夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

この冬の時節の昨年は、札幌に滞在して付近の名所を周遊【2012.1.28.~2.3.】 《3》

2013-01-21 15:46:47 | 旅のあれこれ
         第3章  北海道大学の構内を散策して

30日の朝、私たちは札幌の郊外のリゾートホテルの窓辺から、
          
積雪50センチの中、冬晴れのまばゆい街並みを眺めていたら、館内で休息日の予定を取りやめて、
          
             滞在しているホテルの正面口からの冬晴れの情景

午前中は初めて訪れる北海道大学の構内を散策、
午後は大倉山、藻岩〈もえい〉山の展望台から市内の街並みを一望したい、と予定を変更した。

突然に初めて北海道大学の構内を訪れる理由は、ふたつの私の秘めたることであった。
ひとつは、今の67歳の身としては、せんなきことであるが、
私が読書に目覚めたりは遅ればせながら高校一年からであり、せめて3年早く熱愛していたならば、
北海道大学、或いは京都大学で、文学部国文科に学んでいただろう、と自責の念があった。

もとより人生は誰しもやり直しはなく、
20代の前半に映画・文学青年の真似事をした私の体験時期に、
やりきれない後悔をしたことがあったのである。


残りのひとつは北海道大学の学生食堂を観てみたいことであった。
私の敬愛するシンガーソングライターの中島みゆきさんは、帯広の高校を卒業された後、
札幌の藤女子大学で文学部国文科を学ばれている。
確か高校時代の頃から、歌で自己表現を学ばれていた、と何かの本で私は読んでいた。

中島みゆきさんは1952年に生を受けられたのであるから、
藤女子大学で入学したのは1970年と推測する。
この当時の少し前は、大学の学園紛争時期であり、硝煙が残っていた頃でもある。

こうした時代に、近くにある北海道大学の学生と歌の勉学の交流をしていた、
と私は推測してしまう。
このことに関連して、読売新聞の2011年11月9日の夕刊に於いて、
中島みゆきさんは、インタビューに応えている。
《・・シンガー・ソングライター、そして人としての在り方に影響を与えたのは、
1970年代前半の学生時代の体験。
学生運動が挫折し、「先輩らが掲げた理想が矛盾し、内部分裂していった」
と、真剣な口調で振り返る。

「そうするとね。思想だけのために純粋に突っ走ることは、もはやできなかったんだよね。
しらけ世代なんて言われたけど、自分で考えたかったの。
そこからずうっと引っ張ってきて、今言えることは、愛でなら走るよ、
私はってことです」
・・》
こうしたインタビューされた記事が、私は読み、深く理解を重ねたので、
一度は大学で出入りがしやすい学生の食堂を見たかったのである。

私は1963年春に、東京の私立大学に入学して、
翌年の1964年の東京オリンピックが開催された秋に大学を中退し、
映画青年の真似事をした時代であった。
もとより学生運動の思想に無縁で、彼らを遠くから眺め、必死に名画を鑑賞したり、
読書に熱中し、原稿用紙に向っていた・・。

やがて映画、そして文学青年の真似事も挫折し、やむなくコンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
1970年の春に、何とか大手の民間会社に中途入社した。

私たちは学生の食堂内の片隅で、私はコーヒーを飲みながら、
若き学生諸兄諸姉を見たり、食堂の建物を見たりし、
1970年・・40数年過ぎて、風化してしまった時の流れを受け止めたりした。

このようなことを思い馳せた後、家内と共に広大な構内の路を歩いた・・。
        
冬場れの中、雪道は殆ど除雪され、歩道は脇は50センチぐらいの積雪を見たり、
未知の各学部の建物を眺めたりした後、 地下鉄の南北線の『北12条』駅を目指して歩いた。

                              《つづく》

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この冬の時節の昨年は、札幌に滞在して付近の名所を周遊【2012.1.28.~2.3.】 《2》

2013-01-21 08:29:23 | 旅のあれこれ
         第2章  初めて支笏(しこつ)湖の『氷濤(ひょうとう)まつり』

私たちは札幌の郊外のリゾートホテルに滞在する間、
いつの日にか札幌市からほど近い支笏(しこつ)湖の訪れたいと念願していたので、
今回、この時節に冬の祭典のひとつ『千歳・支笏湖氷濤まつり』を観ようとした。

そして『氷濤まつり』の開催中、土日、祭日に限り、花火大会が行われる学び、
私たち夫婦は、北海道中央バスの定期観光周遊プランのひとつで、
『ライトアップ 支笏湖氷濤まつり』コースがあり、私たちは参加した。

札幌南口の駅前バスターミナルを観光バスは午後3時過ぎに出発し、そして街中を通り過ぎ、
高速の道央自動車の輪厚SAで少し休憩した後、
粉雪舞い降る雪ぐれの中、森林、山里を切り拓いた支笏湖スカイロードを走り抜けると、
やがて支笏湖の湖畔が観えたのが、5時過ぎであった。

そして私たち一行は、バスガイドさんに誘導されて、『支笏湖氷濤まつり』の会場に着いた。

まもなく暗い夜の湖畔の会場に、ライトアップされた数多くの氷像が、
淡き青い色合い、蒼い色、紫色、温かそうな淡いピンク色、オレンジ色もとより白き色合いが輝き、
多彩な色合いで林立していた。
        
会場は付近の道民の家族の人たち、若き男女の方たち、私たちのような観光客でにぎわい、
休憩所も熱気あふれていた。

家内は暖房のある休憩所で花火の揚がる時を待ちわび、
私は粉雪舞い降る会場で、高台の氷像の滑り台から、小学低学年の少女3人が歓声を上げながら、
滑り落ちてくる情景、
或いは小学高学年の少年が果敢に滑りおちてくる状況を微笑ましく観たりしていた・・。
そして道民と思われる愛らしい防寒着、防寒靴、帽子、手袋に見惚れたりしていた。

この情景を観ていた5歳ぐらいの少女が、
『ママ・・あたしも滑りたい・・』
と母親に懇願している状況をたまたま私は見たりし、思わず微笑みを頂いたりした。

この後、花火が打ち上げられ、多くの観衆は冬の夜空を彩(いろど)る情景に、
歓声を上げたり、ため息を重ねたりしていた。

こうした稀〈まれ〉な情感のひとときを過ごした後、私たち一行は7時過ぎ会場を後にした。

そし宿泊先のホテルに私たち夫婦は帰館したのは、夜の10時少し前となり、
そしてスパの大浴場に入浴した後、このホテルの食事処のひとつには屋台『ラーメン』があり、
ゴマ風味の効いた醤油味のチャーシュメンが美味で、私は家内に絶賛したりした。

                                《つづく》

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この冬の時節の昨年は、札幌に滞在して付近の名所を周遊【2012.1.28.~2.3.】 《1》

2013-01-20 15:17:07 | 旅のあれこれ
            序 章

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
北海道の札幌市の郊外のリゾートホテルに6連泊し、冬の札幌を少し観ませんか、
とある旅行会社の小冊誌に掲載された企画の旅に、家内と共に魅了されて訪れた、

たまたま冬の札幌を訪れるのは4回目となったが、
東京郊外の田舎者の私は、うつろな視線で街中、郊外、そして観光地を周遊したが、
この間に残影したことなど記載する。

もとより道民の真摯に生活を過ごされる方とは違い、旅人としての感情であり、
つたない私の心情を綴る。


         第1章 札幌の郊外のリゾートホテルのひとつは

1月28日の昼、冬晴れの羽田空港を離陸した旅客機は、
わずか一時半過ぎに新千歳空港に着陸したが、どんよりとした曇り空の中、粉雪が舞い降り、
離着路の滑走路は除雪がままならず、待機の状況となり、
30分遅れて空港の到着ロビーを私たち夫婦は歩きだした。

新千歳空港駅よりJRを利用して札幌駅に向ったが、
粉雪が舞い降り中、郊外の積雪50センチ前後の情景を車窓から観ると、
北の大地に旅に来た、と実感させられた・・。

そして宿泊先のリゾートホテルの好意のひとつとして、
札幌駅の北口から宿泊先まで、ホテル専用の送迎バスがあり、
私たちは広大な駅構内を移動して、未知の北口に向った・・。

これまでの札幌を訪れ、駅構内は殆ど南口から利用してきたので、
北口の状況は無知であり、おぼつかない団体バス乗り場にたどり着き、
待機してくれたホテル専用の送迎バスに乗り込んだのは午後4時少し前であった。

送迎バスは街中を北上し、北24条、その後は地下鉄の南北線の『麻生』駅付近に立ち寄り、
粉雪舞い降る雪ぐれの中、更に北上した先に大きな川が観え、
この川の一角に広大な敷地のある宿泊するリゾートホテルが現れた・・。

http://www.gateauxkingdom.com/access/
☆【シャトレーゼ ガトーキングダム サッポロ ホテル&スパリゾート 公式ホームページ】<== アクセス☆

そして私たちはチエックイン後、指定された部屋は10階であり、
この窓辺から郊外の街並み、遥か彼方の山なみを観たり、館内の食事処、売店などをめぐり歩いたり、
そして併設されたスパの各種の大浴場、露天風呂、食事処などを利用し、6日間ばかり共にした。

http://www.gateauxkingdom.com/
☆【シャトレーゼ ガトーキングダム サッポロ ホテル&スパリゾート 公式ホームページ】☆

この間の私たちは、このホテルの送迎バスで、45分前後の札幌駅の北口まで幾たびか便乗し、
                    
街並みの情景を観たり、或いは札幌駅の南口からの出発する北海道中央バスの定期観光バスを利用して、
          
この時節の観光地めぐりを少しばかりした。
                                《つづく》

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蒼穹(そうきゅう)の大雪原の帯広の地、私たち夫婦は再び本日より訪ねて・・。

