夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

老いの豊かさを支えるのは、一に生活費、二に健康、三に生きがい、と私は教示され、やがて羨望する御方を学び・・。

2017-10-23 15:23:56 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読している朝日新聞社系の基幹サイト【AERA dot.(ドット)】を見ている中、
【 老人はなぜ「怒り多く、欲深くなり、心を乱す」のか その原因は子にあり?  】と見出しを見てしまった。

私は過ぎし2010年8月下旬の頃に、私は医学博士で病院長の帯津良一さんに、紙上でめぐり逢えた。
新聞の出版広告で偶然に読み、この雑誌が女性月刊誌の『婦人公論』と知り、
私は恥ずかしながら買い求めて、精読したりした。

《・・(略)・・私の理想は、「達者でポックリ」逝くことです。
死ぬ直前まで自分の足で歩き、自分の口で食べ、自分の頭で考えることができる。
「寝たきり」とは180度対照的な死に方が、「達者でポックリ」だと言えるでしょう。
・・
人生は生老病死ーーつまり死も含めて、丸ごと自分の人生なのだから、
「死に時」も「死に方」も自分らしくありたいという考えが基本です。

                                                         

「いたずらに死を恐れるあまり不要に長生きしても意味がない」と考えるようになったのは、
このホリスティック医学の考え方に共鳴し、
その理念に基づいて自らの病院を設立した40半ば以降です。
・・
私もブラッと飲みに行けなくなったら、そろそろ「死に時」ですかねぇ(笑)。
理想は、下町の小料理店に出向き、さぁ、今日は何をツマミに飲もうかなとワクワクして暖簾をくぐっているときに、
心筋梗塞でバタッと倒れるなんていうのがいいですね。

年齢に関していえば、80歳くらいまで生きれば十分ではないですか。
もちろん、肉体面でも精神面でも人それぞれ個人差がありますから一概には言えません。

しかし、自力で自由に動けるのは、せいぜい80代まででしょう。
90代になると、何かしら衰え、欠けてくる。
いくら頭がしっかりとしている人でも、足腰が立たなくなったり、その逆のケースも起こります。

ましてや100歳なんて、どんな人でもポンコツになっているはずですよ(笑)。
おめでたいと言うけれど、100歳以上は、やはり「生き過ぎ」だと私は思います。

これとこれができなくなったら、自分はそろそろ「死に時」かもしれない。
その線引きは人それぞれですし、それがわかれば、
「生きているうちにこれだけはやり遂げておこう」という人生のテーマも見えてくる。

つまり、自分にとってベストな「死に時」を考えことは、
今、生きているこの時間を最大限に充実させて生きていくことにもつながるのである。(略)・・》
                                   

このようなことを私は深く学び、今後の確かな晩年期の導きの御人にめぐり逢えた、と深く感じて、
これ以降、帯津良一さんの言動、ご著書も購読したりして、信愛を重ねている。

         

このような心情を重ねてきた私は、今回の記事を読んだりした・・。

         
この記事の原文は『週刊朝日』の2017年10月27日号に掲載された連載記事のひとつであり、
朝日新聞社系の基幹サイト【AERA dot.(ドット)】に2017年8月23日に配信されて、
無断ながら転載させて頂く。

この記事の原文は、『週刊朝日』の2017年10月23日に掲載されて記事のひとつであり、
関連の基幹ネットのひとつ【AERA dot.】に2017年9月29日に配信され、無断ながら転載させて頂く。


《・・
老人はなぜ「怒り多く、欲深くなり、心を乱す」のか その原因は子にあり?

【貝原益軒養生訓】(巻第八の5)

今の世、老(おい)て子に養はるる人、わかき時より、

かへつていかり多く、慾(よく)ふかくなりて、子をせめ、
人をとがめて、晩節をたもたず、心をみだす人多し。

養生訓では巻第八の前半に「養老」という題名をつけて、
老人の養い方や老人の振る舞いについて語っています。
そこでは27項目にわたり、老いに対する考え方を披露しています。

その一つはこういうものです。

「いまの世は、老いて子に養われる人に、若い時より怒りが多くなり、欲が深くなって、
子をせめ、人をとがめて、晩節の節度をたもつことができずに、心を乱す人が多い」(巻第八の5)

なかなか厳しい見方ですが、これに対する子どもの対応として、こう説いています。

「子はそういうものだと思って、父母が怒らないように、日頃から気をつかい、慎重になるべきである。
父母を怒らせるのは、子としては大いなる不孝となってしまう」(同)

この老いて乱れるというのは、ひとつには、
子に養われるというところに起因しているのではないでしょうか。

以前にも紹介しましたが、養生訓の研究家として名高い立川昭二先生が
「人生の幸福は、後半にあり」という益軒の慧眼について、
老いの豊かさを支えるのは、一に生活費、二に健康、三に生きがいであると補足しています。

老いても生活費を自分で確保できることが、実は心の平穏にとっては、重要なのかもしれません。

         

人生の後半を見事に生きた人物として立川先生が著書『足るを知る生き方』(講談社)で紹介しているのが
神沢杜口(かんざわとこう・1710~95)です。

益軒の晩年期に生まれた神沢杜口は、益軒とは面識がなかったでしょうが、その影響は強く感じられます。

彼は40歳頃に、それまで務めていた京都町奉行所の与力を退職し、娘婿にあとを譲りました。
44歳で妻に先立たれ、末娘の一家との同居をすすめられるも、
別々に住んで、時々会うほうがうれしい心地がすると言って、京都の下町に住んで市井の人となりました。


神沢杜口は、この市井の一人暮らしの見聞をもとに『翁草(おきなぐさ)』200巻を書き上げました。
江戸時代を知る第一級の史料です。


神沢杜口は、家禄の一部を年金のようにして生活費にあてていました。
借家での質素な暮らしですが、一人で生きていくのには十分です。


健康については、とにかく、よく歩いたようです。
好奇心旺盛に歩き回って、見聞を広めていたのですから、足腰が丈夫でした。
80歳になっても一日に5~7里(20~28キロ)歩けたというのです。


生きがいは、『翁草』の執筆です。
ライフワークと定めた著作を、世間や家族に煩わされることなく続けることができたのですから、
幸せだったでしょう。


まさに老いの豊かさを支える3条件を満たして「人生の幸福は、後半にあり」を実践したのです。(略)・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした
         

私は読み終わった後、改めて《・・人生の幸福は、後半にあり・・》
そして《・・老いの豊かさを支えるのは、一に生活費、二に健康、三に生きがい・・》
私は、そうですよねぇ、と瞬時に同意をさせられたりした。

私は定年退職するまで、つたない人生航路を歩み、何かと悪戦苦闘が多かったりした。
そして定年後、多々の理由で年金生活を始めて、早や14年生となっている。

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

ときおり私は60代の10年間の年金生活を振り返る時は、
ここ8年前の頃から、世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
セカンド・ライフに於いて、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
数多くの知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。
           
そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、
つたない定年まで半生から比べれば、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受し、大病に遭遇せず、70代も継続している・・。

このように過ごしてきた私は、人生の幸福は、後半にあり、名言に微苦笑しながら同意したりしている・・。

                      

今回の記事で、遅ればせながら神沢杜口(かんざわ・とこう・1710年~1795年)さんの人生航路を初めて学び、
私にとっては羨望し、仰ぎ見上げるような御方が江戸時代にもいた、と深く教示させられたりした。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪

にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする