夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

昨日の7日の私は、昭和天皇の崩御の時を思い馳せ、そして時代の変貌に溜息を重ね・・。

2013-01-08 16:36:20 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨朝、お正月を彩ってくれた松飾りに、別れを告げた後、、
いつものような平素な日常になったねぇ、
と私は家内を労(いた)わるように言ったりした。

私たち夫婦は独り住まい家内の母に、年末年始を共に過ごそうと、
とここ8年ばかり家内の母に来宅してもらい、共に過ごし新春を迎えているが、
何かと家内が迎える準備を含めた大掃除、年末年始の料理など多々奮戦してきたので、
私はこのような言葉で労(ねぎら)ったりした。

まもなくした後、買物の専任者の私はいつものようにスーパーで買物を終えた後、
自宅の近くに流れている野川の遊歩道を散策した・・。


そしてまもなくして、昭和天皇がご逝去された日だった、と遅ればせながら気づいたりした。


私は1944〈昭和19)年初秋に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
天皇家には何かと敬(うやま)う空気の中で家庭で育ち、
昭和天皇に関しては、私の40代かばまで『昭和』の時代で過ごしたので、
もとより自己形成、歴史観などで、多大な影響を受けていた。

1988(昭和63)年の晩秋、私はこの頃、音楽業界のあるレコード会社に勤務して15年が過ぎ、
管理部門の情報畑で、翌年の4月より実施される『消費税』のシステム対応の開発に追われていた。
こうした中で、昭和天皇が病状が悪化し、社会は何かと自粛の空気につつまれていた・・。

そして、私の勤めていた会社でも、音楽の世界では世界的な有名な『ボン・ジョヴィ』と命名したロック・グループが、
日本のある大手家電メーカーが強力なスポンサーとなり、
年末に日本で公演されることになり、テンカウントダウンを華はなしく実施する予定が、なぜか中止となり、
せっかくのチャンスだったのに、と私なりに落胆をしたりしていた・・。

そして1989(昭和64)年の1月7日の朝、
私は昭和天皇が崩御された、とNHKのテレビのニュースで視聴し、
とうとう陛下様は亡くなわれてしまった、というのが率直な思いであった。

私はいつものように出社し、社内の恒例の朝礼の時、
専務取締役の指示で、フロアーを共にした各部署の一同は、皇居の方面に向かい、黙祷をささげた。

その後の私は、4月から『消費税』の対応策で多忙な身である上、
更に『昭和』から新たな『平成』と制定されると、
コンピュータの和暦の表示を『請求書』に至るまで改定したので、慌しい日々を過ごしていた。

こうしたこともあるが私の心情は、平成元年といわれるより、
昭和64年といった方が心身の波長が合うので、何かしら戸惑ったのは事実である。

もとより平成の時代は、昭和天皇がご逝去されたのが1989(昭和64)年1月7日により、
平成元年は1月8日から初まり、早くも本年は平成25年となっている。



私は平成の時代の始まりを思う時、
何故かしら1989(平成元年)年11月9日から東ドイツが
市民に寄る『ベルリンの壁』を実質的に撤去の出来事と重ねてしまうのである。

この後、米ソの冷戦構造が終結され、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、
やがて社会が一変したからである。

このした中で、私たち日本の生活に於いて急速に変貌したのは、アナログからデジタルに変貌したこと、
そして水をペットボトルなどで購入したことなどを思い馳せたりした・・。

音楽愛好者からすれば、音楽の録音品のレコード、カセットはCDに普及して平成を迎え、
録画のビデオ・テープは平成になってまもなくDVDに変貌し、昨今はブルー・ディスクも普及している。
そして音楽配信が携帯電話が主流で普及し、昨今はスマートフォンに活性化の時代を迎えている。

何よりも国民全体すれば、圧倒的に社会を変貌させたことはパソコンが普及し、インターネットの急激な浸透である。
1995(平成7年)の秋に『Windows 95』が発売され、
それまでのパソコン愛好者、専門職を領域から、 大衆化したことである。
そして、これに連動して、インターネットが急激に普及し、ネット通販の隆盛となっている。

もうひとつの変貌は、モバイル情報の発生であり、携帯電話の急激に普及であり、
そして昨今はスマートフォンに活性化の時代を迎えている。

映画のオリバー・ストーン『ウォール街』は1987(昭和62)年にアメリカで公開された作品であるが、
冷酷で貪欲な投資銀行家が、浜辺で大きな携帯電話を持ち、会話しているシーンがある。
確か、この頃は大きめのラジカセのような形の携帯電話であり、破格な高価な品であった。

平成になると、形も性能も向上、価格も廉くなり、昨今は日本で一億台突破となり、
殆どの日本人が愛用し、ここ数年は高性能のスマートフォンの急速に普及となっている。

私は20世紀の時代は、テレビと原子爆弾の世紀だった、といわれたりしているが、
こうしたことを流用すれば、
平成の時代は、ネットとモバイルの代表の携帯電話、と断言したくなる。

こうした中で、何よりも変貌の実感をさせられたことは、
一部の専門のマスコミ、著名人などから発信できる時代から、
誰でも簡易に発信できる時代となり、こうしたことは文明史上初めてのことである。

もうひとつの日常生活に於いて、水を買い求める時代である。
『缶』から『ペットボトル』に変貌しているが、私は日常の外出先とか旅先で、
自動販売機で煎茶のペットボトルを買い求めることが多い。
これも平成の時代の始まりの頃からと記憶している。

私は煙草の愛煙家のひとりであるが、日本に嫌煙ブームが始まったのも平成になってからである。
喫茶店でテーブルの上には、灰皿と喫茶店独自のマッチが置いてあったりした。
飛行機の機内でも水平飛行になれば、スーモキング・ランプが点(つ)いたり、
そしてJRの車内の座席の脇に灰皿が設置されたりして、ときおり煙草を喫う方が見られたりした。

私がギックリ腰が酷く入院生活を1991(平成3)年の頃は、
整形外科のフロアーの片隅に喫煙コーナーがあり、
煙草を吸わない人でも憩いの場として、団欒していたのである。