2013-01-20 05:17:49 | 旅のあれこれ
私たち夫婦は、国内旅行が共通の趣味のひとつであり、特に雪の舞い降る情景に魅せられて、
この時節になると、雪恋し、心情となり、
本日の20日より北海道の帯広市の郊外にある十勝幕別温泉の中のひとつのリゾートホテルに、
5泊6日で滞在し、周辺の行楽地を周遊する。

私たち夫婦は何故かしら北海道の風土に魅せられて、幾たびか訪れてきたが、
無念ながら帯広の地域は、3度ばかりしかない。

最初は周遊観光で晩秋の時に、道東めぐりの2泊3日の最終で十勝地方を観たりし、
その後は、5月の知床半島のクルーズに魅了された後、旅の終わりとして十勝川温泉に宿泊したが、
いずれも雪のない時節であった。

私の心の奥底には、この十勝地方の帯広の冬のイメージは、
郊外の果てしなく拡がる大雪原の中、蒼穹(そうきゅう)の情景である。
厳冬の晴れ間の中、大地は凛とし、果てしなく青空が高く観えるのが、蒼穹(そうきゅう)の言葉に何よりも相応しい、
と思ったりしている。


私が今でも敬愛している亡き作家・立原正秋〈たちはら・まさあき〉氏の随筆から、
私が30代のなかばの昭和55年(1980年)10月の初旬に遅ればせながら
蒼穹(そうきゅう)という言葉を学んだ。

この中の随筆のひとつとして、知人が古美術店を開き、命名を頼まれ『蒼穹』と氏は名付けられた。
氏の発想の根源は、もとより氏は朝鮮半島で生を受けられたので、
大陸性の気候の中、冬の晴れ間の凛とした情景を思い浮かべて、
蒼穹(そうきゅう)という言葉を思い重ねただろう、と私なりに解釈した。

そして帯広市は、シンガーソングライターの中島みゆきさんが、
小学時代の後半の頃から、帯広市の学校に学び、高校まで過ごされた、と私は25年前に学んだりした。
私は中島みゆきさんを秘かに女神のように信愛し、
このお方の幾つかの歌に支えられて、この人生の難局を乗り切ってきたひとりである。

このような蒼穹(そうきゅう)の情景、そして中島みゆきさんが一時時期過ごされた地域を
私なりに少しでも学びたい心情があった。


こうした思いを秘めて一昨年の2011〈平成23〉年の12月20日より、
帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊した後、
いつに日か訪れることを夢にみていた山奥の糠平〈ぬかぴら〉温泉の厳冬地の旅路をしてきて、
私たち夫婦は魅了された。

こうした体験があったので、今回は帯広の郊外の十勝幕別温泉の中のひとつのリゾートホテルに、
5泊ばかり滞在し、周辺の行楽地を周遊する。

いずれにしてもこの地域は、マイナス10度前後、烈風か寒気団が襲来すればマイナス25度前後と予測して、
防寒着で身を固めて散策する予定である・・。

そして熊は冬眠中であるが、この中の不眠症のきまぐれな熊に遭遇した時は、
やむなく音痴の私でも、「熊祭り」とも称されている『イヨマンテの夜』の歌を大きな声で唄い、
近寄らないでねぇ、と思ったりしている。

もとより熊でも、東京の田舎者の音痴の声は、聴きたくないと、
お互いに退散する、と思い浮かべている。

そして何よりも私が危惧していることは、デジカメの電源と電子部品が、
マイナス10度前後より厳冬となった時は、平素のように順応できるのかしら、と心配している。

尚、旅行の20日から25日まで、投稿文に関して、
私は《この冬の時節の昨年は、札幌に滞在して付近の名所を周遊【2012.1.28.~2.3.】》として題して、
たまたま札幌市の郊外のリゾートホテルに6泊7日で滞在して、周辺の行楽地を廻ったりした。
この冬の旅路を8話ばかり再編集しましたので、
この間、予約セットし公開しますので、お読み頂き、ご笑話を願えれば幸いであります。

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ブログの投稿文に写真を添付して以来、我ながら思わず微笑んだ写真の一葉は・・。

2013-01-19 13:13:24 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の高齢者4年生の68歳の身であるが、
中小業に35年近く勤めて2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
まもなく本屋の書物からブログの世界を知った後、パソコンの故障、国内旅行で出かけた以外は、
自宅から日々投稿文を重ねて、丸8年が過ぎている。

こうして中で、数多くの諸兄諸姉の投稿文を読ませて頂くと、
ここ6年ぐらい殆どの方が心ある写真を添付し、
いつまでも言霊(ことだま)を信愛し、散文のような文章だけでの表現は、
時流に残されてしまう私なりに憂慮してきた。
そして 特に旅行関係の投稿文に関しては、散文を綴りながら危惧してきたのが本音でもあった。

昨年の11月3日の『文化の日』の翌日の4日に於いて、
私は昼下がりのひととき、私は遅ればせながら写真添付に初めて挑戦した・・。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、教えを乞う人も近くにいなく、
やむなく加入している【gooブログ】の《 画像入りの記事を投稿する 》の解説を読んだりして、
これ以来のブログの投稿文に殆ど写真を添付するようになった・・。

先ほど、数多くの写真を添付した中で、我ながら思わず微笑んだ写真の一葉があった。
           

この一葉の写真に於いて、七福神の土鈴のひとつ『大黒天(豊作・財福の神)』が写っているが、
1月2日に都立・『神代植物園』の帰路に、初詣と思いながら『深大寺』に立ち寄り、
何か記念品と思いながら、境内の片隅みに『破魔矢』とか『おみくじ』の売り場を見たが興味もなく、
たったひとつ『土鈴』売り場が見えたので、私は近づいた。

そして白衣に緋袴で巫女(みこ)装束で奉職されている乙女が、
黒髪で清楚なしぐさで真摯な表情で売り場担当をされていたので、
高校生の突出した美少女だ、と高齢者の私でも確信を深めながら、土鈴の数々を見たりした。

私は本年の干支の可愛らしい形の巳(蛇)は何かと苦手であるので、
七福神土鈴の中で『大黒天(豊作・財福の神)』を選定して、たった500円で買い求めた。

そして帰宅後、我が家の居間の片隅みにある、CDケースの上に安置して、たわむれに記念写真を撮った一葉である。
       

この表面は竹できている文鎮(ぶんちん)の後方にあるのは、
曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』であり、
私が毎朝向って、氏の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いたりしている。

私はこの相田みつを氏の遺(のこ)された名言を、人生の生きた哲学のように学び、
私の独断と偏見の多い日頃の言動の多い中、 人生の戒(いまし)めとして、日々教示されている。

この横に今回の土鈴『大黒天(豊作・財福の神)』を安置させ、
何かと気弱で小心者の私を守って下さい、と念願したりしている。

このような一葉の写真であるが、七福神の土鈴のひとつ『大黒天(豊作・財福の神)』、
或いは相田みつを氏の特有な書体にしても、散文で表現することは私としては困難であり、
たかが写真、されど写真、と私は微笑んでしまったのである。

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東京の田舎者の私は、都心を卒業した、と愛惜を重ねられながら微苦笑して・・。

2013-01-18 15:53:28 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の高齢者の68歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後35年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

私が住んでいる近くに生家もあり、この地域で1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けて、
結婚した前後の5年間を除き、これまでの60数年間をこの地で過ごしてきた・・。

過日、正井泰夫・監修の『東京の昭和 ~地図で暮らしを読む』(青春出版社)を再読したりした。
概要としては首都の東京都心の敗戦後から今日まで急激に変貌してきた実態を
それぞれの街並みを誰でも理解できるように表現した本であった。

私は読みながら、そうでしたよねぇ、と感じたり、未知のこともあり改めて教示されたりした。
こうした中で、六本木の外れの『東京ミッドタウン』に関しての記事を読んだりすると、
遥か遠い世界のようだ、と微苦笑しながら感じたりした。


私は2004(平成16)年の秋に定年退職した後、
少しばかり理由により年金生活に入り、平素の買物は私は自主的に専任担当となり、
もとより独りで買い物に行ったりしているので、
家内と共に2人で買物に行くことは年に10回程度となっている。

私は自宅から最寄のスーパーに行くことが多いが、
週に1度ぐらいは京王線の『仙川』駅、小田急線の『喜多見』駅などの駅前に散策を兼ねた出かけて、
本屋に寄ったり、『ドトール』でコーヒーを飲んだりしている。

このような生活を9年近くしていると、調布市の中核の京王線の『調布』駅の駅前さえも、
人の多さに驚き、まして『新宿』駅の付近の専門店、デパートに買物をしたりすると、
ただ人の多さに圧倒されて、疲れが増すのが定年後の心情となっている。

一週間前頃、久々に家内と京王線の『調布』の駅前に買物に行ったりしたが、
『パルコ』の中の衣料専門店で家内が婦人衣料品を眺めだした時、
私は『ドトール』でコーヒーを飲んで待っている、と告げて、
私は本屋に寄り、一冊の本を買い求めて、『ドトール』で煙草を喫いながら、本を読んだりした。

結果としては、私たち夫婦の買物などの外出は、
11時過ぎに出かけ、帰宅したのは午後の3時過ぎであったが、
私は人の多い場所は疲れ果てて、主庭のテラスに下り立ち、静寂な中で煙草を喫ったりしていると、
心が落ち着き、苦笑したりした。

私は高齢者4年生の68歳の身であるが、齢を重ねるたびに、人の多い場所は苦手になっている。


        第一章

私の現役サラリーマン時代は、中小業の音楽業界の苦楽が激しいあるレコード会社に35年ばかり勤め、
音楽に直接携わる制作畑でなく、管理畑の情報システムの部署が多く、
開発・運営に奮闘していたので、大半は都心の本社に勤務していた。

