私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
私は中小業の民間会社に35年近く勤めて、2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。
私は殆ど毎日、家内より早めに起き出して、日の出前に起床することか多い。
そして洗面を終えた後、和室でバジャマから普段着に着替えたりしている。
この後、居間のビデオ・ケースの上に立てかけている
曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』に毎朝向っている。
そして彼の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いている。
たとえば、過ぎし4日には、
《・・
自己顕示
自己嫌悪
わたしの
こころ
うらおもて
みつを
・・》
このように氏の特有の書体で明記されたりしている。
私はこの相田みつを氏の遺(のこ)された名言を、人生の生きた哲学のように学び、
私の独断と偏見の多い日頃の言動の多い中、
人生の戒(いまし)めとして、日々教示されている。
私は神や仏様にすがる気持ちは、日頃から持ち合わせてないが、
神社仏閣を観た時は、そぉっと手をあわせている程度の男である。
しかしながら、相田みつを氏の遺(のこ)された言葉の前には敬愛する余り、神や仏様より高い存在となっている。
過ぎし1999〈平成11〉年の5月中旬、私たち夫婦は家内の両親と、
伊香保温泉に2泊3日で滞在した時、 ある民芸土産店で私はひとつの品に目がとまった・・。
『ひとりしずか』、と大きく題され、みつを、と署名されていた。
私は左下に『相田みつを作品集』、と読みながら、
著名なこのお方の名は知っていたのであるが、遅ればせながら初めて接した書物の言葉、そして書体であった・・。
《・・
ただいるだけで
あなたがそこに
ただいるだけで
その場の空気が
あかるくなる
あなたがそこに
ただいるだけで
みんなのこころが
やすらぐ
そんな
あなたにわたしも
なりたい
みつを
・・》
この言葉が表紙を捲(めく)った後、
最初のページに掲載され、瞬時に圧倒的に魅了されたのである。
私は幾つになっても拙(つたな)い我が身を振り返り、
私の父は小学2年の時に病死されたこともあり、
この日以来、私はこのお方を秘かに慈父のように人生の師と掲げたのである。
この作品集は、『トイレ用日めくり』、と明記されて折、
その日に応じたページに、さりげなく深い人生の教訓の言葉、そして特有な書体で書かれている。
その後、私は彼の遺(のこ)されたされた『じぶんの花を』、
『いのちいっぱい』、『雨の日には雨の中を 風の日には風の中を』などの作品を拝読し、
ときには傲慢と独断、そして偏見の多い私を戒(いまし)めている。
このような心情のある私は、今朝、いつものように読売新聞を読んていた時、
定例特集のひとつの『先人を訪ねて』に於いて、《 心癒やす にんげんだもの 》と大きく明記され、
今回は《 相田みつを (栃木県足利市)》と記載されていたので精読した・・。
読売新聞の地方部の木引美穂・記者の綴られた記事であり、無断ながら少し転記させて頂く。
《・・
相田みつをが終生、生まれ故郷の栃木県足利市で創作していたことはあまり知られていない。
・・
みつをは足利市の中心部を南北に分ける渡良瀬川の北にある旧市街地で生まれ、
歴史的な建造物のそばを遊び場にして育った。
書道では優れた腕前を持ちながらも、
独自の書体で、平易な言葉での表現にこだわった。
当時は世間に受けいられず、書道教室を開くなじして糊口(ここう)をしのいだ。
東京の書家から「弟子にならないか」と誘いも受けたが、断った。
結婚後は渡良瀬川の南の借宿町に移り住んだ。
みつをの長男で「相田みつを美術館」館長の相田一人さんは、
「父の作品は足利で生活していたらこそ生まれた」と言い切る。
「父は自然の中で自分を見つめ、人間を詠んだ詩を書いていた。
東京の喧噪の中では同じように創作はできなかっただろう」と話す。
創作となれば、アトリエにこもりきりになるが、
息抜きをするときは、決まって釣竿を手に渡良瀬川に向った。
酒もたばこもやらず、「浮きを眺めているだけで集中できる」と一人さんに話したという。
・・
初作品集『にんげんだもの』が1984〈昭和59〉年に出版されると、次第に作品の評判が広まり、
ロングセラーに。
それから7年後、脳内出血のために67歳で死去したが、残された多くの作品がファンをひきつけてやまない。
・・
みつをが釣り糸を垂らした川のほとりに立つと、
豊かな流れが涼しい風を運んでくるのを感じた。
川の流れのように、みつをの言葉は時代を超えても変わらずに、
人びとを癒やし、励ましつづけている。
・・》
このように綴られて、多々学んだ。
これまで氏の足跡は、私は多くの書物から学んできた。
1924(大正13)年、栃木県足利市に生まれ、
生家は名刹と知られている鑁阿寺(ばんなじ)の東に位置していた。
そして旧制栃木県立足利中学校在学中に於いて書や短歌、絵に親しんだが、
