今朝、いつもように購読している読売新聞の朝刊を読んだりし、
やがて13ページの【解説】面に於いては、読売新聞調査研究本部客員研究員で
在米コラムニスト 斎藤彰さんが、【アメリカの風】と題した不定期寄稿文がある。
今回は 【 ある無名作家の死 】と題された寄稿文が掲載されて、
何かと読書好きな私は、精読した。
やがて読み終わった後、私は涙を浮かべていた・・。

無断であるが、この記事を転記させて頂く。
《・・2013年12月、福岡市のホテル屋上から、米国人男性が飛び降り自殺しました。
部屋に残された遺書などから、親日家で作家のキャトリー・レインさん(当時66歳)と
すぐに判明しました。
この事件は、日本では、話題にもなりませんでしたが、
今年に入り、米紙ワシントン・ポストの別刷り冊子「ワシントン・ポスト・マガジン」が
初めて特集記事で大きく報じて以来、自殺の経緯が明らかになりました。
「カリフォルニア大学卒後、オレゴン大学で博士号まで取得したレイン氏は、
一貫して文学者、哲学者としての道を志し、四十余年の執筆活動を通じ、
小説5冊、哲学書3冊を書き上げた。
愛、死、宗教などをテーマに思索を練った作品だったが、
どの出版社も反応は冷たく、刊行本1冊以外、残りはすべてウェブサイトでの自己出版だった」
「次第にフラストレーションと厭世(えんせい)感が高じ、
自殺直前には、親友、知人のジャーナリストらに自殺予告のメールまで送るに至った。
その行為はけっして、世間(そして出版社)の歓心を買おうとしたものではなく、
一作家としてやるだけのことは、やりつくし、人生路の終着点に来たという事実を
単純に告白しようとしたと判断される……」
ざっとこんな内容でした。

しかし、もしそうであったとしても、
なぜ、彼は自分の生涯を閉じるのに母国アメリカではなく、
わざわざ日本の地を選んだのでしょうか。
このほど、その手掛かりになる1人の証人に、詳しく話を聞く機会がありました。
サンフランシスコ在住で最近までカリフォルニア州立大学講師だった佐藤佳子さん(68歳)です。
佐藤さんは彼が英語教師として来日中に知り合い、結婚、
1992年に離婚するまで東京、ロサンゼルス、シアトルを含めて10年近く暮らしを共にしました。
彼はその後も1人で、何度か日本を旅しています。
自殺の直前までメールのやりとりがあった佐藤さんは、当時をこう振り返ります。
「彼は、隣人や友人のことを思いやり、相手の立場を理解しようとする日本人の心優しさに
ずっとひかれていました。
それに比べ、アメリカ人は一般的に我が強く、行動も自己中心的だと、ぐちをこぼしていました」
「そして彼は、そんなエゴを体現したアメリカの物質中心主義、競争社会に警告を発すると同時に、
批判だけではなく、母国への愛をも込めて本を書き続けようと、もがき苦しんでいました。
でも、出版界にはそれも理解してもらえず、虚脱感が鬱積(うっせき)していったのだと思います」

彼は遺作「作家としてのわが人生」の中で、自分のこれまでの主張のひとつの論拠として、
30年以上も前にアルビン・グールドナーという米国の社会学者が
著した『知識人の未来と新たな階層の台頭』と題するやや難解な書籍に一言触れています。
実際、この古書をひもとくと、
歴史、哲学、人間の価値を思索する本来の「知識人」と、
拝金主義と技術競争に埋没する「テクニカル・インテリゲンチャ」の両者が対比され、
アメリカ社会で次第に前者が後者にとって代わられつつあることが理路整然と論じられています。
レインさんが自殺前夜、長期滞在でお世話になったホテル従業員宛てに
自らつたない日本語でしたためた遺書があります。
そこにはこう記されていました。
「作家としての仕事を終えた。
私の本で私が言いたかったことを述べた……(今回)死ぬために日本に来た。
心の底から日本が好き」と心情を吐露した上、
末尾は「私を火葬し、日本に居させてください」とすがる想おもいの言葉で結ばれています。
日本の美、日本人の優しさを、わが愛する母国の人たちにももっと知ってほしい――
日米文化のはざまで苦悩しつつも、その一心で作品を書こうとした無名作家にとって、
残された道は、辞世のアピールだけでした。
同時にそれは、ともすれば居心地良い環境に浸り、日本人としての美徳すらも見失いがちな、
私たち自身に対する警醒であったのかもしれません。
そして彼は遺言どおり、福岡市当局の手で火葬され、ついに母国には永遠に帰らぬ人となりました。・・》
注)この原文、あえて改行を多くした。

