夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

クリスマスを迎える頃、秘かに待ちわびている歌は、山下達郎さんの『クリスマス・イブ』・・。

2011-12-16 07:24:16 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳となった身であるが、
ここ2週間ぐらい新聞の折込みのデパート、スーパーのチラシで、クリスマスの贈り物などが掲載されていると、
高齢者の私でも、微笑んでしまうのである。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

もとより私たちの結婚前の交際時には、クリスマス・イブの時に逢い、
プレゼントを交換して、私は少し背伸びをして、高級な食事処を誘って、
ワインなどを吞みながら、イタリアかフランス料理などを頂いていた。

その後、結婚して2年が過ぎた頃から、
私は退社後にプレゼントを買い求めて、カードにささやなな一文を認〈したた〉め、
ケーキを購入して、我が家に帰宅してたりした。

この後は、一軒家を建てて、ローン返済で苦汁していたので、
せめてケーキだけ購入して、帰宅していた。

私が40代の頃には、家内に何か欲しい品、とやんわりと聞いたりしていたが、
必要な品は、デパートで買い求めているので必要はない、
できたら旅行に行って温泉にゆっくり・・と要望されたりした。

この当時は私は多忙であったのは、40代の後半の頃から、業務が幾分空〈す〉いた2月頃に、
冬の旅をして、家内の念願に応〈こた〉えたりしていた。

定年退職後の年金生活に於いても、我が家はプレゼントの品よりも、
観光ホテルに滞在して、ゆっくりと温泉を満喫することが多い。


このように我が家はクリスマス・イブは、旅先以外の年は、
ささやかな室内飾りをして、平素より幾分多めの料理を私は日本酒を吞みながら、頂いている。

こうした時、ぼんやりと若き20代の男女であったならば、
山下達郎さんの『クリスマス・イブ』を聴きながら、共に楽しいひとときを過ごすのかしら、
と思ったりしたのである。

こうした私なりの思いは、あるサイトに於いて、2007年12月23日に、
【 この時節、最も微笑む曲は、『クリスマス・イブ』・・♪ 】
と題して、投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
東京の郊外は、昨夕からの雨が先程から上がり、静寂なひとときとなっている。

私は庭に下り立ち、常樹木の枝葉は濡れ、
そして葉を落とした落葉樹の枝の雨粒を見つめたりしていた・・。


♪雨は夜更けに過ぎに
 雪へと変わるだろう

【 『クリスマス・イブ』 作詞・作曲・唄 山下達郎 】


この歌がどうしてか、脳裏に浮んだのである。

私は年金生活の4年生の身であるが、
私のサラリーマン現役時代の時、確か1983年のこの時節に初めて聴いて、
巧過(うます)ぎる歌だなぁ、と瞬時に感じたりした。

この後に、JR東海のCMに盛んにテレビで放映され、
離れ離れの若い男女で、やっと逢える、といった情景だったと思い浮かべている。

後年に判ったことであるが、
JR東海のX’mas7 ExpressのCMと知った。

山下達郎のこの曲の唄声を背景に、
その後毎年のように幾つかの若い男女のせつなく、もどかしい情景が映しだされ、
私は微笑みながら、秘かに若い男女に幸せあれ、
と心の中で声援していた・・。


♪きっと君は来ない
 ひとりきりのクリスマス・イブ

【 『クリスマス・イブ』 作詞・作曲・唄 山下達郎 】


私はシンガー・ソング・ライターの山下達郎に関して、
無知な方であるが、この『クリスマス・イブ』を聴いた限り、まぎれなく天才と讃(たた)えている。

そして、ネットのYou Tube上で、
【Xmas Express 歴代CM1988年~1992年】を視聴し、
若き男女がやっと逢える情景を微笑ましく見ていた・・。

http://www.youtube.com/watch?v=ZGu7SGxNWyo&feature=related
☆【JR東海 Xmas Express 歴代CM1988年~1992年】
                  <==【 『クリスマス・イブ』 作詞・作曲・唄 山下達郎 】☆

私は、若き男女が、冬の天の川のように心寄せながら、
ときめき、もどかしさ、せつなさの恋情を齢を重ねた私さえ感じられ、感銘させてくれるのである。
・・】

このように投稿していたのであるが、
携帯電話が普及している現在は、待ちわびることは死語となっているが、
若き男女のお互いの恋情の思いは、少なくとも遥か平安時代の頃から、ここ千年変わることないのである。


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今年も早や15日ばかりとなり、去年の今頃は、と思いを重ねて、私たち夫婦は語り合えば・・。

2011-12-15 12:52:19 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝もぼんやりとカレンダーを見たりすると『15日』と解り、
今年も早くも15日を残すばかりとなり、過ぎ去り日々が余りにも早いと感じたりした・・。

そして陽射しの受けた庭の落葉樹は、晩秋の暖かさが平年よりも続いたので、
モミジなどの朱紅色、白梅〈ハクバイ〉、花梨〈カリン〉などの黄色に染められた錦繍(きんしゅう)の情景が、
名残りのように半分ぐらい枝に残っている。

いつものように家内と朝食を頂いた後、私は煎茶、家内はコーヒーを飲みながら、
今年もあと15日ばかりとなったねぇ、と私は家内に言ったりした。

そして、去年の今頃は・・、と家内に尋〈たず〉ねられ、
『去年の今頃は・・確か蔦〈つた〉温泉に滞在して、ブナ林の30センチぐらいの積雪の中、散策していたし・・
翌日は観光客が誰もいない雪が舞い降る中、タクシーを利用しながら、ときおり散策していたょ・・』
と私は思いだしながら家内に言ったりした。

そして、家内は思いだし、
『過ぎてしまえば・・遠い昔のようだわねぇ』
と家内は微笑みながら私に言ったりした。


私たち夫婦は、舞い降る雪の情景が恋しく、
昨年の12月14日より、東京駅から東北新幹線の『はやて』に乗車し、
新青森駅で下車した後、路線バスで十和田湖の近くの蔦〈つた〉温泉に再訪して4泊した。

そして翌日にはブナ林の積雪30センチぐらいの中を歩き廻ったり、
その翌日には、観光客の人影のない奥入瀬渓流を歩いたりした。

この間、蔦〈つた〉温泉の正面にある庭のはずれにあるお土産売り場と食堂を兼業している処で、
連日、雪の情景を観ながら、私は店内の地酒と漬物を頂きながら、雪見酒を堪能した。
そして家内は店内にある食べ物を幾重にも購入し、コーヒーも何度も飲みながら頂いたので、
私たち夫婦は、散財したが、予期した以上に満喫できたので、
深い貴重な思いとして、今でも残っている。

その後、青森市に一泊した後、黄金崎にある不老ふ死温泉に3泊して、
冬の日本海の情景に魅せられ、帰宅したのは22日の夜となった。


翌日の23日から、家内は大掃除をしたりし、御節料理に準じたの料理をしたりした。
そして独り住まいの家内の母に、年末の28日に来宅して頂き、
私たち夫婦と共に三人で、年始の1月4日まで共に過ごしたりしたが、
こうしたことは家内の父が、私の定年退職の直前に死去されて後からの恒例となっているので、
7年目となったりしている。

この間の私は、年賀状を差し出す方の選定、文案の創作、投函したり、
そして年末年始に向けて庭を掃き清めたり、
或いは家内からの緊急要請で大掃除の掃除備品、ときとして御節料理に準じたの材料で、
私の買物に行く回数が増えるぐらいとなったりした。