私は地元の調布市の小学、中学校を卒業した後、高校時代から都心を目指して、通ったりした。

それまでは幼年期に母に連れられ、新宿の伊勢丹(デパート)に行ったりして、
階段の踊り場、地下の通り道などで、
不幸にして戦争で身体の一部を失くされ、軍歌の音色とも、その容姿を見るのが恐かった。

小学校の高学年になると、付近の調布、布田、千歳烏山の映画館に、独りでよく通ったりしていた。
こうした中、次兄から都心の日比谷にある映画を観ようと、
新宿から築地行きの都電を乗ったが、乗り物酔いで私はしょげた・・。

確かあの頃の都電は、運賃は均一13円と記憶しているが、
下車したら当然もう一度支払う必要があったので、日比谷まで頑張れ、と次兄に励まされ、
青ざめた顔で日比谷で降りた記憶が残っている。

高校は中野区に所在していたが、新宿を経由し通学したので、
荻窪行きの都電を利用したり、或いは中央線で中野駅から登校したりした。
下校は殆ど新宿の繁華街を通り、食べ盛りであったので、
街中の食堂でカツ丼、親子丼、ラーメンを午後の3時過ぎに食べることが多かった。

そして、ひとりで映画館に立ち寄ったりしていた。
この頃に、『小田急デパート』そして『京王デパート』が開業されたりし、
特に新宿の西口は激しく変貌してた。

こうした中、私は読書も好きだったので、神保町の古本街に行ったり、
ときには映画の封切を求めて、日比谷の映画街も通ったりしていた。

1964〈昭和39〉年の秋に東京オリンピックが開催された数年前の出来事である。

           
        第二章

大学に入学してからは、映画鑑賞に没頭していたので、新宿、日比谷の映画館を中心で鑑賞していたが、
名画が上映すると名高い池袋の『人生座』と銀座の『並木座』は、私なりに欠かせない映画館となっていた。

東京オリンピックの開催していた1964(昭和39)年の秋、
京橋の『近代美術館』に於いて、日本映画の昭和初期からの名画特集を上映していたので、
私は日参したりしていた。

そして映画を観る以外は、新宿の『紀伊国屋書店』、このビルの中にある喫茶の紅茶専門店を利用したり、
ときには新宿御苑を散策したりした。

その後、大学を中退し、芸能専門学校のシナリオ科に通った頃は、
銀座の『松坂屋』の裏手のビルに教室があり、数寄屋橋から歩いたりしたが、
お金に余裕のない私は、大人の街である銀座の高級店には縁がなく、
もっぱら大衆向けの店を利用したりしていた。

そして映画、文学青年の真似事の生活を過ごし、
アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていた・・。

こうした中で純文学の小説の新人募集に3回応募したが、最終予選の寸前で敗退したりし、
叔父からは、30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と言われたりしたので、
根拠のない自信ばかり過ごしてきた私でも、敗北宣言をして、通常の社会人に戻る決心をした。

もとよりこの時代は高度成長期であったが、大学を中退し、企業の中途入社は容易ではなかったので、
やむなくコンピューターの専門学校でソフト科に1年間学び、
何とかこの当時は大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、25歳を過ぎた1970(昭和45)年の春であった。

この音響・映像メーカー会社は、一部としてレコードの有力なレーベルを管轄する部門があり、
私は面接の時に、テレビ・ステレオなどのハード系より、
何かしらソフト系のレコード部門に心身相応しいと思っていたので、懇願して配属して貰った。

入社した直後、現場を学べ、と指示されて、横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理の部署に勤めていた時、
まもなく大手のレーベ関係ルが、レコード会社として独立した外資系の会社となり、私は配属された。

そして私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられた。
本社は赤坂見付駅前の東急ホテル・ビルの一角にあり、私は1971(昭和46)年の早春から数が月程、通った。
この東急ホテル・ビルの2階は小売専門店が並んで、
おしゃれな高級店であったので、私は喫茶店を利用できる程度であった。

赤坂は銀座と同様に大人の街であったので、
若いサラリーマンの身としては、TBS方面の小料理店で昼食を食べたりした。

まもなく本社が六本木に移転したので、
1992(平成4)年までの20年ばかり、私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。


        第三章            

1971(昭和46)年5月に本社が六本木の所在となり、
四丁目の交差点から100メートルぐらいにあるビルが勤務地となった。
四つ角に本屋の『誠志堂書店』、喫茶風の飲食店の『アマンド』、銀行があり、
最寄には『俳優座』や中華料理の『楓林』があった。

そして近くには都の経営する大衆的な『六本木食堂』があったり、
イタリア料理の『カーディナル』、日本料理の大衆店の『正直屋』などの小料理店があったりした。

喫茶店は洋菓子の『クローバー』、『貴奈』をはじめとし、数多くの喫茶店があった。
こうした中で 『俳優座』のビルが新築過ぎた頃から、街は急速に変貌をはじめた・・。

レコード店の『WAVE』、本屋の『青山ブックセンター』に通ったり、
或いは日本料理の『美濃吉』を利用したりしていた。

私は1972(昭和47)年頃から、シャンソンに熱中したので、
銀座の『銀巴里』でコーヒーを飲みながら、数多くのシャンソン歌手の唄声を聴いたりした。
そして、ときには水割りのウィスキーを呑みながら『蛙たち』でシャンソンに酔いしれた。
或いは、渋谷にもカンッオーネを主体の店にも足を運んだりした。

この当時、私の勤務上、兄弟会社のようなレコード会社が原宿のピアザビルにあって、
原宿駅、表参道などからシステムの業務提携の関係で数年通ったりした。


この間、私は六本木にある会社に通勤していたが、この六本木のはずれに、防衛庁があった。
六本木の地下鉄の駅を出ると、四丁目の交差点があり、
ここから200メートル前後に東西南北に小さな複合ビルが立ち並びんでいた。

この繁華街のはずれに防衛庁があったので、何となくとりとめのない感じを持った。
防衛庁の塀は、安すぽいコンクリートで囲みを造り、正門は頼りのない感じであった。
最初、この正門を通った時、私が高校一年の時の1960〈昭和35)年の安保闘争の時、
全学連等のデモ隊が押し寄せた場所だったのか、と考え深げであった。


私はいつも退社後、地下鉄の駅に向かうと、繁華街を目指した人々とすれ違った。
ビジネスマンは少なく、遊びに来ている人のほうが圧倒的に多かった。
この繁華街のはずれに防衛庁があったので、誰しも違和感を持っただろう・・。

その後、地下鉄の千代田線が開通となり、『乃木坂』駅が出来て、この駅から防衛庁の正門前を通り、
四丁目の交差点までの大通りに客足が増えた。
確か1982〈昭和57)年頃と記憶しているが、防衛庁も塀、門扉を一新し、小奇麗になった。

そして私は退社後、この通りを歩いて『乃木坂』駅に向かった。
途中、黒人兵が日本の若い娘と腕を組んだり、若い娘のグループ、
そして30前後のご婦人たちがノーブラで高価なブラウスを召して、さっそうと歩いてくるのを、
パブル経済の最中といえども街中でもかょ、と私は苦笑したりした。

その後、ディスコ・ブームとなり、六本木の繁華街は益々大人のおもちゃ箱をひっくり返したの様に、
活気と喧騒につつまれていた。

しかし、この大通りの200メートル前後の防衛庁だけは、いつもひっそりしていた。

その後、市ケ谷にある自衛隊の基地に移転したが、
この跡地から江戸時代の小判が出てきた、と風の噂さで聴いた。

このようなことを思い馳せたりしたが、六本木のあの時代の空気を知っているひとりとして、
私は防衛庁の跡地の「東京ミッドタウン」は魅力がないのである。

1992(平成4)年の5月過ぎに、レコード会社の合併により、渋谷の外れの勤務となり、
私が20代の後半に散策したパルコ、スベイン坂、道玄坂を懐かしんだりした後、
東急の文化村を知ったりした。

私の現役時代は、中小業の会社であり、管理畑が大半であったので、
世間がよくいう社用族として、
銀座の一流と称されるバー、料亭などの世界は知らない。

従って、私は大手企業で昇進を重ねるエリートの方たちとは、程遠いサラリーマンの身なので、
シティ・ホテルなどに関しては、『帝国ホテル』、『ニューオータニ』、
『六本木プリンス』、『京王プラザ』等ぐらいしか利用した程度である。

つたない私としては、駅付近の商業ビル内の食事処、街中の専門料理店、
居酒屋をたびたび利用していた。
そして、ときには血気盛んな若き頃は、風俗店に行ったりしていた。


       最終章 

定年退職後、都心の人混みに疲れたせいか、齢を重ねたせいか、
六本木ヒルズ、東京ミッドタウン、新丸ビル等の興味がない。

ときおり、新宿の『伊勢丹』、『小田急デパート』、そして登山の専門衣料店で買物はするが、
帰路の最寄の『成城学園前』の駅ビル、付近の食事処で食事をするのが、
何かしらほっとし、気楽に食べ、呑んだりしている。

日常の多くは、小田急腺の『成城学園前』、『喜多見』、『狛江』、
京王線であったならば、『仙川』、『つつじヶ丘』、『調布』の駅付近で充分と思っている。

一番気楽なのは、自宅の小庭の落葉樹の四季折々のうつろいを眺めながら、
弐合徳利で純米酒の辛口、或いはビールを呑みながら、
家内とおしゃべりをしたり、食事をするのが心身の波長に最良となったりしている。

或いは私は独りで、川沿いの遊歩道を歩いたりしながら、
        
小公園の常緑樹、落葉樹の季節のうつろいに心を寄せたりするのが多い。
               

私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつであり、ときたま旅行を重ねているが、
自宅から一時間ばかりの東京駅を利用する時が多いが、高層ビルの並ぶ都心を眺めたりすると、
心の中で、めまいを感じたりしていることが多い。

