夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『にほんブログ村』に再加入して一年が過ぎ、私が深く愛読させられたサイトは・・。

2011-12-05 00:21:41 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
この【gooブログ】の私のサイト『夢愛人たわむれ記 ~かりそめ草紙~』に於いて、
昨日の4日に於いて、『ブログの開設から2510日』と明示されて、こんなに過ぎたのかしら、
と微苦笑したのである。

そして、トータルアクセス数の閲覧数(PV)は2076970、
訪問者数(IP)は525257と表示され、多いか少ないか判らない。


私は2004(平成16)年の秋、民間会社を定年退職して、
まもなくブログの世界を知った・・。

最初に【アメーバブログ】に加入して、
『極楽とんぼ ~団塊世代のひとりとして~』と題し、発信名を『極楽とんぼ』と称した。
その後は【簡単gooホームページ】に加入し、
『風のように光のように』とタイトルを掲げて、発信名を『風と光』とし、
原則として毎日数通投稿したのは2004(平成16)年11月17日である。

まもなく【すくすくブログ】を知り、
『続・極楽とんぼ』と題し、発信名も『極楽とんぼ』と称し、
気楽に綴れる専用サイトとしたのは、翌年の2005(平成17)年1月11日であった。
一週間ぐらい投稿したが、【gooブログ】を知り、取り止めた。

この後、この【gooブログ】に加入して、
『新・極楽とんぼ日記』と題し、発信名も『極楽とんぼ』と称し、
少し気楽に団塊世代、社会、政治・経済の諸問題を綴ろうと思い、
投稿をはじめたのは、 2005(平成17)年1月19日であり、
この日から2510日が過ぎた、ということである。

まもなく『極楽とんぼ』と称した芸能人がいることを知り、その上に社会的な不祥事を起し、
関係ない私までコメントが寄せられ、迷惑限りないと思いながら、
やむなく発信名を『夢逢人』に改称した。


このように【gooブログ】と【簡単gooホームページ】
二刀流のようなことを一年半ばかりし、
特に政治・経済に関しては、素人のつたなさ、そして無責任の広言を反省し、
【gooブログ】の投稿を中止したのである。


その後、2007(平成19)年、肝要の【簡単gooホームページ】が9月末で閉鎖と知り、
8月より半ばより、これまで投稿文が移動できる【OCN Cafe】を知り、加入し、
『風のように光のように』として、殆ど毎日数通は投稿した。
後日には、改題し『風、そして光のように』とした。


しかしながら、自身の綴った過去の投稿文の内容を振りかえる時、
あらゆる分野を綴ったりしてきたので、
例えば美空ひばり、五輪真弓の各女史を綴ったのは、いつの日だったかしら、
自身で探しあぐねる時が多いのである・・。


こうした思いがあり、再び【gooブログ】のサイトを再開したのは、
2008(平成20)年5月である。
『年金青年のたわむれ記』のタイトルを掲げ、副題として『~かりそめ草紙~』とした。

定年退職後、今まで各サイトに書き散らかした3000通前後の投稿文を整理、統合をした。

私はブログを投稿する際、最後までお読み頂けるように工夫したり、
その上に数多くの方にお読み頂けるように試行錯誤をしたりしているが、
誰も読まれなく無視されことは愕然とする。

こうした意味合いからのひとつの目途として、
やはりブログのランキングに加入して、気にしているのが本音である。

もとよりランキングに加入し、数多くの方の投稿文を拝読しながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多い。
そして、コメントで交流を深めた人も含めて、
私は励まされたり、微笑んだりして、年金生活を過ごしたりしている。


昨年の2010年9月26日、ブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。
2008年の頃に加入していたが、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたのであるが、
加入者数の多い『にほんブログ村』に、ふたたび本加入させて頂いた。