このような昨年の12月の後半の出来事をお互いに思いだすように語り合ったりした。


そして今年の残された日々は、昨年と同じように過ごすが、
国内旅行だけは変わっているだけである。

20日からは、北海道の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、未知の糠平〈ぬかひら〉温泉に2泊し訪れる。
帯広の郊外の果てしなく積雪30センチぐらいの大雪原の情景、
そしていつに日か訪れることを夢にみていた山奥の糠平温泉の厳冬地に行く。

いずれにしてもマイナス10度前後、烈風か寒気団が襲来すればマイナス20度前後と予測して、
防寒着で身を固めて散策する予定であるが、
旅の間に寒いと感じたら、昨今流行〈はや〉っている中島みゆきさんの『荒野より』の歌を、
心の中で唄えば、私は励〈はげ〉まされて身も心も暖かくなる、と思ったりしている。

私は25年近く中島みゆきさんを女神のように信愛しているし、このお方のひとつの歌である上、
このお方の幾つかの歌に支えられて、この人生の難局を乗り切ってきた。
こうした確かな体験から、恥ずかしながら歌詞を間違えないように、散歩しながら秘かに練習している。


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村上 龍・編集長の無料メールマガジン『JMM』、やむなく高齢者の私は申込みを断念して・・。

2011-12-14 17:43:25 | 定年後の思い
昨夕、ネットでニュースを見ようと、【YAHOO! JAPAN】を開き、
たまたま作家の村上 龍さんが編集長されている『JMM Japan Mail Media』
と無料メールマガジン名を初めて知った。

そして高齢者の私でも、好奇心を失くしたら、この人生は終わりだ、と信念の私は、
こっそりとクリックし、この概要を学び、この中のひとつの【レポート・エッセイ】を開いた。

http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/
☆村上 龍・編集長【JMM Japan Mail Media】<==『海外レポート・エッセイ』☆

この後、この中のひとつの冷泉彰彦(れいぜい・あきひこ)氏が寄稿されている連載の『from 911/USAレポート』で、
『第548回 「感情論の時代にどう対処すべきか?」』 を一時間ぐらいで精読し、
新鮮な角度でインパクトがある優れた内容でありり、多々教示された。

そして私は、この無料メールマガジンを申込みしょうかしら、と15分ぐらい躊躇(ためら)ったりした。


私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このように定年後からの生活を過ごしてきたが、国際や日本の時局全般としては、
殆ど毎日は購読している読売新聞、或いはNHKのニュースを視聴し、
ときたまドキュメンタリー番組を視聴している程度である。

そして喚起された事柄は、深く洞察したい場合は、
何かとビジネス情報サイトとして名高い無料会員制度の【ダイヤモンド・オンライン】を頼ったりし、
『経済・時事』、『国際』などの分野を学んでいる。


つたない私は、これだけで情報はあふれてしまい、無念ながら、
これ以上は無理だと結論し、この優れた無料メールマガジンを申込みを断念した。

働いて下さる諸兄諸姉、ご興味のある方はお読み頂き、
決して時間の浪費にならない内容と思っている。

或いは学生の諸兄諸姉、こうしたテーマを精読すれば、
たとえ海外旅行に行かなくても、遥かに視野が広がると思ったりしている。

私の高校時代は、1960〈昭和35〉年の春から1963〈昭和38〉年の春までであったが、
学生運動にも興味のない私でも、日本、海外の時局全般に関心していた高校生であり、
朝日新聞社から発行された週刊誌のひとつの『朝日ジャーナル』を購読していた・・。

現代は、あの当時の1960年代より、日本は国際主要国と密接にリンクしているので、
こうした優れた寄稿文が、無料で配信できる世の中に、
私でも羨望しているひとりである。

ご興味のある学生諸君、お読み頂き、思索を重ねて、自己形成の確立に役立てて欲しい、
と無力な私は念願したりしている。


私は体力も衰えた身であるので、あえて優れた村上 龍・編集長の無料メールマガジン『JMM』を
紹介致したく、投稿した次第である。


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昨今の若き男女は、二宮金次郎のように歩く方が多くなり、高齢者の私でも戸惑いながら苦笑し・・。

2011-12-13 23:30:18 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
二週間前に買い物で駅前のスーパーに行った時、駅近くの商店街を歩いていると、
若き20代の女性が前かがみで何かを見ながら歩いていた。

その後、駅前の広場を足早に歩いていた若き30代の男性も、
やはり前かがみで何かを見ながら歩いていた。

私は驚きながら周辺を見渡すと、10人ぐらいの方が前かがみで何かを見ながら歩いていたので、
まるで江戸時代末期に農民の児として育った二宮金次郎のような方が増えた、
と私は苦笑したりした・・。

もとより二宮金次郎は、貧困の少年時代を過ごし奮闘しながら朝から晩まで働き、
この間に薪を背負っての道中に本を読んで勉学に励んだ人で、
私が学んだ小学校の校庭の片隅に銅像があった。


私は注視しながら見ていると、何かしら携帯電話のような物に覗き込むように見ている人が多く、
無念ながら携帯電話も使えず、世の中の時流から取り残されている私でも、
ここ一年ぐらい話題となっている高性能携帯電話と称されているスマートフォンだ、
と解った。

そして過ぎし日に雑誌などで教示され、従来の携帯電話はもとより、バソコン、デジカメ、
カーナビ、携帯音楽プレーヤー、ゲーム機、電子辞書なども有している機能もある、
と知り私は驚いているひとりである。


この後日、私は久々に電車に乗ろうと改札口に入り、
地下にあるプラットフォームに通じるエレベータ乗った時、
隣にいる若き20代の女性が、このスマートフォンを忙しそうに画面を変えていた。

そしてエレベータの降り口から平坦となったプラットフォームを歩いていても、
スマートフォンの画面から目を離さないので、人の多い所で危ないなぁ、
と私は危惧したりした。
その後、やはりこの女性は40代ぐらいの男性にぶつかり、目礼しながら謝ったりしていた。

私は身体の衰えた高齢者、或いは構内のベンチとかに、ぶつかったり、
最悪の場合は電車が入線してきたら、と私の方がハラハラしてしまうのである。


昨日、私は近くの野川の遊歩道を散策していた。
落葉樹のたわわな葉は、紅色、朱紅色、黄色など染められている錦繍(きんしゅう)の情景が終わりかけ、
枝には少しばかりの葉が残り、朝のまばゆい陽射しが樹木の枝葉を照らしだして、
私は思わず足を止めて、見惚〈みと〉れていた・・。

まもなく後方から足音が聴こえ、突然に足音が消え、私は後ろを振り向くと、
わずか1メートルぐらいで、若き20代のツーピスを召された女性が、驚いたように立ちすぐんでいた。
私はこの女性の顔立ちを見た後、手に握りしめたスマートフォンに気付いた。

そして、この女性は人影の少ない遊歩道で、スマートフォンで情報を検索しながら歩いているうちに、
私の姿を手前で気付いた、と思われる。

この女性は私に目礼をして立ち去ったのであるが、
私の方が驚いたょ、と私は心の中で呟〈つぶや〉いたりした。


このように昨今は何かと慌ただしく、世の中は情報に溢れているが、
働いて下さる諸兄諸姉、せめて歩いている時ぐらいは、
颯爽とした姿で前を見据えて歩くのが美しい、
とサラリーマンを35年近く体験した私は確信を深めている。


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誰しも健康の源は、何よりも熟睡こそ肝要である、と高齢者の私は微苦笑し・・。