そして旅先で料理、和菓子、日本酒をほめ、仲居さんにからかわれたり、
或いは温泉に入浴したりして、
その地の風土を愛(め)でるのが心の良薬となっている。

このように長年に於いて苦楽を共にした都心であったが、 私の心は遥か彼方遠くなっている。

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過ぎ去りし愛(いと)しき日々に、ぐうだらな私でも愛惜を重ねて・・。

2013-01-17 20:17:08 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の68歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後35年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

我が家の平素の買い物は、私が年金生活を始めて以来、私は自主的に専任担当となり、
近くのスーパー、駅前のスーパー、専門店などに出かけて孤軍奮闘している。

本日もいつもの通り午前中のひとときに買い物をした後、
小庭に残り雪を見ながら、家内と共に昼食を頂いた。

この後、風邪気味のせいか気力がなく、午後は本を読もうと思った。
そして何よりも安楽な処は、2階の寝室の布団であると思い、
煎茶とコーヒーをお盆に載せて、一冊の本を持ちながら寝室に行った。

昼下りの2時過ぎに、私は和室の寝室の電気毛布で温かくした布団にもぐり、
障子に陽射しを受ける中、本を2時間ばかり読んだ後、寝ついてしまった・・。

まどろみながら目覚めると、この世で一番贅沢なことと思いながら、とぐうだらな私は確信しながら、
こうしたことは年金生活の自在の身だからできることなのである、と実感したりした。


そして夢の中の夢幻の世界と現(うつつ)の現世をぼんやりと行きかいながら、
昨年の秋の頃からの過ぎ去った日々に思いを馳せたりした・・。

私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であり、幾たびか旅を重ねてきたが、
やはり非日常なので、心の片隅に鮮明に残っている。

過ぎし昨年の10月下旬に、北海道の洞爺湖の湖畔に建つ観光ホテルに9泊10日間で滞在し、
周辺を散策したりした。
      
宿泊した観光ホテルは洞爺湖の湖畔に建つ『湖畔亭』であり、
私たち夫婦は5階のある指定された和室は10畳であり、その前に3畳ばかり広さで椅子とテーブルが置かれ、
そして湖面に面したベランダの3畳ぐらいであった。

そして私たちは椅子に座ったりして、ベランダ越しに、
円形のような洞爺湖の中核には、中島と総称されている大島、観音島、弁天島、饅頭島の4つの島が浮かび、
左方の遠景にときおり蝦夷富士と称されている羊蹄山(ようていざん)が雄大に聳え立ち、
左岸、右岸にも湖岸から山里の情景が観え
洞爺湖の湖水の色合いは早朝、午前のひととき、昼下り、そして夕暮れは、
陽射し、雲の流れと共に蒼色、青色、淡き青色に変貌し、幾たびか私は長らく眺めも見飽(みあき)ることのない美景であった・・。

  
こうした滞在をしている中で27日には、快晴の中、『西山火口散策路』を訪れた。
前方の彼方に火山ヘの路が視え、その後はゆるやかな石段を登ると、
隆起したアファルト道路が隆起し、廃道となった道を見ながら、私たちは歩いた。

この道も2000年3月に噴火した際、地殻変動により盛り上がった地面であり、
まもなく展望台の第一、第二からは、火口を間近でみられ、
地熱、噴煙など、噴火の甚大さを感じることができる所であり、
第二展望台から下山のように長く整備された散策路も歩いたりした。

そして2000年3月に噴火した時、1977年の噴火時、昭和新山の噴火時、そして明治期の噴火の跡も
学んだりした、2時間ぐらい歩き廻ったりした。
この後、下山した散策路の途中、群生した薄(ススキ)は白い穂をなやびかせ、
落葉樹は黄色、朱紅色に染めらる中、赤トンボが悠然と飛び回っていた。

前方には洞爺湖の左岸の山里、遥か彼方の遠方には蝦夷富士と称されている羊蹄山が雄大に聳え立ち、
圧倒的な展望に私は絶賛したりした。


その後、12月16日から3泊4日で、吾妻連峰の片隅みの高原地帯にある『高湯温泉』に滞在したりし、
夜明け前から日の出までの情景に圧倒的に魅了されたりした。
           

このようなささやかな旅路をしてきたが、もとより旅は非日常の時であるので、
秋から冬の季節がめぐる中で、私は殆ど独りで自宅から4キロぐらいの遊歩道、小公園、
ふるさとの神社、寺院、或いは都立の神代植物園など訪れて、
ひたすら歩き、うつりゆく情景を心の友としてきた。

       
自宅から近い処に野川が流れ、この両岸に遊歩道があり、私はこよなく歩いているひとつの散策路である。
       
過ぎゆく季節のうつろいを私は教示され、ひたすら歩き廻っている。
       

このような秋の情景を思い重ね、そして冬の情景の今、相も変わらずうつろう冬木立の中を歩いたりしている。
          

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村上 龍・著作の『55歳からのハローライフ』を思い深く、高齢者の私でも購入して・・。

2013-01-16 18:54:45 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者4年生の68歳の身であるが、
午前中のひととき駅前に出て、家内からの依頼された買い物を終えた後、
本屋に入り、村上 龍(むらかみ・りゅう)・著作の『55歳からのハローライフ』(幻冬社)の単行本を購入した。

私は何かと読書好きであるが、定年後からの書籍の作家の傾向は、塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、
三浦朱門、阿川弘之、高峰秀子、中西輝政の各氏の作品を中核に、単行本、新書本、文庫本を購読したりしている。

たまたま今回、村上 龍(むらかみ・りゅう)氏の『55歳からのハローライフ』の作品を買い求めたりは、
私が1970(昭和45)年4月以来から、総合月刊雑誌の『文藝春秋』を購読しているが、
最新号の2月特大号に於いて、氏の『老後への覚悟を持て』と題されて寄稿文を私は精読し、
高齢者の私でも氏の憂(うれ)いが痛切で正鵠である、と感じたのである・・。

《・・55歳のときに、自分と同年代の中高年向けの職業ガイドを作る計画が持ち上がったんです。
(略)
けれども人間は55歳ともなると、それまでやってきたことを生かすしかない。
さらに今の中高年の間には明らかな経済的格差があり、
階層ごとに必要とされる情報が全く異なるので、
世代全般を対象とした職業ガイドを作ることは無理だとわかりました。

その格差とはどういうものかというと・・
ビジネスの現場ではよく「2対6対2」の法則と言われています。
組織の中には常に2割の上位層、6割が中位層、2割の下位層が存在し、
企業の場合なら優秀な上位が多くの利潤を生みだし、6割がそれを支えルーティンワークなどをこなし、
2割の「お荷物」が必ず存在するという法則です。

この比率が中高年の経済状況にもあてはまる。
悠々自適の老後が送れるのは2割の人々で、
お金を心配しながら老後を送らなければいけない中間層が6割を占める。
ボトムの困窮層も2割で、この人たちは明日の生活にも困るような人々です。
(略)
「文藝春秋」も含めて、最近のメディアは「老後の人生設計」とか「老後の資金運用」的な特集で、
海外への旅行や移住、投資のすすめ、現役時代に出来なかった生きがい探しなどを並び立てる。
でも、そんなことを考える余裕のある人たちはわずか2割だけの、
老後の資金に不安のない悠々自適層だけです。

膨大な6割の中間層は、老後への切実な不安を抱えている。
その不安の原因はもちろんお金に直結しています。
年金額が低いうえに、満額もらおうとすれば65歳まで支給されない。
近い将来、支給開始は70歳にひきあげられるかもしれない。

蓄えは潤沢とはいえないから、働かなければならない。しかし、職はない。
インカムがない限り、長生きすればするほど困ることになる。

この年になって初めて、これまでの人生で経験したことのない切実な不安に直面している。
(略)・・》
注)引用元『文藝春秋』2月特大号の216、217ページ
  村上 龍(むらかみ・りゅう)氏の『老後への覚悟を持て』
  引用させて頂いた原文にあえて改行を多くした。
          

このように氏の長らく執拗に引用してきた私の理由のひとつとして、
私は東京郊外の農家で1944(昭和19)年に生を受け、
小学4年生の頃から映画好きな映画少年、高校生に突然に読書の底知れぬ魔力に取りつかれた。

やがて私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋に大学を中退し、
アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、あえなく敗退して、
やむなくサラリーマンに転進する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだ後、
何とか大手の民間会社に中途入社出来たのは、1970(昭和45)年の春であった。

音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、
外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
この新しいレコード専門会社に情報畑、管理畑、営業畑など35年近く勤め、
定年退職を迎えたのは2004(平成16)年の秋であった。

このようにサラリーマンの生活をしてきたが、もとより一流大学を卒業され後、
大企業、中央官庁などに38年勤め邁進し栄達された世にいわれているエリートとは、
遥かに遠い平凡な道を歩いたりしてきた。

その上、たまたま私が勤めてきた音楽業界は、
1970、80年代はそれぞれのレコード会社は躍進したが、
1990年代を迎えると、特に外資系は、世界市場の中でアメリカに続いて、日本が第二位となり、
抜きん出た市場となり、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

そして1998年に売上の主軸となるCDがピークとなり、この少し前の年から
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社で30年近く勤めいたが放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の晩秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。


私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、年金生活をしている。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


私の現役時代は、サラリーマンの身であったが、もとより生計の責務もあり奮闘する中、
30代の半(なか)ばに一軒家を建て、
この後3年ばかり家内はデパートなどに勤めて、強力な支援を受けたが、
家内は後方支援として家庭の多岐に及ぶ専業主婦として長らく努めてきた。

