夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ときおり『おひとりさま』になる私、平素の日常生活から大幅に変貌し、独り微苦笑して・・。

2015-11-13 14:57:03 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の老ボーイの71歳であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
こうした中で、家内は昨日の12日より2泊3日の予定で、独り住まいの家内の母宅に行っている。

私たち夫婦の両親は、家内の母だけとなり、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に病死され、
我が家より2時間は要する千葉県の八千代市で独り住まいの生活をされて、早や12年目となっている・・。
       
こうした中で、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、
ここ11年の恒例のようになっている。

そして家内は殆ど毎夜、家内の母の本日の出来事と安否状況を確認する為、
電話連絡をしている。
          

こうした上 家内の母は、80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、
『要支援2』となっている。

こうした中、整形外科、内科、眼科に通院している中、
過ぎし6月頃から膝(ひざ)と腰に激痛が感じ、
少し遠い大学病院で検査、そして入院、退院後の検査、治療が加わり、
家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなっている。

昨今は家内の妹も支援に加わって頂き、
以前のような7泊8日前後から短めの駐在期間となってきたが、
この間、私は我が家で『おひとりさま』の生活をしてきた・・。
          

私は家内より先に、あの世に行くことは漠然としながらも深めているが、
この世の中は、まさかの予期せぬ出来事に遭遇することがあり、
私を残して家内が先き立たつことも考えられるので、
『おひとりさま』の特別演習だ、と自身を叱咤激励して過ごしている。
        
しかしなが平素の私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行っているが、
食事、掃除、洗濯の手抜き簡略などに関しては、
このサイトで幾たびか記載してきたので、今回は省略する。

何よりも家内と共に過ごす平素の生活から、『おひとりさま』の生活をすると、
大幅にペースが変貌しているので、独り微苦笑する時がある。
          

平素は私は7時頃に起床して、家内と共に朝食を8時前後に頂き、
やがて一時間過ぎた頃、家内は、新聞に添付されているスーパーのチラシを見たりした後、
赤のサインペンで丸印を付けたりしている。

まもなくして、この赤丸が我が家の本日の必須の購入品とし、
あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めてくるのが、我が家の鉄則となっている。

このような我が家の平素の買物パターンで、私は独りで指定された最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。
          
こうした中で、過ぎし5年前の前の66歳の時に、健康診断で糖尿病と診断され、青色吐息となる中、
この後は、食事の改善とひたすら歩いて、やがて半年後には何とか克服してきた。

これ以来、糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
自宅付近から3キロ範囲にある遊歩道、小公園などをひたすら歩くことが多くなっている。

私は歩きながら、うつろう情景に心を寄せ、
過ぎ去った日々に愛惜を深めたり、本日もこうした風景にめぐり逢えたことに感謝をしたり、
季節の移ろいを享受している。
                                                                    
午後から夜の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

この間、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

そして私の入浴は午後5時半過ぎで、やがて夕食は7時半過ぎとなり、
家内と共に昨今の出来事などを談笑しながら頂いている。

こうしたことを定年退職後の年金生活のペースとして、
冠婚葬祭、懇親会、国内旅行などを除き、
早や丸11年が過ぎて、12年目となっている。
          

しかしながら『おひとりさま』の生活をすると、
朝食兼昼食となったり、ある時には夕食が夜9時半過ぎとなった時もあったりした。

そしてブログの投稿時もまばら時間となり、我ながら戸惑ったりした。

或いは午前中の買物は、二日に一回となり、大半は午後になったり、
散策もサボル時もある。

何より困苦してきたのは、 私は平素は亡き母の遺伝を受けて、男の癖におしゃべりで、
何かと家内と日中に談笑をしているので、
『おひとりさま』の生活をしていると、この世で一番気楽に話し相手がいなく、寂しいのが本音である。

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この時節、ぼんやりと目覚めて、ゆったりと過ごせるのは、何よりの贅沢のひとつ・・。

2015-11-12 13:54:24 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の老ボーイの身であるが、
未明時に2階の寝室で目覚めて、ぬくもりのある布団の中で、まどろんでいた時、
隣の布団に寝ている家内が起きだして、やがて1階の居間に降りて行った。

私は時計を見ると早朝4時であり、少し覚醒しながら、
家内は独り住まいの家内の母宅に介護で、2泊3日で出かる日だった、と思いだしながら、
ぼんやりと私も1階の居間に降りた。

家内は家内の母宅に行く時は、我が家の近くある路線バスの始発に乗車し、
やがて電車を乗り替えたりして遠方の千葉県の八千代市まで通ったりしている。

始発バスは6時であるが、慌ただしく準備することは家内は険悪しているので、
早め準備となっている。

この時節は私の住む地域は、日の出は6時15分頃であり、まだ暗く、
『5時頃まで二階で本を読んでいるょ・・何かあったら言ってねぇ』
と私は家内に言いながら、二階の寝室に向かった・・。

そして私は布団にもぐり、ぬくもりのある布団の中で、本を読んだりした・・。
やがて少しまどろんだり、好きな本を読み、
こうしている時、何より贅沢なひとときかしら、と感じ深めたりした。

5時15分過ぎに私たち夫婦は居間で朝食を頂き、
やがて6時5分前に私は玄関先から、そして門扉の近い道路に降り立って、
家内を見送りながら、
『お義母(かあ)さんに・・よろしく・・』
と明るく大きな声で家内に言ったりした。