2011-12-13 10:15:48 | 定年後の思い
私は昨日は深夜まで読書をしていた為か、今朝は7時半過ぎに目覚めて、
朝のまばゆい陽射しを居間から眺めて、少しぼんやりとしていた。

私の住む東京郊外の調布市は、この時節の日の出は6時半前後であり、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、年金生活を始めてきたが、
だらけた日常生活を過ごすのは恥ずかしく起床は日の出前、とモットーとしてきたが、
ここ1週間は狂いはじめ、確かに寝坊したが、熟睡した、と微苦笑した。

この後、私は年金生活をして8年生の身であるが、
風邪などで内科の病院に治療を受けたことはないなぁ、と微笑んだりした。
私の秘かな対策のひとつとして、風邪ぎみの時は、早めに布団にもぐり、
本を読み、そして睡眠時間を多めにしている。

こうしたことは年金生活の自在の身だからできることなので、
この世で一番贅沢なことと確信しながら、と甘受している。


しかし働いて下さる現役の諸兄諸姉は、歳末に向けて短期に成果を問われる昨今、
睡眠時間を削りながら奮闘されていると思われる。

古来より大学受験に際して、『4当5落』という格言があった。
睡眠時間を4時間程度にし、5時間以上睡眠に貪(むさぼ)れば、
目指した受験校の合格には覚束ないと長らく伝えられてきた・・。

私は若き18歳の時、大学入試の際は、目指していた第一志望の大学に合格する自信がなくなり、
安易に入学が確実に入れるて大学を選定した。

その後、大学を中退し、映画、文学青年の真似事をした後、
ある大手の民間会社に中途入社できたのは25歳の時であった。

もとより会社に勤めれば、多くのお方と同様に、
上司を見習いながら勤務に励み、ときには土日の休日出勤などもあり、
そして開発業務などの期間は、徹夜となったりしていたので睡眠時間を削っていた。
しかし開発の業務は、一年以内であるので、
その後の勤務体制は通常となり、ほっとしたりしていた。

定年退職の5年前より、業界全般としてリストラ烈風の影響下、
私は出向となり、少し遠方の勤務先となった。

朝は4時45分に起床し、帰宅は夜の10時過ぎが圧倒的に多く、
消却法として睡眠時間は4時間程度となり、
こうした勤務体制を5年間続けて、定年退職時を向かえ、
私のサラリーマン生活は卒業したのである。

私は『4当5落』の言葉を聴くと、安易に逃げた大学入試の受験期でなく、
社会人の最後のサラリーマン5年間の出向期間なのであり、
今となって微苦笑している。


私は健康の源は、乳児から高齢者までの誰でも、
薬などに頼らず、熟睡こそ肝要である、と思っている。
そして生きがいのある言動をしていれば、
たとえ齢を重ね体力が衰えても、心身は溌溂(はつらつ)と確信している。


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東京郊外に住む田舎者の私、冬の季節を迎えると、雪恋し、と心の中で呟〈つぶや〉きながら・・。

2011-12-12 09:32:16 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳となった身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私の住む処は世田谷区と狛江市に隣接している調布市の片隅の地域であり、
結婚の5年間前後の川崎市の登戸、千葉県の市川市に住んだことがある以外は、
この地の調布市の一角で住み、早や60数年となる。

晩秋は暖かな日に続き、落葉樹の紅色、朱紅色、黄色などに彩った錦繍〈きんしゅう〉の時期が、
平年より2週間ぐらい遅れ、我が家のモミジなどは、朱紅色に染められて、確かに美景であるが、
戸惑ったりしている。
平年ならば、吹き寄せの朱紅色の落ち葉を私は掃き清めたりしている・・。

ここ数日、朝の6時過ぎの頃は、一昨日の10日はマイナス1度、昨日の11日は0度、
今朝は0度となり、屋根、地面などに霜〈しも〉がうっすらと白いベェールの情景となり、
遅ればせながら晩秋から冬の季節になったかしら、と思ったりしている。

そして、東北、北海道の地方で雪が30センチ降った、とテレビのニュースを視聴したりすると、
なぜかしら私は心の片隅みで微笑んでしまうのである。

私の住む地域は、2月の頃になれば、わずかながら雪が降ることもあるが、
雪恋しい私は、雪のニュースに思わず微笑んでしまう。
そして、ときおり私の幼年期の情景を重ねてしまうのである・・。


私は1944〈昭和19〉年に農家の三男坊と生を受け、
祖父と父が中心となって、程々広い田畑を小作人だった人たちの手助けもあって
農業を営(いとな)んでいた。

この当時は、京王線の最寄駅までは
殆ど田畑が広がり、雑木林、竹林なども観られた田園風景であった。

私の幼年期は、毎年、冬の時節になると、雪が30センチ前後が数回降った。

1951〈昭和26〉年の春に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。

ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。

家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。

駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
畑は雪に埋もれていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校した。

小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅に木造の正方形の1間幅の暖炉があった。
コークスはむろん、石炭も使用される前の時代であったので、
簡易に造ったブリキの中で、薪(まき)が燃やされていたのである。

私たち学童は、衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。
そして、学級で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と悪口を言い合っていたりした。

下校のひととき、番傘でチャンバラの真似事をし、
番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。

このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。


その後、1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。

1964〈昭和39〉年に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、
この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。

こうした幼年期に体験した私は、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると北の地域に旅行し、
雪の情景を享受している。


たまたま昨年の今頃は、青森県の十和田湖の近くの蔦〈つた〉温泉に4泊し、
ブナ林の積雪30センチぐらいの中を散策したり、観光客の人影のない奥入瀬渓流を歩いたりした。
その後、青森市に一泊した後、黄金崎にある不老ふ死温泉に3泊して、
冬の日本海の情景に魅せられたりした。

或いは今年の二月に山形県の銀山温泉に4泊し、新庄市に一泊した後、
最上川の船下りなどで、『雪街道』の情景に心を寄せたりした。

そして11月に秋田県の田沢湖の高原に3泊した時、
みゆきが舞い降り、積雪15センチぐらいの何よりのプレゼントを頂いたりした。


これからの20日は北海道の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、
未知の糠平温泉に2泊し訪れる。
そして、新年の1月中旬に福島県の裏磐梯にあるリゾートホテルに3泊、
その後は下旬に北海道の札幌市の郊外のリゾートホテルに6泊を予約している。

このように私たち夫婦は、国内旅行が共通の趣味のひとつであるが、
なぜかしら東京郊外の田舎者の私は、冬の時節になると北に旅をしてしまうのである。

尚、豪雪地域にお住いの人は、日常の生活に於いては多事苦難は少し解っているつもりであり、
江戸後期の商人、随筆家として、鈴木牧之が遺(のこ)された『北越雪譜』、
磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)を読んだりしてきたが、
あくまで旅人として、みゆき舞い降る圧倒的な情景、積雪の山里、街並みに魅了されているひとりの
思いからである。

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庭の手入れをすれば、家内の若さの勢いに、高齢者の私は微苦笑させられ・・。

2011-12-11 19:49:15 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
過ぎし8日に、今年最後の樹木の剪定(せんてい)作業と早朝から張り切っていたが、
天上の気候の神々がせっかちな性格に変貌したせいか、夕方から小雨の予報が、
昼過ぎに早まり、やむなく順延した。

そして我家は原則として、庭の手入れは私の責務の範疇であるが、
年に数回ぐらい家内の支援があり、
昨夜に、枝切りを徹底的にしましょう、私も頑張るわ、と家内から元気な声を聴いたりした。