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。
この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人だった方の手をお借りながらも田畑を耕していたが、
この頃に生家にある本と云えば、 農協の発刊する月刊誌の『家の光』ぐらい記憶がなかった。
やがて小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
居間にある書棚に本が並んでいたを見た時は、
私は子供心でも、眩暈(めまい)を感じたりした。
その後、私が都心にある高校に入学してから、
遅ればせながら、突然に読書に目覚めて、活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、
行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられ、これ以来文愛人(ふみあいびと)のひとりとなっている。。
この間、小学4年生の頃から独りで、たびたび映画館に通ったりしてきた映画少年であったで、
欧米の映画作品から感じられる文化に魅せられ、
或いはラジオから聴いた音楽の欧米の曲を享受していた。
この当時の私より10歳から20歳ぐらい齢上の人たちの多くは、
何かしら教養文化が、日本の若き男性、女性間で存在していた、
そして何かの分野で知識をもっていないと、恥ずかしい時代でもあったした。
やがて私はこうした一部の人から、サルトル、カミュの文学、
シャンソンのダミア、グレコは良いよねぇ、と教えられたりした、
そして私はすべて解らないなりに、気負って厚い単行本を小脇に抱えて、
高校時代を過ごす時もあったりした。
こうした青春期を過ごしてきた私は、
やがて東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に大学を中退し、
映画青年、やがて文学青年の真似事をしたりし、無念ながら敗退した・・。
そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通った後、
1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。
まもなく外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、やがてレコード会社で、
35年近く奮戦し2004年(平成16年)秋に定年退職した。
この間、幾たびリストラを遭遇したり、レコード会社の統廃合などあったりした後、
最後の5年半は、リストラ烈風の中、はかなくも出向となったりした、つたない半生であった。

今回、あるアメリカ人の無名作家の死を知り、
《・・歴史、哲学、人間の価値を思索する本来の「知識人」と、
拝金主義と技術競争に埋没する「テクニカル・インテリゲンチャ」の両者が対比され、
アメリカ社会で次第に前者が後者にとって代わられつつあること・・》危惧を深められながら、
(略)
そんなエゴを体現したアメリカの物質中心主義、競争社会に警告を発すると同時に、
批判だけではなく、母国への愛をも込めて本を書き続けようと、もがき苦しんでいました。・・》
或いは《・・日本の美、日本人の優しさを、わが愛する母国の人たちにも、もっと知ってほしい・・・
(略)
同時にそれは、ともすれば居心地良い環境に浸り、日本人としての美徳すらも見失いがちな、
私たち自身に対する警醒であったのかもしれません。・・》

こうした文節を読み終わった後、昭和一桁生れの方たちから教えられた教養文化も、
昭和50年の頃からは歴然と衰退してきたことを思い浮かべたりし、
《ともすれば居心地良い環境に浸り、日本人としての美徳すらも見失いがちな》な現世を、
海外の視線から、的確に表現されたりした・・。
このようなアメリカ人の無名作家のことを思い重ねて、私は涙を浮かべた・・。
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やがて13ページの【解説】面に於いては、読売新聞調査研究本部客員研究員で
在米コラムニスト 斎藤彰さんが、【アメリカの風】と題した不定期寄稿文がある。
今回は 【 ある無名作家の死 】と題された寄稿文が掲載されて、
何かと読書好きな私は、精読した。
やがて読み終わった後、私は涙を浮かべていた・・。

無断であるが、この記事を転記させて頂く。
《・・2013年12月、福岡市のホテル屋上から、米国人男性が飛び降り自殺しました。
部屋に残された遺書などから、親日家で作家のキャトリー・レインさん(当時66歳)と
すぐに判明しました。
この事件は、日本では、話題にもなりませんでしたが、
今年に入り、米紙ワシントン・ポストの別刷り冊子「ワシントン・ポスト・マガジン」が
初めて特集記事で大きく報じて以来、自殺の経緯が明らかになりました。
「カリフォルニア大学卒後、オレゴン大学で博士号まで取得したレイン氏は、
一貫して文学者、哲学者としての道を志し、四十余年の執筆活動を通じ、
小説5冊、哲学書3冊を書き上げた。
愛、死、宗教などをテーマに思索を練った作品だったが、
どの出版社も反応は冷たく、刊行本1冊以外、残りはすべてウェブサイトでの自己出版だった」
「次第にフラストレーションと厭世(えんせい)感が高じ、
自殺直前には、親友、知人のジャーナリストらに自殺予告のメールまで送るに至った。
その行為はけっして、世間(そして出版社)の歓心を買おうとしたものではなく、
一作家としてやるだけのことは、やりつくし、人生路の終着点に来たという事実を
単純に告白しようとしたと判断される……」
ざっとこんな内容でした。

しかし、もしそうであったとしても、
なぜ、彼は自分の生涯を閉じるのに母国アメリカではなく、
わざわざ日本の地を選んだのでしょうか。
このほど、その手掛かりになる1人の証人に、詳しく話を聞く機会がありました。
サンフランシスコ在住で最近までカリフォルニア州立大学講師だった佐藤佳子さん(68歳)です。
佐藤さんは彼が英語教師として来日中に知り合い、結婚、
1992年に離婚するまで東京、ロサンゼルス、シアトルを含めて10年近く暮らしを共にしました。
彼はその後も1人で、何度か日本を旅しています。
自殺の直前までメールのやりとりがあった佐藤さんは、当時をこう振り返ります。
「彼は、隣人や友人のことを思いやり、相手の立場を理解しようとする日本人の心優しさに
ずっとひかれていました。
それに比べ、アメリカ人は一般的に我が強く、行動も自己中心的だと、ぐちをこぼしていました」
「そして彼は、そんなエゴを体現したアメリカの物質中心主義、競争社会に警告を発すると同時に、
批判だけではなく、母国への愛をも込めて本を書き続けようと、もがき苦しんでいました。
でも、出版界にはそれも理解してもらえず、虚脱感が鬱積(うっせき)していったのだと思います」

彼は遺作「作家としてのわが人生」の中で、自分のこれまでの主張のひとつの論拠として、
30年以上も前にアルビン・グールドナーという米国の社会学者が
著した『知識人の未来と新たな階層の台頭』と題するやや難解な書籍に一言触れています。
実際、この古書をひもとくと、
歴史、哲学、人間の価値を思索する本来の「知識人」と、
拝金主義と技術競争に埋没する「テクニカル・インテリゲンチャ」の両者が対比され、
アメリカ社会で次第に前者が後者にとって代わられつつあることが理路整然と論じられています。
レインさんが自殺前夜、長期滞在でお世話になったホテル従業員宛てに
自らつたない日本語でしたためた遺書があります。
そこにはこう記されていました。
「作家としての仕事を終えた。
私の本で私が言いたかったことを述べた……(今回)死ぬために日本に来た。
心の底から日本が好き」と心情を吐露した上、
末尾は「私を火葬し、日本に居させてください」とすがる想おもいの言葉で結ばれています。
日本の美、日本人の優しさを、わが愛する母国の人たちにももっと知ってほしい――
日米文化のはざまで苦悩しつつも、その一心で作品を書こうとした無名作家にとって、
残された道は、辞世のアピールだけでした。
同時にそれは、ともすれば居心地良い環境に浸り、日本人としての美徳すらも見失いがちな、
私たち自身に対する警醒であったのかもしれません。
そして彼は遺言どおり、福岡市当局の手で火葬され、ついに母国には永遠に帰らぬ人となりました。・・》
注)この原文、あえて改行を多くした。

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。
この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人だった方の手をお借りながらも田畑を耕していたが、
この頃に生家にある本と云えば、 農協の発刊する月刊誌の『家の光』ぐらい記憶がなかった。
やがて小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
居間にある書棚に本が並んでいたを見た時は、
私は子供心でも、眩暈(めまい)を感じたりした。
その後、私が都心にある高校に入学してから、
遅ればせながら、突然に読書に目覚めて、活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、
行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられ、これ以来文愛人(ふみあいびと)のひとりとなっている。。
この間、小学4年生の頃から独りで、たびたび映画館に通ったりしてきた映画少年であったで、
欧米の映画作品から感じられる文化に魅せられ、
或いはラジオから聴いた音楽の欧米の曲を享受していた。
この当時の私より10歳から20歳ぐらい齢上の人たちの多くは、
何かしら教養文化が、日本の若き男性、女性間で存在していた、
そして何かの分野で知識をもっていないと、恥ずかしい時代でもあったした。
やがて私はこうした一部の人から、サルトル、カミュの文学、
シャンソンのダミア、グレコは良いよねぇ、と教えられたりした、
そして私はすべて解らないなりに、気負って厚い単行本を小脇に抱えて、
高校時代を過ごす時もあったりした。
こうした青春期を過ごしてきた私は、
やがて東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に大学を中退し、
映画青年、やがて文学青年の真似事をしたりし、無念ながら敗退した・・。
そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通った後、
1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。
まもなく外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、やがてレコード会社で、
35年近く奮戦し2004年(平成16年)秋に定年退職した。
この間、幾たびリストラを遭遇したり、レコード会社の統廃合などあったりした後、
最後の5年半は、リストラ烈風の中、はかなくも出向となったりした、つたない半生であった。

今回、あるアメリカ人の無名作家の死を知り、
《・・歴史、哲学、人間の価値を思索する本来の「知識人」と、
拝金主義と技術競争に埋没する「テクニカル・インテリゲンチャ」の両者が対比され、
アメリカ社会で次第に前者が後者にとって代わられつつあること・・》危惧を深められながら、
(略)
そんなエゴを体現したアメリカの物質中心主義、競争社会に警告を発すると同時に、
批判だけではなく、母国への愛をも込めて本を書き続けようと、もがき苦しんでいました。・・》
或いは《・・日本の美、日本人の優しさを、わが愛する母国の人たちにも、もっと知ってほしい・・・
(略)
同時にそれは、ともすれば居心地良い環境に浸り、日本人としての美徳すらも見失いがちな、
私たち自身に対する警醒であったのかもしれません。・・》

こうした文節を読み終わった後、昭和一桁生れの方たちから教えられた教養文化も、
昭和50年の頃からは歴然と衰退してきたことを思い浮かべたりし、
《ともすれば居心地良い環境に浸り、日本人としての美徳すらも見失いがちな》な現世を、
海外の視線から、的確に表現されたりした・・。
このようなアメリカ人の無名作家のことを思い重ねて、私は涙を浮かべた・・。
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