夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
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「やすらぎの郷」脚本家・倉本聰さん、高齢者の生活で大切なことは「明るく生きることが第一」、私は教示され、やがて微笑み・・。

2017-10-21 12:21:47 | ささやかな古稀からの思い
先程、ときおり愛読している朝日新聞社系の基幹サイト【AERA dot.(ドット)】を見ている中、
【 「やすらぎの郷」脚本家・倉本聰
           「安倍首相より田中角栄と酒を飲みたい」理由  】と見出しを見てしまった。



私は倉本聰(くらもと・そう)さんの作品に初めて触れたのは、1975(昭和50)年1月過ぎであった。

映画の脚本家・橋本忍(はしもと・しのぶ)さんの『砂の器』のシナリオが読みたくて、
本屋で雑誌の『シナリオ』(シナリオ作家協会)の1月号を買い求めた。

この中のひとつに、東芝日曜劇場の『りんりんと』のシナリオが掲載されていた。

確か「東京から北海道・苫小牧へ向かう1隻のフェリーを舞台に、2人だけの、たった2日間の船旅で、
母親と息子の交錯する人生の感慨を描くドラマであった。

こうした中、老いた母の人生の黄昏の姿や人生の重みを、息子はどう感じるだろうか。
母はなぜ、息子たちを捨ててまで故郷に向かうのか。

東京・晴海埠頭。信(渡瀬恒彦)は、年老いた母・さわ(田中絹代)とともに、
北海道・苫小牧行きのフェリーに乗り込んだ。

苫小牧は、さわにとって生まれ故郷。
50年ぶりの帰省に、さわは、まるで観光旅行にでも出かけるように浮き立っていた。

だが実際、苫小牧に向かう目的は、そこにある老人ホームに入るためだった。
息子たちの反対を押し切って、さわは、そこに行くことを選んだ。《TBSチャンネル広報資料を大半引用》

私はこの当時としては、なんてシリアスなドラマを書く人、と倉本聰さんの作品に初めて知り、印象が残った。

やがて10数年後に私にとっては、倉本聰さんの舞台以外、
映画・テレビの数多くシナリオ、随筆などを殆どすべて購読して、
作品はもとより、生活信条、創作の考え方、環境問題等で、書物上から多々ご教示を頂き、
信愛するひとりとなり、今日に至っている。

このような私であるが、未読記事であったので、精読してしまった。

           

この記事の原文は、発売中の週刊朝日のムック『高齢者ホーム 2018』に於いて、
坂口さゆりさんが、倉本聰さんに理想のホームや、死生観などを尋ねる、インタビー記事であり、
関連の基幹ネットのひとつ【AERA dot.】に2017年9月30日に配信され、無断ながら転載させて頂く。

《・・「やすらぎの郷」脚本家・倉本聰、「安倍首相より田中角栄と酒を飲みたい」理由 

脚本家・倉本聰(82歳)が、シルバー世代に向けて手がけた昼ドラ「やすらぎの郷」(テレビ朝日系)、
(略)“やすらぎロス”が叫ばれるなか、現在発売中の週刊朝日ムック「高齢者ホーム 2018」では、
倉本聰にとっての理想のホームや、死生観などを尋ねている。

           

――高齢者の生活で大切なことは「明るく生きることが第一」と倉本は言う。
    人生に必要なのは「生きがい」と「笑い」だ。

人間やることがなくなっちゃったら、生きていても仕方がない。
だから、最期まで何かやれることは、見つけなければいけない。

僕はおふくろが亡くなった時、老人の生きがいは、人のために役に立つことなんだということがわかりました。
人間として、社会の中に存在するということは結局、人のために役に立っているということ。
そこを誤解してはいけないという気がします。 

いちばんいいのは、自分の子孫や家族の未来に対する奉仕ができるかどうか、かもしれません。
よく言うんだけど、昔話は「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが、住んでいました」から始まります。