朝の8時半過ぎに私は玄関庭の下り立ち、
いつものように剪定鋏(ハサミ)を腰の周りに備え、剪定用の鋸(のこぎり)を持ちながら、
樹木に登ったり、適度な台に乗り、枝葉を切り落としはじめた。

まもなく家内は、高枝鋏(たかえだばさみ)を薙刀〈なぎがた〉のように持ち、
私に近寄ってきた後、付近の樹木を高枝鋏(たかえだばさみ)で枝葉を切り落としたりした。

私は樹木の枝葉を切り落としたりしていると、ときおり地上から、
『その枝の下の方から、切り落として・・』
と家内の指示の声がする・・。

このように2時間ばかりした後、主庭に移動した。

そして私はベランダの片隅の簡易椅子に30分ごとに5分休憩し、
煎茶を飲みながら、煙草を喫ったりしていた。

家内は歩道に面した垣根のアカネモチの枝葉を剪定鋏(ハサミ)で器用に切っている。
その後は、金木犀(キンモクセイ〉、マテバシイなどの樹木も高枝鋏(たかえだばさみ)で枝葉を切り落とし、
休憩も取らず、奮戦している。

その後、お互いに昼食抜きで奮闘していたのであるが、
私は疲れて、簡易椅子に腰かけて、煎茶を飲みながら、煙草を喫ったりしていた。

家内はまもなく62歳を迎える身であるが、心身溌剌としている。
私は5つばかり齢上であるが、定年退職後は現役時代の緊張感が失くしたせいか、
昨今は体力の衰えも実感する時がある。
私の母、そして家内の母も更年期が過ぎてから、
新たに甦〈よみがえ〉る程に元気になった時期もあったので、
女は良〈い〉いよなぁ、と私は家内を見つめたりしていた。

その後、私は家内の切り落とした枝葉を拾い、市の指定の『燃えるゴミ』袋に、
剪定鋏(ハサミ)で枝葉を袋が破けない程度に細かく切り分けたりした。
主〈あるじ〉の私は、ついに家内に体力も逆転させられたか、と微苦笑した。

こうして3時間ばかりし、散乱した落ち葉を掃き清めていると、
薄暗くなり、夕暮れの4時過ぎとなった。

そして風呂を沸いた頃、家内に先に入ってもらい、
私は庭の片隅で簡易椅子に座り、煎茶を飲みながら煙草を喫ったりした。

私は若き40代の頃は、こうした時はお寿司屋さんから頂いた大きな湯呑茶碗で、
冷酒を二杯ぐらいは吞んで待機していたが、
今や煎茶を飲む身となり、やはり齢かしらと苦笑したりした。

その後、私は風呂から上がった6時少し前から、昼食兼早めの夕食となり、
お互いに疲れたが、何とか今年最後の樹木の剪定は終わった、と微苦笑したりした。

そして私は、歳末近くに落ち葉を掃き清めれば、歳末を迎えて新年か、
と思ったりしている。

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年金生活の何よりのボーナスは、程ほどの自在の日々かしら、と高齢者の私は微苦笑し・・。

2011-12-10 10:22:37 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳となった身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

ここ2週間ぐらい新聞の折込みチラシなどで、お歳暮の商品、クリスマスの贈り物、御節料理など、
掲載されているので、早くも歳末に向っている、と私は教示されたりしている。

過ぎし5日前の頃、こうした折込みチラシを家内が見ていた時、
『世の中は冬ボーナスの時かしら・・』
と家内は私に言った。

『そうだょねぇ・・僕の現役時代は5日だったし・・
確か官公庁の方たちも10日だった、と記憶しているょ』
と私は苦笑しながら家内に応〈こた〉えたりした。

『我が家は、この時節にボーナスもなく・・少し寂しいわねぇ』
と家内は私に言ったりした。

『でもねぇ・・こうして過ごせるのだから』
と私は苦笑しなが家内に言ったりした。

『そうよねぇ・・働らなくとも・・何とか生活できるのだから・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりした。


私は中小業の音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めて、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職をした後、年金生活に入った。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋、
大学を中退し、映画・文学青年の真似事をして、4年ばかり奮戦したが、
あえなく敗退し、やむなくサラリーマンに転身する為にコンピュータの専門学校で一年修身した。
そして私が25歳の1970〈昭和45〉年の春、
この当時は大手の音響・映像メーカーのある会社に、何とか中途入社できた。

まもなく会社の一部門が外資レコード会社として新設されて、
私も転属させられ、音楽業界のレコード会社の管理畑に勤めることとなった。

音楽に直接に関わる制作畑ではなく、商品、情報、経理、営業などの部門を異動したが、
裏方の管理畑を歩んできた。

1970、80年代は音楽業界は、それぞれのレコード会社は躍進したが、
90年代を迎えると、特に外資系は、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

そして1998年に売上の主軸となるCDがピークとなり、この少し前の年から
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、
私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社に30年近く勤め放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

この間、出向先の会社も大幅なリストラが実施されたり、
出向元でもリストラ烈風となる中、私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、
或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、私は出向先で定年退職を迎えたのである。
そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。


私は定年退職の直前まで、失業保険の申請して、
勤める意志はなかったが、わずかばかりの額を甘受する予定であった。

しかし、私は長年管理畑の身であったので、これといって特別な技術もなく、
たまたま家内の父が死去し、
退職直前は業務の引継ぎに加わり多忙となったのである。

そして、この数年前の頃は大企業もリストラ旋風で失業された人達も多く、
真に職さがしをしている人に失礼と思い、失業保険の申請書を破棄したのである。
           
私は中小業のサラリーマンの身として、年収1千万円台で何とか卒業できたが、
大企業で栄進された方、或いは官公庁の上層部のように高額所得地位にも成れず、
程ほどの年収、退職金であったので、金融資産は程ほどである。

私の現役時代の財産といえば、
その時代と共に過ごした名曲の数多くが心に残り、
そして上司、同僚、後輩と共に音楽業界の空気を共にできたことである。

或いは、OBの懇親会などの会合の折、
流行った曲名でその時代を表現し、
そうだったよね、とお互いにうなづいたりしている・・。


定年した後、年金生活を始めて、近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下がりのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする。

或いは平日でも人の多い都心に買い物に行ったり、
最寄の駅前などで、働いて下さる現役の諸兄諸姉の溌剌な姿を見たりする時は、
何かと短期で成果を問われる今日、大変な時代になっている、と深く感じたりしている。

ときおり私たち夫婦は、国内旅行に行く時、東京駅とか羽田空港の待合所で、
やはり現役の諸兄諸姉の多忙なしぐさ、会話を聞いたりすると、
こうして私たちが、のんびりと旅行するのに申し訳ないと思ったりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。

しかしながらこの世の哲学である齢を重ねるたひに、
出逢う人は少なくなり、会社時代の知人、友人、親戚の方たちの現生との別れもあり、
ときおり溜息〈ためいき〉をすることもある。


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冬のボーナス、私の現役のサラリーマン時代に頂いた後、休日の頃を思い馳せれば・・。

2011-12-09 14:06:47 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
先ほど、ぼんやりと雨上がりのベランダに下り立つと、
昨今は曜日の感覚も定まらいが、確か9日の金曜日だったと思ったりした。