そして少し迷いながら、結果としては小説系の『エッセイ』、『コラム』、
シニア日記系の『シニア』、『60歳代』に加入してきた。


こうして早や一年が過ぎているが、この間に長く私が魅了されて、深く愛読しているサイトがある。
もとより『にほんブログ村』の加入数は58万人以上、
この中の小説系は1万人、シニア日記系は千人は超えているので、
たまたま私が読んで魅了されて、少なくとも半年以上に及び愛読してきたサイトであり、
恥ずかしながら公表すれば、この私のサイトの【ブックマーク】に明示した。

上段の3名の人は、小説系の『エッセイ』、『コラム』で、
その下に掲げた人は、シニア日記系の『60歳代』で、
いずれも魅了された最初の時期の順位である。

そして素直に発露すれば、『にほんブログ村』の『お気に入りメンバー』の機能があり、
私は少なくとも男性30名、女性25名を登録して、
この方の投稿された文は、拝読している。


しかし私は、年金生活であるが、少しは多忙の身となっている。
日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


その上、私はコメントを綴るのは、そのお方のプロフィール、昨今の心情をある程度配慮して、
初めて綴ることができるタイプなので、時間を要する。
以前、ブログを始めて二年後の頃は、毎日数名に返信したり、私の方からコメントを綴ったりし、
やがて肝要の読書の時間が無くなり、愕然として、
この後は、コメントの中止宣言をしたりした。

その後は、その方の投稿文は相変わらず必読して、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されたりしてきた。

こうした身勝手な私は、今回掲げた7名の方でも、コメントを交わした人は少ないのである。
このような事情から、私の『お気に入りメンバー』のコメントも綴らず、
今日に至っている。

尚、今後も長らく愛読させられた人は、もとより『ブックマーク』に公示させて頂く。
数多いブロガーにも、私の隠れキリシタンのような変人かいることに、ご容赦をお願い致したく。


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『日々ときめきを感じながら生きる』と帯津良一氏が明言され、私は我が人生の最良の時期だ、微笑み・・。

2011-12-04 16:14:37 | 定年後の思い
今朝、私はいつものように読売新聞の朝刊を読み終わった後、
ひとつの記事から、我が人生の最良の時期かしら、と微笑んだりした。

この記事は、13面の【文化】欄で日曜日の定期コーナーに於いて、【本のよみうり堂】があり、
この中のひとつとして、【文庫新書】がある。
昨今に出版された新書本の紹介の記事であり、今回は4冊の新書本の解説が掲載されていた。

この中の一冊の帯津良一(おびつ・りょういち)氏・著作の『〈達者な死に方〉練習帖』(文春新書)が紹介されていた。
無断であるが、この紹介記事を転記させて頂く。

《・・
東西の医学に精通した1936年生まれの老医師は
「養生」とは、安易な健康法ではなく〈生命を正しく養うこと〉たと説く。
だから酒量を心配する患者にもこう答える。
〈酒は養生だから、毎日飲まなきゃだめだよ〉。

養生とはつまり、日々ときめきを感じながら生きる、ということなのだ。
・・》
注〉記事の原文にあえて改行を多くした。


私はこの最後の一行に、天上の神々のような言葉を頂き、
思わず、我が人生の最良の時期だ、と感じながら微笑んだのである。

私は民間の音楽業界のある会社を35年近く勤め、2004(平成16)年の秋に定年退職となり、
その後は年金生活に入り、今日に至っている。

それまでの私の60年間の人生は、敗残者のようなことも幾たびか体験してきた。
このことは、このサイトに数多く綴ってきたのて、省略する。


私は東京郊外の調布市に住む67歳の高齢者3年生の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


こうした中で、何事も好奇心を失くしたら、この人生は終わり、と信条を掲げ、
興味のあることに、ときめきを感じながら過ごしている。

たとえば新聞の記事のひとつであったり、
購読した本を読みながら、行間から感じることに深くうなづき、思考させられたりする。

或いは買い物に行き、中高年の女性の言葉、しぐさに魅了された時、
素敵だよなぁ、と感じてしまうのである。

ある時は、散策とか旅行先で、限りなく美しい感じた情景に、
足を止めて、長らく見惚〈みと〉れてしまう・・。


年金生活8年生になっている今、厚生年金を頂き、ある程度の貯金を崩しながら生活しているが、
働たらくとも程ほどの自在の生活ができるのは、
もとより現役のサラリーマン時代には甘受できなかったことであり、
コーデン・イヤーズと称されている人生の黄金時代の60代は確かに的言、
と感じながら過ごしている。