喫煙の濡れ衣をきせられ、軍事教練の教官に嫌われたために、進学を断念。
卒業後は歌人・山下陸奥に師事した。
1942〈昭和17〉年、歌会で生涯の師となる曹洞宗高福寺の武井哲応と出会い、在家しながら禅を学んだ。
そして1943(昭和18)年、書家を志して岩沢渓石に師事して、本格的に書の修行を積み、
1953(昭和28)年、関東短期大学夜間部国文科卒。
その後、書の最高峰のひとつとされる毎日書道展に於いて、
1954(昭和28)年から7年連続入選し、技巧派の書家として出発した。
しかしながら1947〈昭和22〉年の「鄭文公碑臨書」で古典的な書における実力を示す一方、
1950(昭和25)年に栃木県芸術祭書道中央展に出品した「宿命」では、
伝統的な書道界に対する複雑な思いを詩文書の形で吐露し、
専門家でなければ理解しにくい書のあり方に疑問を抱き、「書」と「詩」の高次元での融合を目指すようになった。
そして30歳の頃、独特の書体で、短く平易な自らの言葉を書く作風を確立。
1954(昭和29)年、最初の個展を足利市で開催し、その後も足利市などで毎年開催されるようになった。
こうした中で、翌年の1955(昭和30)年ろうけつ染めを学び、
書道教師ではなく、ろうけつ染めや地元商店からデザインを請け負うなどして生計を立てたりした。
その後、1974(昭和49)年、紀野一義のベストセラー『生きるのが下手な人へ』で紹介され、
さらに1984(昭和59)年に詩集『にんげんだもの』出版が契機となり、広く知られるようになった。
そして『にんげんだもの』は、その後ミリオンセラーとなり、
つづく第2詩集の『おかげさん』(1987年)が発刊され、約25万部のベストセラーとなり地位を確立した。
1991(平成3)年、道でころんで足を骨折し、足利市内の整形外科に入院したが、
脳内出血と診断され、それが原因となり急逝。
最期まで仕事への意欲は衰えず、「一文字を書いた大作だけを集めた展覧会を開きたい」というのが、
長男の一人さんとの最期の会話になった、と伝えられている。
今回、読売新聞の地方部の木引美穂・記者の綴られた記事に私は導かれ、
人は誰しも人生で苦楽する深淵を、氏はあえて平易な詩で発露され、
その上に独特の書体で書き遺(のこ)した根源に、ふるさとが歴然とあったことに、
私は驚きながらも、そうでしたか、と深く教示されたのである。
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私たち夫婦は雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
私は中小業の民間会社に35年近く勤めて、2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。
私は殆ど毎日、家内より早めに起き出して、日の出前に起床することか多い。
そして洗面を終えた後、和室でバジャマから普段着に着替えたりしている。
この後、居間のビデオ・ケースの上に立てかけている
曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』に毎朝向っている。
そして彼の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いている。
たとえば、過ぎし4日には、
《・・
自己顕示
自己嫌悪
わたしの
こころ
うらおもて
みつを
・・》
このように氏の特有の書体で明記されたりしている。
私はこの相田みつを氏の遺(のこ)された名言を、人生の生きた哲学のように学び、
私の独断と偏見の多い日頃の言動の多い中、
人生の戒(いまし)めとして、日々教示されている。
私は神や仏様にすがる気持ちは、日頃から持ち合わせてないが、
神社仏閣を観た時は、そぉっと手をあわせている程度の男である。
しかしながら、相田みつを氏の遺(のこ)された言葉の前には敬愛する余り、神や仏様より高い存在となっている。
過ぎし1999〈平成11〉年の5月中旬、私たち夫婦は家内の両親と、
伊香保温泉に2泊3日で滞在した時、 ある民芸土産店で私はひとつの品に目がとまった・・。
『ひとりしずか』、と大きく題され、みつを、と署名されていた。
私は左下に『相田みつを作品集』、と読みながら、
著名なこのお方の名は知っていたのであるが、遅ればせながら初めて接した書物の言葉、そして書体であった・・。
《・・
ただいるだけで
あなたがそこに
ただいるだけで
その場の空気が
あかるくなる
あなたがそこに
ただいるだけで
みんなのこころが
やすらぐ
そんな
あなたにわたしも
なりたい
みつを
・・》
この言葉が表紙を捲(めく)った後、
最初のページに掲載され、瞬時に圧倒的に魅了されたのである。
私は幾つになっても拙(つたな)い我が身を振り返り、
私の父は小学2年の時に病死されたこともあり、
この日以来、私はこのお方を秘かに慈父のように人生の師と掲げたのである。
この作品集は、『トイレ用日めくり』、と明記されて折、