そして毎年10日には官公庁の冬季のボーナス支給日だった、と思いながら、
たまたま10日は土曜日なので、今年は本日の9日が支給日かしら、と思い重ねたりした。

昨今、新聞の折込みチラシなどで、お歳暮の商品、クリスマスの贈り物、御節料理など、
掲載されているので、早くも歳末に向っていると教示されたりしている。

この時節、現役の諸兄諸姉たちの多くは、冬季のボーナスの頂いたり、
そして忘年会、お歳暮の挨拶など、
その上、何かと業務も年度末を迎えているので、何かとお忙しく、心身お疲れとなっているが、
頑張られているのではないかしら、と思ったりしたのである。


私は民間の中小業ある音楽業界のあるレコード会社に
35年近く勤めて2004〈平成16〉年の秋に定年退職した身であるが、
現役時代は数多くのサラリーマンの人たちと同様に、
特にこの時節は、睡眠時間を削り、奮闘していたひとりである。

そして、ボーナスが支給された週末の休日には、
お歳暮の挨拶廻り、母の住んでる処に寄ったりしていたので、
この師走のなかば頃の思いも重ねながら、ぼんやりと思い馳せたりした・・。

たまたま、このサイトで綴ってきたので、先ほど読み返し、
独り苦笑しながら、あのようなこともあったなぁ、と懐かしげに読み返したりした・・。


【 お歳暮の頃の想いで・・♪ 】
と題して、2006年12月2日に投稿している。

【・・
私の現役時代は、お歳暮などの社交辞令は何かと苦手であったので、なるべく避けていた。

しかし不得意な私でも、人生の岐路にたたされた時、
或いは救いの手を差しのべて下さった方には感謝して、
もとより年賀状は送信し、お中元、お歳暮の時は、ご自宅に訪問させて頂いた。

私の就職、結婚の時は、特にご尽力を頂いて、感謝している方である。

私が大学を中退し、映画・文学青年の真似事をして、
やがて敗退し、やむなくサラリーマンに転身する為にコンピュータの専門学校で一年修身した。
そして私が25歳の1970〈昭和45〉年の春、
この当時は大手の音響・映像メーカーのある会社に中途入社できたことは、
この会社の首脳陣のひとりに、ご尽力して頂だいたことも要因のひとつである。

そして私たち夫婦が結婚する時に、何かとお世話になり、
ご自宅に訪問した折、温かなまなざしで私に応対してくれた。
そして奥様もさりげなく優しく言葉、しぐさなど包みこんで下さり、
私たち夫婦は、このご夫婦から高潔さを教示された。

このような形を25年過ぎれば、私も齢を重ねたが、
このご夫妻からは、素養が格段違う、と私たち達夫婦は共は実感させられたりした。

私の定年退職の時、私たち夫婦の年金生活では、とても口に出来ない高価な美酒を頂戴した後、
まもなくご高齢であったご主人は亡くなわれた。

そして告別式に私たち夫婦は参列させて頂き、改めて高潔なお人であった、
と思い馳(はせた)りした。
・・】


【 私なりのボーナスの想いで・・♪】
と題して、このサイトに2007年12月11日に投稿している。

【・・
昨日のニュースで官公庁の冬季のボーナスが支給され、
民間会社の多くも既に支給された会社もある、と報じられ、私は微苦笑したりしていた。

私は中小業の民間会社を卒業した年金生活の4年生の身であるので、
あの頃は、ボーナスを頂いた時が想いだされた・・。

20代の頃の独身時代は、スーツ、ワイシャツ、ネクタイ、通勤靴、通勤バックなどを買い揃えて、
母に幾ばくかを手渡し、そして呑み屋さんに通っても、程々の貯金が出来た。

30代の初め、結婚し、賃貸マンションに入居するまで、
無知な私でも結構お金を要すると解り、実家の長兄から、ある程度の額を借用したので、
ボーナスを頂くたびに返済した。
この2年間の期間は、返済していても、私たち夫婦の新婚時代は多少の貯蓄は出来た。

この後、私は実家の近くに一戸建てをするのであるが、
土地、住宅建築まで多大な経費となり、 その上に若さの勢いで家屋の中に茶室を設けたりし、
住宅金融公庫を根底とし、幾つかの金融機関からローンを設定した。

こうした関係もあり、このローンが50代の初めの頃まで、
ボーナスを頂く度に若い時は30%前後、その後の40代は25%前後を返済していた。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったけれど、
住宅に関する購入は、普通のサラリーマンの身としては、人生で一番高い買物かしら、
と心身実感させられた時代であった。

50代の初め、ローンの一括返済をした後、
老後の人生設計の基礎となす資金の為、貯蓄を大半し、定年退職を迎えた。

このようなボーナスを頂くたびの軌跡であったが、
どなたも同じと思われるが、サラリーマンの現役時代には大波、小波に遭遇し、
家内と何とか乗り切り、今日を迎えているのである。

私は築後30年の古惚けた家に住み、
程々の広さの庭で、樹木を眺めながら、あんな時代もあった、
と思いを馳(は)せたりしている。

尚、私は家内を戦友と思っている。
人生の過ごす時に、公私共々何かと確執があったりするので、
私達夫婦は互いの欠点を補(おぎな)いながら寝食を共にし、
無条件に寄り掛かれる随一の人、と実感しているからである。
・・】


【 『サイレント・イヴ』の想いで・・♪ 】
と題して、2007年12月24日にこのサイトに投稿している。

【・・
私は、定年退職後の4年生の身であるが、
この時節、ときおり辛島美登里の『サイレント・イヴ』がテレビ、ラジオで聴いたりすると、
苦く懐かしい想いでが甦(よみが)ってくる・・。

私の現役時代、あるレコード会社の20年ばかり情報管理畑に勤務していたが、
リストラの影響で不馴れな経理畑に人事異動させられ、
その上、レコード会社の統廃合が行われ時期であり、
私は当然ながら睡眠時間を削り、奮闘していた時代であった。

そして、統廃合で社員の交流をお互いに深め、目先の不馴れな業務に励んでいたので、
心身疲れきっていたのである・・。

こうした折、12月の初め、統廃合で知り合った後輩の人から、
私の机上に一枚のCDアルバムを置いていった。

『昨年に発売したのですが、よかったら聴いて下さい』
とメモが綴られていた。

『Keep Christmas With You』というアルバムのタイトルで、
CDのジャケットが洒落ていた。
初回限定 特製スノープレート付きと明示され、ジャケットを少し振ると、
森の中に拓かれ大きな樅(モミ)の樹の周辺に雪が降るのであった。

そして辛島美登里の『サイレント・イヴ』、稲垣潤一の『メリー・クリスマスが言えない』、
永井真理子の『ZUTTO~Xmaz Version~』等が収録されていた。

その後、まもなくお歳暮の挨拶を家内と数軒廻っている時、
疲れたので駅前の喫茶店で休息をしていた時、


♪真白な粉雪 人は立ち止まり
 心が求める場所を 思い出すの

【『サイレント・イヴ』 作詞・作曲 辛島美登里、編曲・若草 恵、唄・辛島美登里】

店内から流れてきた。

私は、もう少ししたらクリスマスかょ、と心の中で呟(つぶや)いて、
歳末の仕事納めの日まで、数多くの業務を思案したりすると、
尚更ぐったりと心身の疲れが増してきた・・。


私にとっては、今でもこの曲を聴くたびに、
現役時代で一番労苦の多い時だった、と想いだしたりしている。
・・】


このように私は綴っていたのを読み返し、現役の諸兄諸姉は、
何かと短期に成果を問われる大変な時代と思ったりしている。
しかしながら業務に精勤する余りお身体だけは、程々に大切にして欲しい、と感じている。