尚、私が帯津良一(おびつ・りょういち)氏の思考を遅ればせながら学んだのは、
中央公論社が発行する『婦人公論』の2010年9月22日号(9月7日発売)に於いて、
特集記事のひとつ《 〈理想の最期を考える〉 誰にも迷惑をかけずに死ぬために 》を精読し、
教示させられてからである。


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高齢者の私でも、たった二人だけで、忘年会の真似事を重ねて、私は思わず微苦笑し・・。

2011-12-04 10:33:24 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、たったふたりだけの家庭である。

民間の音楽業界のある会社を35年近く勤めて定年退職になったのは、
2004(平成16)年の秋で、そして年金生活に入り、今日に至っている。

この時節、現役の諸兄諸姉はまもなくボーナスシーズンを迎え、
そして忘年会を会社の同じ部署の人たち、或いは同僚たち、そして友人たち、
それぞれ懇親を深め12月中旬になると思われるが、何かしら遠い世界の出来事のように感じたりしている。


私の50代の前半の頃は、サラリーマンで私なりに奮闘し、
この12月は部内はもとより、同世代、悪友たちと、何かと忘年会と称して懇親会を重ねてきた。

そして50代の半ばに、リストラが盛んとなり、
早期退職優遇制度の名目で先輩、同僚、後輩たちが退職されたり、組織の統廃合により人事異動、
そして私のように出向となったりし、烈風の社内状況となった。

定年退職するまで、年に数回は互いに連絡して、東京に残った人たちと懇親会を重ねてきた。


その後、私の定年後になる頃は、病気で通院しているの・・、親の介護で・・、親が亡くなったので・・、
メンバーが欠落したのである。
そして、この時節になると、忘年会は2月頃に有志で集まってすれば、
と敬愛してきている先輩だった人から云われたりすると、
そうですよねぇ、と私は応(こた)えたりしてきたのである。

このように私は、この時節の忘年会と称した懇親会は、無念ながら消滅したのである。

昨今は、多くの退職された方たちも同様と思われるが、かっての会社時代の先輩、同僚、後輩たちの集いより、
家族の団欒はもとより、親族、親戚関係の冠婚葬祭が優先となっている。

そして私は近くに住む地元の小、中学の同級生と、最寄駅の居酒屋、食事処で逢い、
懇親を深めたりしている。
こうした時は、同級生の女性から、XXクン、と私は呼ばれたり、
悪友たちとは、お互いに苗字を呼び捨てにし、この世の一番気楽なグループ、と微苦笑したりしている。


このような心情で昨今は過ごしている私は、
たまたま過ぎし11月26日の土曜日に高校時代のひとり悪友と逢った。
私の高校3年生の時に、私は彼の実家に50回ぐらいは泊まったり、
彼も私の実家に少なく20回は泊まったりし、もとよりお互いの家族も懇親していた。

こうした間柄でも私が20歳を過ぎた頃から、私は映画・文学青年の真似事に邁進し、疎遠になったりし、
その後は彼の結婚式の披露宴に列席したぐらいとなった。
私が定年退職後になるまでは、お互いに年賀状を交わす程度で、
数年毎に電話をする程度となった。

そして私が定年後に毎年一回ぐらいは、お互いの住まいの中間点の『吉祥寺』の居酒屋で、
懇親を復活してきた。
親友か悪友、友人か解らないが、お互いに包み隠せず話し合える貴重な友である。

