私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
若き時期のひととき映画青年の真似事をしたこともあったので、
読書が最優先であるが、ときおり居間で映画を観たりしている。
そして私なりのつたない鑑賞歴でも、魅了された作品は、何回でも観るタイプである。
例えば邦画の場合は、『二十四の瞳』、『東京物語』、『浮雲』、『雨月物語』等である。
洋画に関しては、『街の灯』、『市民ケーン』、『第三の男』、『逢びき』、『ライムライト』、
『ジョニーは戦場に行った』等は、10年ごとに観たりしている。
或いは最初の一ヶ月に於いて、少なくとも10回以上熱中して観る映画もある。
邦画の『七人の侍』、『用心棒』、『駅~STATION~』、 『切腹』、
洋画の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』、『ディア・ハンター』、
『ゴットファーザ Ⅱ』などが鮮明に記憶に残っている。
私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けて、
小学4年の頃から独りで映画館に行き、邦画に魅せられて、中学からは洋画にも魅了され、
これ以降は映画の愛好者のひとりなった・・。
やがて映画専門誌の『キネマ旬報』なども愛読し、シナリオにも関心をもち始めて、
シナリオライターになりたくて、大学を中退したのが、1964(昭和39)年の秋であった・・。
まもなく養成所の演出コースに入所して、アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人の新劇のある長老のアドバイスにより、
契約社員をしながら、小説を書き始めて、文学青年の真似事をした。
そして、習作に励んだりし、純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。
この後、1970(昭和45)年にある民間会社に何とか中途入社し、レコード会社に35年ばかり奮戦して、
2004年(平成16年)の秋に定年を迎え、多々の理由で年金生活を始めて、早や12年生の身である。
このように若き時代の一時には、映画館に通ったりして、程ほどに映画作品を鑑賞してきたので、
1966年(昭和41年)の頃までに上映された作品は知っているつもりであるが、
その後は数多くのサラリーマンと同様に、多忙な時代を過ごしたので、余り鑑賞する機会がなくなった。
定年後は年金生活をして、ときおり居間の映画棚に保管してあるビデオテープ、DVDの1000作品ぐらいを
居間のテレビを通して鑑賞したりしている。
しかしながら、2000年(平成12年)の頃までに制作された作品が圧倒的に多いので、
古き良き時代の映画の愛好者のひとりかしら、と微苦笑する時もある。
私は定年退職の5年前頃の2000年(平成12年)の当時は、
退職後にその時に観たい映画として、100作品前後の名作があればよいと考えていたが、
瞬(またた)く間に増えだした・・。
やむえず、250本収納できるビデオ・ラックを2本買い求め万全とした。
しかし、時代はビデオ・テープからDVDに移行期の上、
私のソフト販売店からの購入、或いはWOWOW、BS2からのコピーが増えて、
天上までとどく、幅広い大きなラックを買い増ましたりした。
そして今日は、邦画、洋画、映画以外のドキュメンタリー、音楽の四つの区分で、
ビデオ・テープ、DVDが並んでいる。
やがて2011年(平成23年)3月11日の東大日本震災後、老後の整理に喚起させられて、
小説・随筆などがある本棚の本、映画作品などがある棚にある作品を、やむなく7割ぐらい破棄した・・。

こうした中で、居間にあるテレビの50型、そしてブルーレイディスク・DVDレコーダーを連動させて、
或いは長年愛用してきたビデオテープも再生専用として、接続しさせ、
このような状況で、私が感銘させられた名画をテレビを通して鑑賞したりしている。
過ぎし6年前に高齢者入門が許された65歳の頃から、
齢を重ねるたびに、感銘を深めている邦画のふたつの作品がある。

ひとつは小津安二郎・監督の『東京物語』小津安二郎・監督(1953年)である。
映画の解説に寄ると、《・・上京した年老いた両親とその家族たちの姿を通して、
家族の絆、夫婦と子供、老いと死、人間の一生、それらを冷徹な視線で描いた作品である。
家族という共同体が年を経るとともにバラバラになっていく現実を、独特の落ち着いた雰囲気でつづっている・・》
私は、やがて到来する家族の崩壊を基調に秘め、恐れ入りました、と深く感じさせられた作品である。
1953年(昭和28年)に公開された作品であるが、脚本は名コンビと名高い野田高梧、小津安二郎の両氏であるが、
もとよりこれ以前に共同執筆され、この当時に於いて、
やがて日本が高度成長をする中で、社会はそれぞれの家族の共同体が崩壊し、やがて核家族化ていくありさまを、
的確で小津安二郎さんらしい繊細に提示した稀な作品、と深め重ねている。