「お父さんとお母さんが住んでいました」という始まりはありません。
というのはね、昔はおじいさんとおばあさんが、孫を預かって育てていた。

教育係は、おじいさんとおばあさんで、お父さんとお母さんは、外に稼ぎに行ってたんです。
そんな子どもは、生活の知識もあるし、きちんとした、しつけもされていた。

今の時代も、それができるなら、したほうがいい。
高齢者の生きがいにもなるし、児童手当や待機児童の問題も解決すると思うんですけどね(笑)

                      

――人生に必要なもう一つの要素は「笑い」。
    倉本は、いま日本人にいちばん欠けていることかもしれないと言う。

人にただ話すのと、そこに笑いを入れるのとでは、相手の引きつけられ方が変わってくる。
狙った笑いではなく、笑いのポイントって、たくさんあるような気がします。
笑いがあると、人は引きつけられるし、話に乗ってきてくれる。
笑いのある人は、魅力的です。

 日本人はジョークがヘタでしょ。
でも、世界のジョークのネタになる民族としては、かなり上位。

日本人を題材にしたジョーク集は、たくさんあります。

例えば、ある国会議員が戦後初めて訪米団の一員として、米国へ行った時の話。
米国はジョークの国だから、ジョークを覚えていかなくちゃダメだと言われて、
一生懸命覚えていったらしいんです。

それでアメリカの議員と会った時に、
“My country is rice country. Your country is also rice country. Both the same.”
と笑ったそうなんだけど、シラーとされちゃった。

意味わかります? 
「日本は米の国だ。アメリカは“米国”だから、ライスカントリー。同じだ」って。

そう言われても、漢字を知らない米国人には、わからないよね。
これ実話ですよ。
こういう話ってバカバカしいんだけど、聞いていて楽しいでしょ。


笑いは、とっても難しいんです。
泣くという感情は、割と万国共通なんですが、
笑いは、育ちや国によっても違うし、地域差がある。

だからこそ、笑いのある高齢者ホームは、理想ですね。
いまの日本は、明るくないでしょ。
政治に、笑いがなさすぎるって気がするんです。

これは総理大臣の、トップの資質によるんだと思う。


振り返ってみると、吉田茂、田中角栄、小泉純一郎は、なんとなく明るかった。
人間が陽だったんですよ。

安倍晋三は陰ですね。一緒に飲みたいとは思わないな。
逆に、田中角栄は飲んでみたいけどね(笑)・・》


注)記事の原文に、あえて改行を多くした

           

私は読み終わった後、瞬時に魅了されて、圧倒的に共感させられたことは、
《・・人生に必要なのは「生きがい」と「笑い」だ。・・》
そして《・・高齢者の生活で大切なことは、「明るく生きることが第一」・・》であった。


私は小学5年の頃まで、劣等感と卑屈にさいなまれ、いじけた可愛げのない屈折した児であった。
こうした根底のひとつには、兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生で、

通信簿を学期末に頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生が溜息まじりに言われたりしていた。        
 
この当時の私は、クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けられていた。

何かと平素は無口の癖に、ときたま怒り出し、周囲の多くの同級生が困惑し、
伊豆七島のひとつの大島は、幾10数年ごとに爆発する活火山の由来だった。
     
やがて小学6年生の頃になると、突然に人前でおしゃべりをすることが大好きと変貌して、
見知らぬ小父さん、小母さん対しても、私の方から話すようになり、
母、兄妹、そして父の妹でこの当時未婚だった叔母も驚いていた・・。

これ以来、私はお調子者のひとりとなって、学生時代、社会人のサラリーマンの中、
ときにはトンボのように自由にふるまったり、おだてられると高揚しながら奮闘したりしてきた。
そして、同じ仕事をするなら、明るく楽しくしょうょ、と職場で公言したりしてきた。

或いは私は現役サラリーマン時代も、初対面した御方には、表情、しぐさはもとより、
言葉づかい、アクセントなどを記憶するように努め、明るい笑顔で対応してきた。

こうした中、会社間で合併した時も、私は母の血筋を純粋に受け継いだ為か、
恥ずかしながら男の癖に、おしゃべりが好きで、
相手方の多くの社員と談笑を重ねて、交遊を深めたりしてきた。
           
