私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
今朝、ぼんやりと一冊を本を再読していたら、この中の一句が心に沁みた。
まざまざと 在(いま)すがごとし 魂祭(たままつり)
季吟(きぎん)
長谷川櫂(はせがわ・かい)・著作の『四季のうた』(中公新書)の中の一句であるが、
俳句、短歌にも詠めなく素養のない私は、ときおり読みなから学んでいる。
この俳句は、現代の俳壇の雄である長谷川櫂(はせがわ・かい)氏の解説に寄れば、
《・・
八月は死者を想(おも)う月である。
六日と九日は原爆の日、十五日はお盆と敗戦の日が重なる。
お盆は先祖の精霊を家に迎える行事。
生者は死者がまるでそこにいるかのようにもてなす。
季吟は江戸初期の古典学者。若き芭蕉に学んだ。
・・》
このような解説が綴られている。
遅ればせながら私は、江戸前期の歌人、俳人の北村季吟(きたむら・きぎん)の遺(のこ)された一句を学び、
圧倒的に心に沁みた。
そして詠まれた時代は、江戸前期だったので、先祖の精霊を家に迎える『お盆の日』のこと、
と解り、遥か遠い人々の思いも、現在生かされている私たちも同じだ、と感じられた・・。
そして私は生家の『お盆の日』に思いを馳せたりした・・。
私の実家は付近の地域は、古来より8月1日は『お盆の日』となっている。
私は東京郊外の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域で、
1944(昭和19)年に農家の子として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほどの広さ田畑を小作人だった人たちの手も借りて、耕していた。
そして竹林、雑木林を維持管理し、田んぼの外れに半反(150坪)ぐらいの広さの蓮専用の水田があり、
田んぼの一角に湧水(わきみず)があり、幼児の頃から長らく湧き出す水の流れを見つめたりし、
この湧水から清流が流れ、やがて小さな小川となり、生家の田んぼの中を流れて行った。
私は父が病死したり、まもなく祖父が亡くなる小学三年生の頃までの情感を思いだしたりした。
遠い55年以上の前のことであるが、『お盆の日』の行事に関して、
心の片隅に残っている記憶を頼りに思い馳せたりした・・。
【迎え火】
7月30日の午前中のひととき、
仏間にある仏壇から位牌と仏具一式を取り出した後、仏壇の扉は、このお盆の期間だけ閉じられ、
この前に畳一帖ぐらい台に盆棚と称せられたこのお盆の時だけの棚が設置された後、
この盆棚に移された。
そして盆棚の中央の奥に位牌を置き、周辺に野菜、果物を供えられ、
胡瓜(キュウリ)に割り箸のような足を付け馬を見立て、
茄子(ナス)も同様な形で牛に見立てたものを飾っていた・・。
後年になると、叔父さんから、
馬は祖先の霊に乗って、この世にに戻り、
牛はお墓に戻る時に乗って帰られる、と私は教えられたりした。
台の手前は、座布団を敷き、その脇に桶に水を入れ、蓮(ハス)の葉に茄子(ナス)を小さく刻んだのを浮べ、
淡いピンクのミソ萩を小箒(こぼうき)のように作ったのを、水にしたし、清めていた。
そして台の左右に、この時節の百合(ユリ)の花などの草花を飾り、この中で蓮の花が中核となっていた。
この当時の生家は、蓮(ハス)は蓮専用の水田から、七月の頃に莟〈つぼみ〉となり、
やがてこの中から六本ぐらい少し花が開きかけた六本ぐらい祖父か父が取ったものであり、
百合(ユリ)の花などの草花は、父の妹の叔母たちが、畑の外れに花畑を作り、
殆ど一年の中の仏事の行事にまかなっていた。
そしてミソ萩は、湧水の周囲に群生させたのを、飾っていた。
果物のひとつに梨(ナシ)、柘榴(ザクロ)があるが、これは祖父が丹精こめて育て上げられ、
幼児の私は祖父に捥(も)いでもらい、食べたりしたが、
柿(カキ)と同様に、盆棚に飾られていた。
この日の夜から、お盆の送り火が終えるまで、
朝昼夜に水とご飯、そしてボタ餅を供えたりしていた。
この日の夕刻になると、稲の藁(ワラ)で作った松明(たいまつ)の灯りを先頭に、
祖先が埋葬されているお墓に行き、
参列者の家族一同は、おのおの手を後ろに組み、祖先を乗せて、帰宅するが、
盆棚の前で、手を解く、
こうしたことが、この地域の迎え火の暗黙のしきたりとなっていた。
【お盆の日の当日は・・。】
叔父、叔母をはじめとする親戚、縁者が来宅し、
盆棚でお線香を上げて頂き、盆棚の近くの広間で、煮しめ、ボタ餅を食べながら、
世間話をしたりした後、帰宅して頂く。
この間、僧侶を招き、読経をして頂くのが、恒例となっていた。
【送り火】
お盆の日の当日の夕刻、
家族一同は盆棚の前で、各自に手を後ろに組み、あたかも祖先を乗せて、
お墓に行き、手を解くのが、送り火と定められていた。