そして私は薄暗い中、家内がバス停に向かう後ろ姿を見ていた時、
過ぎし年の定年退職前の出勤時を思い馳せてしまった・・。
          

私はあるレコード会社の管理畑の商品、情報、経理、そして営業畑などに35年近く勤め、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。
そして最後の5年半は、リストラ烈風の中、出向となった。

出向先は各レコード会社が、音楽商品のCD、DVD等を委託している物流センターであったが、
少し遠方の勤務地で、私の通勤時間は少なくとも1時間半は要していた。

それまでの私は、殆ど30年近く都心の本社勤めで、
9時半が始業時であり、私は8時過ぎに自宅を出て、45分前後の通勤時間で出社していた。

物流センターは実質8時から始業時であるが、
その前の事前準備などを配慮すると、7時半過ぎとなっていた。

この当時の私は、朝の4時45分に起床して、自宅近くの路線バスの始発6時過ぎに乗車し、
通勤の最寄り駅は、小田急線の『成城学園前』駅で、
この駅から下りの電車で『本厚木』駅まで利用した後、
そして路線バスに乗り継いで、各諸業種の物流倉庫が建ち並ぶ場所のある中、通ったりした。

このように今頃からの2月の頃まで、自宅近くのバス停は薄暗く、
冬至の頃には、小田急線の『新百合丘』駅付近の車内で、日の出を迎えたりした。

帰宅も夜の9時半過ぎが多く、睡眠不足で奮闘していた。
そして休日には、昼寝で補(おぎな)って、5年半ばかり体験した。
          

こうした体験期間があり、朝の目覚めた後、ぬくもり残る布団の中でゆったりと過ごせるのは、
私にとっては何より贅沢なひとつ、と微笑んだりしている。

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白内障の手術の一週間前、診察を受診し、何かと小心者の私は緊張して・・。

2015-11-11 16:01:45 | 白内障
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活11年生の71歳の身であるが、
昨日の午後、本降りとなった雨の中、家内と共に、
最寄駅の近くに眼科専門医院に向かった。

過ぎし9月30日に於いて、白内障に伴う検査を受け、
手術日は左眼は11月17日、そして右眼は一週間後の11月24日と決定したが、
手術の一週間前の11月10日には、最終診察と手術の時間確定をする、
と医院長から言われていたので、私たち夫婦は眼科専門医院を訪れた。


やがて受付で、前回に依頼されていた『合意書』、
私が内科に通院している内科医院長の『承諾状況書』、
そして『アレルギー問診書』を提出した。

まもなく私は2階の診察室で多彩な眼の検査を受けた後、
1階の待合室で待機している家内を、麗しい看護師さんに私は呼んで頂くように、
依頼した。

やはり眼の手術に伴い、事前の医院長と問診は、私たち夫婦で確認すれば、
お互いに落ち度はない、と思っていたからである。
          

やがて私たち夫婦は、手術をして下さる40代と思われる男性の医院長から、
手術日の2日前より、指定した『点眼薬(ベガモックス)』をして下さい、と言われ、
注意事項も含めて、優しいアドバイスを受けたりした。

そして手術日の当日は、
◎当日の朝食は通常通り。
◎来院されてから手術をされる眼を『点眼薬』で、約一時間位かけて、散瞳する。
◎その後、手術着に着替えて、手術台の上で術眼の消毒。
◎点眼麻酔をした後に、手術を開始。
◎手術時間は約15分以内に終了。

こうした中で、手術そのものは、多少の違和感はありますが、激痛はまずありません。
手術では、水を使用する為に、下着(シャツ)の予備を一枚持参して下さい。


手術した当日は、
◎帰宅後、当日はなるべく安静し、食事とトイレ時は普通に動いても構いません。
長くテレビを見るとか、あっちこっち動くことは避けて下さい。
          

手術した翌日以降の留意事項
◎洗顔
濡らしたタオルをしぼって丁重に清拭する。ただし術眼のまわりは避ける。
術後一週間から水および石鹸は、眼をつぶった状態で行う。

◎入浴
術翌日より首から下は、入浴してもよいが、
眼の中に水を入れないように入浴する。

◎洗髪
術後一週間は自分でしないで、美容室、理容室で、
頭を上仰向けで行うことはできます。

◎眼帯
術後一週間、就眠時は眼帯を使用して眼を保護し、術眼を上にして寝て下さい。
ただし、診察後に特に問題がなかった場合は、日中だけは眼帯の必要はなく、
外出も近くであればよいが、埃っぽい処は避けて下さい。