私は定年退職した2004〈平成16〉年後は、
年金生活をしているので社会状況に疎(うと)く、もとより若き諸兄諸姉はご存知であるから、省略する。

こうしたことを思いつくまま馳せたりし、
昭和の時代が終わり、平成の時代になってから大きく変貌したことは、
私は何より社会が劣化し、言葉、しぐさが雑になった、と憂(うれい)いている。

そして平成の時代に育ち、現在は10代、成人となられた世代の方たちに、
たとえば映画の小津安二郎・監督の『東京物語』(1953年=昭和28年)を観た時、
どのように反応するのかしら、と齢を重ねた68歳の私は限りなく関心がある・・。

このようなこと散策しながら思ったりし、せんなきことかしら、と苦笑し帰路に向った。

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『七草粥(ななくさがゆ)』を頂く今朝、我が家は平素の『一汁三菜』の朝食となり・・。

2013-01-07 14:37:59 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
古来より正月の7日の朝食には、七草粥を食べる習慣の家が圧倒的に多いと思われが、
恥ずかしながら我が家の朝食は、世の中の時流に逆らっているのかしら、
と私は朝食の時に話しかけて、お互いに微苦笑したりした・・。

朝食前にお正月に彩〈いろど〉ってくれた松飾りに、さよならしながら別れを告げた後、
いつものように私は家内と共に朝食を頂いた・・。

私は五穀米が入った白米のご飯、ワカメの味噌汁、春菊のゴマ和え、
カブの醤油漬、コブの佃煮、海苔(ノリ)が五枚、ラッキョの塩漬け・・
幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』が、
何かと心身の波長に合うのである。

家内は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、コーヒーを飲みながら頂いている。

私は朝食を頂いた後、私の《夫婦のご飯茶碗》をよく見たら、少し欠けている処があったが、
いずれは私たち夫婦は、どちらかが片割れになるので、
大きくヒビが入ってなければ大勢に影響はない、と私は苦笑したのである。


我が家は、私の定年退職した2004〈平成16〉年後からは、
この日の朝は七草粥は無念ながら食べた記憶はない。

昨日、私はいつものように昼のひととき、冬晴れの風もなく中、最寄のスーパーに買物に行った。
野菜売り場のコーナーで、『春の七草』のセット品が50前後があり、
私は立ち止まり眺めていたのである。

このスーパーは、5日の土曜日から、『春の七草セット』が販売されて折、
チラシには、
《・・
       七草がゆ
1月7日正月、七草正月とも言われ、早春の若草を粥に入れて、春の訪れを楽しむ日です。
7日の朝に、春の七草を入れた粥を食べると万病がさけられると言われ、今年一年の家族の健康を願います。
中国から伝わり江戸時代に広まった習慣のようです。
・・》
と誰でも解るように優(やさ)しく明記されていた。

私は、『春の七草』の1パックの品を眺め、『新春を祝う 春の七草』と明記され、
神奈川県産と表示されて、1パック398円(税込)と大きく棚の所に明記され、思わず微苦笑したりした。

もとより七草は、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベ、ホトケグサ、スズナ、スズシロであり、
スズナは野菜のカブであり、スズシロはダイコンであることは多くのお方に知られている。

   1月2日に都立『神代植物園』に私は訪れた時、正面出入り口に近い植物会館に於いて、
   この中に展示室があり、時節ごとに展示品が公開され、たまたま一角に新春を祝う『春の七草』が、
   このように展示されていたので、30センチ足らずの竹かご飾りに瞬時に魅了され、私は記念に撮った。

私はここ10数年、七草粥の祝い事には興味がなく、
現実主義なので、遠い昔の頃は、この冬の時節は何かと野菜不足であったので、
新春のひととき七草粥(ななくさがゆ)を召し上がった、と思ったりした。

少なくとも現世は、キャベツ、レタス、セロリ、ホウレン草、ダイコン、カブ等が多品種にあるので、
私たち夫婦は、特に七草粥には興味がなく今日に至っている。


私は東京の郊外の農家の児として生を受け、1951(昭和26)年の小学1年生の頃は、
祖父、父が健在で、程々の広さの田畑を小作人だった人たちのご厚意の助けも借りて耕していた。

旧暦の1月7日は、今の暦では2月中旬頃であるので、
田んぼのあぜ道、畑の小道の外れに多彩な野草が数多くあった。

父の妹の叔母の2人は、結婚する前の時期であり、
ノビルやヨモギなどを取り、私たち長兄、次兄、私にも食べさせてくれた。

ノビルは今でいうとラツキョの小型の形をしており、真っ白な小玉が先端にあり、
さっとお湯をとおした後、味噌に砂糖を加えた甘味噌を付けて口に含んだりした。

早春の頃は、カブ、ダイコン、ホウレンソウ、ネギ等の野菜の中、
子供心にもノビルは早春の香りを感じたりしていた・・。

ノモギも叔母達が摘んで、撞(つ)きたての餅などに入れ、私たちも香りと歯ごたえを共にした。

ナズナはペンペングサと呼んでいたが、次兄が兎(ウサギ)を飼っていたので、
次兄は叔母に教えられて、餌として盛んに採っていた、と微かな記憶が残っている。

この他の七草は多分生えていたと思われるが、無念ながら幼年期であったので記憶が定かでない。

このようなささやかな想いも秘めている私であるが、
日本人の古来からの行事のひとつ『七草粥(ななくさがゆ)』を頂くこの日の朝、
私たち夫婦は何かと和事に関心は多いが、ときには矛盾することもあるなぁ、と私は微苦笑している。

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年金生活の我が家、遅ればせながら昨年度の年次決算を終えて、微苦笑し・・。

2013-01-06 15:57:29 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みの住宅街のはずれで、
築後34年が過ぎようとしている古びた一軒屋に住んでいる。

そして小庭にある落葉樹が多い樹木、草花の四季折々の移ろいを眺め、
子供に恵まれなかった私たち夫婦は2人だけで、お互いの趣味を尊重して過ごしている。

私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
年金生活を始め、運動神経の衰えを感じて、自動車の免許書の更新も断念した。
何かしら我が家の周辺のお住まいのお宅に於いては、殆どが自動車を所有しているが、
我が家は自動車も所有できなく、もとより昨今のガソリンの価格も無知となったりしている。