その後は、盆棚は整理され、位牌、仏具などは、いつものように安置している仏壇に納められる。
このように記憶していたが、遠い昔の出来事であるから、定かでないが、心に残っている。
私が定年後になると、家内と共に8月1日の『お盆の日』は、
朝の9時半前に、実家の長兄宅に行き、
簡略となった盆棚でお線香を上げ、長兄夫婦と談笑した後、
この後に来宅された親戚の叔父、叔母たちに私の少年期まで何かとお世話になったので、
この頃の時代の話を私はしたりすることが多い。
このようなことが7年ばかり続いている・・。
長兄宅を辞した後、家内とお墓参りに向うが、
自宅に戻り、お線香、お米を持ち、途中で花屋に寄り、
生前の母が好きだったお花を買い求めたりしている。
その後、路線バスに乗るか、或いは20分ばかり歩いてお寺に着く。
境内は広く、大きな樹木が数多くある上、平日が多く、一層に静寂となる。
そして外気は、暑さを樹木の枝葉がさえぎっているので、幾分涼しげとなる・・。
ときおり、蝉の声が境内と墓地の間の大きな樹木から聴こえる蝉しぐれとなり、
毎年の習性のような情景となる。
私は少なくともお墓参りは、生者の慰めと知っているが、
少なくとも亡くなった父と母、そして祖父に守られ、
こうして私は生きてこられてきたのは、まぎれないことであるので、
私は感謝の一心で、お墓参りをしている。
家内は母が生前の時、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、
私は今でも家内と母に秘かに、今でも感謝している。
お墓に行き、墓石を水で清め、お花を挿(さ)して、お米を備える。
そして、お線香を奉(ささ)げる。
私はお参りをするたびに、私が50代の半(なか)ばの時に、
病死された母のおもかげがよぎる。
私の場合は、父が私の小学2年の三学期だった時に病死され、
その翌年の5月に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。
このためか、ときたま生前の母のわずかなしぐさ、
言葉づかいが想いだされる。
お線香の煙が芳香を残して、空の中、立ち昇りながら消える・・。
その後、水屋の周辺の大木の樹木の中、
蝉の鳴き声が響きかせながら、盛大に聴こえることが多いのである・・。
このように私は、旧来からの『お盆の日』を迎え、毎年の習わしとなっている・・。
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今朝、ぼんやりと一冊を本を再読していたら、この中の一句が心に沁みた。
まざまざと 在(いま)すがごとし 魂祭(たままつり)
季吟(きぎん)
長谷川櫂(はせがわ・かい)・著作の『四季のうた』(中公新書)の中の一句であるが、
俳句、短歌にも詠めなく素養のない私は、ときおり読みなから学んでいる。
この俳句は、現代の俳壇の雄である長谷川櫂(はせがわ・かい)氏の解説に寄れば、
《・・
八月は死者を想(おも)う月である。
六日と九日は原爆の日、十五日はお盆と敗戦の日が重なる。
お盆は先祖の精霊を家に迎える行事。
生者は死者がまるでそこにいるかのようにもてなす。
季吟は江戸初期の古典学者。若き芭蕉に学んだ。
・・》
このような解説が綴られている。
遅ればせながら私は、江戸前期の歌人、俳人の北村季吟(きたむら・きぎん)の遺(のこ)された一句を学び、
圧倒的に心に沁みた。
そして詠まれた時代は、江戸前期だったので、先祖の精霊を家に迎える『お盆の日』のこと、
と解り、遥か遠い人々の思いも、現在生かされている私たちも同じだ、と感じられた・・。
そして私は生家の『お盆の日』に思いを馳せたりした・・。
私の実家は付近の地域は、古来より8月1日は『お盆の日』となっている。
私は東京郊外の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域で、
1944(昭和19)年に農家の子として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほどの広さ田畑を小作人だった人たちの手も借りて、耕していた。
そして竹林、雑木林を維持管理し、田んぼの外れに半反(150坪)ぐらいの広さの蓮専用の水田があり、
田んぼの一角に湧水(わきみず)があり、幼児の頃から長らく湧き出す水の流れを見つめたりし、
この湧水から清流が流れ、やがて小さな小川となり、生家の田んぼの中を流れて行った。
私は父が病死したり、まもなく祖父が亡くなる小学三年生の頃までの情感を思いだしたりした。
遠い55年以上の前のことであるが、『お盆の日』の行事に関して、
心の片隅に残っている記憶を頼りに思い馳せたりした・・。
【迎え火】
7月30日の午前中のひととき、
仏間にある仏壇から位牌と仏具一式を取り出した後、仏壇の扉は、このお盆の期間だけ閉じられ、