こうした中で、休日のひとときは、愛する人と過ごしたり、
或いはご家族のある方は、最愛の連れ合い、そしてお子様と安らぎの時を過ごして下さい、
と無力な私であるが、何よりも念願したりしている。


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早朝に目覚めれば、今日も雨かょ、と思いながら、早くも冬眠のような時を過ごし・・。

2011-12-09 09:48:35 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨日は今年最後の樹木の剪定(せんてい)作業をしょう、と私は体力も衰えた身であるが、
久々に気合いを入れて張り切っていた・・。
しかし夕方から小雨が降る天気情報が、なぜかしら昼過ぎから雨と報じられ、やむなく延期した。
そして、何かしらは不意にはハシゴを外されたように、心身調子抜けとなったりした。

午後になると小雨が降りだし、私は居間のソファで文庫本を読んでいた。
過日、買い求めた松山善三、高峰秀子ご夫妻の『旅は道づれアロハ・ハワイ』〈中公文庫〉であるが、
中断し、二階の寝室の布団にもぐりこんだ。
そして電気毛布の暖かさに甘えながら、
この文庫本の『旅は道づれアロハ・ハワイ』〈中公文庫〉を読んだりしていた。

私はたった一度だけハワイ旅行の体験を重ねながら、ご夫妻のハワイを生活と思いを多々教示されたりし、
ひととき眠ってしまったが、目覚めれば本の続きを読む、冬眠のような時を過ごした・・。

そして夕食の時に、久々にバーボン・ウィスキーを吞みながら、
家内と今後の冬の旅を3つばかり予約しているので、この話に盛り上がり、
2時間ばかり話し合った。

その後は、9時過ぎに布団にもぐり、この文庫本の『旅は道づれアロハ・ハワイ』〈中公文庫〉を読み、
一時間ぐらい読むうちに、眠り込んでしまった。


目覚めれば、夢を思いだしながら、私は松山善三、高峰秀子ご夫妻とお逢いし、
私は羞恥心をたたえて、まぶしげに敬愛するご夫妻に応対していた・・、
夢であったので、苦笑してしまった。

私は現実には、松山善三、高峰秀子ご夫妻とお逢いしたことがないが、
わずか一度だけ、偶然に高峰秀子さんだけは、若し日の私は紹介されたことがある。

東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋、
私は映画の脚本家になりたくて、大学を中退し、映画青年の真似事をしていた時であった。
そして確か冬の日だったと記憶しているが、私は東宝の撮影所で、
宣伝部の方と話し合っていた時、
たまたま高峰秀子さんがこちらに向かって来た時があった。

宣伝部の方が飛び出て、
『この青年・・大学を中退し、この世界に・・』
と話されていた・・。

『こんにちは・・でも・・もったいないわ・・大学をお辞(や)めになるなんて・・
でもねぇ・・大変ょ・・この世界は・・』
と高峰秀子さんは私に云った。

私はこの当時も大女優であった高峰秀子さんとは、
これが出会いであったが、これ以降はお逢いしたことがない。

この後の私は、映画青年、その後の文学青年の真似事もあえなく敗退して、
やむなく中小業のサラリーマンに転身した苦い時期もあった。


私は日頃の強い思いが秘めていると、脳裏に残像となり、なぜかしら夢の世界まで出てくることが、
多いので、微苦笑したりする。

この後、一回のトイレに寄った後、時計を見たら5時だった。
そして洗面所の横窓から、玄関庭を見ると、薄暗い中、雨が降っていた・・。
『今日も雨かょ・・』と私は呟〈つぶや〉きながら、
昨日の午後から、飽〈あ〉きる降る雨に、これだったら庭の樹木も濡れ、黒土も乾くこともないので、
庭の手入れも数日は延期しなけれはならないなぁ、と思ったりした。

そして私は再びぬくもりのある布団にもぐり、やがて眠り込んでしまった。

目覚めたのは7時半過ぎで、主庭に小雨が降る情景を眺めると、
早くも冬眠のように、ぐうだらな時を過ごしてしまった、と微苦笑を重ねたりした。


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東京の郊外は、昼過ぎから雨が予測され、やむなく我が家の樹木の剪定は延期し・・。

2011-12-08 09:43:19 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
朝の9時過ぎから庭の樹木の剪定(せんてい)作業をする為に、6時過ぎに起床した。
そして、このサイトに、【早くも我が家は、今年最後の樹木の剪定(せんてい)作業、ときには高齢者の私でも奮戦・・。】
と一筆啓上した後、家内と共に朝食を頂いた。

この後、NHKのニュースの中で、気象情報を視聴していたら、
昼過ぎから雨、と報じられた。

昨夜の気象情報に於いては、明日の8日は曇りの日中となり、夕方より雨、
と公表されていたので、我が家のスケージュルもあるので、
今年最後の樹木の剪定作業をしょう、と私は家内と話し合ったりしていた・・。

『XXちゃん、雨が降りだすのは、夕方から昼過ぎに早まるみたい』
と私は家内に言ったりした。

この後、私は主庭のベランダに下り立ち、どんよりとして曇り空で、
何時から雨が降りだしても、おかしくない空模様であり、
樹木の選定と整理、そして落ち葉の掃き清めるまでは、少なくとも6時間は要するので、
やむなく延期をしょう、と決断した・・。


そして私は家内に、明日に庭の手入れをしょう、と伝えたりした。

私は高齢者3年生の体力も衰えた身であるが、久々に気合いを入れて張り切っていたので、
何かしらは不意にはハシゴを外されたように、心身調子抜けとなったりした。

この後、家内は、
『私も同じですょ・・』
と私に苦笑しながら言ったりした。


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早くも我が家は、今年最後の樹木の剪定(せんてい)作業、ときには高齢者の私でも奮戦・・。

2011-12-08 07:01:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
我家は原則として、庭の手入れは私の責務の範疇であるが、
年に数回ぐらい家内の支援がある。

昨夜、今年最後の樹の枝切りをしょう、と私達夫婦は話し合った。
こうした時は、この時節は朝の9時過ぎに私は庭に下り立ち、
玄関庭の外れにある花梨(カリン)の大きく黄色に色づき、香りある実を採ったりした後、
家内の支援を受けたりする。

私はいつものように剪定鋏(ハサミ)を腰の周りに備え、
剪定用の鋸(のこぎり)を持ちながら、樹木に登ったり、適度な台に乗り、枝葉を切り落とし、
この間の家内は、付近の樹木を高枝鋏(たかえだばさみ)で枝葉を切り落としたりする。

私は樹木の枝葉を切り落としたりしていると、ときおり地上から、
『その枝の下の方から、切り落として・・』
と家内の指示の声がするのである・・。

その後、主庭のモミジ、白梅を中心に剪定し、昼食抜き互いに奮闘し、
枝葉を整理した後、落ち葉を掃き清めたら、夕暮れとなる。

そして風呂を沸いた頃、家内に先に入ってもらい、
私は庭の片隅で簡易椅子に座り、煎茶を飲みながら煙草を喫ったりする。

我が家の敷地か変則なので、やむなく玄関庭と主庭に分ける結果となり、
落葉樹を中核としたささやかな庭であるが、
季節ごとに情景の移ろい、30数年眺めてきたのであるが、
それなりにその年ごとの思いでも重なり、昨今は愛惜を深めている。

