私は東京の調布市に住む年金生活のまもなく78歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
そして私より5歳若い家内と共に、雑木の多い小庭の中で、
古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。
私は、東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉秋、
満二十歳となり、まもなく大学2年の時に中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画、その後に文学青年の真似事をしたが、やがて敗退した。
そして何とか大手の民間会社に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、
困苦することも多かったが、卒業した。
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属されたのは、満25歳であった。
まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこの新設されたレコード会社に転籍させられたりした。
こうした中で、制作に直接かかわらないコンピュータを活用した情報畑を
20年近く配属されたり、経理畑、営業畑などで奮戦した。
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。
こうした中で、1998年(平成10年)に中小業の多い音楽業界全体の売上げピークとなり、
この少し前の年から各社がリストラ烈風となり、やがて私も出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めたりした。
そして遠方地に5年半ばかり通勤し、何とか2004年(平成16年)の秋に出向先で、
定年を迎えることができたので、敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
このように私のつたない35年近いサラリーマン時代となり、
もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在であり、
何かと半生記は自慢史が多い中で、私は砂漠にある一粒の砂に過ぎない、と感じ深めたりしている。
このように悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったした中、
この当時は大企業も盛んにリストラが実施されていた。
こうした中で、私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もなく、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまい、
定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。
昨夜、敬愛している和田秀樹・著作の『老いの品格』(PHP新書)を購読している中、
齢を重ねた男性、『説教』、『昔話』、『自慢話』は、いけないと教示されたりした・・。
《・・歳をとるほど常識的なことを言いたがる傾向がありますが、当たり前のこと。
常識的なことをいっているかぎりは「おもしろい老人」にはなれません。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
そして私より5歳若い家内と共に、雑木の多い小庭の中で、
古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。
私は、東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉秋、
満二十歳となり、まもなく大学2年の時に中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画、その後に文学青年の真似事をしたが、やがて敗退した。
そして何とか大手の民間会社に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、
困苦することも多かったが、卒業した。
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属されたのは、満25歳であった。
まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこの新設されたレコード会社に転籍させられたりした。
こうした中で、制作に直接かかわらないコンピュータを活用した情報畑を
20年近く配属されたり、経理畑、営業畑などで奮戦した。
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。
こうした中で、1998年(平成10年)に中小業の多い音楽業界全体の売上げピークとなり、
この少し前の年から各社がリストラ烈風となり、やがて私も出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めたりした。
そして遠方地に5年半ばかり通勤し、何とか2004年(平成16年)の秋に出向先で、
定年を迎えることができたので、敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
このように私のつたない35年近いサラリーマン時代となり、
もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在であり、
何かと半生記は自慢史が多い中で、私は砂漠にある一粒の砂に過ぎない、と感じ深めたりしている。
このように悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったした中、
この当時は大企業も盛んにリストラが実施されていた。
こうした中で、私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もなく、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまい、
定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。
昨夜、敬愛している和田秀樹・著作の『老いの品格』(PHP新書)を購読している中、
齢を重ねた男性、『説教』、『昔話』、『自慢話』は、いけないと教示されたりした・・。
《・・歳をとるほど常識的なことを言いたがる傾向がありますが、当たり前のこと。
常識的なことをいっているかぎりは「おもしろい老人」にはなれません。
常識的、あるいは道徳的な高齢者こそが「品のある人」だと思われがちですが、
それは「ただの人」です。
あとで述べますが、私が常識にとらわれなく生きている老人のイメージとしているのが、
それは「ただの人」です。
あとで述べますが、私が常識にとらわれなく生きている老人のイメージとしているのが、
タレントの高田純次さんです。
この高田さんが、毎日放送「情熱大陸」(2015年7月放送)で、
こんなことを話していました。
この高田さんが、毎日放送「情熱大陸」(2015年7月放送)で、
こんなことを話していました。
「歳とってやっちゃいけないことは『説教』と『昔話』と『自慢話』」
けだし名言というべきです・・》
注)引用元・ページ86、87
これまでの私は人生航路のなかで、何かと拙(つたな)い言動の中、
『説教』、『自慢話』できるほど栄進したこともなく、
退職後の年金生活でも、偉そうな上から目線の言動は見苦しく、
心の節度が欠落していると思えて、もとより避けてきた。
しかしながら、『昔話』に関しては、自身の自己形成上、
不可欠なことであり、
幼年期より今日まで、脚色もなく、たとえばブログの投稿文で幾たびか発露してきた。
このような私は、今回のことに微苦笑したりしている。
尚、和田秀樹氏が採りあげた『昔話』は、誰しも成功体験、失敗体験があるが、
ともすれば成功体験ばかりの『自慢話』が含まれた要素があるので、
避けた方が望ましい、と私は解釈している。
けだし名言というべきです・・》
注)引用元・ページ86、87
これまでの私は人生航路のなかで、何かと拙(つたな)い言動の中、
『説教』、『自慢話』できるほど栄進したこともなく、
退職後の年金生活でも、偉そうな上から目線の言動は見苦しく、
心の節度が欠落していると思えて、もとより避けてきた。
しかしながら、『昔話』に関しては、自身の自己形成上、
不可欠なことであり、
幼年期より今日まで、脚色もなく、たとえばブログの投稿文で幾たびか発露してきた。
このような私は、今回のことに微苦笑したりしている。
尚、和田秀樹氏が採りあげた『昔話』は、誰しも成功体験、失敗体験があるが、
ともすれば成功体験ばかりの『自慢話』が含まれた要素があるので、
避けた方が望ましい、と私は解釈している。
含蓄のある言葉ですね。
この3ワードを頭において用心します。
とてもためになりました。ありがとうございます。
>説教、昔話、自慢話・・・心に留めておきます。
>含蓄のある言葉ですね。
私も恥ずかしながら昔話を投稿文に書き込んできましたが、
退職後、5年を過ぎた65歳の当時、
ご近所の男性、公園で知り合った男性・・
ともにサラリーマン時代の自慢話をされて、
私はあきれ果てて、まもなく疎遠になったりしました。
或いは自治会で総会に出席した10年前、
役員のひとりが女性に対して、横柄な言動をされて、
私は粗雑な役員の御方に、人としての節度が欠落した人だなぁ・・、
と感じた次第です。
そして翌年、人望もないこの役員は、辞任させられた次第です。
>この3ワードを頭において用心します。
私もご年配、60代の御方は問わず、心の節度が欠落していないように、
しぐさ、言葉づかいに注意しているのが実情です・・。
>とてもためになりました。ありがとうございます。
真摯なコメントを頂き、こちらこそ・・ありがとうございました。