夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

何かと読書好きな私、財界で活躍されている方の読書家の思いを学び、微苦笑しながら同意を深めて・・。

2015-11-26 16:22:59 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
昼下りのひととき、週に2回ぐらい愛読しているビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』の基幹サイトで、
【 上田準二流「100冊の読書」で100通りの人生を経験 】と見出しされた記事を偶然に見たりした。

私は何かと読書好きのひとりであるので、どのような思いで本を読んでいるか、と好奇心が増して、
クリックして、記事を読んでしまった・・。

この記事の原文は、『PRESIDENT 』の2014年9月1日号に掲載された記事のひとつで、
『PRESIDENT 』の基幹サイトに2015年11月26日に配信され、
ジャーナリストの吉田茂人さんの寄稿文であるが、無断てあるが転載させて頂く。
 
前提として、この記事は『働く人』のコーナーで、「集中、思考、計画、実行」100点満点テクニックと特集連載された中で、
読書と題された副題である。

《・・違いはポテンシャルではなく、心構えと日々の習慣にある。
熾烈なグローバル競争が激化する中、成果を出す人の特徴とは?
アンケート調査が示す、歴然たる結果に激震が走る!
          

多くの企業トップが「勉強法」に挙げるのは、当然と言うべきか「読書」である。

学生時代に作家を志したこともあるファミリーマート会長の上田準二氏は読書家で知られる。
伊藤忠商事に勤めていたときの驚いた体験を
「業務に追われるなかで、『あれ、こういう局面は、前にも経験してるな』と感じることが、しばしばあった。
採るべき方策が次々と湧いてくるのです。

そうした直観に沿って行動すると、実際、事態は予想通りに進み、幸いにも難を逃れられる。
『俺には予知能力があるのか』と訝しんだほどです」(プレジデント誌10/4.12)と言い、
その能力が何によってもたらされたのかをこう説く。


「あるときに気づきました。
おそらく過去に読んだ大量の物語が、データベースとして私の頭の中に収まっている。
それが場面や局面に応じて、自然と湧き出てくる。
どれだけ時代が進み、技術が進歩しても、文学作品で描かれてきた人間の特質は、依然として我々のテーマであり続けています。

1人の人間が経験できる人生は1つだけです。
しかし100冊の心に残るような本を読めば、100通りの人生にも勝る経験を積むことができる。
ビジネスの現場で、経験は強力な武器となります」
          

多忙を極めた社長時代でも年間60冊を読破した前中国大使で伊藤忠会長も務めた丹羽宇一郎氏も、
本を読むことは時空間を超えて、自分では体験できない経験をすることだと言う。

「自身が経験した漠とした不思議さが、先人たちの経験と結びつき、普遍化される。
私の場合、2500年前の『論語』と出会い、経営の根幹にすべき倫理を学んだ。
人間には本来、私利私欲や自己保身に走る『動物の血』が流れている。

今回の金融危機はその歯止めが利かずに生じた資本主義の暴走以外の何ものでもない。
その過程では自分たちの能力を過信した数々の強欲や傲慢が跋扈したことだろう。

一方、『論語』が説く『仁・義・礼・智・信』の五常や
『温・良・恭・倹・譲・寛・信・敏・恵』の九つの徳目を心がければ、
自らの驕りを抑え、謙虚であり続けることができる。
この自律自省の精神を実践していくと長期的には必ず成果に結びつく」(2009/4.13)・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

今回、大企業で栄達されたファミリーマート会長の上田準二氏、そして前中国大使で伊藤忠会長も務めた丹羽宇一郎氏には、
恥ずかしながら敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした私は、
言葉を失いがちであるが、私も何かと読書好きな私で、文愛人(ふみあいびと)のひとりである。


私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅で、雑木の多い小庭に古惚けた戸建に住み、
近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。

この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人だった方の手をお借りながらも田畑を耕していた。

こうした中、私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
          
そして私が地元の小学校に入学したのは、1951年〈昭和26年〉の春である。
私は小学校の学業は、兄ふたりは優等生であったが、
なぜかしら私は通信簿『3』と『2』ばかりの劣等生であった。