その後、私はぼんやりと眺めて、大幅に短めになったそれぞれの樹に、
微笑を浮かべたりすることが多い。

そして家内がら、風呂上りの合図を受けて、
私は風呂に入るのが、この時節の庭の手入れが恒例となっている。

こうして今年最後の樹木の剪定作業を終えたら、
あとは年末近くに、私は落ち葉を掃き清めたら、歳末を迎えている。


こうして綴っているが、夕方から小雨が予測されているので、
果たして平年通り済むかしら、と庭の樹木を眺めたりしている。


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千昌夫の『星影のワルツ』の歌が街に流れていた頃、その当時の私は文学青年の真似事していて・・。

2011-12-07 10:49:32 | 青年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨夜、7時半過ぎに風呂から上がると、家内はNHKの『クローズアップ現代』を視聴していて、
イスラエルのことをテーマにしていたので、私も視たりした。

この番組の終了後に、家内は入浴したので、
私は夕刊を読みだしていたら、何かテレビから千昌夫さんの『星影のワルツ』の唄声が聴こえだした・・。
私は思わずテレビの画面をぼんやりと見つめたりした。

まもなく『歌謡コンサート』の番組に於いて、作曲家の遠藤 実さんが亡くなわれて3年が過ぎ、
遺された名曲をそれぞれの歌手が唄う、と私は解った。

そして、私は齢を重ねた千昌夫さんの『星影のワルツ』を熱唱するのを視聴した後、
この歌が盛んに街に流れいた頃を想いだされた・・。


私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
二十歳になった私は大学を中退して、映画の脚本家になりたくて映画青年の真似事をした。

まもなく銀座の松屋の裏手にあった俳優・演出・シナリオ等の養成所があり、
私はシナリオライターを目指していたので、
確か俳優コース、演出コースの中で、演出コースに所属し、シナリオの習作を学んでいたのである。

この養成所からの斡旋で、アメリカのテレビ劇の出演のアルバイトをしたり、
講師がある大手の月刊誌の連載を契約していたので、
私は取材をして下書きして、講師からいくばくかのお金を頂いたり、
新劇のある劇団の人たちの紹介も受けたりしていた。

この中の60歳前後で新劇の著名な方で、映画にときおり準主役に出演される方から、
映画の製作は縮小される昨今、ますます君のようなシナリオライター希望は厳しいょ、
同じ創作されるのであるならば、小説もひとつの方向だね、
と教示されたことがあった。

確かに映画の製作は縮小されるし、企画が通っても共同作業だし、
その上、何かと制約もあることだしと思いながら、小説の習作をはじめ、
これまでの交流関係の人たちから私は絶ったのである。


そして新聞の人事募集を見て、ある警備会社に契約社員として採用されたのは、
1968(昭和43)年の初春であった。

この警備会社の派遣先は、新宿から10分たらず駅に隣接した大きなショピング・センターであった。
商店街の再開発の一端で、時計・宝石店、本屋、レコード店、毛糸・手芸屋、紳士服店、婦人服店、
パン屋、お菓子屋、魚屋、肉屋など昭和40年の初めの頃に大きな商店街に観られる状態を
小奇麗なビルの場所に移転集約したようなショピング・センターであった。

私の勤務体制は朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そしてショピング・センターの営業時間は、朝の10時に開店し、
夜の8時に閉店していた。

私が朝の9時に警備室に入室し、相手方と1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりしたのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したりしていた。

学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

こうした心情があったりしたが、私は勤務時間の表面上は明るく振舞っていた。

店舗のひとつのレコード屋であり、日中はこの頃流行っていた千昌夫の『星影のワルツ』が盛んに流れていた。
この当時は、私の住む街の商店街からも、この歌が盛んに流され、
私も徹夜の勤務から解放され、帰宅する途中などで、聴いたりしていた。
そしてこの当時は黛 シュンの『天使の誘惑』、伊藤ゆかりの『恋のしずく』なども流れたりし、
華やかと思われる歌謡曲の世界と違い、悪戦苦闘したいる自分には、
遥かに遠い世界と感じたりしていた。

そしてこのレコード屋から、私が勤めて半年過ぎた頃、
閉店まぎわになるとなぜかしら『テネシー・ワルツ』が流れているのに、
気付いたのである。

10数年前の小学生だった私がラジオから盛んに流れていたパティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を、
今頃に、どうしてなの、と私は不思議に思ったりした。


このレコード屋さんは40代の男性が経営者であり、
35歳前後の女性が常駐し、ときおり経営者が来店して、お客さんが居ない時、
この店員さんである35歳前後の女性と談笑をしたりしていた。

この35歳前後の女性は、背の高い理知的な人で、
私に明るい笑顔を見せながら、挨拶をされる方であった。

閉店まぎわになると、店の周囲をカーテンで閉めながら、
少し沈んだような表情で『テネシー・ワルツ』をプレイヤーでかけていた。


この間、私はこのビルの上階にある名の知れた大手の民間会社の女事務員の方と顔なじみとなり、
交際をはじめて数ヶ月頃、この女事務員のお宅に招待された。

結果としては、この方の父はある官庁の課長をされている方であり、
大学中退でフラフラした挙句、警備員などで契約社員のくせに、
将来性が全く見込めない私に娘との交際は許さない、
と後日にこのような意味合いの電話を頂き、やがて私達はきまづくなり、そして私は失恋した。


このような状況の時、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと言われたのである。

私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、と進路を大幅に変えた・・。


やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
私は民間会社に中途入社する為、コンピューターの専門学校で一年ばかり学んだ後、
知人のご尽力もあり、この当時は音響・映像メーカーのある大企業に中途入社ができたのである。

この後、私の勤めていた会社から外資のレコード会社が新設され、
私も転属させられて2年が過ぎた頃、
私は本社の六本木で情報畑の専任者として奮闘しながら勤務していた。
夜の8時過ぎに隣席に近い販売促進の人が、
たまたまパティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を聴いていた。

私は微苦笑しながら、警備員の時代で知り合ったレコード店の女性を思い浮かべた・・。
『上の階の女性との貴方の交際・・偶然に見かけてしまったの・・
あの方は気付いて、過日、私に事情を話されたのょ・・
私・・人生経験あなたより豊富でしょう・・ご免なさい、生意気言って・・
あなたはお若かいのだから・・警備員などでくすぶっては駄目ょ・・
もっと社会の第一線に出て・・溌剌としてほしいわ・・
あなたの齢だったら、充分やり直しができるわ・・』
と閉店した後のレコード店の少し暗くなった店先で、私は言われたのである。

私はこうしたからも人生の激励を受けたりし、
何とか社会人のひとりなり正社員で奮闘し勤務していたが、
煙草を取りだし喫いながら、この人を思い浮かべると、煙が目にしみたようになった。


私は35年近く勤めたあるレコード会社を2004(平成16)年の秋に定年退職し、
そして年金生活を始め、ときおり千昌夫さんの『星影のワルツ』、
或いはパティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を聴いたりすると、
この悪戦苦闘し先の見えない文学青年の真似事をしていた時や、
このレコード店の女性の表情が浮かぶのである。


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高峰秀子/松山善三・ 著の『旅は道づれアロハ・ハワイ』、何かしら懐かしい心情につつまれ・・。

2011-12-06 15:48:45 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。

昨夜のひととき、家内は明日に駅前のスーバー、専門店に買い物に行くと言うので、
本日は午後より小雨が予測されていたので、
午前中のひととき、私はホディーガード兼お供で、家内と共に出かけた・・。