もうひとつ作品は、木下恵介・監督の『楢山節考(ならやまぶしこう)』(1958年)である。
初めて鑑賞したのは、私が中学2年生の時に、独りで映画館で観たが、
山深い貧しいの因習に従い、年老いた母を背板に乗せて真冬の楢山へ捨てにゆく物語、と理解した程度であったが、
後年、映画青年の真似事をしていた時の私は、
自ら進んで「楢山まいり」の日を早める母(田中絹代)と、優しい孝行息子(高橋貞二)との間の無言の情愛が、
厳しく悲惨な行為と相まって描かれた作品に、感銘させられた。
そして遅ればせながら、田中絹代さんの演技に対する情念の怖さと凄さに敬服させられたり、
高橋貞二さんも好演させられたりした。
もとより『楢山節考(ならやまぶしこう)』は、作家・深沢七郎さんが創作され、
1956年(昭和31年)に総合雑誌『中央公論』11月号に掲載され、第1回中央公論新人賞を受賞した作品である。
そして単行本は翌年1957年(昭和32年)2月に中央公論社より刊行され、ベストセラーとなったりした。
私は高校時代に、古本屋で単行本を買い求めて、震撼させられながら感銘した作品である。
やがて戦後の満天の星のような日本の小説の名作の中で、『楢山節考』は燦然と輝く突出した作品と、
今でも評価している。

ここ30数年、親の介護などで社会問題となり、長寿社会の今は老老介護なども山積している。
やがて2025年(平成37年)が到来すれば、団塊世代の人々も、後期高齢者と称せられる75歳となる。
そして高齢者人口は、約3500万人(人口比約30%)に達する中、
年金、介護、医療費などの社会保障費の基盤は、経済復興がなければ衰退する・・。
こうした悲惨となった時、果たして後期高齢者は・・・と私は悪しき妄想をする時がある。
このような時、1956年(昭和31年)の前に、作家・深沢七郎さんが創作され、『楢山節考』に思い馳せることもある。
私は過ぎし6年前の65歳の頃から、齢を重ねるたびに、邦画の世界としては、小津安二郎・監督の『東京物語』(1953年)、
そして木下恵介・監督の『楢山節考』(1958年)、感銘を深めている作品がある。
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若き時期のひととき映画青年の真似事をしたこともあったので、
読書が最優先であるが、ときおり居間で映画を観たりしている。
そして私なりのつたない鑑賞歴でも、魅了された作品は、何回でも観るタイプである。
例えば邦画の場合は、『二十四の瞳』、『東京物語』、『浮雲』、『雨月物語』等である。
洋画に関しては、『街の灯』、『市民ケーン』、『第三の男』、『逢びき』、『ライムライト』、
『ジョニーは戦場に行った』等は、10年ごとに観たりしている。
或いは最初の一ヶ月に於いて、少なくとも10回以上熱中して観る映画もある。
邦画の『七人の侍』、『用心棒』、『駅~STATION~』、 『切腹』、
洋画の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』、『ディア・ハンター』、
『ゴットファーザ Ⅱ』などが鮮明に記憶に残っている。

私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けて、
小学4年の頃から独りで映画館に行き、邦画に魅せられて、中学からは洋画にも魅了され、
これ以降は映画の愛好者のひとりなった・・。
やがて映画専門誌の『キネマ旬報』なども愛読し、シナリオにも関心をもち始めて、
シナリオライターになりたくて、大学を中退したのが、1964(昭和39)年の秋であった・・。
まもなく養成所の演出コースに入所して、アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人の新劇のある長老のアドバイスにより、
契約社員をしながら、小説を書き始めて、文学青年の真似事をした。
そして、習作に励んだりし、純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。
この後、1970(昭和45)年にある民間会社に何とか中途入社し、レコード会社に35年ばかり奮戦して、
2004年(平成16年)の秋に定年を迎え、多々の理由で年金生活を始めて、早や12年生の身である。