その上、私たち夫婦は携帯電話に関しては、使えないので保有することなく、
社会からの時流から確実に取り残されている、と私たち夫婦はときおり感じながら苦笑したりしている・・。


私は若き頃の30代のなかばに一軒屋を建てた時、
家内は中学生の頃から茶事を学んでいたので、私は若気の至りで気負って、
家の中の一室を茶室として付け足したりした。
しかしながら程々の年収であったので、住宅に関してのローンは我が家としては重く家計を占めた。

このように状況であったので、私は返済に困苦する中に於いて、
専業主婦だった家内は、やむなくデパートの呉服売り場などで契約社員として働き、
新居から3年ばかり家計の強力な支援を受けたりした。
そしてスーパー・マーケットさえも、ディスカント風の低価格店から中級店、そして高級店まで、
その時に応じて利用してきた。

定年後の年金生活を始め、自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

そして時折、小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このような拙(つたな)い年金生活をしているが、
今朝、家内から『12月の家計簿・・締めましょうか?』と私は言われて、
『遅ればせながら・・やりましょう』と私は応(こた)えた。

我が家の年末年始は、独り住まいの家内の母に来宅してもらい、
私たち夫婦と共に過ごすのず、ここ8年の行事となっているので、
家内の母が3日に帰宅された後、家内は部屋の掃除、洗濯、料理などは平素より多忙であったので、
何とか日常の生活に戻ったのが昨夜の頃からであった。

我家の生計は原則として、厚生年金とわずかな企業年金を頂いた範囲で日常生活を営んでおり、
冠婚葬祭、思いがけない出来事、そして私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に関しては、
程々の貯金を取り崩して過ごしている・・。

そして我が家は、日常は買い物したレシートなどを
家内が一週間に一度ぐらい簡単に集計している程度であり、
月末の前後に私たち夫婦は家計簿の月次決算をしたりしている。

家内が支出のそれぞれの区分項目を読み上げて、
私はパソコンの表計算ソフトを利用して、入力したりしている。
そして収入の項目を入れたり、銀行、郵便局などの残高を入力した上で、
5表ばかり我が家の独自の家計管理表を作成している。

そして午前中のひととき、私たち夫婦は昨年の12月の家計簿の月次決算を終え、
連動した計算で2012〈平成24〉年度の年次決算も終えてしまったのである。

そして昨年も幾たびか国内旅行をしたり、親戚、知人の葬儀などもあり、
もとより赤字となり、私たち夫婦は微苦笑しながら、旅先のこぼれ話をしたりした。


このような家計簿の発想の根源として、私が独身時代に、
自身がその日の心情に応じて、本、レコードなどを買ったり、居酒屋、
ときには恋しい女性との交遊などで散財していたので、
ふしだらな私でも月に一度ぐらいは現状認識と思い、秘かに家計簿をつけたりしていた。

家内と結婚した1976〈昭和51〉年の春からも、
少なくとも交際費、住居費、衣服費、食費などは増加するので、
私たち夫婦は毎年の年の始めた頃に、思いついた購入する予定の品物、旅行計画などの概要の経費を話し合ったりし、
今日に至っている。

こうしたことで、概算予算の年次計画が出来上がり、そして月次予算も作成し、
月末の前後に実績を入力し、今月も赤字だょねぇ、と30代後半などは、お互いに微苦笑し、
やむなく夏季、冬季のボーナスで何とか赤字を解消したのが実態であった。


昨今、年金生活をしていると、特に耐久商品と称される品の購入には、
私は気弱になり、耐久商品の買い替え時にためらったりしている。

我が家のテレビに関しては、恥ずかしながら、
アナグロテレビ放送は廃止に伴い、やむなく一昨年の5月に、
デジタル対応の薄型テレビ、ブルーディスクの録画機を買い求めたりした。

何より私は困り果てるのは、パソコンの無知な家内からすれば、
バソコンは半永久的商品、と確信したように思い続けていることである。

私が現役時代の時は、程ほどの年収を得ていたので、幾たびか買い換えてきたが、
しかし年金生活となれば、限りある厚生年金、企業年金、個人年金からの収入には、
もとより限度があるので、私は気弱になり、予算を計上するできなかったりした。

こうした中で、私の愛してやまないパソコンが壊れたりすると、どうしてなのょ、
と私はパソコンを眺めて困惑した体験をして、やむなく定年後の8年生の中、2度ばかり買い改めたりしてきた。

このように私は、年金生活をしていると、予期せぬ出来事に関しては、
この齢になれば親戚、知人などの葬祭などの出費が多くなり、
悲しみと共に困惑しているのが、昨今の私の正直な心情でもある。

そして我が家の銀行、信託銀行などの貯蓄は、安全利回りが原則で、金利はわずかであり、
年金生活をして9年目となるが、もとより毎年は赤字なので、残額は予定通り減るばかりとなっている。

しかし戯(たわむ)れを許されれば、何か本年は金運上昇かしら、と思ったりしている。

私は市内にある深大寺に初詣に訪れた時、境内の土鈴の売り場の美少女に見惚(みと)れて、
ひとつ買い求めたのが、土鈴『大黒天(豊作・財福の神)』であった。
そして帰宅後、我が家の居間の片隅みにあるCDケースの上に安置し、記念写真を撮ったりした。

敬愛している書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』の前に置き、
私が毎朝向って、氏の綴られた本日の格言を、何かと私の独断と偏見の多い日頃の言動の多い中、
人生の戒(いまし)めとして、心の中で、呟(つぶや)いているが、
今年は横に安置している土鈴『大黒天(豊作・財福の神)』が微笑んでいるので、
何かしら良いことが招来するのかしら、と思ったりしている。

何よりも年金生活をして以来、確実に増えているのは、
現役サラリーマンの時は苦楽の激しかった時が過ぎ、家内と共に過ごしてきた平穏な生活であり、
こうした中で、デジカメで撮った写真は記憶のかたみ数々であり、
或いはブログの日々の思いの投稿文であり、過ぎ去り日々に愛惜を重ね、私は微苦笑したりしている。