過日の26日は午後の5時に逢い、お互いの好きな単品を数多く注文し、
彼はビール、私は地酒を吞みながら、話し合った。
家族のこと、そして昨今の世情を憂いた後、
昭和妻の専業主婦、或いは居候のようなことが許された良き時代だったことなどが、
たまたま話題となり、話が尽きないのである。
結果として、終電のこともあり11時過ぎに散会とした。


昨日の3日の土曜日は、家内と『調布』駅の近くのスーパー、専門店に買い物に行った。
買い物を終えたのが午後4時過ぎで、
夕食を食事処で思案し、ワインを吞みながらイタリア料理、と思ったりしたが、
何かしら居酒屋チェーンのネオンが数多く観えたのである。

そして私は家内を誘い、あるチェーンに入店し、
お互いにビールを吞みながら、お互いの好きな食べ物を注文したりした。
居酒屋に関しては、私はサラリーマン時代を含めて長年に愛用してきたので、
こうした居酒屋の変貌を明るく話したり、或いはリストラ烈風で私の出向時代の心情、
同僚たちの動向を話題となってしまった。
そして苦節の時代があったが、今こうして過ごせるのは何よりだ、
と私は微苦笑を重ねて、家内に言ったりした。


このように偶然に土曜日の二週連続に、居酒屋で忘年会のような真似事をした私は、
我が人生に於いて初めてのことであり、このようなこともあるの、
と私は人生の采配の出来事に、苦笑しながら微笑んだりしている。


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世界の強国の熾烈な思惑の中で、57年ぶりの結晶の一葉の写真に、私は涙を浮かべ・・。

2011-12-03 09:50:01 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の高齢者の身であるが、
ここ数日、アメリカの国務長官がミュンマーに57年ぶりに訪問し、
民主化運動指導者のひとりのアウン・サン・スー・チーさんと公式会談がもたれることを知り、
国際政治にも疎(うと)く、無力な私でも注視してきた・・。

昨夜、NHKのニュースを視聴していた私は、
アメリカのクリントン国務長官とミュンマーの最大都市で、アウン・サン・スー・チーさんと公式会談を終えた後、
このお二人が固く抱擁する情景が映し出され、
私は長年にアウン・サン・スー・チーさんの闘争に思いを馳せると、
鈍感な私でも、思わず目頭が熱くなり、気が付くと涙を浮かべていた・・。

先ほど、ネットでこの写真が掲載されていたので、無断であるが転載させて頂く。

http://dailynews.yahoo.co.jp/photograph/pickup/?1322836314
☆【YAHOO! JAPAN】<==
     《 自宅での会談後、クリントン米国務長官(左)と抱擁を交わす民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーさん=2日、ミャンマー・ヤンゴン 》☆


私は読売新聞などを読み、ミャンマーは今年の2011年3月に軍事政権から民政へ移管し、
テイン・セイン大統領はスー・チーさんとの対話や一部政治犯の釈放などの改革を進めている状況を知った。
もとよりミャンマーは、長年の軍事政権時代に中国の影響力が圧倒的に強い時代が続いてきた。

軍事政権から民政へ移管した後、アメリカはミャンマーへの積極関与姿勢に転換したことは、
地域で影響力を伸ばす中国をけん制する意味合いもある、と私は読売新聞で学んできた。


私がミャンマーの民主化運動指導者として名高いアウン・サン・スー・チーさんの名を知ったのは、
おぼろげながら記憶をたどれば、
確かノーベル賞を受賞(1991年)される数年前、
この人の伝記のような単行本を買い求めて、学んだのが最初であった。

その後、ノーベル賞を受賞の直前、
ノーベル賞の委員会の決定に、自国の軍事政権が猛反発し、世界の世論が注視した。

幾たびかの時の政権から圧力され、自宅軟禁を繰り返してきた・・。

私はビルマ~ミャンマーまでの歴史概要を学び、
イギリスに翻弄されて後、自国の混沌とした政権、そして軍事独裁政権・・
たえず数多くの民衆は、あてどなく時の政権に翻弄、弾圧され続けてきている。