◎運動
軽い運動は術後1週間から2週間より行っても良いが、水泳は術後3か月よりしても良いです。

◎喫煙
術後、特に制限はありません。

◎飲酒
術後一週間は控えて下さい。

◎運転
視力回復の程度により、個々の違いがあります為、医師の指導に従って下さい。

◎仕事
職種により違いがありますので、医師と個々にご相談して下さい。

◎視力
前日に比べて、極端に術眼を視力低下を自覚した場合は、早期に来院し受診して下さい。


術後の診察通院サイクル
◎術後の翌日
◎3日目
◎1週間目
◎2週間目
◎3週間目
◎1か月目

ただし問題がある場合(たとえば術後炎症が長引く)は、この限りではありません。
気になる事がありましたら放置せず、いつでも受診して下さい。
          

このような詳細事項を医院長は、手ぶり身振りしながら、私たちにやさしく教えて下さった。
そして、手術の時間について、話された・・。

『当日の手術は7人を予定していますが、XXさん、最初の8時30分より予定していますが、
いかがでしょうか?』
と医院長は私に尋(たず)ねられた。

『一番バッターですか・・よろしくお願い致します』
と私は明るく医院長に応(こた)えたりした。

そして私は左眼の白内障の手術は、11月17日の8時30分からとなり、
何よりも怖いは感染症ですので、先ほど申した通り、守って下さい、
と医院長から言われて、私たちは辞した。
          

やがて受付で、家内が診察料を支払う時、手術費用の支払う時期を聞いたりした。
そして手術した後、受付で左眼として35万円と診察分をお支払い下さい、
と若き受付嬢は言ったりした。

この後、私たち夫婦は駅前の近くにある喫茶店で、今後の注意事項を確認し合ったりした。
左眼は11月17日の8時30分から、そして右眼は一週間後の11月24日(時間は未定)が、
前提条件である。

○散髪(理容店)
左眼は11月17日に手術日は、前回来院した時に解っていたので、
過ぎし日の5日に、いつも愛用している散髪屋で平素より髪毛を短くしてもらった。

○洗髪
私は入浴する毎晩は髭も剃(そ)り、洗髪も日本男児のたしなみとして行っている。
しかしながら、術後一週間は自分でしないで、頭を上仰向けで行う制約があり、
家内に駅近くの美容室を探してもらい、右眼の手術の前日、23日に洗髪を予定した。

これ以外の心配は思い当たらないが、何より難題は私の現在の視力の悪さである。
メガネを掛けても0.7弱と衰え、裸眼は0.03となっているので、
左眼の手術を終えた後は眼帯となるが、メガネを掛けることができなくなる。

そして、左眼を万全と思われこと配慮すれば、右眼の0.03で、何日かは過ごすこととなる・・。

やがて眼帯がとれ、視力向上となると思われる左眼、メガネを掛けた右眼0.7弱は、
差異があると予測されるので、私の小さな脳でも、視(み)ようとする神経制御に、
右眼の術後一週間頃まで、混乱を起こすかも知れないと、小心者の私は危惧したりしている。
          

いずれにしても眼帯を付けた一時期を過ごすこととなる。
過ぎし年1987年(昭和62年)、NHKで放送した大河ドラマの『独眼竜政宗』には、
あまりにも恐れ多く、私が高校生の時に観た映画『片目のジャック』(1961年)に思いを寄せたりした。

そして名優・マーロン・ブランドさんが、監督もされた作品があり、
あのような眼帯を付けた真似事をして、しばらく過ごすか、と微苦笑したりしている。

やがて左眼、右眼の術後を無事に終えて、両眼とも視力0.7以上で、
クリスマスを迎えることが出来たら、サンタクロースを讃(たた)える歌を
かぼそい声で唄っても良い、と思ったりしている。

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私が62歳の当時、ある投稿文で80歳の男性から、コメントを頂き、やがて心の宝物となり・・。

2015-11-10 11:42:41 | ささやかな古稀からの思い
過ぎし年の2006年(平成18年)の秋の当時、私はブログの熱愛期であった。
ブログの世界を知って、丸2年を迎えて、
ブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】で、毎日投稿したりしていた。

確か会員数は10万人ぐらいで、年金生活の中で、その日に感じたことを真摯に綴り、
コメントも盛んにしていた時期であった。

或いは会員数が80万人ぐらいだったと記憶しているが、【gooブログ】に於いては、
少し気楽に団塊世代、そして幼い知識で社会、政治・経済の諸問題を綴ったりしていた。

このように二刀流のような差異のある投稿文を重ねたりしていた。
          

こうした時、【簡単gooホームページ】に於いて、
《 『歳』と『才』の混同の風潮に、私は憂いながら、やがて苦笑して・・。》
と題して、私は投稿をした・・。

《・・私は東京の調布市に住む年金生活の62歳の身であるが、
ここ40年近く、気になっているひとつがある。

日常生活で何気なく使っている年齢を表示する時、
あなたは何歳ですか、問われた場合に記載の時、『XX才』と書く人を見かける。

過日、家内がコーヒーを飲みながら、何かのテレビ番組を視聴していた時、
私も何気なく見ていたが、ある40代の著名な女優が出演され、
若き頃は才嬢のひとりとして有名であったが、
色紙のような用紙に、『XX才を迎え・・』と書かれていて、私は苦笑させられたりした。

もとより『才』は、才能といったように意味合いがあるので、
年齢を記載する時は誤りである。

私は農家の三男坊と生を受け、父の妹が未婚の当時、私が小学3年生だった頃、
漢字を覚え始めた時、漢字の一文字はそれぞれ意味合いがあるのょ、と叱咤激励を受けたりした。
これ以来、小・中学生は劣等生ながら、漢字の意味合いを理解しょうと、私なりに努めてきた。

ここ30数年の私は、市役所の指定用紙、或いは雑誌などてエッセイを綴られる方の一部の方で、
こうした誤りを見かけたりした時、
義務教育の中学校を卒業したのかしら、と私は思ってしまう時もある。