私たち夫婦の年金生活後も、家内は洗濯、掃除、料理などしているのが現状であり、
せめて日常の買物ぐらいは、私がすると自主的に実行している。
このことの背景には、私の現役時代の平日は会社で勤務し、
この間の日中は家内のペースで家事、趣味を過ごしてきた。

こうした家内の生活リズムをできる限り崩したくなかったので、
私は独りで買い物、散策をしている。


年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、本年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。


このような年金生活をしてきたが、果たして私より15歳ぐらい齢下の諸兄は、
どのような定年までの歩みを歩かれるか、と私なりに思考させられたのである・・。

私たちが過ごしてきた1990年にベルリンの壁が崩壊する前は、
真摯な働けば多くの日本人が、総中流家庭が実感でき、明日に希望を託すことのできる時代で、
主人は収入の責務の基で奮闘して働き、
多くの主婦は子供の育成も含めた家庭の多岐に及ぶ後方支援として専業主婦が多かった。
そして昭和妻と称せられた家庭内の専守防衛長官でもあった。

1989(平成元)年11月年にベルリンの壁が崩壊された後は、
かってソ連、東ヨーロッバの諸国も自由経済に変貌し、世界経済が激動し、
日本経済も余儀なくされてきた時代となった。

昨今の日本の家庭では、もとより昭和妻のような専業主婦は殆どなく、
短期に成果を求められる現役世代の諸兄諸姉の職責など、
私なりに少し学ぶと、過酷な時代、と感じたりしている。

こうした中で、長らくデフレを放置してきた財務省、日銀など責任、
そして企業は世界の自由経済の荒波に対処するために、短絡的に多くの社員をリストラしたり、
契約社員、アルバイトのような形態の増大を図ってきた。

この結果、殆どの男性サラリーマンの社員は、果敢に奮戦しても、
私たち世代の前後の人々の多くが体験できた年代に応じて年収が増大する時代は、
遥かに遠のき、家庭内で妻を専業主婦となることは、
夢物語のひとつとなり、社会に多大に影響しているのが、平成の時代となっている。


もとよりベルリンの壁が崩壊してから、ここ20数年、
世界の各国で社会的や経済的などが連関して、旧来の国家や地域などの境界を越えて、
地球規模に拡大して様々な変化を引き起こす『グローバリゼーション』となっている。

こうした中で、経済全体として供給過多・需要不足が起こって物価が低下してきた。
そして商品価格が低下し、生産者の利益が減り、利益が減った分だけ従業員の賃金が低下してきている。

企業の立場からすれば、利益が減ると雇用を保持する余力が低下するので、やがて失業者は増大する。
或いは従業員と家族は、減った賃金で生活をやりくりしようとするため、
あまり商品を買えなくなる購買力の低下となる。

こうした結果として、商品は売れなくなり、生産者は商品価格を引き下げなければならなくなる。
そして物価が下がっても、名目金利は0パーセント以下に下がらず、
実質金利が高止まりし、実質的な債務負担が増す時代となっている。

こうした状況となり、債務負担を減らすために借金返済を優先する企業や個人が増え、
やがて設備投資や住宅投資が縮小される。

その結果として、投資の縮小は総需要の減少へつながり、物価の低下をもたらし、
果てしなき悪循環の『デフレスパイラル』の時代となっている。

こうした『デフレスパイラル』のもとで進められた国家によるサービスの縮小、
そして大幅な規制緩和による市場経済重視する新自由主義と命名された『ネオリベ(ネオリベラリズム)改革』により、
世界の主要国も混迷している時代が今日の状況となっている。

こうした中で、日本は政治は混迷、経済は低迷、そして社会は劣化するばかりで、
私は専門知識にも疎(うと)く、齢ばかり重ねた無力な身ながら、憂いたりした。


私たちの世代は50代の時に数多くサラリーマンがリストラの烈風を受けながら、
私は何とか定年退職時まで勤め、サラリーマンの生活を卒業できたが、
私たちの世代の下は、何かと過酷な勤務状況下となっている現実である・・。

このような思いで、今回、村上 龍(むらかみ・りゅう)氏の『老後への覚悟を持て』と題されて寄稿文を私は精読し、
氏の原点の『55歳からのハローライフ』(幻冬社)を読みはじめている・・。
          
氏のあとがきに明記されている《・・「悠々自適層」「中間層」「困窮層」、それらを代表する人物を設定した。
だが、すべての層に共通することがある。
それは、その人物が、それまでの人生で、誰と、どんな信頼関係を築いてきたかということだ・・》
このような概要であるので、つたない半生を歩んできた私でも購読したのである。

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早春の花の便(たよ)りは、過ぎし日の旅先でめぐり逢えたひとときを思い馳せ・・。

2013-01-15 14:23:28 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む68歳の身であるが、
昨日は雨が予測されていたが、予期せぬ雪が降り、
今年初めての雨が初雪に変貌して私は戸惑ったりした。

10センチたらずの積雪となったが、我が家の小庭はこの時節は隣接の賃貸マンションの影響で、
半分ほど陽陰となっているので、今朝も残り雪の情景が大半となっている。

こうした情景の中で、白梅、紅梅の莟〈つぼみ〉も固く、数週間過ぎれば花が咲くかしら、
とぼんやりと思ったりした・・。

そして不意に過ぎし日の旅先でめぐり逢えた早春の花が、
私の脳裏から泉のように湧きだして、『まんさく』、『水仙』、『梅』、『菜の花』の花が、
私の心に占めたりした・・。


過ぎ去り2006〈平成18〉年2月下旬に、浜名湖の奥まった所に猪鼻湖があるが、
この湖畔沿いに幾つかのリーゾト・ホテルが点在し、この中のひとつに三ケ日温泉があり、
私たち夫婦は家内の母を誘い、3人で5泊6日の温泉滞在の旅路をした。
もとよりこの地方は、奥浜名湖と呼ばれ、古くから人の営みが刻まれた歴史のある地域でもある。

この数年前の2004〈平成16〉年の秋に私は定年退職を迎え、
この直前に家内の父が病死したので、独り住まいとなった家内の母を誘い、
私たち夫婦と幾たびか旅を重ねてきた。

そして温泉のある観光ホテルに宿泊して、周辺を散策したりしてきたが、
たとえ行楽地を訪れても、私は男性の60代であり、家内たちの行きたい所と違い、
私は別行動をして日中のひとときを周遊することが多いのである。


この旅の間に、たまたま三人で『龍潭(りょうたん)寺』を訪れた。
          
横道から入ると、本堂の外れに受付を済ますと、お香の香りが漂ってきた・・。

鶯張りの二間程の廊下を歩き、座敷の客間、仏間を観たりしたが、お香をたいている様子がなく、
この本堂全体が障子、襖(ふすま)、壁に香りがついていたことに気付いた。

本堂の前の庭園の白梅、しだれ紅梅、そして南天(ナンテン)の樹木の景観に心を奪われた。

その後、小堀遠州の作と知られている庭園は、東峰、中峰、西峰の三つの築山を設けており、
東西に心字を縁取った池が流れて、幾多の石組みの枯滝を配し、臨済宗の伝統を引き継いでいた。
          
確かに景観は裏打ちされ、どなたが観ても満足させる庭園である、と私は感じたりした。

そして『龍潭(りょうたん)寺』は道路から一歩入ると、
山門までの長い道の後、仁王門、境内の庭園、そして本堂に続く情景に瞬時に魅了させられたりした。


この二日後、私は里山を切り開き、起伏の斜面には紅、濃いピンク、淡いピンク、そして純白の花びらをつけた梅の樹木が、
この公園の一面を染めていた所を訪れた・・。
           
                    
その脇には水仙が咲き、松林の近くに菜の花が咲いていた・・。
          
旅先に於いて、偶然にこのような光景に出会うと、得も知れなく心を満たしてくれる。

小雨降る中、私たち三人は観光船に乗り、浜松市が市制60周年の記念として、
動物園とフラワー・パークをこの里山の一角に創設した処に、
家内たちは動物園に行き、私はフラワー・パークを訪れた・・。

雨の降りしきる中、傘をさして、デジカメを首に掲げ、散策した。

里山の起伏を下りかけた時、不意に黄色い花が目に止まり、
近寄ると、若樹の『まんさく』が雨の中、咲いていた。
               
まんさくの大木はよく見かけるが、こうした5メートル前後の樹木は、私は初めてである。

この若樹が三本程、起伏の斜面を彩っていた。

こうした光景は、数年過ぎた頃に不意に想いだされると思う・・。

私は、のちのおもいに、かと呟(つぶや)いたりした。
             

何のとりとめなく自在に散策し、身をゆだねていたが、
やがて雨が強く降ってきたので、屋根のある休憩所のベンチに急いだ。


このような旅先のひととき、不意に早春の花が思いだされたのである。

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東京の調布市に住む私、今年初めての雪が舞い降り、どうしてこの日なの、と戸惑い・・。

2013-01-14 18:14:48 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む68歳の身であるが、
昨日は風もなく冬晴れの穏やかな天候に恵まれて、
私たち夫婦は私の妹とふたりと共に、母の命日のお墓参りをした・・。

そして明日の14日の『成人の日』は、日中は雨が予測され、
成人を迎えた若き諸兄諸姉は一生にたった一回の『成人の日』の祝いに参列するのに、
お気の毒と私たちは話したりした。
そして何よりも親御さんが、我が息子、娘の晴れ姿を冬晴れの風もない中で、
迎えたかったであろう、と話したりした。

今朝7時過ぎに私は起床すると小雨が降っていた。
この後、地元の天気情報を視聴すると、朝の6時は5度、昼下がりは5度、そして夜の6時は4度、
日中は雨の一日となり、昼前後は強く雨となります、
と報じられ、私は今年初めての雨の降る日で、気温はほぼ横並びかょ、と苦笑した。