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『寒の入り』を迎え、気弱な高齢者の私でも、ときには『雪恋し』と身も心も寄せて・・。

2013-01-05 15:45:11 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む68歳の身であるが、
今朝5時半過ぎに目覚めて、玄関の軒下に下り立ったが日の出前の薄暗い朝を迎え、
少し寒いじゃないの、と心の中で呟くながら、早々と退散した。

その後、布団のぬくもりが恋しくなり、再び寝室の布団の中にもぐりこんで、
やがてまどろみながら、結果として二度寝してしまった。

目覚めると朝の7時半過ぎとなり、やがて煎茶を飲みながら、
居間の片隅みに飾っているカレンダーを見ると、
『小寒(しょうかん)』と明示され、思わず微苦笑をしたりしていた。

そして私は、『寒の入り』を迎えたのか、とぼんやりと思ったりした。

もとより本日の5日の『小寒(しょうかん)』となれば寒さの始まり、
そして寒中見舞いの便(たよ)り始まったりしながら、
1月20日には『大寒(だいかん)】となり、やがて2月4日の『立春(りっしゅん)』まで30日間を
1年で最も寒い時期を『寒の内』と古来より伝えられている。

この後、地元の天気情報を見たら、朝の6時はマイナス3度、昼下がりは5度前後、夜の6時は3度前後で、
朝より冬晴れとなりますが、午後3時過ぎより曇り、と明示されていた。

昨年の12月20日頃から寒気が襲来し、平年より数度寒い年末年始を迎えたが、
冬晴れの日が多く、ときおり北風が吹くと、私は寒いじゃないの、と感じたりしてきた。
しかし日本海沿いの多くの街は、寒気団が襲来し烈風の中で大雪が降る、ニュースを視聴したりすると、
関東地方の南部地域は恵まれている、と思ったりしてきた。

やがて私は、いつものように買物をして帰宅した後、
遠い昔の方が、私の住む地域でも寒かった、とぼんやりと思い馳せたりした・・。


私は1944〈昭和19〉年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

この当時は、徒歩15分ぐらいの京王線の最寄駅まで、
殆ど田畑が広がり、雑木林、竹林なども観られた田園風景であった。

私の幼年期は、毎年、冬の時節になると、雪が30センチ前後が数回降った。

1951〈昭和26〉年の春に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。

ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。

家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、ときおり風が吹き、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。

そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校した。

小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅にあった木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)があり、
この当時のこの地域の村立小学校に於いては、コークスはもとより、石炭も使用される前の時代であったので、
正方形の中心に簡易に造ったブリキの中で、炭を熾(おこ)してあるか、薪(まき)が燃やされていた。

私たち学童は、この木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)を囲みながら、衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。
そして、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と互いに悪口を言い合っていたりした。

下校のひととき、私も番傘でチャンバラの真似事をし、番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。

このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。


その後、1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。

1964〈昭和39〉年に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。

こうした幼年、少年期を体験した私は、この時節の寒い時期を迎えると、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると北の地域に旅行し、
雪の情景を享受してきている。

このように私たち夫婦は、国内旅行が共通の趣味のひとつであるが、
なぜかしら東京郊外の田舎者の私は、冬の時節になると北に旅をしてしまうのである。


たまたま一昨年の12月は、20日より北海道の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、
そして未知の糠平〈ぬかひら〉温泉に2泊し訪れた。

私の心の奥底には、この十勝地方の帯広の冬のイメージは、
郊外の果てしなく拡がる大雪原の中、蒼穹(そうきゅう)の情景である。
厳冬の晴れ間の中、大地は凛とし、果てしなく青空が観えるのが、
蒼穹(そうきゅう)の言葉に何よりも相応しい、と思ったりしている。

私が今でも敬愛している亡き作家・立原正秋〈たちはら・まさあき〉氏の随筆から、
私が若き30代のなかばの昭和55年(1980年)10月の初旬に遅ればせながら
蒼穹(そうきゅう)という言葉を学んだ。

この中の随筆のひとつとして、知人が古美術店を開き、命名を頼まれ『蒼穹』と氏は名付けられた。
氏の発想の根源は、もとより氏は朝鮮半島で生を受けられたので、
大陸性の気候の中、冬の晴れ間の凛とした情景を思い浮かべて、
蒼穹(そうきゅう)という言葉を思い重ねただろう、と私なりに解釈した。

このような蒼穹(そうきゅう)の情景、そして中島みゆきさんが一時時期過ごされた地域を
私なりに少しでも学びたく、郊外を2時間ばかり歩いたりした。
                   
この後は、いつに日か訪れることを夢にみていた山奥の糠平〈ぬかぴら〉温泉の厳冬地に行き、
やはり付近を散策した。
                   

このようなささやかな初冬の旅をし、昨年の1月15日から3泊4日で、
福島県の裏磐梯の檜原湖の湖岸に近いリゾートホテルのひとつの『裏磐梯猫魔ホテル』に滞在して、
五色沼の遊歩道は少なくとも積雪は50センチ前後であり、不慣れな私たち夫婦は遊歩道か沼地か解らなく、
檜原湖の湖畔に近い雑木林、歩道を散策しょうと思ったのであった。
               
          滞在しているホテルの私たちの部屋の窓辺から、氷結した檜原湖。
               
          湖畔、雑木林、雪をいだいている山なみが観えたりした。

そして冬の積雪のある中を歩くので、登山靴などを含めた防寒着のセータ、スポーツシャツなどを
今回の旅も宅配便を利用して、このホテル宛に送っていた。

私は厚手の冬のフィールド・コートとマイナス15度ぐらいの耐久のマインドルの登山靴、
家内はマイナス30度に耐えられるアクの登山靴で、
靴下、長ズボン、スポーツ・シャツなども含めて、アウトドアの専門店の石井スポーツで買い求めたりしてきた。
そして帽子は、私は山岳用を愛用し、家内のはロシア婦人がかぶる様な形のを気にいっている。
このような容姿で私たち夫婦は、厳冬の中の雑木林の道、山里、そして街中を歩き廻ったりしてきた。