            

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

過ぎし2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始めた。

こうした中、相変わらず亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、
おしゃべりが好きで、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、見知らぬ男性、
女性グループの御方たちと、話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑し、
殆ど毎日過ごしている。

或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらくねぇ・・、と私は笑いながら逢ったりして、
日中はコーヒー、夕暮れからはビールか水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。

ときおり私たち夫婦は、都心のシティホテル、街、公園、国内の旅先で、異国人から話しかけられ、
私は英語の単語をたどたどしく並べて、身振り手振りで応対していた状況を、
家内が傍で見かけて、家内は私に、外国に行ったらアブナイわ、と信頼が失墜しているのが実情となっている。

私としてはサラリーマン時代に、会社として台湾、その後はハワイに旅行で遊学したが、
このような事情で、私たち夫婦として、異国の海外旅行に行ったことのない稀な夫婦となっている

そして気楽に日本語が通じる国内旅行を私たち夫婦は重ねてきたが、
旅先でも、私は食事処、ロビーなどて隣席した見知らぬ方でも、話しかけて談笑したりしている。
                          
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

           

平素の私は、2004年(平成16年)の秋、定年退職となり、
年金生活を始めたが、平素の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の担当となったりした。

そして家内から依頼された品を求めて、私は独りで歩いて7分前後にある最寄のスーパー2店か、
或いは最寄駅まで歩いて、数多くスーパー、専門店で買い求めたりしている。

最寄駅までは、利便性ある路線バスは頻繁に走行しているが、季節のうつろう情景を眺めたり、
歩くことは何よりの健康の源(みなもと)と信愛している私は、原則として路線バスに頼らず、
ひたすら歩いて往還している買物メール老ボーイとなっている。

そして買物メール老ボーイの責務を終えた後、帰宅後も私は独りで外出して、
自宅から3キロ以内の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。
       
そして70代の三年生して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、
ときおり願いながら歩いたりしている。

             
          

やがて、午後の大半は、私は随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

この間、ブログの投稿文を書いたり、私が愛読している御方の投稿文を読まさせて頂いている。


或いは、家内は相変わらず専業主婦の延長戦として料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
私はせめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
何かと愚図な私でも、素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

           

我が家の両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、『要支援2』となってきた。

こうした中、整形外科、内科、眼科に通院している中、膝(ひざ)と腰に激痛が感じ、
昨年の5月より少し遠い大学病院で検査、そして入院、退院後の検査が加わりした後、
リハビリで近くの病院に行ったりしている。

そして家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなってきた。

やがて家内の妹が強力な援軍となり、家内と家内の妹が交互に、
家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしている。

こうした関係で、家内は家内の妹とお互いに日程を調節して、
家内が担当した期間には家内の母宅で孤軍奮闘し、
私は我が家で『おひとりさま』の生活をする時もある。

そして何かとプラス思考の私は、これも人生だよねぇ、と料理、洗濯、掃除など若葉マークの初心者に近いが、
いつの日にか、まさかの出来事で家内が私を残してあの世に旅立つこともあるので、
独り住まいの特別演習だ、と思いながら、人生は気合だ、と自身を叱咤激励しながら過ごしたりしている。

           



このように年金生活を過ごしているが、
『生きがい』が最優先であり、そして『健康』であり、程ほどの『お金』が、
私の年金生活の三種の神器かしら、と思いながら過ごしてきている。

やがて70代の後半か80代か判らないが、いつの日にか、この世とお別れになるが、
もとより自助努力も肝要であるが、こればかりは神様か仏様の采配に寄る、と漠然と思いながら、
過ごしている。

今回、私は創作者の倉本聰さんより《・・人生に必要なのは「生きがい」と「笑い」だ。・・》
そして《・・高齢者の生活で大切なことは、「明るく生きることが第一」・・》と教示されながら、
つたない人生航路を歩んだ私でも、
そうですよねぇ・・と私は幾たびか微笑返しをしたりした。

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