この後の9時過ぎになると、雨降る中に雨は白っぽい視えて、霙(みぞれ)かしら、
と私は感じ、やがて霙(みぞれ)から雪が舞い降りてきた。

『XXちゃん・・雪が降ってきたょ』
と私は家内に知らせた。

そして家内は窓辺から小庭を眺めて、
『今年初めての雪・・成人の日なのに、お気の毒・・』
と家内は私に言ったりした。

『そうだよねぇ・・寄りによって成人の日なのに・・』
と私は戸惑いながら、小庭に降りしきる雪を眺めたりした・・。


その後の私、読書をして3時過ぎ、相変わらず雪が舞い降り、
私はたわむれにデジカメで、雪化粧したような情景を撮ったりした。
      

そして3時半過ぎに雪は止み、やがて小雨が降ってきた。

4時半過ぎに、雪が凍結して明日の状況が心配となり、
私は玄関の軒下から門扉まで、10センチ足らずの積雪の雪かきを始め、
そして家内も支援に駆けつけて、私たち夫婦は垣根に隣接した市道の前後の小道を50メートルばかり除雪したりした。

私たち夫婦は思いがけない雪景色、そして雪かきをしたりしたが、
もとより成人を迎えた若き諸兄諸姉は、突然の雪で戸惑われ可哀想に、
とこのような意味合いの言葉を私たちは言ったりしながら、
私は少し腰が痛いねぇ、と私は苦笑したりした。

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天上の母に私たちは守られて、幾たびか年を重ね、早や丸15年は過ぎ去り・・。

2013-01-13 16:02:16 | 定年後の思い
私の母の命日が近づくと、私たち夫婦と私の妹の2人で、
この時節に4人でお墓参りをしているのが、恒例となっている・・。

私の母は、婦人系の癌で入退院を3年ばかり繰り返した後、深夜に亡くなったのは、
1998(平成10)年1月13日のことであり、私は53歳の時であった。

少し前の年末に体調が悪化して、入退院をしていた都心の広尾にある日本赤十字の病院に救急車で運び込まれた。
年始を過ぎると、医師より危篤状態が続いていると教えられたので、
私は会社に於いて勤務していた時は、何かと少し緊張気味で覚悟はしていた。

こうした中、12日に会社より帰宅し、家内と夜の9時過ぎに食事し、
平素は弐合徳利で辛口の日本酒を呑んでいた私は、
さすがに自重して、ぐい呑みで少し呑んだりしていた。

まもなく10時過ぎに長兄より連絡があり、母の容態が更に悪化した、と聞いたりし、
長兄夫婦、そして私たち夫婦は長兄の自動車で病院にかけつけた。

母は少し息苦しいそうであったが、何よりの慰めと思ったりした。
そして私にとって甥にあたる長兄の二人の青年も、まもなく到着したり、
妹のふたりも着き、深夜の1時過ぎに、私たちに見守れる中、
母は78歳になって、わずか11日ばかりで他界した・・。

この後は13日からは私の生家である実家の長兄宅で葬儀が始まった・・。


私の祖父と父は、農家で程ほど広い田畑を使用人、小作人を手を借りて耕し、
雑木林、竹林などがある東京郊外のよくある旧家であった。

私は長兄、次兄に続いて1944〈昭和19〉年の秋に生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私は幼児なりに感じ、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

1953(昭和28)年の3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。

祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、翌年の1954(昭和29)年の5月に亡くなった。

どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚の叔母ふたり、
そして長兄は小学6年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。

このような生活苦の中で、もとより母、そして父の妹である叔母が嫁ぐまて、
私たち兄妹は育てられ、やがて成人したのである。


13日に『仮通夜』をした翌日の14日には『本通夜』の日であったが、
朝から雪が降りだして、ときおり風も吹き、この地域として稀(まれ)に15センチぐらいの積雪となり、
公共交通機関にも影響をもたらしたので、私は会社関係の方たちに辞退の連絡をしたりした。

親戚、知人、近所の方々に雪が舞い降り、風も吹き荒れる中に来宅して頂き、
私たち親族は恐縮しながら、出迎えたりした。

そして翌日の15日の告別式は、まばゆい快晴の青空となり、雪解けの中、火葬場に行ったりし、
帰宅後、『初7日』が行われ、忌中(きちゅう)の法事を終った。

そして、『四十九日』の法要の日、ときおり雪が舞う寒い日となったが、
『お母さん・・私を忘れないでねぇ、と言っているように、雪が降ったりしている・・』
と私は本通夜の雪が降った情景に思いを重ねて、妹、そして叔母に微笑みながら言ったりした。


そして『百日』、『新盆』の法事が過ぎて、
その後は『一周忌』、『三回忌』、『七回忌』、そして一昨年の『十三回忌』の法事があった。

この法事以外は、この間に私たち夫婦と妹で、命日が近づくとお墓参りをしている。
長兄も多忙で、そして長兄の子の青年たちを含めた家族のスケジュールこともあり、
別にお墓参りをしているので、
何となく私達4人は、お互いに日取りを調整して、お墓参りの後、
付近の食事処で昼食をしながら懇親会を重ねてきた・・。

最初の頃は、お互いに勤めていたので、命日の前の休日が多かった。
そして私は60歳を過ぎて定年退職になったり、やがて数年過ぎた後は妹のふたりも60代となった。
たまたま本日は妹のひとりの関係で、母の命日の日となった。


私たちはお互いに幼年期より『ちゃん』付けで呼び合っているので、
ビール、日本酒、ワインなどを呑みながら昼食を頂き、
『XXちゃん・・あの時は・・』
と話しかけたりしている。

そしてお互いに思いだすように、
『あの時・・お母さんは・・このように言っていたよ』
と言ったりしている。

このように私達は、幾つになっても、亡くなった母に見守られて、今日に至っている。

私はこの時節になると、自宅などで雪を舞い降る情景を見つめると、
『私を忘れないでね・・』
と母のおもかげと共に声が聴こえたように思い、
心の中で『おかあさん・・』と呟(つぶや)いたりする時もある。


本日、私たち夫婦は妹の2人と駅前で、母の命日に際してお墓参りをする為に、待ち合わせをした。
予定時間に集合し、近くの寺院に向ったが、
この時節としては、風もなく暖かな陽射しに恵まれた。

曹洞宗 雲松山泉龍禅寺であり、通称『泉龍寺』

境内は広く数多くの大木があり、冬枯れの情景で静寂であった。

お墓に行き、私たちは墓石を水で清め、生前の母が好きだったお花を挿し、
お米を備え、母の好みであったお線香を奉げた。
そして紫煙は香りを残しながら、ゆったりと青空に向かい昇っていく・・。

花の匂い、お線香の香り中、もとよりお墓参りは生者の慰めと知っているが、
亡くなった父と母、そして祖父に守られ、
こうして私は生きてこられてきたのであるので、私は感謝の一心で、手を合わせたりした。

生前の母と家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。

この後、母のおもかげがよぎっていった。

私の場合は、父が私の小学校の2年の時、
そして一年後に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

このためか、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、言葉づかいが想いだされる。

『命日のお墓参り・・このように風もなく暖かい時・・よかったよねぇ』
と私は妹に言ったりし、
お線香の煙が芳香を残して、澄み切った青空の中、立ち昇りながら消えいくのを見たりしていた・・。


この後、予約していた日本料理店で昼食を頂きながら、
私たち4人は、お互いに談笑し、懇親したのであった。

そしてお互いに過ぎ去ったこの一年の出来事のこぼれ話しなどを、
微苦笑しながら私は妹のふたりに話したりした・・。


私は昨年に68歳となり、妹は66、64歳であり、家内も63歳の身であるので、
心身健在であればこそ、こうして母の命日に近い日に、
お墓参りをしたり、その後は昼食を兼ねて懇親できるのである。

私の現役時代の50代の時、私と余り変わらない齢の同僚の方が亡くなったり、
先輩の方の中で、60歳を少し過ぎた時、突然に訃報に接したりしてきたのである。
その上、一昨年には私と余り変わらない65歳、或いは59歳の知人も死去された・・。

このような体験もあり、いつこの世と告別するか、
もとより天上の神々の采配によるので、私は1日を大切にし、切実に過ごしたりしてきた。

この後、私たちは日本料理店を辞した後、駅まで5分ばかりの道を歩きながら、
『毎年・・こうして・・10年先まで・・逢えるといいね・・』
と私は妹の2人に言ったりしたのであった。

『そうよねぇ・・お互いにねぇ・・』
と妹のひとりが私に微笑みながら言ったりした。

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『ブログ通信簿』、果敢に受験した結果、つたない私でも微苦笑させられ・・。

2013-01-12 13:24:47 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
民間会社を35年近く奮闘して定年退職を2004(平成16)年の晩秋に迎え、
まもなくしてブログの世界を知り、色々のブログ・サイトに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005(平成17)年の新春に加入した。

この間、他のブログ・サイトに夢中になり、二度ばかり中断したが、
2008(平成20)年の5月以来は継続し、今日に至っている。

結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿し、
ブログ歴は9年生となっている。


先ほど、【gooラボ】のサービスのひとつとして、
『ブログ通信簿サービス』があり、こっそりと受験をした・・。

《 このブログ通信簿は、あなたのブログを分析し、通信簿を作成するサービスです。
早速、あなたのブログのURLを入力して通信簿を作成してみましょう。 》

そして、この前提条件としては、
《 通信簿は最新記事10件から分析されるため、内容により結果は変わります。
  本サービスは、ブログを楽しくご利用いただくための試みであり、
  ブログや作者個人を評価するものではありません。 》

このように明記されたので、私はブログURLを入力した・・。


そして、下記のように『私のブログ通信簿』が表示され、
私は小学・中学生の時は、学業の通信簿は『2』と『3』の多い劣等生だったので、
このような結果になったのかしら、と微苦笑したりした・・。