さりげない漢字一文字でも、日本語の乱れは老若男女を問わず、
貧富の差とか社会の地位とかは関係なく、そのお方の人格を表わす、と確信している。

このようなことを明記する私は、才能のない拙(つたな)い身であるので、
必要以上に気にしているのかしら、と苦笑する時もある。・・》
          

こうした投稿文を送信して、翌日に80歳の新潟市にお住まいの男性から、
コメントを頂いた。

貴兄のご指摘、まぎれなく正鵠で、私も見かけるたびに憂いている次第です・・
このような意味合いのコメントを頂いた。

そしてこの80歳の男性は、ブログを開設していない人であっても、
季節がめぐる3か月に一度ぐらいコメントを頂戴し、私は老年期の心境などを多々教示を受けたりした。

やがて、この【簡単gooホームページ】は、2007年(平成19年)9月末で閉鎖となり、
これまでの投稿文だけが、移動できるブログ形式に準じた【OCN Cafe】を知り、
やむなく加入したりした。

そして【簡単gooホームページ】時代のコメントは、あえなく消えてしまい、
やがて私は、【gooブログ】に集約化し、この御方と途絶えてしまった・・。

このように私にとっては、この御方は心の秘めたる宝物となって、ときおり思い馳せる時もある。

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私のブログにコメントを下さった方は、小学5年生の女の子~80歳の男性、嬉しことに微笑み・・。

2015-11-09 13:30:31 | ささやかな古稀からの思い
私は2004年(平成16年)の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職して、
まもなく偶然にブログの世界を知った・・。

そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入し、
この日から3946日が過ぎている。

しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
        
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸11年が過ぎて、早や12年生となっている。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
                 
               
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどが心の叫び、思いがあふれ、
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
                                                 
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々の心情を脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
       
恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
          

こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは4年近く前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。
                                  
       
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
不勉強の為に筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省することがある。
                               
        
        
このように私は自身の投稿文も大切であるが、文愛人(ふみあいびと)のひとりの私は、
ここ11年数多くの方の投稿文を読ませて頂いたりした。

そして日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い馳せながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ哀歓を感じながら、年金生活を過ごしたりしている。

こうした数多く投稿文を読ませて頂く中、たとえたった一行の綴りでも、
瞬時に琴線(きんせん)が静かに奏(かな)で始め、
やがてその御方のブログの愛読者のひとりになってきた・・。
          

ときおり私は数多く方にコメントをしてきたが、あまたの人から、コメントを頂いてきた・・。
先ほど、ぼんやりとブログを開設以来、コメントを頂いた人たち・・思い浮かべたりした。

そして私の世代に相応(ふさわ)しくシニアの60歳代、70歳代が圧倒的に多い中、
確か小学5年生の女の子から80歳の男性からも頂いた、と思い馳せながら、
嬉しことに微笑んだりした・・。


確かブログを始めて半年が過ぎた頃、あるブログに準じた簡易ブログサイトに私が加入していた時、
札幌市にお住まい小学5年生の女の子から、
コメントを頂き、私は驚いた・・。

何かしら東京に行きたい、と主旨であったが、
私は旅先の札幌の市内、郊外には幾たびか訪れていたので、
東京より素敵な処が数多くあります、と具体的に名所、景観を記載して返信したりした。

そしてお互いに3通ばかり交流した最後に、
お父様によくお話しをして下さいね、と私は記載して、終結とした。
          

或いはアメリカのミシガン湖畔の住宅街にお住まい日系3世、高校女子生徒と、
日本とアメリカの風習、季節感の差異をお互いに確か6通ぐらい交流した。

やがて広島の原爆投下の理由に関して、
多くのアメリカ軍の青年を犠牲するを避けるために原爆投下した、と学校で教えられた、
と断片するように記載され、私に同意を求めたので、私は異論を唱えて、
はかなくも交流は途絶えた・・。

私は音楽が好きなので、数多くの投稿文をしている中、20歳代、30歳代の男女から、
幾たびかコメントを頂いたりして、教えられることも多々あったりした。

このように私と遥かに年代も違う人たちからコメントを頂いたりしてきた。

たまたま一昨日、『あるアメリカ人の無名作家の死を知り、日米の確かな思いに、私は涙を浮かべて・・。』
と投稿文を送信したが、
コメントを頂いたのは、予期もしなかった高校2年の女子生徒であった。

アメリカの社会学者のアルビン・グールドナー・著作の『知識人の未来と新たな階層の台頭』に関心があり、コメントされてきたが、
高校2年生の貴女様が、この御本に関心があると知り、社会学に早熟で、驚いている次第です、
と称賛した文を返信したりした。
          

私は日々に感じたこと、思考したことなどが心の叫び、思いがあふれ、
心の発露の表現手段として、その日に応じたひとつのテーマを決めて、
ブログの投稿文を綴ったりしている。

このような思惟の基(もと)で、ときには苦手な政治、外交、軍事、経済も投稿したり、
或いは社会、文化、文学、映画、音楽、そして年金生活のささやかな思い、日常生活など、
結果として多彩な分野を投稿したりしてきた。

こうしたことが、たまたま数世代の人から、たまたまコメントを頂けたのかしら、
と微笑んだりしている。

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国勢調査、ネットが3分の1 1917万世帯 人件費など68億円圧縮、朗報に私は微笑んで・・