どんよりとした曇り空に変貌した中、ときおり粉雪が舞ふ中、
雑木林の片隅みの積雪は30センチぐらいの歩道を歩いたりした後、
その後は国道の歩道を除雪された10センチほどの雪道を10分ばかり歩いたりしていると、
土産店が数軒ならぶ湖岸に着いた。
               
そして店前から湖岸、そして氷結された湖上を少し歩いたが、
無念ながら氷結の厚さに不安を感じたりしたので、店前にスノー・モービルが置いてある店先に行った。
そして私はスノー・モービルに近寄り眺めていると、
50代ぐらいの男性が店内から現れて、
『よろしかったら・・このスノー・モービルで湖上めぐりしませんか』
と私たち夫婦に言った。

『私はスノー・モービルも運転したこともないし・・』
と私は50代ぐらいの男性に言った。

『若い店の人に運転はさせますので・・お客さん二人は後部座席に座っていれば・・
20分ぐらい湖上から湖畔や山なみを見物ができますょ』
と50代ぐらいの男性が明るく大きな声で私に言った。

そして店内の一面に手書きで、
《    スノーモービル氷上遊覧
 氷結した桧原湖の上を、スノーモービルの後ろに乗って周遊します。
 当店直営のわかさぎ釣りの見学をしたり、磐梯山をバックに写真撮影をしたりできます。
 2名限定20分ほどの遊覧体験です。

 開催期間・・・1月中旬~3月中旬.
 時  間・・・9:00 ~ 15:00
 料  金・・・1組2名:3,000円 》
確かこのような意味合いのことが記載されていた。

『XXちゃんさぁ・・ホテルでも確か同じようなこと18日から施行するポスターを見たりしたが・・
こちらのお店の方が早く実施しているし・・
私たちは幸運に恵まれているよねぇ・・』
と私は家内に言いながら、乗車に誘った。

そして若い25歳前後の感じの良い青年のドライバー兼案内人の基で、
私は初めて乗るスノーモービルの後部座席に座り、この後ろに家内が座り乗車した。

            
            この間、家内は乗車記念に撮って、としぐさをしたので私は撮った一葉。

まもなく湖畔から氷結した湖上を疾走すると、私たちは小声で歓声を上げて、
前方のわかさぎ釣りの幾重かの小屋を観たり、湖畔の雑木林、遠方の山なみの情景を眺めたりした。
           
そして幾たびか青年のドライバー兼案内人は停車して、
私は周辺の情景をデジカメで撮ったり、スノーモービルの運転席に座った家内の記念写真を撮ったり、
或いはわかさぎ釣りをしている小屋に案内してもらったりした・・。
                 
そして走破している湖上は氷結20センチと教示してもらったりし、
私たち夫婦は30分ぐらい案内して頂いた。

この後、店先に戻ると、
家内はコーヒーでも頂こうかしら、と言ったりした。
そして、展望の良い所の二階の食事処に私たちは移動した。

窓辺の席からは、氷結した湖上、雪の湖畔の雑木林、里山、そして遠望の幾重かの山脈の雪の情景を展望でき、
店内の客は私たちだけであり、
家内はコーヒー、私はわかさぎの天ぷら、地酒を注文した。


私は地酒の300mlの小瓶の生酒を呑みながら、わかさぎを頂き、
初めてスノーモービルに同乗でき、氷結した湖上からの周辺の情景を観ることが出来、
良かったよねぇ、と私は高揚しながら家内に言ったりした。

私は40代の初めの頃、スノーモービルに関しての本を、あこがれのような心情で買い求めたことがあった。
漠然として少年のようなあこがれであったが、いつの日にか里山の中を運転してみたい、
と気持ちであったりした。

その後、私は定年退職した2004(平成16)年の秋の後、
自動車の普通免許証の更新時を取りやめたので、もとより夢の世界となった。

たまたま今回、初めてスノーモービルに同乗できたので、
齢を重ねた67歳の私としては、これも人生の良き成り行きと微苦笑をしたりした。


このような旅路の思いが今でも心の片隅に残っていて、
その後も1月28日より6泊7日で札幌市の郊外のリゾートホテルに滞在して、
札幌市の周辺を行楽したりしたが、投稿文は長くなるので、今回は省略する。

尚、豪雪地域にお住いの人は、日常の生活に於いては多事苦難は少し解っているつもりであり、
江戸後期の商人、随筆家として、鈴木牧之が遺(のこ)された『北越雪譜』、
磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)を読んだりしてきたが、
あくまで旅人として、みゆき舞い降る圧倒的な情景、積雪の山里、街並みに魅了されているひとりの思いからである。

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NHK連続テレビ小説『おしん』が再放送と知り、過ぎ去り日々に私は思いを重ねて・・。

2013-01-04 15:07:59 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
一昨日、たまたまNHKテレビを視聴していた時、
NHK連続テレビ小説『おしん』が再放送される、と知った。

過ぎし日の2011〈平成23〉年4月4日の読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、
私は初めてNHK連続テレビ小説『おしん』について学んだりした。

この基幹ネットの【新おとな総研】というコーナーがあるが、この中に【あの日あの時】と題された連載があり、
偶然にこの記事を読みながら、過ぎ去り日々に思いを重ねてた。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。
《・・
     1983年(昭和58年)4月4日  NHK朝の連続テレビ小説「おしん」がスタート。

明治30年代、山形県の小作農の家に生まれた女性が、
貧しさやいじめ、関東大震災や戦争という時代の荒波をくぐって生き抜く姿を描いたNHK朝の連続テレビ小説「おしん」。

物語は、脚本家の橋田寿賀子さんが、
「米一俵で奉公先に行かされ、その後、女郎に売られながら逃げ出し、
ミシン技術を学んで商売を起こして、今、子供たちと幸せに暮らしている」
という匿名の女性からの手紙を基に高齢者の苦労話を募って書いた。

「戦争も日本の経済成長も女が支えてきた。
女が主人公の歴史を書きたかった」と橋田さん。

「おしん」役は、奉公先などで苦労する少女時代を小林綾子さん、
16~45歳を田中裕子さん、
子供たちとともにスーパーを出店する50~83歳を乙羽信子さんがそれぞれ演じた。