☆【ブログ性別とブログ年齢】・・採点の私の結果・・『男性』、『51歳』
 
私は投稿文には殆ど68歳と明記しているが、ご近所の奥様たちの多くから、
貴方はお歳よりお若いわぁ、とおだてられているので、このせいかしらと思ったりした。
しかしながら私の顔写真は、このブログサイトに恥ずかしくて掲載していないので、
やはり投稿内容、そして感性が若いかしら、と微笑んだりしたのである。


☆【主張度】・・・採点の私の結果・・『1』
《 主張度は、ブログにどれだけ自分の意見や感情などを書き込んだかによって決まります。
  「5」が最もこのような傾向が強いことを表します。》

私の投稿文はここ一年ぐらいは少し抑制して綴ったのかしら、と苦笑した・・。
私は政治、経済などで、余りにも心の節度が欠落した言動を新聞で読んだり、
或いはテレビのニュースを視聴した時、
過ぎし民主党の鳩山政権の時は、園児のような言動、管政権の時は高校の生徒会のような言動、
と元気よく投稿したことがあったが、糠(ぬか)に釘(くぎ)のような結果となり、
時間の浪費と思い、その後は政治の話題を減少させたので、こうしたことが影響しているのかしら、
と苦笑したりした。


☆【気楽度】・・・採点の私の結果・・『1』
《 気楽度は、ブログの中にある、ポジティブな表現とネガティブな表現との比率によって決まります。
 例えば、「楽しい」などポジティブな内容がたくさん書かれている場合は「5」になります。》
 
私は真摯に綴り、ときには楽しく投稿文を認(したた)めているが、たまたまこのようなことが反映されたと思う。
しかしながら私は、平素に於いて、中年以上の女性のしぐさ、表情、そして言葉が何よりも「ときめく」ので、
ご近所の奥様たちとの私のさわやかな会話を綴れば、少なくとも『4』以上は自信ある。


☆【マメ度】・・・採点の私の結果・・『4』
《 マメ度は、ブログの更新頻度によって、判定されます。更新頻度が高くなると「5」になります。》

日に少なくとも1通は投稿し、駄文が多く恥ずかしい限りであるが、単純に反映されただけである。


☆【影響度】・・・採点の私の結果・・『2』
《 影響度は、あなたのブログがどの程度引用されたかを統計処理して算出されます。最高が「5」です。 》

私は幾つになっても人生の不勉強で、確固たるテーマで文章修行をして、
心の深淵まで表現しなさい、と解釈している。


☆☆【通信欄】
《 主張度、気楽度、マメ度、影響度から総合的に判断しています。
  また、「話題」や「目指すべき職業」も文書の内容から推定しています。 》

私の採点の私の結果は、『あなたは「保健委員」タイプです。
そのマメさで、どんな仕事もこなせるでしょう。
もっと自分の意見を言っても、ものごとの良い面にも目を向けましょう。
詩人を目指しましょう』このように明記された。

「保健委員」タイプとは私として思いがけないことであり、
遠い昔の50数年前の高校時代に於いては、風紀委員をして、ある一時時期に毎朝校門の脇に立ち、
登校してくる同級生などの服装をチエックする立場であった。

しかし、可愛い女子生徒の表情、しぐさに見惚(みと)れることが多かったので、
もとより委員失格だ、と微苦笑している。

定年退職後の年金生活の今としては、詩人より、
年に数回ぐらいは、心の深淵まで表現した随筆を書きたい、と思ったりしている。


今回、齢ばかり重ねた私は、『ブログ通信簿』を恥ずかしながら授与したが、
たかがブログ、されどブログ、深い世界であると思いながら、微苦笑している。

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健康の源は、程ほどの食べ物を頂き、薬などに頼らず、何よりも熟睡こそ肝要・・。

2013-01-11 17:15:13 | 定年後の思い
私は一昨日朝5時に目覚め、私は少しぼんやりとしていた。

私の住む東京郊外の調布市は、この時節の日の出は7時前の6時50分頃なので、
夜明け前の薄暗く、少し目覚めが早かったかしら、と微苦笑している。

私は民間会社に35年近く勤め定年退職した2004〈平成16〉年の秋の後は、
起床は日の出前、とモットーとしてきたが、ときおり不規則になることもある・・。

私の主な原因は、随筆、ノンフェクションなどの本に夢中になって、
ときには深夜まで読んだりして、眠い朝を迎えたりすることもある。

こうした時、午前中に買物、散策をした後、
昼下りの2時過ぎに、和室の寝室の布団にもぐり、障子に陽射しを受ける中、
本を読みながら、一時間半ぐらい寝てしまうこともある。

そして目覚めると、この世で一番贅沢なことと思いながら、と甘受している。
しかし、こうしたことは年金生活の自在の身だからできることなのである。


私が若き日の23歳の頃は、映画・文学青年の真似事をしていた時、
アルバイトのように心情で、契約社員として警備員をしていた時もあり、
ある勤務地に派遣されて、2人で48時間の交代勤務をした体験がある。

たとえば私が朝の9時に出勤し、相手方と1時間ばかり互合確認した後、
相手方は退社し、私は警備室で朝の10時から翌日の朝の9時まで責務の時間となる。
この間、毎一時間ごとに10分前後で巡回をすれば、
残りの時間の警備室で自在の勤務帯となるので、文学修行の時間帯とした。

このような勤務をしていると明け方の3時頃が眠くなり、
少し10分ぐらいウトウトする程度で、日の出の前の夜明けを待ち焦(こ)がれたりした。

こうして勤務していると、何よりも困苦したのは、
相手方が冠婚葬祭で休暇となり、私は2日分の48時間を勤務し、
眠れない過酷な勤務となったことである。

この当時の中小業の警備会社は、大半の自由な時間なことがあるが、
このようなハードな勤務体制があったりし、そすがに若さを誇っていても身体が順応できず、
私は10ヶ月ばかり勤めた後、退社した。


この後、私は映画・文学青年の真似事を敗退した後、
民間会社に中途入社して、正社員として奮闘していた。
情報畑でコンピュータを活用し、運営・開発をしていた業務が20数年したりした。

こうした業務は数年ごとにシステムの改定をしたり、全面改定の開発業務になると、
徹夜勤務をして、連続勤務30時間前後はたびたびしたが、
もとより確かな先の見える正社員であり、達成感の悦びが加わり、奮闘したりした。


昨今、この世は健康第一と、食べ物、薬などが大いにもてはやされている・・。
もとより超高齢化の社会なので、長寿の命題でこのような風潮となっているが、ときおり私は苦笑する・・。

私は健康の源(みなもと)は、程ほどの食べ物を頂き、栄養補給剤の薬に頼らず、何よりも熟睡こそ肝要で、
そして生きがいのある言動をしていれば、
たとえ齢を重ね体力が衰えても、心身は溌溂(はつらつ)と確信している。

そして私は定年後、風邪ぎみの時は、病院などに行かず、早めに布団にもぐり、
本を読み、そして睡眠時間を多めにしている。
これは年金生活の自在の身だからできることなので、
この世で一番贅沢なことと確信しながら、と微苦笑しながら甘受している。

こうした中で、我が家の平素の買い物は、私が年金生活を始めて以来、私は自主的に専任担当となり、
近くのスーパー、駅前のスーパー、専門店などに出かけて孤軍奮闘したりしている。

そして恥ずかしながら我が家は自動車もなく、
私は根がケチなせいか、路線バスには乗らず、ひたすら歩くことが多い。

或いは買物の責務を終えた後、遊歩道、小公園などを歩いたりしている。
             
もとより人は歩くことが出来なくなったならば、寝たりの身となることが多く、
私としては最悪のケースとなるので、
平日の好きな時に散策できるなんて幸わせだ、と心に呟(つぶや)きながら甘受している。

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この広いブログの世界の下で、偶然にめぐり逢えた好感するサイトとは・・。

2013-01-10 16:01:38 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
民間の中小業に35年近く勤め2004(平成16)年の秋に定年退職した後、
私の半生は屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・と思いながら
直ちに年金生活にして、身過ぎ世過ぎの日常生活を過ごしてきたが、
私は随筆、ノンフィクション、現代史などの読書に続いて、文章を綴るのが好きである。

退職してまもなくして、偶然にブログの世界を知り、
日々に感じたこと、或いは思考したことを心の発露としてあふれる思いで、
原則として少なくとも毎日1通は投稿し、綴ったりしてきた。

投稿の内容は、定年後の身過ぎ世過ぎの年金生活の日々の思いはもとより、
過ぎ去った幼年期から定年退職するまでを余すことなく綴り、投稿を重ねてきた・・。

このように私はパソコンが故障、或いは国内旅行をしていない限り、
毎日投稿をしてきたので、少なくとも定年退職後の丸8年過ぎた日々の思いは、
私の日常の証(あかし)のひとつでもある。

そして私はブログサイトを5つばかり彷徨(さまよ)い、この【gooブログ】に一本化して、
早や3年となっている。


こうした中で、数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
私は励まされたり、微笑んだりして、年金生活を過ごしたりしてきた。

私はブログを投稿する際、最後までお読み頂けるように工夫したり、
その上に数多くの方にお読み頂けるように、試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでもブログをされている方は、数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
この当初は150万人の加入数いたので、
私は誰からも読まれなく無視されることは、悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。

こうした意味合いからのひとつの目途として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたないなりにブログの体験上で学んできた。

そしてあるブログのランキングに加入したりしてきたが、
2008〈平成20〉年の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了されていたので放置していたが、
その後、過ぎし2010〈平成22〉年の秋に、ブログのランキングの『にほんブログ村』に、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて再加入した。