アウン・サン・スー・チーさんをみじかな言葉で表現すれば、
こうした中で、ひとりの女性が強い意志で、少なくとも言論、人権の自由の信条を掲げて、
長年に及び、闘争をしてきた。


国際の強国はもとより自国の国益に基づいて、軍事、経済、外交などて政治が行われいるが、
ミャンマー(旧・ビルマ)はイギリスの植民地時代、その後はアメリカとソ連の冷戦下、
そして中国に強国の熾烈な思惑に翻弄されてきた。
こうした私の思いもあり、私はこの一葉の写真に圧倒的に感動したのである。


今朝、配達された読売新聞を読んだりした・・。
たまたま読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】にも、
私が注視した記事が掲載され、無断ながら転載させて頂く。
《・・
【ヤンゴン(ミャンマー)=山口香子】
ミャンマーの民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーさん(66)は2日、
ヤンゴンの自宅でクリントン米国務長官(64)と会談した後、
記者団に対し、「政府と野党、米国や世界の友人が協力して前に進めば、民主化への道が後退することはないと確信している」と述べた。

スー・チーさんは、ミャンマー民主化のためには、米国をはじめとする国際社会の協力が必須だと強調。
具体的には、政治犯問題や少数民族問題の解決に向けた法治主義の確立のほか、
全国的な教育制度や保健体制の整備に国際的な支援が必要だと述べた。

スー・チーさんは一方で、「中国との関係は重要だ」とも述べ、ミャンマーと中国の関係も重視する姿勢を示した。

(2011年12月2日21時06分 読売新聞)
・・》

私は読みながら、スー・チーさんは、《米国をはじめとする国際社会の協力が必須》としながらも、
《中国との関係は重要だ》の発言は、
もとより自国の国益に基づき、長年に及び強国に翻弄されてきた怜悧な発露した言葉である、
と無力な私でも受け止めたりしている。


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東京郊外は、朝、昼そして夜も『4度』の横並びの寒さに、高齢者の私は微苦笑させられ・・。

2011-12-02 16:31:15 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、結婚前後の5年を除き60年を超えている。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝の7時過ぎに玄関の軒下で、小雨降る玄関庭の樹木を眺めたりしていると、
少し寒いじゃないの、と思ったりした。

この後、地元の天気情報をネットで見たら、
朝の6時は4度、昼下りは4度、夜の6時は4度、
午前中まで小雨が降り、ときおり霙(みぞれ)、その後の午後は曇りマーク、
このように表示されて、横並びの4度の寒さの一日かょ、と苦笑させられたのである。

一昨日の11月30日は、11月初旬のように秋日和に恵まれて、
穏やかな晩秋の陽射しの中、家内と歩いたりした。

そして昨日の12月1日になると、急激に秋から冬の寒さとなり、
午前中は冷たい雨が降り、昼下がりは曇りとなったが、6度ばかりの寒さとなり、
私は思わず、どうしてなの、と空を眺めながら、天上の気候の神々の采配に戸惑ったりした。


私の住む地域では平年ならば、
落葉樹の多くが紅色、朱紅色、黄色などに染めらる錦繍(きんしゅう)の時節は、
11月3日の『文化の日』の頃から、11月23日の『勤労感謝の日』の頃まで、
その後は銀杏(イチョウ)の黄色に染まり、たわわに落葉するのが12月初旬となり、
晩秋から冬に移るのが毎年の情景となっている。

しかし今年の秋は暖かな日に恵まれたせいか、少なくとも10日ばかり遅れている、
と私は苦笑したりしてきた。
その上、桜(サクラ)、モミジ、ドウタン躑躅(ツツジ)等の朱色を誉(ほ)めたり、
白梅、公孫樹(イチョウ)、コナラ等の黄葉の彩(いろど)る錦繍の情景を観たりしてきたが、
鮮度がなく、何かしら綺麗さが欠け、少し薄汚れたように視えるのである。