この年11月には最高視聴率62.9%、
平均視聴率52.6%(いずれもビデオリサーチ調べ、関東地区)という高視聴率を記録した。

さらに、海外でも現地語で放送され、異例の評判を呼んだ。
中国や東南アジアでは特に人気が高く、
中南米、中東、東欧なども含め60か国以上で放送されたほか、リメーク版まで制作された。

国内では、軽薄短小が広がった1980年代にあって、
高齢者を中心に我が身や両親らの苦労を思い起こしながら見た人が多かったが、
日本はこの2年後からバブル時代に入っていく。(稲)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。


NHK連続テレビ小説『おしん』が放送が開始された当時の私は、
中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に勤めて、情報畑のシステム関係を担当していた。
無念ながら自社の業績が悪化して、コンピュータは委託処理をしていたのであるが、
自社導入で経費削減を図れ、と首脳部のひと言で、奮闘し始めていた頃であった。

そして、特に秋になると、睡眠時間を削りながら勤務していたので、
テレビ・ドラマの『おしん』は視聴していなかったが、
世の中はNHK連続テレビ小説『おしん』の熱狂されたブームで少し知った程度であった。

私はシステムを困苦しながら、何とか翌年の6月に軌道に乗せたが、
運営と一部開発業務も重なり、多忙の時を過ごした。

この後、あるレコード会社との販売委託などで、奮闘を重ねた後、
ある旅行会社の冬の蔵王の樹氷、山寺の鑑賞、そして最上川の舟下りの企画に魅せられて、
私たち夫婦は初めて団体観光ツアーに参加したのは、1986(昭和61)年の2月下旬だった。

この旅の中で、冬の『最上川の船下り』をしたのであるが、
この地域も『おしん』ブームの余情で、乗船前に売店で、『おしん』に関する商品が売られていた。
私は、これ以上の深い意味合いを知らなかったのである。


たまたま2011〈平成23〉年の2月中旬、私たち夫婦は、
東北地方の山形県の銀山温泉に滞在し、その後は最上川の船下りの旅をした。

私たち夫婦は国内旅行は共通趣味のひとつであるが、
銀山温泉は未知の世界であり、その前年の夏過ぎ、
雪舞い降る時に銀山温泉に行って観たいわ、と家内は私に言ったりした。

そして私たちは、雪が舞い降る確率の多い2月の中旬を選定し、
東京駅より大石田まで『つばさ』を乗車し、
銀山温泉に4連泊して、街並み、そして付近を散策をした。
               
               
その後は、『最上川の船下り』をする為に、
悪天候を配慮して、付近の新庄のビジネス・ホテルに1泊宿泊し、
帰路は新庄駅より『つばさ』で帰京する5泊6日となった。


銀山温泉の『旅館 永澤平八』に宿泊滞在をしていた時、
談話室とロビーを重ね合わしたような大きな囲炉裏、隣室は和室となり、
色々な伝統工芸品などが置かれ、壁際には、著名人の色紙、写真が掲げられていた。
           
この中に、乙羽信子さんが銀山温泉の中心に流れる川の橋のふもとで歓迎を受ける2葉の写真、
そして『旅館 永澤平八』の女将との記念写真があった。
私はフロントの男性に説明を受けて、『おしん』の放送が終った後の熱狂ブームの中、
乙羽信子さんが招待を受けて、銀山温泉に來訪された、と知ったのである。

この後、私は『おしん』の概要も無知であったので、家内に教えてもらい、
初めてドラマの銀山温泉の関連を知ったのである。


この後、『最上川の船下り』は、25年ぶりとなったが、
あの当時よりも豪華な設備となった、と私は家内に言ったりしていた。

この時の私の心情を思い馳せれば、下記のような状況であった。


私たち夫婦は舟下り乗船場の前の大きな建物の戸澤藩船番所に入り、
私は売店の一角にある日本酒のコーナーで、何か良き四合瓶はないかしら、と探した・・。
結果として、『純米吟醸酒 最上川』(小屋酒造)として、
サブタイトルには、『北国浪漫(きたぐにろまん)と明記され、
私は美味しいそうな純米酒で、心身の波長に合いそうな予感がした。

この後、この戸澤藩船番所で、担当カメラマンが私達夫婦の記念撮影し、
60代ぐらいの男性の案内人兼船頭さんに引率されて、舟下り乗船場への階段を下りて向ったが、
若い20代の男女、そして私達夫婦だけが乗船客だった。

船内は炬燵が四つばかり設置されて、定員25名と明記されていたので、
私は思わず微苦笑したりした。

案内して下さる船頭さんが、船首の最前列に座り、
炬燵の最前列に私達、最後方の炬燵には若い20代の男女、そして船尾に舵取りの男性で、この舟は出航した。

私は炬燵の上のテーブルに、『純米吟醸酒 最上川』と頂いたプラスチックのぐい呑みを置き、
身も心もゆだねるように、川沿い、そして山里の雪景色を観ながら、呑みだしたのであるが、
偶然に私の心身の波長に合う日本酒のひとつとなり、
めぐり逢えた『純米吟醸酒 最上川』に、ひたすら感謝したりしていた。

そして、案内人兼船頭さんの『真室川音頭』、『おしんの唄』などを四曲の唄声に、手拍子したり、
或いは周辺の案内を聴いたりしていると、時を忘れるかのように過ぎていく・・。
まもなく、舟下りの降船場に着岸し、私達は大きな建物の最上川リバーポートへの階段を上がった。
             
そして、一角に乗船前に撮影して下さった写真が掲載されていた。
私は夫婦の記念写真に瞬時に最適と思い、千円を支払った。
そして、私達夫婦としてお互いに微笑んだ珍しい記念写真で、
私は家内に見せながら、良き記念写真となったねぇ、と私は微苦笑しながら家内に言ったりした。

この後、新庄市に戻った後、ある館内で瞬時に魅了されられた展示品があった。



帰宅後、この旅の余韻か私は『おしん』に関して、少し興味を持ち、
ネットで色々と検索し、【YouTube】の動画のひとつのに、圧倒的な感動をして、思わず涙を流れてしまったのである・・。