そして、少しばかり加入ジャンル部門を彷徨〈さまよ〉った上、
小説系の『エッセイ』、シニア系の『60代』に加入し、ランキングを少しばかり気にしたりしていた。


こうして『にほんブログ村』は、早や2年半近くになっているが、
この間に長く私が魅了されて、深く愛読しているサイトがある。

もとより『にほんブログ村』の加入数はこの当時は64万人以上、
この中の小説系は12,000人、シニア日記系は1,200人は超えているので、
たまたま私が読んで魅了されて、少なくとも半年以上に及び愛読してきたサイトであり、
恥ずかしながら公表すれば、この私のサイトの【ブックマーク】に一年前から明示した。

いずれも小説系の『エッセイ』、『コラム』、そしてシニア日記系の『60歳代』で、
魅了されたサイトをご本人のご承諾も得ずに、勝手に掲載させて頂いている。

そして素直に発露すれば、『にほんブログ村』の『お気に入りメンバー』の機能があり、
私は少なくとも男性30名、女性25名を登録して、この方の投稿された愛読者のひとりとなっている。

そして私の『お気に入りメンバー』の方が投稿された文を精読して、
このように日常生活を過ごされている、或いは人生の思いを深く学んでいる。


このような意味合いからして、たかがランキング、されどランキングと思いながら、
この広い空の下で、たまたまランキングなどで未知のお方に、
投稿文の上で、めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そしてこうした中で、コメントを頂いたり、
或いは私は数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感きわまってコメントをしたりしている。

こうした心情で過ごしてきた私は、昨年の秋の頃から私の投稿文の内容の殆どは、
政治・経済・社会に関して綴ることは激少し、
年金生活を過ごしている中で、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴っている・・。

しかしまぎれなく私は68歳の身であり、真情としては50代~70代の世代の投稿文を深く読むことが多く、
小説系の『エッセイ』の加入を取りやめて、シニア系の『60代』にすべて集約することにした。
このことは小説系の『エッセイ』の投稿文を読む時間を減らしたく、
私と近いシニア系の『シニア日記』、『60歳代日記』の投稿文を読む時間を増やしたく、
年金生活の私でも、時間に限りあるので、決意した。

そして偶然に私が数多くの方の投稿文を読ませて頂く中で、『お気に入りメンバー』の男性30名、女性25名以外で、
何かしら隠れキリシタンのように、ここ3カ月ぐらい熱読しているサイトが少なくとも3名の方がいる。
http://tethuou.blogzine.jp/blog/
☆【 薪ストーブと高齢者の日々 】☆

http://10pora.blog70.fc2.com/
☆【 天真爛漫ちゃらんぽらん  】☆

http://photolike.blog19.fc2.com/
☆【 My Photo Booth 】☆

齢ばかり重ね幾つになっても独断と偏見の多い私は、好感するサイトは、
日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、
淡々と綴られているのに圧倒的に感動を覚(おぼ)える。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感銘させられたりしている。

そして本、映画などの批評、小説、詩、短歌、俳句などの創作に於いて、
その人なりの独創性にあふれた投稿文に接した時、震(ふる)える程、感銘を受ける。

私が険悪するのは、芸能人に関する話題を表示する方達である。
例えば、音楽のアーティストの歌に関することは芸の批評は良好であるが、
私生活の話題を投稿するのは程度の低い週刊誌と同様である。

私は若き頃に映画、文学青年の真似事をして敗退し、
そして定年退職時まで35年近くあるレコード会社に勤めた身であるが、
芸能人の私生活の話題をする時間があったら、
ご自身の日常生活を大切にする時間に当てて欲しい、と思っているからである。

私が困惑するのは、日常の生活の不満を何時も落書きのように投稿される方、
ご自身が余り投稿されないのにログ廻りばかりに専念される方、
そして大手メディアの文章を毎日転載されている方のサイトである。

尚、私は犬、猫などの動物は苦手なので、
こうしたサイトはなるべく読むことは避けている小心者である。

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ときには旅行スーツケースを買い改めて、私は微苦笑を重ねて・・。

2013-01-09 16:19:45 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
家内と共に『旅行スーツケース』を買い求めに朝の10時半過ぎに出かけた。

私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であり、特に定年退職後の年金生活を過ごしていると、
現役のサラリーマン時代と違い、日程の制約を配慮しなくてもよくなり、
7泊8日前後の旅行を幾たびか旅行をしてきた。

こうした時に旅行スーツケースを伴い、旅を重ねてきた。
私が使用している旅行スーツケースは、私の現役のサラリーマン時代に於いて、
1998(平成10)年の5月に会社が主催した『ハワイ 社内旅行』に5泊6日で行った時に買い求めたものである。

この当時、私はビジネスバックとして名高いサムソナイトのブリーフケースを愛用していたので、
旅行バツクの売り場で、サムソナイトの長方形したバックに瞬時魅了されて、購入した。

これ以来、家内との国内旅行でも愛用していたが、3泊4日ぐらいの旅行だと申し分ないが、
これより長期になると、やむなく宅配会社の段ボールを買い求めて、
宿泊先の観光ホテルなどに宅配便を利用して送付したりしていた。

そしていつの日にか大きな旅行スーツケースを買い求めて、
従来の段ボールの代わりに宿泊先の観光ホテルなどに宅配便を利用して送付しょうと話し合ってきた。

そしてある大手の宅配便会社は、通常の宅配は縦と横と幅は160センチ以内と規定があるので、
家内はメジャーを持参して、本日『旅行スーツケース』を買い求めに私たち夫婦は出かけた。


旅行スーツケースの売り場で、幾つかのスーツケースを見て、
家内はメジャーを取りだして測定し、
『これだったら・・宅配便でも大丈夫だわ・・』
と家内は言い、私は福沢諭吉のお札が2枚で購入できたらよいなぁ、と思っていたので、
『このスーツケースは我が家として・・ピッタリだょ』
と値札18、800円を見ながら、小さな声で即同意した。

帰宅後、私は玄関は玄関に入れた後、
たわむれに添付されていた簡易説明カードを取って付けて、記念写真を撮った。

たまたま今回買い求めた旅行用のキァリーケースは、ヴァンテム社のLAシリーズの最新型で、Lサイズである。

そして、『TSA LOCK』を採用した製品と明記され、
《TSA LOCKは、いまやアメリカ合衆国(ハワイ・グアム・サイパン含む)にお出かけになる方の必需品です》
と明示されていたので、私は微苦笑したりした・・。


私たち夫婦は夫婦として、海外旅行にしたことのない稀(まれ)な人となっている。

私たちが国内旅行を思いたった時、最寄駅の前にあるJTBの旅行代理店に私たち夫婦が立案したプランを提示して、
数か所毎に滞在して夫婦の旅を重ねたり、
或いは独り住まいの家内の母を誘い、温泉地に滞在する旅行もしたりしてきた。

ときには団体観光で滞在型、そして周遊型も利用して、国内の名所も観たりしてきた。

過日、私の現役時代の友のひとりから電話を頂き、
夫婦でシンガポールの旅をしてきた、と話されていた・・。

この後の私は、海外かょ、と心の中で呟(つぶや)いたりし、独り苦笑をしたりしていた。


家内は茶事などの和事をし、過ぎし40代にはテニスなどをしてきたが、
何かと人見知りをする傾向である。
私は自分は照れ屋で小心者と思っているが、家内は物おじしないタイプと言っている。
このような不思議な夫婦でもある。

私は現役のサラリーマン時代に於いて、会社関係で台湾で台北のホテルで3泊宿泊したり、
ハワイのホノルルのヒルトンで4泊しただけの海外旅行の体験であるが、
家内には海外の情景を幾たびか話題にしていた。

特にハワイで夕焼け、星空を観せてあげたい、と思ったりしていた。

しかしながら家内は、国内の観光ホテルに連泊して、
露天風呂などに入ったり、食事を楽しんだりし、ゆったりと滞在するのを好んでいる。

私は英語などに関しては、単語を並べれば何んとかなる、と思っているタイプであるが、
海外で独りで周遊していた時、思いがけない交遊も出来たり、失敗も幾たびか経験したが、
それなりに思いでも深まるのである。

家内は言葉の問題、現地の治安に不安が先立ち、国内で色々と観るのが良いわ、と言ったりしている。


このように私は、いずれはと私は思ったりしてきたが、
ここ10年ぐらい世の中は、禁煙の風潮となり、私は愛煙家のひとりであるので、困惑している。
確か15年前の頃、台北、ホノルルに行った時は、機内で煙草が喫えた時代であった、
と思い浮かべたりする時もある。

国内の石垣島への4時間ぐらいの航空時間が私の心身の限度であり、
目覚めた時、食事後の喫煙は・・と思い馳せると、海外は遥かに遠い異国となる。
或いは機内の客室を完全分離し、通常料金の1割増で、強力ファンなどの設備で、
どちらかの航空会社が対応しないかしら、と妄想することもある。

こうした理由もさることながら、やはり異国を訪れるには、
その地の風土、そして歴史と文化を少しばかり学んだ上、周遊しなければ、
うわべだけで享受することになり、もとより深みも欠ける。

そして私は日本の各地の歴史、文化を学ぶだけでも、余裕もなく、
日本の四季折々の情景に魅了され、家内と国内の各地を訪れているのが、ここ40年近くになっている。

このように私たち夫婦は、海外の諸国は、まぎれなく異国と感じて、
テレビのドキメンタリー作品などで学ぶだけとなり、微苦笑ぱかりしている昨今でもある。


このようなことを思い浮かべ、今回買い求めた『Lサイズ』の旅行用のキァリーケースを見つめたりした。
そして今後の5泊6日以上の場合は、これまで宅配会社の段ボールを買い求めて、
宿泊先の観光ホテルなどに宅配便を利用して送付したりしてきたが、
今後は従来の段ボールの代わりに、宿泊先の観光ホテルなどに宅配便を利用して送付するが、
観光ホテルの担当者は、驚くかしら、と微苦笑したりしている。

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