2015-11-08 13:29:51 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
昨夕、配達された読売新聞の夕刊を読んだりしていた中、やがて13ページに、小さな記事で、
【 国勢調査 ネットが3分の1
          1917万世帯 人件費など68億円圧縮 】と見出しされ、
私はどのような詳細内容なのょ、と思いながら読んだりした。

やがて読み終わった後、政府機関として久々な朗報だよねぇ、
と私は心の中で呟(つぶや)きながら、微笑んだりした・・。
   
無断であるが、この嬉しき記事を転記させて頂く。
《・・今秋実施された国勢調査は、インターネットによる回答が、
全体の3分の1超にあたる約1917万世帯に上った。

総務省が当初予想した1000万世帯のほぼ倍で、
同省は「国勢調査のネット回答数では世界最大級」と強調している。
          

国勢調査のネット回答は、前回2010年に東京都だけで試行されたが、全世帯対象は今回が初めて。
ネット回答を先行し、回答のない世帯にのみ紙の調査票を配布した。

ネット回答のうち約663万世帯はスマートフォンからの回答だった。
紙の調査票を含めた全体の回答数は集計中だが、
前回の約5195万世帯から大きな変化はないとみられている。

同省は、ネット回答のシステム整備関連に49億円をかけた。
しかし、紙の調査票の作成や回収にかかる人件費などが計68億円圧縮できたという。
調査の総費用は670億円だった。

海外をみると、韓国のネット回答数は840万世帯(全回答数1760万世帯)、
カナダが720万世帯(同1330万世帯)などと、
5割前後がネット利用という例もある。

日本政府は次回調査で、ネット回答の割合をさらに引き上げたい考えだ。・・》
注)記事の原文、あえて改行を多くした。


私は今回の『国勢調査』に関しては、私の住む地域の調査員から、
9月中旬に来宅されて、『平成27年国勢調査 インターネット回答の利用案内』を手渡しで受け取った。

やがて開封した後、『インターネット回答の操作ガイド』を見て、
スマホも使えない私は、せめてパソコンでと思いながら、
入力指定画面に導かれながら、まもなく終えた・・。

そして優(やさ)しい入力順序であり、簡単に所帯主として責務が終えた、と安堵したりした・・。
            

もとより国勢調査は、我が国に住んでいるすべての人・世帯を対象とする国の最も基本的な統計調査で、
国内の人口や世帯の実態を明らかにし、各種施策のための基礎資料を得ることを目的としています。

国が行う統計調査の多くは、統計法に基づく基幹統計調査として実施されています。
その中で、国勢調査は唯一、統計法で5年ごとに実施することが定められています。

確かこのように定義されているので、私は結婚して所帯主として40年近く、
責務として国勢調査に欠かさず提出してきた。

今回、ネットを活用した調査票は、任命された調査員のお手数も省略できた上、
市町村の担当者の労力も軽減されて、喜ばしいと私は感じたりしてきた。

更に特に若い方の単身者の方は、国勢調査の調査票を持参してきた調査員に応対、
そして回収時の手渡しなどで、面倒と思ってきた人は、簡易にネットで送信できるので、
効力はある、と思ったりしてきた。

そして昨今は、パソコンかスマホを活用している国民は、70%前後と学んできたので、
今後の五年後『国勢調査』は、情報化がますます加速される中、ネット利用が80%となれば、
経費削減も更に増し、迅速化も図れる、と私は微笑んだりした。
          

しかしながら『国勢調査』は、難題がある。
政府から移管された総務省統計局より、それぞれ地域で任命された調査員が、
それぞれの家に配布・回収に手間が要する、と聞いたりしてきた。

私の母が生前していた30年前の65歳を過ぎた当時、独り住まいであったが、
たまたま調査員に任命され、特に付近にあるアパート住民を一世帯ごとに廻り、
そして単身者などに配布・回収に何日も要した、と私は聴いたりした。

或いは国勢調査の調査票の中で、記入漏れや誤記が多発している地域もあり、
調査票を点検し完成させる市町村の担当者が、困惑し徒労感が増している、
と確か10年前の頃、ニュースなどで私は知ったりしてきた。

こうした中、あえて記載漏れ、嘘(うそ)を記載される方がいる、
と風の噂で私は聞き、動顛したりしてきた。

たとえば自動車の運転免許証の申請書を記載する時、
正しく漏れがないように記載にされると思うが、
『国勢調査の調査票』はこれ以上、 国民にとっては重要だ、と私は思っている。

国勢調査は集計結果は、この国の概要実態を確認し、それぞれの基礎資料として、
各方面の総合施策に活用され、国民の生活関連に反映される、と私は学んだりしてきた。

このような目的もあり、たとえば内容が真実かどうかだの問題に関しては、
悩ましいことであるが、こればかりは人間の良心に問うことであり、
あえて不具合に記載した方は、死後は天上のやすらぎに安住できる資格はなく、
地獄の世界でたえず困苦する人、と私は確信を深めている。
          