もとよりテレビ・ドラマの『おしん』の中のひとつの放送された内容であり、
「おしん」が米一俵で奉公先に行くことになった当日の朝、
母親、祖母たちと別れ、そして寒い残り雪の最上川を筏(いかだ)に乗り、遠い岸辺の丘に父が見送るシーンであった・・。

画面の最下段にあるスーパーはスペイン語が明記されているので、
スペインか南米の諸国でテレビ放送されたものかしら、と思ったりし、
どの国も貧しい人が多い人たちがいるので、このドラマに共感をする、と深く感じたりした。

もとより日本に於いてでも、1955(昭和30)年の頃までは、
私も含めて生活に困窮した人たちが多かったのである。


私は1944(昭和19)年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
はずれに小さな稲荷を保有して、この地域の旧家は、このような情景が多かった・・。

そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。

その後、私が1953(昭和28)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954(昭和29)年の5月に祖父も他界され、
我が家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

祖父が生前の時、村役場の要職を兼ねて農業をしていたが、
祖父も父も大学で学ぶことが出来なかったので、
跡取りの長兄に期待をかけ、小学5年生の頃から、家庭教師を付けたりした。

長兄は当時通っていた村立小学校の創設60年の卒業生の中で、
祖父が亡くなる直前、初めて国立の中学校に入学できて、周囲の期待に応(こた)えた。

次兄は活発な伸び伸びとして育成されたが、
それなりに学校の成績は、クラスで一番と称せられていた。

こうした中で、私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。


そして祖父が亡くなった後は、大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめたのである・・。

母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私達の兄、妹の5人の子供が残され、
私たち子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。

この当時も義務教育は中学校までであったが、PTA(授業料)の会費は有償であり、
確か教科書も有償であった。

祖父が亡くなって後、私は担任の先生から母あてに一通の手紙を渡された・・。
帰宅後の私は母に手渡した後、
『PTA会費・・当分・・免除するって・・』
と母は呟(つぶや)くように小声で言っていた。

そばにいた小学5年の次兄は母の小声の内容を知り、
『いくら貧乏でも・・PTAの会費・・払おうよ・・』
と次兄は怒りような声で母に言ったりした。

次兄は翌日から下校した後、手入れが余り行き届かない我が家の畑で農作物を採り、
程近くに広い敷地にある国際電電公社(現・KDDI)の数多くの社宅に売りに行ったりした。
このお陰で、何とか人並みにPTAの会費を支払うことができた。

長兄は旧家の跡取りであったので、たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。

この間の私は、学校に行くのが苦手な児となった・・。
兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに言われたりしていた。

この頃、音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし
 ・・
【 『越後獅子の唄』 作詞・西條八十  】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。


このような私の小学3年生過ぎに体験したこともあり、
特に『おしん』のこのシーンは私の心に圧倒的に心ゆすぶられ、私は熱い涙があふれたのである。

そして、改めて脚本家の橋田寿賀子さんに、敬意を重ねている。
今回、NHK連続テレビ小説『おしん』が再放送と知り、特に若い方たちに、
日本の1955(昭和30)年の頃までは、生活に困窮した人たちが多かったことを、
このテレビドラマから学んで欲しい、と念願したりしている。

そして昨今はデフレ烈風で経済は低迷して、成果は短期に求められる過酷な中で、
働いて下さる諸兄諸姉の一部の中で、いじけずくじけず颯爽と過ごしてほしい、と無力な私は思ったりしている。

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深大寺の初詣、昨日のひとときは余りにも人出が多く、地元の高齢者の私は退散し・・。

2013-01-03 12:31:06 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の高齢者4年生の68歳の身であるが、
年末年始もゆったりと過ごしてきたので、昨日の2日は運動不足を感じてきたので、
独りで我が家から50分ばかり歩いた都立『神代植物園』を訪ねよう、と思いたった・・。

そして私は2時間ばかり雑木林の冬木立の情景、そして花木の梅(ウメ)、蝋梅(ロウバイ)、藪椿(ヤブツバキ)など
早春の香(かお)りを求めて、新年の2日のひとときを散策した。

この後、『神代植物園』の深大寺出入り口から辞した後、隣接されている深大寺に立ち寄り、
初詣でもしょうかしら、と参道の下り路を歩いたが、
初詣の参拝を終えられた方たちが溢(あふ)れるように多く、
私は戸惑いながらいつものように『深大寺』の乾門から入ったが、
元三大師堂や釈迦堂の付近は数多くの参拝される方たちで、人出がにぎわっていた・・。

そして境内に見渡すと、参拝者が4列に並び本堂から山門まで続いて折、
もとよりその周辺もにぎわっていた。
             
             
             

私は地元の神代中学生に通学していた頃から、この『深大寺』の初詣、節分の日、だるま市の日には数回訪れてきて、
余りの人出の多さに驚き、やがて苦手となり、40代を過ぎた頃から平日の人出の少ない時を
四季折々に訪ねてきた。

境内から山門、その先の食事処、土産売り場の参道まで、参拝される方たちの4列が並び、
数多くの警察官の方たちが安全に参拝できるようにを警備に当っていたし、
私は地元民である上、平日でも訪れることのできる高齢者の身であったので、今回の初詣は取りやめた・・。


こうした根底には、もとより年金を含めた社会保障制度の医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用を、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取り、
明確には、現役世代がその時の高齢者を支えてくれている厳然とした事実からである。

せめて無力な私は、定年後からは散髪屋(理髪店)の行くのは、
何かと現役世代の多忙な方は、土、日曜日に利用されると思い、平日を活用してきている。
或いは大型連休は、現役世代の家族が最優先と思い、邪魔にならないように
行楽地などは避けて来たりしてきた。

こうした心情のある私は、初詣は取りやめたが、
何か記念品と思いながら、境内の片隅みに『破魔矢』とか『おみくじ』の売り場を見たが好奇心もなく、
たったひとつ『土鈴』売り場が見えたので、私は近づいた。

そしてで白衣に緋袴で巫女(みこ)装束で奉職されている乙女が、
黒髪で清楚なしぐさで真摯な表情で売り場担当をされていたので、
高校生の突出した美少女だ、と高齢者の私でも確信を深めながら、土鈴の数々を見たりした。