この前に畳一帖ぐらい台に盆棚と称せられたこのお盆の時だけの棚が設置された後、
この盆棚に移された。
そして盆棚の中央の奥に位牌を置き、周辺に野菜、果物を供えられ、
胡瓜(キュウリ)に割り箸のような足を付け馬を見立て、
茄子(ナス)も同様な形で牛に見立てたものを飾っていた・・。
後年になると、叔父さんから、
馬は祖先の霊に乗って、この世にに戻り、
牛はお墓に戻る時に乗って帰られる、と私は教えられたりした。
台の手前は、座布団を敷き、その脇に桶に水を入れ、蓮(ハス)の葉に茄子(ナス)を小さく刻んだのを浮べ、
淡いピンクのミソ萩を小箒(こぼうき)のように作ったのを、水にしたし、清めていた。
そして台の左右に、この時節の百合(ユリ)の花などの草花を飾り、この中で蓮の花が中核となっていた。
この当時の生家は、蓮(ハス)は蓮専用の水田から、七月の頃に莟〈つぼみ〉となり、
やがてこの中から六本ぐらい少し花が開きかけた六本ぐらい祖父か父が取ったものであり、
百合(ユリ)の花などの草花は、父の妹の叔母たちが、畑の外れに花畑を作り、
殆ど一年の中の仏事の行事にまかなっていた。
そしてミソ萩は、湧水の周囲に群生させたのを、飾っていた。
果物のひとつに梨(ナシ)、柘榴(ザクロ)があるが、これは祖父が丹精こめて育て上げられ、
幼児の私は祖父に捥(も)いでもらい、食べたりしたが、
柿(カキ)と同様に、盆棚に飾られていた。
この日の夜から、お盆の送り火が終えるまで、
朝昼夜に水とご飯、そしてボタ餅を供えたりしていた。
この日の夕刻になると、稲の藁(ワラ)で作った松明(たいまつ)の灯りを先頭に、
祖先が埋葬されているお墓に行き、
参列者の家族一同は、おのおの手を後ろに組み、祖先を乗せて、帰宅するが、
盆棚の前で、手を解く、
こうしたことが、この地域の迎え火の暗黙のしきたりとなっていた。
【お盆の日の当日は・・。】
叔父、叔母をはじめとする親戚、縁者が来宅し、
盆棚でお線香を上げて頂き、盆棚の近くの広間で、煮しめ、ボタ餅を食べながら、
世間話をしたりした後、帰宅して頂く。
この間、僧侶を招き、読経をして頂くのが、恒例となっていた。
【送り火】
お盆の日の当日の夕刻、
家族一同は盆棚の前で、各自に手を後ろに組み、あたかも祖先を乗せて、
お墓に行き、手を解くのが、送り火と定められていた。
その後は、盆棚は整理され、位牌、仏具などは、いつものように安置している仏壇に納められる。
このように記憶していたが、遠い昔の出来事であるから、定かでないが、心に残っている。
私が定年後になると、家内と共に8月1日の『お盆の日』は、
朝の9時半前に、実家の長兄宅に行き、
簡略となった盆棚でお線香を上げ、長兄夫婦と談笑した後、
この後に来宅された親戚の叔父、叔母たちに私の少年期まで何かとお世話になったので、
この頃の時代の話を私はしたりすることが多い。
このようなことが7年ばかり続いている・・。
長兄宅を辞した後、家内とお墓参りに向うが、
自宅に戻り、お線香、お米を持ち、途中で花屋に寄り、
生前の母が好きだったお花を買い求めたりしている。
その後、路線バスに乗るか、或いは20分ばかり歩いてお寺に着く。
境内は広く、大きな樹木が数多くある上、平日が多く、一層に静寂となる。
そして外気は、暑さを樹木の枝葉がさえぎっているので、幾分涼しげとなる・・。
ときおり、蝉の声が境内と墓地の間の大きな樹木から聴こえる蝉しぐれとなり、
毎年の習性のような情景となる。
私は少なくともお墓参りは、生者の慰めと知っているが、
少なくとも亡くなった父と母、そして祖父に守られ、
こうして私は生きてこられてきたのは、まぎれないことであるので、
私は感謝の一心で、お墓参りをしている。
家内は母が生前の時、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、
私は今でも家内と母に秘かに、今でも感謝している。
お墓に行き、墓石を水で清め、お花を挿(さ)して、お米を備える。
そして、お線香を奉(ささ)げる。
私はお参りをするたびに、私が50代の半(なか)ばの時に、
病死された母のおもかげがよぎる。
私の場合は、父が私の小学2年の三学期だった時に病死され、
その翌年の5月に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。
このためか、ときたま生前の母のわずかなしぐさ、
言葉づかいが想いだされる。
お線香の煙が芳香を残して、空の中、立ち昇りながら消える・・。
その後、水屋の周辺の大木の樹木の中、
蝉の鳴き声が響きかせながら、盛大に聴こえることが多いのである・・。
このように私は、旧来からの『お盆の日』を迎え、毎年の習わしとなっている・・。
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