このように感じながら、毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受してきた。

そして昨日も先ほども、急速に冬のような寒さの中、
私は薄手の冬のスポーツシャツを着て、その上に冬用のフルーフのトレーナー、
そして冬の長ズボンで身を固めれば、たとえマイナス5度になっても寒さを感じ、
震えることはない、と颯爽と歩き廻っている。

この私の心の奥底には、私の現役時代のサラリーマンの終末期に、
リストラ烈風で出向となった5年間の体験で、ひととき身も心も寒いと感じた時もあったので、
このような4度ぐらいの寒さは、微笑(ほほえ)みながら歩いているのである。


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流行語大賞に『なでしこジャパン』、日本の重苦しい閉塞感の中、確かな希望をもたらし、と私は・・。

2011-12-01 23:10:43 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の高齢者の身であるが、
夕食前に、ぼんやりとネットでニュースを見ようと
時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】を開いたのであるが、
ひとつのニュースに大いに賛意し、微笑んだりしたのである。

《 流行語大賞に「なでしこジャパン」=震災絡み、多数入選 》

と見出しされた記事である。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011120100727
☆【時事ドットコム】<==《 流行語大賞に「なでしこジャパン」=震災絡み、多数入選 》☆


私は「2011ユーキャン新語・流行語大賞」(「現代用語の基礎知識」選)に関し、
特に定年後から、本年度はどのような事項が選定されるか、と関心しているひとりである。

現役時代は少なからず世情に敏感であるが、
定年後に年金生活を始めると、ときおり世の中の動きに遅れたり、
或いは遠のいて、遥か遠い世界の出来事と感じる時もあるので、
私としては、《今年の流行や世相を反映した言葉を選ぶ流行語大賞》は、
現世の社会と結ぶ確かな糸と思っているのである。

今年の流行語の入賞した10語のうち、「絆」「3.11」「帰宅難民」「風評被害」は、
東日本大震災に関係する言葉だった、と私は学んだりした・・。

もとより3月11日に東日本大震災が発生し、
数多くの日本人が、戸惑いながら重苦しい閉塞感につつまれていた・・。

そして6月末よりドイツで開催された2011 FIFA女子ワールドカップでは、
「なでしこジャパン」は予想以上に健闘し、その後は優勝という栄冠をもたらした。

私も圧倒的に感動したひとりなので、過ぎし時に投稿文を認(したた)めたひとりである。

7月25日に於いて、【 なでしこジャパンに国民栄誉賞の授与検討、民主党政権に於いて、初めて国民の心情を理解し・・。】
と題して、このサイトに投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私はいつものように読売新聞の夕刊を読んでいたら、一面の中央の上段に、

《 なでしこ 国民栄誉賞
             官房長官 表明 》

と見出しされた記事を読み、
枝野官房長官は本日の25日、『なでしこジャパン』に国民栄誉賞の授与する意向を表明した、
と私は知った。

私は民主党政権が一昨年の初秋に発足以来、初めて国民の心情の期待に応えた決断、
と思いながら、微苦笑させられ、何よりも良かった、と安堵したりした。


私は平素からサッカーにも関心がなく、
初めて『なでしこジャパン』の存在を知ったのは、
何かしら「FIFA女子ワールドカップ ドイツ 2011」がドイツで行われ、
大会3連覇を狙う開催国ドイツに、延長戦の末1-0で勝利した、
とNHKのテレビ・ニュースで知ってからである。

そして準決勝は背の高い選手が揃っているスウェーデンと対戦することになり、
できたら日本は奮戦して勝って欲しいけれど、無理だろうと、
と私は思っていた。
しかし、NHKのテレビ・ニュースで、
何か得意のパスサッカーで3-1で快勝して、決勝進出を果たす、
と知り、驚いたりした。

その後、決勝は世界ランキング1位のアメリカで、日本はこれまで1度も勝利できなかったことを知り、
これまで『なでしこジャパン』は、良く奮戦してくれた、
とサッカーに無知な私でも、秘かに感謝をした。