そして、この頃に生家にある本と云えば、
農協の発刊する月刊誌の『家の光』ぐらい記憶にない。

やがて小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
居間にある書棚に本が並んでいたを見た時は、
私は少年心でも、眩暈(めまい)を感じたりした。

その後、私が都心にある高校に入学してから、
遅ればせながら、突然に読書に目覚めて、活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、
行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられた。
                     

この間、小学4年生の頃から独りで、たびたび映画館に通ったりしてきた映画少年の体験も加わり、
高校3年を卒業するころから、映画専門誌の『キネマ旬報』に添付してあるシナリオなどを精読し、
古本屋まで行って買い求めたりし、 脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)さんを神様のように信愛した。

やがて東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の直前に、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。
                    
そしてアルバイトをしながら、映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりしていた。

この間、専門養成所に入り、やがて講師の知人の新劇の長老から、
映画は衰退するばかりで、同じ創作分野だったら小説を書けば、と強く勧められたりした。
          

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。
                 
       
そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりし、
こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられ心酔させられたのは、井上靖、そして立原正秋の両氏であった。

この当時の私は、アルバイト、契約社員などをしながら、習作をしていた。

そして確固たる根拠もなかったが、独創性はあると思いながら小説の習作したりし、
純文学の新人コンクールに応募したりしたが、当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、
こうしたことを三回ばかり繰り返し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

こうした中、生家でお彼岸の懇親している時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向を決意した。

そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが卒業した。
                                

やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。
      
                                         
その後の私は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活となり、
こうした中で、あるレコード会社の情報畑、管理畑に勤めながら、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、浅田次郎の
各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かった。

そして2004年(平成16年)秋に35年近く勤務し定年退職したが、
この最後の5年半は、リストラ烈風の中、はかなくも出向となったりした。

出向先は、各レコード会社がCD、DVDなどの音楽商品を委託している物流会社で、
不馴れな職場で、自分の敵は自分です、と自身を叱咤激励したりした。

こうした中で、先輩、同僚、後輩の一部は、やむなく退職を余儀なくされ、
私は何とか2004年(平成16年)秋に定年退職を迎えることができたので、敗残者のようなサラリーマン航路を過ごした。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、
一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などで、38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、
私は遥かに遠い存在である。

私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、定年退職後に年金生活を始めた・・。
          

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後37年ばかりの一軒屋に住んでいる。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂き、程ほど貯金を取り崩しながら、ささやかに過ごしている。

そして私の生家も近くにあるので、私自身としてはこの地域に住んで、早や65年が過ぎている。
       
こうした中、 日常の殆どは私が年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、買物メール老ボーイとなっている。

そして最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。
          
この後は、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
自宅付近から3キロ範囲にある遊歩道、小公園などをひたすら歩くことが多くなっている。

私は歩きながら、うつろう情景に心を寄せ、
過ぎ去った日々に愛惜を深めたり、本日もこうした風景にめぐり逢えたことに感謝をしたり、
季節の移ろいを享受している。
                                

そして午後から夜にかけての大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
定年後からは特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は45年近く購読し、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は購読したりしている。

こうした中で、ときには居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。        

そして年金生活は何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、 日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

このような年金生活を丸11年間を過ごし、時折、小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったりし、
或いは私たち夫婦は、国内旅行を幾たびか5泊6日前後の旅路を重ねてきた。

改めて年金生活を振り返れば、読書が最優先として、
そしてパソコンでブログの投稿文を綴ったり、私が愛読している御方の投稿文を読ませて頂いたり、
映画を室内鑑賞をし、殆ど毎日9時間ぐらい読んだり、視(み)たりしてしている・・。

こうした生活をしてきた私は、今回の記事を読みながら、この御人の前では、定年退職するまでの半生は劣等生の私でも、
読書の底知れぬ魅力は、同じですよねぇ、と同意しを深めたりしている。


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