こうした状況下でも、国勢調査の提出をされない方に、
どうして日本の各ご家庭の所帯主として責務を果たさないか、と憂(うれ)いてきた・・。

たとえば独り住まいで認知症に近い方を除き、
ここ10数年プライバシー意識の高まる中で、個人情報法を悪用されて、
国勢調査の提出を拒む方は、非国民と思っている。

そして私は、『国勢調査の調査票』の未提出の方は、
日本国民としての提出する責務を怠(おこた)り、国にも愚弄することで、
もとより集計結果の精度も欠けるので、厳罰に処すること希望している。

たとえば日本の国籍に相応しくないので、特別立法法などで、
選挙権をはじめ、パスポート、運転免許書、健康保険、年金証などを剥奪し、
抹消する方法が、よいかしらと思ったりしている。

この方法であったならば、調査員のお手数も減少し、迅速に回収可能であり、
回収率は100%近くなる、と夢想している。

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あるアメリカ人の無名作家の死を知り、日米の確かな思いに、私は涙を浮かべて・・。

2015-11-07 15:12:27 | ささやかな古稀からの思い
今朝、いつもように購読している読売新聞の朝刊を読んだりし、
やがて13ページの【解説】面に於いては、読売新聞調査研究本部客員研究員で
在米コラムニスト 斎藤彰さんが、【アメリカの風】と題した不定期寄稿文がある。

今回は 【 ある無名作家の死 】と題された寄稿文が掲載されて、
何かと読書好きな私は、精読した。

やがて読み終わった後、私は涙を浮かべていた・・。
          
    
無断であるが、この記事を転記させて頂く。
《・・2013年12月、福岡市のホテル屋上から、米国人男性が飛び降り自殺しました。
部屋に残された遺書などから、親日家で作家のキャトリー・レインさん(当時66歳)と
すぐに判明しました。

この事件は、日本では、話題にもなりませんでしたが、
今年に入り、米紙ワシントン・ポストの別刷り冊子「ワシントン・ポスト・マガジン」が
初めて特集記事で大きく報じて以来、自殺の経緯が明らかになりました。

「カリフォルニア大学卒後、オレゴン大学で博士号まで取得したレイン氏は、
一貫して文学者、哲学者としての道を志し、四十余年の執筆活動を通じ、
小説5冊、哲学書3冊を書き上げた。

愛、死、宗教などをテーマに思索を練った作品だったが、
どの出版社も反応は冷たく、刊行本1冊以外、残りはすべてウェブサイトでの自己出版だった」

「次第にフラストレーションと厭世(えんせい)感が高じ、
自殺直前には、親友、知人のジャーナリストらに自殺予告のメールまで送るに至った。
その行為はけっして、世間(そして出版社)の歓心を買おうとしたものではなく、
一作家としてやるだけのことは、やりつくし、人生路の終着点に来たという事実を
単純に告白しようとしたと判断される……」

ざっとこんな内容でした。
          

しかし、もしそうであったとしても、
なぜ、彼は自分の生涯を閉じるのに母国アメリカではなく、
わざわざ日本の地を選んだのでしょうか。

このほど、その手掛かりになる1人の証人に、詳しく話を聞く機会がありました。
サンフランシスコ在住で最近までカリフォルニア州立大学講師だった佐藤佳子さん(68歳)です。

佐藤さんは彼が英語教師として来日中に知り合い、結婚、
1992年に離婚するまで東京、ロサンゼルス、シアトルを含めて10年近く暮らしを共にしました。
彼はその後も1人で、何度か日本を旅しています。

自殺の直前までメールのやりとりがあった佐藤さんは、当時をこう振り返ります。

「彼は、隣人や友人のことを思いやり、相手の立場を理解しようとする日本人の心優しさに
ずっとひかれていました。
それに比べ、アメリカ人は一般的に我が強く、行動も自己中心的だと、ぐちをこぼしていました」

「そして彼は、そんなエゴを体現したアメリカの物質中心主義、競争社会に警告を発すると同時に、
批判だけではなく、母国への愛をも込めて本を書き続けようと、もがき苦しんでいました。
でも、出版界にはそれも理解してもらえず、虚脱感が鬱積(うっせき)していったのだと思います」
          

彼は遺作「作家としてのわが人生」の中で、自分のこれまでの主張のひとつの論拠として、
30年以上も前にアルビン・グールドナーという米国の社会学者が
著した『知識人の未来と新たな階層の台頭』と題するやや難解な書籍に一言触れています。

実際、この古書をひもとくと、
歴史、哲学、人間の価値を思索する本来の「知識人」と、
拝金主義と技術競争に埋没する「テクニカル・インテリゲンチャ」の両者が対比され、
アメリカ社会で次第に前者が後者にとって代わられつつあることが理路整然と論じられています。


レインさんが自殺前夜、長期滞在でお世話になったホテル従業員宛てに
自らつたない日本語でしたためた遺書があります。
そこにはこう記されていました。

「作家としての仕事を終えた。
私の本で私が言いたかったことを述べた……(今回)死ぬために日本に来た。
心の底から日本が好き」と心情を吐露した上、
末尾は「私を火葬し、日本に居させてください」とすがる想おもいの言葉で結ばれています。

日本の美、日本人の優しさを、わが愛する母国の人たちにももっと知ってほしい――
日米文化のはざまで苦悩しつつも、その一心で作品を書こうとした無名作家にとって、
残された道は、辞世のアピールだけでした。