私は本年の干支の可愛らしい形の巳は何かと苦手であるので、
七福神土鈴の中で『大黒天(豊作・財福の神)』を選定して、たった500円で買い求めた。

そして帰宅後、我が家の居間の片隅みにある、CDケースの上に安置した。
           

この表面は竹できている文鎮(ぶんちん)の後方にあるのは、曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』であり、
私が毎朝向って、氏の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いている。

私はこの相田みつを氏の遺(のこ)された名言を、人生の生きた哲学のように学び、
私の独断と偏見の多い日頃の言動の多い中、 人生の戒(いまし)めとして、日々教示されている。

この横に今回の土鈴『大黒天(豊作・財福の神)』を安置させ、
何かと気弱で小心者の私を守って下さい、と念願したりしている。

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都立『神代植物園』の雑木林の冬木立の情景、そして早春の香(かお)りを求めて・・。

2013-01-02 15:53:51 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の高齢者4年生の68歳の身であるが、
我が家の年末年始は、独り住まいの家内の母に来宅してもらい、
私たち夫婦と共に過ごすのが、この2004〈平成16〉年からの恒例のような行事となっている。

過ぎし昨年の12月28日の夕方から共に過ごし、昨日は新年を迎え、
談笑してきたが、私は運動不足を感じてきたので、
独りで我が家から50分ばかり歩いた都立『神代植物園』を訪ねよう、と思いたった・・。

私は『神代植物園』を長らく四季折々に訪ねているが、
いずれにしても、この公園は私が通った地元の神代中学校の付近にあり、
私が中学校を卒業した1960(昭和35)年の頃に開園した。

この時代は自転車で中学校を通学していた私は、ときおり開園前の雑木林の中を下校の時などに、
学友と自転車で走りまわったりしていた。
その後、人生の節目などを含めて、四季折々通ったりしてきた。

私が心に迷ったりした時などは樹木を眺めたり、それぞれの花に心を寄せて、
心の濾過をして浄化されたりしてきた。


こうした思い秘めた私は、圧倒的に魅了される冬木立の情景、
そして梅(ウメ)、椿(ツバキ)などの早春の香りを求めて、私は自宅を出た・・。
             
           こうした素朴な情景を観ながら歩くのが好きである。
             
           私は幼年期は農家の児として育てられたので、このような情景に魅せられて、
           特に雑木林の冬木立の景観の中を歩き、過ぎ去った日々に愛惜を重ねたりすることが多い。
               
               この『かえで園』は、日本の各地のモミジの樹木が植えられて、
               四季折々のうつろいを明確に表現するので、私は立ち止まったりして思索を重ねることが多い。

この後、私は梅(ウメ)の花が早くも咲いているかしら、と思いながら梅園に寄ったが、
日本の各地から集めた早咲きの梅(ウメ)でも、たった一本だけ莟〈つぼみ〉の状況であったので、
私は微苦笑した。
            
そして、この梅(ウメ)の莟〈つぼみ〉を見惚れていると、あと数週間過ぎたら、
周辺の梅と共に咲き始めるから、待っていて下さい、といったような風情であった。

そして隣接している蝋梅(ロウバイ)のコーナーに立ち寄ると、かぐわしい匂いと共に、
淡い黄色の花びらを数多く見せてくれた。
              

そして私は椿園に寄り、数多くの藪椿(ヤブツバキ)の紅色、朱紅色を見たりし、
偶然にひとつの椿に瞬時に魅せられて、立ち尽くして見惚れてしまった。
          

このように私は2時間ばかり雑木林の冬木立の情景、そして花木の梅(ウメ)、蝋梅(ロウバイ)、藪椿(ヤブツバキ)など
早春の香りを求めて、新年の2日のひとときを散策した。

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☆ 恭賀新年 ☆ 本年もよろしくお願い致します・・♪

2013-01-01 09:54:20 | 定年後の思い
お健やかな新年をお迎えのことと思います。

昨年も数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、とご教示されることが圧倒的に多く、
確かな人生の教科書と思い、多々ご教示を受けている次第です。

そしてこの広い空の下で、未知のお方に投稿文の上で、めぐり逢えたことに秘かに感謝したりしています。
こうした中で、コメントを頂いたり、
私は数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、感きわまってコメントをしたりしています。

或いは季節感あふれる写真に感銘を受けたり、
そして心の深淵まで描写できるお方の散文に圧倒されたり、
ときには数多く人から励まされたりして、読ませて頂ただいているのが本心です。
改めて、多くの皆様には感謝する次第です。

               
       私は東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市のはずれに住み、
       付近には野川が流れ、霞嶺(かすみね)神社、明照院(みょうしょういん)があり、私の生家も近くにある。
       私は結婚前後の5年を除き、この地を60数年ばかり過ごしているので、
       心のふるさとの原景も我が家の周辺にある。

       陵山(みささぎやま)といわれる小高い丘となり、高い所には老樹に囲まれた霞嶺(かすみね)神社。

               
       隣接した低い所には明照院(みょうしょういん)があり、小高い丘に仲良くふたつ並んでいる。
       
       いずれも私の幼年期に遊んだ思いで深い処であり、
       四季折々散策する素朴な処である。

私は定年退職後の9年生、高齢者4年生の68歳の私ですが、
日常は買物、散策などの時、季節のうつろいを享受し、
その時に思ったこと、思索したことなどを心の発露として、あふれる思いを
このサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっています。

数多くの皆様に私のつたない綴りをお読み頂き、感謝の一言です。
そして私が投稿を重ねることが出来たのは、ひとえに皆様に支(ささ)えられたことは事実です。

日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりしていますので、一日が終るのが早い、
と溜息〈ためいき〉をしたりしているのが実情です。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしています。

ありふれた年金生活の家庭ですが、
私は本年も皆様にささえられ、心身ともに健全な一年を過ごす所存です。


末筆ではありますが、皆様のご健康と
            ご多幸を心よりお祈り申し上げます。 

                        2013年(平成25年) 元旦
                               『夢逢人』   

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コメント (2)
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