その日に応じたページに、さりげなく深い人生の教訓の言葉、そして特有な書体で書かれている。
その後、私は彼の遺(のこ)されたされた『じぶんの花を』、
『いのちいっぱい』、『雨の日には雨の中を 風の日には風の中を』などの作品を拝読し、
ときには傲慢と独断、そして偏見の多い私を戒(いまし)めている。
このような心情のある私は、今朝、いつものように読売新聞を読んていた時、
定例特集のひとつの『先人を訪ねて』に於いて、《 心癒やす にんげんだもの 》と大きく明記され、
今回は《 相田みつを (栃木県足利市)》と記載されていたので精読した・・。
読売新聞の地方部の木引美穂・記者の綴られた記事であり、無断ながら少し転記させて頂く。
《・・
相田みつをが終生、生まれ故郷の栃木県足利市で創作していたことはあまり知られていない。
・・
みつをは足利市の中心部を南北に分ける渡良瀬川の北にある旧市街地で生まれ、
歴史的な建造物のそばを遊び場にして育った。
書道では優れた腕前を持ちながらも、
独自の書体で、平易な言葉での表現にこだわった。
当時は世間に受けいられず、書道教室を開くなじして糊口(ここう)をしのいだ。
東京の書家から「弟子にならないか」と誘いも受けたが、断った。
結婚後は渡良瀬川の南の借宿町に移り住んだ。
みつをの長男で「相田みつを美術館」館長の相田一人さんは、
「父の作品は足利で生活していたらこそ生まれた」と言い切る。
「父は自然の中で自分を見つめ、人間を詠んだ詩を書いていた。
東京の喧噪の中では同じように創作はできなかっただろう」と話す。
創作となれば、アトリエにこもりきりになるが、
息抜きをするときは、決まって釣竿を手に渡良瀬川に向った。
酒もたばこもやらず、「浮きを眺めているだけで集中できる」と一人さんに話したという。
・・
初作品集『にんげんだもの』が1984〈昭和59〉年に出版されると、次第に作品の評判が広まり、
ロングセラーに。
それから7年後、脳内出血のために67歳で死去したが、残された多くの作品がファンをひきつけてやまない。
・・
みつをが釣り糸を垂らした川のほとりに立つと、
豊かな流れが涼しい風を運んでくるのを感じた。
川の流れのように、みつをの言葉は時代を超えても変わらずに、
人びとを癒やし、励ましつづけている。
・・》
このように綴られて、多々学んだ。
これまで氏の足跡は、私は多くの書物から学んできた。
1924(大正13)年、栃木県足利市に生まれ、
生家は名刹と知られている鑁阿寺(ばんなじ)の東に位置していた。
そして旧制栃木県立足利中学校在学中に於いて書や短歌、絵に親しんだが、
喫煙の濡れ衣をきせられ、軍事教練の教官に嫌われたために、進学を断念。
卒業後は歌人・山下陸奥に師事した。
1942〈昭和17〉年、歌会で生涯の師となる曹洞宗高福寺の武井哲応と出会い、在家しながら禅を学んだ。
そして1943(昭和18)年、書家を志して岩沢渓石に師事して、本格的に書の修行を積み、
1953(昭和28)年、関東短期大学夜間部国文科卒。
その後、書の最高峰のひとつとされる毎日書道展に於いて、
1954(昭和28)年から7年連続入選し、技巧派の書家として出発した。
しかしながら1947〈昭和22〉年の「鄭文公碑臨書」で古典的な書における実力を示す一方、
1950(昭和25)年に栃木県芸術祭書道中央展に出品した「宿命」では、
伝統的な書道界に対する複雑な思いを詩文書の形で吐露し、
専門家でなければ理解しにくい書のあり方に疑問を抱き、「書」と「詩」の高次元での融合を目指すようになった。
そして30歳の頃、独特の書体で、短く平易な自らの言葉を書く作風を確立。
1954(昭和29)年、最初の個展を足利市で開催し、その後も足利市などで毎年開催されるようになった。
こうした中で、翌年の1955(昭和30)年ろうけつ染めを学び、
書道教師ではなく、ろうけつ染めや地元商店からデザインを請け負うなどして生計を立てたりした。
その後、1974(昭和49)年、紀野一義のベストセラー『生きるのが下手な人へ』で紹介され、
さらに1984(昭和59)年に詩集『にんげんだもの』出版が契機となり、広く知られるようになった。
そして『にんげんだもの』は、その後ミリオンセラーとなり、
つづく第2詩集の『おかげさん』(1987年)が発刊され、約25万部のベストセラーとなり地位を確立した。
1991(平成3)年、道でころんで足を骨折し、足利市内の整形外科に入院したが、
脳内出血と診断され、それが原因となり急逝。
最期まで仕事への意欲は衰えず、「一文字を書いた大作だけを集めた展覧会を開きたい」というのが、
長男の一人さんとの最期の会話になった、と伝えられている。
今回、読売新聞の地方部の木引美穂・記者の綴られた記事に私は導かれ、
人は誰しも人生で苦楽する深淵を、氏はあえて平易な詩で発露され、
その上に独特の書体で書き遺(のこ)した根源に、ふるさとが歴然とあったことに、
私は驚きながらも、そうでしたか、と深く教示されたのである。
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