同時にそれは、ともすれば居心地良い環境に浸り、日本人としての美徳すらも見失いがちな、
私たち自身に対する警醒であったのかもしれません。

そして彼は遺言どおり、福岡市当局の手で火葬され、ついに母国には永遠に帰らぬ人となりました。・・》
注)この原文、あえて改行を多くした。
          

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。

この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人だった方の手をお借りながらも田畑を耕していたが、
この頃に生家にある本と云えば、 農協の発刊する月刊誌の『家の光』ぐらい記憶がなかった。

やがて小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
居間にある書棚に本が並んでいたを見た時は、
私は子供心でも、眩暈(めまい)を感じたりした。

その後、私が都心にある高校に入学してから、
遅ればせながら、突然に読書に目覚めて、活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、
行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられ、これ以来文愛人(ふみあいびと)のひとりとなっている。。
          
この間、小学4年生の頃から独りで、たびたび映画館に通ったりしてきた映画少年であったで、
欧米の映画作品から感じられる文化に魅せられ、
或いはラジオから聴いた音楽の欧米の曲を享受していた。

この当時の私より10歳から20歳ぐらい齢上の人たちの多くは、
何かしら教養文化が、日本の若き男性、女性間で存在していた、
そして何かの分野で知識をもっていないと、恥ずかしい時代でもあったした。

やがて私はこうした一部の人から、サルトル、カミュの文学、
シャンソンのダミア、グレコは良いよねぇ、と教えられたりした、
そして私はすべて解らないなりに、気負って厚い単行本を小脇に抱えて、
高校時代を過ごす時もあったりした。

こうした青春期を過ごしてきた私は、
やがて東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に大学を中退し、
映画青年、やがて文学青年の真似事をしたりし、無念ながら敗退した・・。

そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通った後、
1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、やがてレコード会社で、
35年近く奮戦し2004年(平成16年)秋に定年退職した。

この間、幾たびリストラを遭遇したり、レコード会社の統廃合などあったりした後、
最後の5年半は、リストラ烈風の中、はかなくも出向となったりした、つたない半生であった。
          

今回、あるアメリカ人の無名作家の死を知り、
《・・歴史、哲学、人間の価値を思索する本来の「知識人」と、
拝金主義と技術競争に埋没する「テクニカル・インテリゲンチャ」の両者が対比され、
アメリカ社会で次第に前者が後者にとって代わられつつあること・・》危惧を深められながら、
(略)
そんなエゴを体現したアメリカの物質中心主義、競争社会に警告を発すると同時に、
批判だけではなく、母国への愛をも込めて本を書き続けようと、もがき苦しんでいました。・・》

或いは《・・日本の美、日本人の優しさを、わが愛する母国の人たちにも、もっと知ってほしい・・・
(略)
同時にそれは、ともすれば居心地良い環境に浸り、日本人としての美徳すらも見失いがちな、
私たち自身に対する警醒であったのかもしれません。・・》
          

こうした文節を読み終わった後、昭和一桁生れの方たちから教えられた教養文化も、
昭和50年の頃からは歴然と衰退してきたことを思い浮かべたりし、
《ともすれば居心地良い環境に浸り、日本人としての美徳すらも見失いがちな》な現世を、
海外の視線から、的確に表現されたりした・・。

このようなアメリカ人の無名作家のことを思い重ねて、私は涙を浮かべた・・。

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さわやかな秋晴れの中、私たち夫婦は小庭の手入れ、朝6時半より奮闘して・・。

2015-11-06 16:47:41 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭の中で、築後37年が過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨日、昼食を頂いている時、
『明日、庭の手入れしませんか?・・私も手伝うから・・』
と家内は私に言ったりした。

小庭の手入れは原則として、私の責務の範疇であるが、
蚊(か)の出る5月下旬頃から9月頃までを除き、
体力の衰えた私を見かねて、家内の支援を受けることが多くなっている。

そして私は来週から白内障の手術に伴い、
手術前の最終検査、そして左眼、その後は右眼の手術を控えているので、
小庭の手入れは出来ない状況となっている。

こうしたこともあり、過ぎし10月1日、そして10月13日も私は家内の支援を受けて、
小庭の手入れを私たち夫婦はしてきた。

『結構ですねぇ・・助かるょ・・晩秋の装(よそ)いに相応(ふさわ)しくしましょう・・』
と私は明るく応(こた)えたりした。
                    

今朝、平素は7時前後が起床することが多いが、5時少し前に目覚めて、
やがて家内と共に朝食を頂いた後、6時半の日の出と共に、私は庭に下り立った。

この時節の小庭の手入れの私の容姿は、ストレッチパンズの冬用の長ズボン、着古した冬用のスポーツシャツ、
ウォーキング・シューズ、帽子の代わりにカーボイが愛用しているテンガロン・ハットをかぶり、
滑り止めの軍手をした上て、剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにしている。

しかしながら朝夕は冷気を感じ、首回りにはタオルを巻いて暖かくし、風邪防止に努めている。
そして我が家の小庭の一面は道路際に接して、
通り掛かったご近所の麗(うるわ)しい奥様たちから、挨拶されることが多いので、
こうした容姿だと、恥ずかしく困るよなぁ、余計なことを案じて、独り微苦笑したりした。

まもなく家内も出てきて、冬用のトレーナー姿にエプロンした容姿でタオルを姉さん被(かぶ)り、
ウォーキング・シューズの万全な容姿で、滑り止めの軍手をして、私に近寄ってきた。

