夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『日本の夏・八月は 六と九で十五だ』と命言、つたない私でも読書を重ね・・。

2012-08-08 14:21:39 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
1944〈昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。

しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『広島被爆』、
その後まもない9日の『長崎被爆』、
そして15日の『敗戦記念日』は、黙祷をして36年は過ぎている・・。

かの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、 黙祷をして尊い命の冥福を祈っている。

こうした中で私は年金生活をしている今、読書をしたりしている中、
この8月の時節になると、原 民喜・著作の『夏の花』(1947年)、阿川弘之・著作の『春の城』(1953年)、
竹西寛子・著作の『管絃祭』(1963年)、井伏鱒二 ・著作の『黒い雨』(1966年)、
福永武彦・著作の『死の島』(1966年)などを、
若き日に文学青年の真似事をしていた時代に読んだりしてきたので、
この作品を思い馳せたりし、『広島』に心を寄せたりしてきている・・。

過ぎし2009(平成19)年2月中旬の時、
家内の母は、戦時中の時は、新潟の高田町(現在・上越市)で青春期の女学校の時、
多くの同級生と共に軍事工場に働き過ごした身であるが、
『生きているうちに・・一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ・・』、
と要望されたので、私達夫婦と家内の母の3人で長崎を訪れた。

私は家内たちとは別行動で、独りで長崎の各所を拝観したりした。
こうした中で、私は何かしら後ろめたいような心情で、長崎の『原爆資料館』に初めて訪れた。

そして、改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思うと、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれた・・。

旅立つ前に私は、永井隆(ながい・たかし)氏の略歴を学んだりしていたので、
未知の長崎医学大学の前を歩いたりし、
初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
氏の人生の歩みに圧倒される思いを馳せたりし、小春日和の中を独り歩いたのである。

そして『永井隆記念館』で拝見した後、売店で買い求めた本が、
永井 隆 ・著作の『長崎の鐘』(1946年)、そして『この子を残して』(1948年)で、
私は旅先のホテルで、遅れはせなから初めて読んだりした・・。

この本の中に栞(しおり)があり、
《 日本の夏・八月は
        六と九で十五だ  
 忘れない広島・長崎・終戦の貴重な体験  ながいまこと 》
と明記されていた。

ながいまこと氏は、永井隆氏の御子息であり、
長崎市立の『永井隆記念館』の館長をされている永井誠一氏である。

私は氏の《 日本の夏・八月は 六と九で十五だ 》のフレーズは、
確かな日本の夏の命言、と深く同意し、今でもこの栞(しおり)を大切にしている。

そして私は、永井 隆 ・著作の『長崎の鐘』を再読し、『長崎』に思いを馳せたりしている。

8月15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』の本に関しては、
もとより数多くの本を読んだりしてきているのが、省略する。


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