このように若き時代の一時には、映画館に通ったりして、程ほどに映画作品を鑑賞してきたので、
1966年(昭和41年)の頃までに上映された作品は知っているつもりであるが、
その後は数多くのサラリーマンと同様に、多忙な時代を過ごしたので、余り鑑賞する機会がなくなった。
定年後は年金生活をして、ときおり居間の映画棚に保管してあるビデオテープ、DVDの1000作品ぐらいを
居間のテレビを通して鑑賞したりしている。
しかしながら、2000年(平成12年)の頃までに制作された作品が圧倒的に多いので、
古き良き時代の映画の愛好者のひとりかしら、と微苦笑する時もある。
私は定年退職の5年前頃の2000年(平成12年)の当時は、
退職後にその時に観たい映画として、100作品前後の名作があればよいと考えていたが、
瞬(またた)く間に増えだした・・。
やむえず、250本収納できるビデオ・ラックを2本買い求め万全とした。
しかし、時代はビデオ・テープからDVDに移行期の上、
私のソフト販売店からの購入、或いはWOWOW、BS2からのコピーが増えて、
天上までとどく、幅広い大きなラックを買い増ましたりした。
そして今日は、邦画、洋画、映画以外のドキュメンタリー、音楽の四つの区分で、
ビデオ・テープ、DVDが並んでいる。
やがて2011年(平成23年)3月11日の東大日本震災後、老後の整理に喚起させられて、
小説・随筆などがある本棚の本、映画作品などがある棚にある作品を、やむなく7割ぐらい破棄した・・。

こうした中で、居間にあるテレビの50型、そしてブルーレイディスク・DVDレコーダーを連動させて、
或いは長年愛用してきたビデオテープも再生専用として、接続しさせ、
このような状況で、私が感銘させられた名画をテレビを通して鑑賞したりしている。
過ぎし6年前に高齢者入門が許された65歳の頃から、
齢を重ねるたびに、感銘を深めている邦画のふたつの作品がある。

ひとつは小津安二郎・監督の『東京物語』小津安二郎・監督(1953年)である。
映画の解説に寄ると、《・・上京した年老いた両親とその家族たちの姿を通して、
家族の絆、夫婦と子供、老いと死、人間の一生、それらを冷徹な視線で描いた作品である。
家族という共同体が年を経るとともにバラバラになっていく現実を、独特の落ち着いた雰囲気でつづっている・・》
私は、やがて到来する家族の崩壊を基調に秘め、恐れ入りました、と深く感じさせられた作品である。
1953年(昭和28年)に公開された作品であるが、脚本は名コンビと名高い野田高梧、小津安二郎の両氏であるが、
もとよりこれ以前に共同執筆され、この当時に於いて、
やがて日本が高度成長をする中で、社会はそれぞれの家族の共同体が崩壊し、やがて核家族化ていくありさまを、
的確で小津安二郎さんらしい繊細に提示した稀な作品、と深め重ねている。

もうひとつ作品は、木下恵介・監督の『楢山節考(ならやまぶしこう)』(1958年)である。
初めて鑑賞したのは、私が中学2年生の時に、独りで映画館で観たが、
山深い貧しいの因習に従い、年老いた母を背板に乗せて真冬の楢山へ捨てにゆく物語、と理解した程度であったが、
後年、映画青年の真似事をしていた時の私は、
自ら進んで「楢山まいり」の日を早める母(田中絹代)と、優しい孝行息子(高橋貞二)との間の無言の情愛が、
厳しく悲惨な行為と相まって描かれた作品に、感銘させられた。
そして遅ればせながら、田中絹代さんの演技に対する情念の怖さと凄さに敬服させられたり、
高橋貞二さんも好演させられたりした。
もとより『楢山節考(ならやまぶしこう)』は、作家・深沢七郎さんが創作され、
1956年(昭和31年)に総合雑誌『中央公論』11月号に掲載され、第1回中央公論新人賞を受賞した作品である。
そして単行本は翌年1957年(昭和32年)2月に中央公論社より刊行され、ベストセラーとなったりした。
私は高校時代に、古本屋で単行本を買い求めて、震撼させられながら感銘した作品である。
やがて戦後の満天の星のような日本の小説の名作の中で、『楢山節考』は燦然と輝く突出した作品と、
今でも評価している。

ここ30数年、親の介護などで社会問題となり、長寿社会の今は老老介護なども山積している。
やがて2025年(平成37年)が到来すれば、団塊世代の人々も、後期高齢者と称せられる75歳となる。
そして高齢者人口は、約3500万人(人口比約30%)に達する中、
年金、介護、医療費などの社会保障費の基盤は、経済復興がなければ衰退する・・。
こうした悲惨となった時、果たして後期高齢者は・・・と私は悪しき妄想をする時がある。
このような時、1956年(昭和31年)の前に、作家・深沢七郎さんが創作され、『楢山節考』に思い馳せることもある。
私は過ぎし6年前の65歳の頃から、齢を重ねるたびに、邦画の世界としては、小津安二郎・監督の『東京物語』(1953年)、
そして木下恵介・監督の『楢山節考』(1958年)、感銘を深めている作品がある。
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