そして『なでしこジャパン』は、終始アメリカの猛攻にさらされながらも、
延長戦に持ち込み、先行された延長も残り4分、澤選手の同点弾で2-2となり、
PK戦の末、無敵のアメリカに対し初勝利の偉業を達成した、
とNHKのテレビ・ニュースのダイジェトで私は知った・・。

何かしら日本のサッカーの世界で、男子チームを含めて、
日本代表としては初のFIFA主催の世界大会優勝という快挙を成し遂げた、
とニュースは伝えていた。

私はサッカーに無知であったが、こうした熱戦の末、『なでしこジャパン』の各選手の奮闘に、
圧倒的な感銘を受けた・・。

このように今回の女子のサッカーの世界大会を感じたりし、
そして一昨年の初秋に民主党の政権発足して、益々政治は混迷を深める中、
今年の3月11日に発生した東日本大震災、そして福島原発・・
息苦しい閉塞感を私は感じながら過ぎしてきたが、
今回の『なでしこジャパン』の偉業に、圧倒的に感動を頂き、
何よりも日本の数多くの人々に、日本の復興への道に希望をもたらした、
と私は感じたりした。

過日、『なでしこジャパン』のメンバーが帰国し、
菅首相が首相官邸に招待された時、この時に何らかの形で多大な貢献をもたらしたメンバー全員に、
国家議員から感謝の賛同金を徴収した上で、
それぞれの方に特別勲章、そして1000万円ぐらいの賞与を与えて欲しい、
と私は願っていたが、やはり菅総理の感性では無理であった、と私は苦笑した。

今回、遅ればせながら、国民栄誉賞を政府が授与検討したのは、当然なことながら、
大いに賛意である。
・・】

このようにサッカーに無知な私でも、感銘を受けた後、
国民栄誉賞を政府が授与検討したニュースを知った後、投稿文を綴り、投稿したのである。

改めて、《流行語大賞に「なでしこジャパン」》は、国民のひとりとして素直に理解できます、
と私は心の中で呟(つぶや)いている。


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石堂 淑朗(いしどう ・としろう)氏の死去を知り、しなやかに自身の信条を貫(つらぬ)いた人・・。

2011-12-01 16:48:33 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
先ほど、ネットのニュースで映画、テレビの脚本家、そして評論家であった石堂淑朗(いしどう・ としろう)氏の死去を知った。

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/111201/ent11120112230008-n1.htm
☆【MSN産経ニュース】<==《 脚本家の石堂淑朗氏が死去 「日本の夜と霧」「黒い雨」》☆

私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年に、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退して、映画青年の真似事をしたりした。

こうした時期に、日本の映画も映画館に通い、多々の名画を鑑賞した。

大島渚作品の『太陽の墓場』(1960年)、『日本の夜と霧』(1960年)、浦山桐郎作品の『非行少女』(1963年)、
吉田喜重作品の『水で書かれた物語』(1965年)などを鑑賞して、
脚本が石堂淑朗氏と知り、私がめざした分野と違うが、脚本の構成の大切さなどを学んだ。

その後の私は、文学青年の真似事をした後、はかなくも挫折して、
やむなく民間会社に中途入社した後も、ときおり映画を観たりした。
氏の脚本としては、実相寺昭雄作品の『無常』(1970年)、蔵原惟繕作品の『南極物語』(1983年)、
今村昌平監督『黒い雨』(1989年)などが記憶として残っている。

或いはテレビのシナリオとして、
氏の『三匹の侍』(1963年、フジテレビ)、『子連れ狼』(1973年、日本テレビ)も私は視聴した記憶がある。

そして後年に、月刊雑誌の『新潮45』に、氏の寄稿された随筆を精読したり、
単行本として『石堂淑朗の百面相破れかぶれ』(朝日新聞社、1991年)を購読したり、
私は大人の世間の視方を多々教示されたりした。

