私は年金生活12年生の老ボーイの身であるが、
今朝、ぼんやりと居間にあるカレンターを見ると、
『文化の日』と朱記されていたので、日本文化を称(たた)える日だよねぇ、と私は微苦笑したりした・・。
やがて9時半過ぎに、いつものように家内から依頼された平素の買物で、
私は最寄のスーパーに向かって、歩いたりした・・。
爽やかな秋晴れに恵まれる中、あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染め始め、
いよいよ錦繍(きんしゅう)の時期が到来か、と私は微笑んだりした・・。
東京の世田谷区と狛江市に隣接する調布市の片隅の地域に住んでいる私は、
私の生家も近くにあるので、私自身としてはこの地域に住んで、早や65年が過ぎている。
こうした中で、平年ならば11月3日の『文化の日』の頃から、
あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染め始め、
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染められる錦繍(きんしゅう)の情景となる。
今年は私の願いを天上の神々に届いた為か、3週間前の頃から、
恥ずかしげに色合いを染めた落葉樹も観られて、スキップしたくなるような心情で散策をしてきた・・。

家内から二度目の買物を依頼され、もう一店のスーパーで指定された品を買い求めた帰路、
小公園に立ち寄り、木のベンチに私は腰を下ろしたりした。
おだやかな陽射しを受けた中、早くも年金生活は丸11年が過ぎて、12年生となったなぁ、
と私は微苦笑したりした。

私は中小業の民間会社に35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めた・・。
しかしながら、この間は幾たびのリストラを何とか通過したが、最後の5年半はデフレ烈風の中、
あえなく出向となったりし、私のサラリーマン時代は悪戦苦闘が多かったりした。
そして年金生活を当初は、解放感で高揚し、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
こうした時、若き時期に映画、そして文学青年の真似事を敗退した私は、
情念の残り火りのように西行、鴨長明、芭蕉が遺(の)こされた作品に思いを寄せることが多かった。
もとより西行(さいぎょう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人であり、
ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ 『山家集』もある。
そして鴨 長明(かもの・ ちょうめい)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人・随筆家。
『方丈記』が代表作となっている。
松尾 芭蕉(まつお ・ばしょう)は、江戸時代前期の俳諧師。
数多い中で私は、旅に病んで夢は枯野をかけ廻る、一句に圧倒的に魅せられてきた。

しかしながらに身過ぎ世過ぎの多い年金生活を数年過ごすと、
日常生活とか幾たびかの旅先に於いては、春夏秋冬の情景、この間の季節のうつろう情景に、
心を寄せて、深めて今日に至っている。
そして人影の少ない遊歩道、小公園などで、今の時節であったならば、
♪秋の夕日に照る山紅葉(やまもみじ)・・と高野辰之さんが作詞された『紅葉(もみじ)』を、
かぼそい声で唄ったり、心の中で唄ったりしてきた。

こうした中で、日々に感じたこと、思考したことなどが心の叫び、思いがあふれ、
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々の心情を脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた。
私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。
或いは4年近く前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
不勉強の為に筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。
しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省することがある。
このように私は自身の投稿文も大切であるが、文愛人のひとりの私は、
ここ11年数多くの方の投稿文を読ませて頂いたりした。
そして日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。
そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。
こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ哀歓を感じながら、年金生活を過ごしたりしている。
こうした数多く投稿文を読ませて頂く中、たとえたった一行の綴りでも、
瞬時に琴線(きんせん)が静かに奏(かな)で始め、やがて心酔させられる・・。
こうした時は、私はこのお方の愛読者となっている。
そして私のブログ左側にある【ブックマーク】於いて、ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く、
と明記して掲げている。

こうして私は年金生活を過ごしてきたかしら、とりとめなく思い馳せたりした・・。
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今朝、ぼんやりと居間にあるカレンターを見ると、
『文化の日』と朱記されていたので、日本文化を称(たた)える日だよねぇ、と私は微苦笑したりした・・。
やがて9時半過ぎに、いつものように家内から依頼された平素の買物で、
私は最寄のスーパーに向かって、歩いたりした・・。
爽やかな秋晴れに恵まれる中、あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染め始め、
いよいよ錦繍(きんしゅう)の時期が到来か、と私は微笑んだりした・・。
東京の世田谷区と狛江市に隣接する調布市の片隅の地域に住んでいる私は、
私の生家も近くにあるので、私自身としてはこの地域に住んで、早や65年が過ぎている。
こうした中で、平年ならば11月3日の『文化の日』の頃から、
あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染め始め、
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染められる錦繍(きんしゅう)の情景となる。
今年は私の願いを天上の神々に届いた為か、3週間前の頃から、
恥ずかしげに色合いを染めた落葉樹も観られて、スキップしたくなるような心情で散策をしてきた・・。

家内から二度目の買物を依頼され、もう一店のスーパーで指定された品を買い求めた帰路、
小公園に立ち寄り、木のベンチに私は腰を下ろしたりした。
おだやかな陽射しを受けた中、早くも年金生活は丸11年が過ぎて、12年生となったなぁ、
と私は微苦笑したりした。

私は中小業の民間会社に35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めた・・。
しかしながら、この間は幾たびのリストラを何とか通過したが、最後の5年半はデフレ烈風の中、
あえなく出向となったりし、私のサラリーマン時代は悪戦苦闘が多かったりした。
そして年金生活を当初は、解放感で高揚し、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
こうした時、若き時期に映画、そして文学青年の真似事を敗退した私は、
情念の残り火りのように西行、鴨長明、芭蕉が遺(の)こされた作品に思いを寄せることが多かった。
もとより西行(さいぎょう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人であり、
ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ 『山家集』もある。
そして鴨 長明(かもの・ ちょうめい)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人・随筆家。
『方丈記』が代表作となっている。
松尾 芭蕉(まつお ・ばしょう)は、江戸時代前期の俳諧師。
数多い中で私は、旅に病んで夢は枯野をかけ廻る、一句に圧倒的に魅せられてきた。

しかしながらに身過ぎ世過ぎの多い年金生活を数年過ごすと、
日常生活とか幾たびかの旅先に於いては、春夏秋冬の情景、この間の季節のうつろう情景に、
心を寄せて、深めて今日に至っている。
そして人影の少ない遊歩道、小公園などで、今の時節であったならば、
♪秋の夕日に照る山紅葉(やまもみじ)・・と高野辰之さんが作詞された『紅葉(もみじ)』を、
かぼそい声で唄ったり、心の中で唄ったりしてきた。

こうした中で、日々に感じたこと、思考したことなどが心の叫び、思いがあふれ、
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
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そして年金生活の日々の心情を脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた。
私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。
或いは4年近く前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
不勉強の為に筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。
しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省することがある。

このように私は自身の投稿文も大切であるが、文愛人のひとりの私は、
ここ11年数多くの方の投稿文を読ませて頂いたりした。
そして日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。
そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。
こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ哀歓を感じながら、年金生活を過ごしたりしている。
こうした数多く投稿文を読ませて頂く中、たとえたった一行の綴りでも、
瞬時に琴線(きんせん)が静かに奏(かな)で始め、やがて心酔させられる・・。
こうした時は、私はこのお方の愛読者となっている。
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