アメリカ軍は、
大型長距離爆撃機の『B29』がマリアナ諸島を飛びだった111機が東京に初空襲し、
目標は中島飛行機の工場だった、と学んだりした。
その後、幾たびか東京も空襲し遭い、決定的な東京の大惨事は、
1945〈昭和20〉年3月10日、『B29』が320機以上が、
1600~2200メートルの超低高度で、夜間に焼夷弾攻撃という新戦術が、
本格的に導入された初めての空襲であった。
その目的は、市民の生活の場である木造家屋が多数密集する下町の市街地を、
そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。
結果として、大きくの街は焼かれ、焼け焦げた遺体の山となり、死者・行方不明者は10万人だった、
と記載されたいた。
我が家の生家は、戦時中の頃は、
玄関の中は広い土間となり、その一角の壁面に、各自の綿入れの布地の防空頭巾をつるしていた。
そして空襲警報が発令されると、祖父、父、母、叔母の人々に導かれて、
私が生まれてまもない頃の時は、長兄は5歳、次兄は2歳であったので、
防空頭巾をかぶしてもらい、手をひかれながら、防空壕に避難された・・。
私は乳児であり、おしめの取れない時期であったので、
母たちは何かと大変だっただろう、と思い返したりしている。
後年になると、叔母たちが話されたので聞いたりすると、
この当時は、防空壕の内部の土の上に藁(わら)を敷いた上に、莚(むしろ)か茣蓙(ござ)に座り、
家族全員で互いの安否を確認した上で過ごした、
そして2歳過ぎた次兄が一度ばかりであったが、うんちをしたので少し困った、
と私たちは微苦笑したりした。
私が小学3年生の頃になると、
図画の授業で先生に引率されて、学校の近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台の跡が数多く見受けられた。
もとより戦時中、アメリカ軍の飛行機の来襲に備えて、高射砲で向かい撃つ態勢で、
造られた形跡であった。
そして上空から見えにくいようにコールタールの黒色に塗られていた。
この頃までは、小学校の帰路に寄り道をすると、数多くの防空壕が見受けられたり、
生家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。
雑木林の崖の一角に、縦横1.8メートルぐらいの入り口に木戸があり、
少し入ってまもなくすると、横に掘られ横幅が広くなり、奥は8メートルぐらいと感じたりした。
わずかに湿度を感じたりしたが、広間のようにゆったりとしていた。
後年の成人になった私は、
防空壕は入り口からまもなく角度が横になったのは、万一の爆風を避けることであろう、
そして幾分広めの内部は、平素の農作物の保存場所に併用していた、
とおぼろげに思ったりした。
この我が家の実家の防空壕は、私が中学に入学してまもない時、
都道が新設されることとなり、跡形もなく付近の田畑、雑木林も含め、大きく変貌したのであった。
このように戦争を知らない私は、防空頭巾、防空壕、高射砲台の跡、
この程度しか解からないひとりである。
このようなことを思い馳せたりしていたが、
もとより防空頭巾は、アメリカ軍の爆撃機が飛来して空から爆弾を落としたり、焼夷弾で焼き尽くしたり、
軍事生産地、住宅街などに大打撃を与え、住民も殺傷する目的を防ぐ目的であるので、
地上にいる人たちは余りにも残酷で、戦争は悲惨である。
敗戦となった日本は、数多くの方は家族を亡くされ、住まいも焼かれ、財産も失くしたが、
国からの賠償もなく、国民ひとり独りが立ち上がり、敗戦後の日々を歩みだしたことに、
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