こうした間に、何かの本で、
《・・かつて左翼色の濃厚な作品を多く手がけてきたが、近年は政治的に保守派の論客となり、
多くの評論を書いている。・・》
と私は読んだ記憶もある。


もとより氏の映画、テレビの作品で数多くの脚本も担当され、
随筆などを多々寄稿されてきたが、私が触れたのはわずか一部であるが、
氏は時代が大きく変貌してきた中で、筆一本で、
この過ぎてきた時代をしなやかに自身の信条を貫(つらぬ)いてきた稀(まれ)な人、
と改めて私は感じ、敬服させられる。

そして私は、まぎれない気骨ある大人の視線のある人が死去された、と思い馳せながら、
私の心を揺さぶったひとりの怖い人が亡くなってしまった、と寂しい心情がある。

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11月の『錦繍月』に別れを告げ、12月の『師走』に高齢者の私でも、元気よく迎え・・。

2011-12-01 11:04:07 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨夜、私は朱紅色、黄色に染められた錦繍(きんしゅう)に彩(いろど)った11月に別れを告げて、
今年も確かな秋が受容できました、と感謝しながらカレンダーを破いたのである。
そして、『師走(しわす)』の12月に、こんにち~は、と心の中で呟(つぶや)いたのであるが、
月日の流れは余りにも早く過ぎ去った、というのが実感である。

今朝の7時過ぎに、地元の天気情報を見たら、
朝の6時過ぎは7度、昼下がりの最高気温は6度前後、夜の6時は5度前後で、
冷たい雨が降る小庭をぼんやりと眺め、微苦笑したのである。

昨日は朝の6時は8度、昼下がりは16度、そして夕暮れの6時は13度となり、
秋日和の余情のような快晴の中、たまたま家内から誘われて、都心のデパートに買い物に行ったりし、
自宅から最寄駅まで10分ばかりの旧街道を私たち夫婦は歩き、
のどかな陽射しの中、朱紅色、黄色に染められた錦繍に彩った情景を享受したりした。

昨日の11月の暦(こよみ)にさよならし、新たな12月を迎えたが、
たった一日で11月の初めのような陽気から、冬のような寒さとなり、
天上の気候の神々の采配に私は戸惑って、どうしてなの、と空を見上げながら呟(つぶや)いたりした。

12月は、古来より『師走』とか『年満月』と称されているが、
幼年期の頃に農家の児として育てられた田舎者の私は、
何かの本で中世の頃は、『為果(しは)月』とも命名されているのを学んだりしてきた。
たとえ身体は衰えてきたが、少なくとも気力と感性だけは12歳ぐらい若い、と私だけが思っているので、
今年最後の12月ぐらいは、何とか目標をたてて成果ある月に、しなければならない、
自身にすまない、と思ったりしているのである。


定年後の12月の毎年の私の習(なら)わしは、
年賀状を差し出す方の選定、文案の創作、投函することだし、
そして年末年始に向けて庭の手入れをして、
或いは御節料理に準じたの材料で、家内からの緊急要請で私の買物に行く回数が増えるぐらいとなっている。

あとは独り住まいの家内の母に年末の28日にに来宅して頂き、
私たち夫婦と共に三人で年始の1月4日まで共に過ごすぐらいが、恒例となったりしている。

しかし、家内の足手まといならないように、本年こそは大掃除を少しばかり手伝い、
秘かに決意しているのである。


振り返れば、今年は私が9月下旬に高齢者の3年生に進級して67歳になり、
家内も12月下旬に62歳となり、
名実共に年金受給の夫婦となり、ときおり2人で一人前と感じることもある。


この間、私たち夫婦の共通の趣味は、国内旅行であり、特に冬の季節の旅に魅了されるので、
この12月20日過ぎに4泊5日で、
北海道のある厳冬地で雪が舞い降り情景を観る小旅行を予約をしている。


このように本年の12月を過ごす予定であるが、
果たしてどのようになるか、と小庭にある朱紅色に染められたモミジを眺めたりし、
微苦笑したりしている。


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