私はスーパーで家内が買い物している間、この店内にある本屋に寄ったりした。
そして単行本、新書本、文庫本のコーナーを見て、三冊ばかりの本を買い求めた。

この中の一冊は、文庫本のコーナーの最前列に並んだ中で、
松山善三、高峰秀子ご夫妻の『旅は道づれアロハ・ハワイ』〈中公文庫〉の表紙を見て、
懐かしいような心情となり、購読することにした。

http://www.chuko.co.jp/bunko/2011/11/205567.html
☆【中央公論新社ホームページ】<==【文庫本】高峰秀子/松山善三 著『旅は道づれアロハ・ハワイ』☆


私が二十歳の時は、東京オリンピックの開催された1964〈昭和39〉年の秋の時であったが、
大学を中退し、映画青年の真似事をしていた時期で、
オリンピックには眼中なく、京橋の近代美術館に通っていた。

戦前の邦画名作特集が放映されていたので、
数多くの昭和の20年までの名作を観ることが出来たのである。

この中の作品の中で、山本嘉次郎・監督の『綴方教室』(1938年)、
そして『馬』(1941年)も観て、天才子役、少女と称せられた高峰秀子さんの存在を実感させられた。

私はこの当時の1964年に於いては、
少なくとも木下恵介・監督の『二十四の瞳』(1954年)、
成瀬巳喜男・監督の『浮雲』(1955年)、
木下恵介・監督の『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、
松山善三・監督の『名もなく貧しく美しく』(1961年)等は当然のように鑑賞していた。

そして封切館で松山善三・監督の『われ一粒の麦なれど』(1964年)で観たばかりの年でもあった。

私は女優の高峰秀子さんの存在は、天上の女神のような存在であり、
『二十四の瞳』と『浮雲』がほぼ同時代に演じたこのお方には、ただ群を抜いた女優であった。

子役、少女、そして大人としての女優としての存在は、
私のつたない鑑賞歴に於いて、このお方以外は知らない。

その上、脚本家、ときには監督もされた松山善三さんには、
まぶしいようなあこがれの存在の人であり、秘かに敬意をしていたのである。


このような過ごしていた間、確か冬の日だったと記憶しているが、私は東宝の撮影所で、
宣伝部の方と話し合っていた時、
たまたま高峰秀子さんがこちらに向かって来た時があった。

宣伝部の方が飛び出て、
『この青年・・大学を中退し、この世界に・・』
と話されていた・・。

『こんにちは・・でも・・もったいないわ・・大学をお辞(や)めになるなんて・・
でもねぇ・・大変ょ・・この世界は・・』
と高峰秀子さんは私に云った。

私はこの当時も大女優であった高峰秀子さんとは、
これが出会いであったが、これ以降はお逢いしたことがない。

この後の私は、映画・文学青年の真似事もあえなく敗退し、
やむなく私は中小企業のサラリーマンに身を投じた・・。

その後、いつの日が忘れてしまったが、本屋の店頭で、
このお方の本にめぐり逢い、数冊の随筆集を読みはじめ、これ以降は本屋で見かけるたびに、
購読してきた・・。


今回、本書は私が見逃した随筆集の作品のひとつであり、
昨年の年末に高峰秀子さんの死去を知り、私も落胆したひとりであった。

こうした生前に綴られた随筆、そして敬愛している松山善三さんの綴り、
共に若き50代の頃からの季節ごとにハワイで過ごされたの思いを学びたく、
何かしら懐かしいような心情につつまれて、買い求めたのである。


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ウィスキーを買い求めた後、石川さゆり・・ちゃんの『ウィスキーが お好きでしょ 』の歌を唄い・・。

2011-12-05 23:23:56 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
昼下がり、いつものような最寄のスーパーに買い物に行った。

そして店内で、家内から依頼された品をスーパーの指定籠に入れた後、
お酒のコーナーで左列にある地酒の4合瓶の選定に迷っていた時、
何気なしに右側に目を転じると、この中の洋酒棚の中に目が留まってしまった・・。

ウィスキーの列の後半に、数多くのバーボン・ウィスキーが並び、
この中のひとつには、瓶の部分に四角い箱が被(かぶ)さっていた。
そして私は近づくと、『ワイルドターキー』のひとつ《革巻きロックグラス》と明記され、
《 1本に1個 もれなく!! 》と表示されていたので、
この懐かしい『ワイルドターキー』を買い求めれば、この《革巻きロックグラス》を頂ける、
と私は瞬時に購入することを決意した。

http://www.wildturkey.jp/campaign/index.html#cp201109_01
☆【ワイルドターキー ホームページ】<== 《キャンペーン特集》☆


私はスーハーで買い物を終え、帰路に向ったが、
平素は日本酒の純米酒の辛口が多く、ときおりビールを吞むのが、
ここ30年近くとなっている。
そしてウィスキーは2年ぶりぐらいと思ったり、
ましてバーボン・ウィスキーは、何年ぶりかしらと思い馳せたりした。

私は20代の頃は、ウィスキー、ワイン、ビールなどを吞んだりし、
ウィスキーは『オンザロック』と称した堅牢なグラスに氷片を5つぐらい入れ、ウィスキーを注ぎ込み、
やがて氷片をゆっくりと溶け出す頃に吞むことが好きであった。

この当時は、会社の人と懇親の時は、確か『水割り』の時代であり、
このウィスキーの水ぽい飲み物は、酔わずに何時間でもお付き合いできるものであったが、
呑兵衛の私としては、物足らなかったのである。

私か個人的にウィスキーを吞む時は、『ストレート』の時もあるが゛、
殆ど『オンザロック』で味わってきた。
その上、バーボン・ウィスキーは、とうもろこしを燻したような香りの余韻があるので、
私はこの特有な味と共に余情を愛好していた。

しかし、この若き時代は住宅ローン返済などで金銭の余裕もなく、
『ワイルドターキー』、『アーリータイムズ』のメーカーのバーボンは高値であり、
私は無念ながら、このランクから下のバーボンを自宅で吞んだりしていた。

その後、私が40代になった頃は1985〈昭和60〉年過ぎであり、
円高の影響で洋酒全般は買い求め安くなったが、この当時の少し前から私は純米酒を愛飲していたので、
私のアルコールの波長とは、すれ違ちがいになってしまったのである。

そして定年退職するまでの期間は、少しおしゃれな洋風の呑み屋を利用した時、
一年に数回であったが、バーボンの『オンザロック』を吞んだりしてきた。


このようなことを思い馳せながら自宅に向い歩いていると、

♪ウイスキーがお好きでしょ
 もう少ししゃべりましょ

【『ウイスキーがお好きでしょ?』 作詞・田口俊、作曲・杉 真理、唄・石川さゆり】

と私は心の中で唄いだしたのである。

もとよりサントリーのウィスキーの宣伝として、石川さゆりちゃんが唄っているのであるが、
無念ながら、さゆりちゃんのように色艶(いろつや)のある唄声でなく、苦笑したりした。

私の現役時代の確かに平成の初めの頃に、
蒸気機関車の走るシーンもあり、サントリーのウィスキーの宣伝として、
この唄声が流れていた。
最初に聴いた時、石川さゆりちゃんかしら、と思いながら、
色艶のある声と妖艶を感じ、魅了させられた・・。

そして私は演歌の女性歌手として優れた石川さゆりをウィスキーの宣伝に起用した担当の方たちに、
思わず脱帽した、記憶があった。

そして私は思いだすように、

♪ウイスキーがお好きでしょ
 この店が 似合うでしょ
 あなたは 忘れたでしょ
 愛し合った事も

【『ウイスキーがお好きでしょ?』 作詞・田口俊、作曲・杉 真理、唄・石川さゆり】

このような歌詞だったかしらと確かめるように、心の中で唄ったりしていると、
まもなく自宅が観えた。


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