そして私は切れ味抜群の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、
適度な台に乗り、枝葉を切り落としはじめた。

家内も剪定用の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、小枝を切り落としたり、
或いは高枝鋏(タカエダハサミ)で伸びた枝葉を切り落としたりした。

さわやかな秋晴れの中、まばゆい陽射しを受けながら、
次々の樹の枝葉を剪定し奮戦した・・。
          
          
やがて小庭に剪定した枝葉が散乱していたので、
市の指定された45リットル入りの『燃えるゴミ袋』(有料一袋840円、10袋単位で購入)の
袋に破れないように入れる為、
枝葉を適度に剪定鋏(ハサミ)で切ったりした。

或いは樹の直径15センチ前後の枝も切り落としたので、
『燃えるゴミ袋』に入れる長さに切ったりした。

こうしたお互いに奮闘していたが、
熱い真夏などは私は孤軍奮闘して、草むしりも加わると泥まみれ汗まみれとなったりしてきたが、
今や汗ばむ程度で、やはり秋は快適な季節だ、と独り微笑んだりした。

こうしてお互いに6時間ばかり奮戦し、午後1時過ぎ。
『XXちゃんさぁ・・疲れたからボチボチ・・やめない?・・』
と私は家内に言ったりした。
          

やがて風呂を沸いた頃、家内に先に入ってもらい、
私は居間の前にあるテラスの片隅で、簡易椅子に座り、陽射しを受けながら煎茶を飲んだりした。

私は若き40代の頃は、こうした時はお寿司屋さんから頂いた大きな湯呑茶碗で、
冷酒を二杯ぐらいは呑んで待機していたが、
その後の50代の時は、殆どビールを呑んだりしていたが、
今や煎茶を飲む身となり、やはり齢かしらと苦笑したりした・・。

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団塊世代を中核とした高齢者の多くは、『高等遊民』かしら、と老ボーイの私は微笑みながら・・。

2015-11-05 16:37:47 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の老ボーイの身であるが、
午前のひととき、自宅の近くに流れる野川の遊歩道を散策していたら、
70歳前後の男性の5人離(はな)れ離(ばな)れになりながら、高価な一眼レフのデシカメに望遠レンズを付け、
三脚を建てられて野鳥を撮られていた・・。

私は野鳥にも無知であるが、何かしら携帯電話かスマホで、とお互いに小声で連絡し合い、
男性の5人はお互いに高揚した少年のようなしぐさを、たまたま私は見たりすると、
思わず微笑みながら好感したりした。

やがて私は歩道橋を渡り、対岸の遊歩道を歩けば、
60代なかばの御夫婦が語り合いながら、散策したりしていて、
この人生の微笑みを感じたりした。

そして私は歩き続けて、小公園の片隅にある幾つかのベンチに於いては、
秋の爽やかな陽射しの中で、男性の4名が、それぞれ将棋を対局したりしていた。

この後、私は遊歩道を歩いたりしていると、60代後半と思われる女性3名が、
爽やかな陽射しを受け、談笑しながら歩いて来たりしした。

やがて私は、小公園にあるベンチに座り、小休憩をしていると、
昨今の団塊世代を中核とした高齢者の多くは、『高等遊民』かしら、と感じ深めたりした・・。
                     

過ぎし2012年(平成24年)の晩春の頃、
団塊世代が65歳を迎え、大量退職が始まる年と雑誌を読んで教えられ、思わず微笑んだりした。

私より少し若い世代の団塊世代の諸兄諸姉は、
多くは60歳で定年退職をされて、その後は年金完全支給年まで何らかの形で働かれ、
65歳になった今日、年金生活を迎えられた、と私は解釈した。

ふりかえれば、敗戦後の荒廃した日本は、
敗戦直後からの一部の裕福な家庭を除き、誰しも貧乏な時代を体験してきた世代である。

私より10歳以上の先代の諸兄諸姉の多くは、それぞれに奮戦し、
少なくとも世界の中でも、有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、そして団塊の世代も奮闘してきた。

こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の難題がありながらも存続している。

その上、経済は都心の一部は活性化しているが、地方は未(いま)だに低迷している現在さえも、
殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、
医療の充実もあり、主要国の中でも最先端の長寿化の超高齢化社会の時代を迎えている。

         
こうした中で、団塊世代の諸兄諸姉は、第一線を退かれ、年金生活を過ごされ、
今までの多忙な勤務の生活を終えて、それぞれお好きな趣味の時間で過ごされる、と思ったりした。
もとより60代はゴールデン・イヤーズと称される通り、身体も元気、
心は長年の勤務から解放感で満ち、心身共に第二の人生を満喫されている年代でもある。

そして70代も殆どの方は、体力の衰えは実感しながら、心は溌剌している.
          

しかしなから私の知人3名には、
不幸にして最愛の夫か妻に病死され『おひとりさま』になったりしている。

或いは1991年(平成3年)にバブル経済の崩壊後は、
日本経済の足かせになってきた企業の《雇用・設備・債務》の過剰問題は、
民間会社の多くは自助努力に基づいて、過酷な程、事業の再編、人員削減を行なってきた。

こうした中、リストラに遭遇して退職を余儀なくされ、再就職も冷遇されて、
やがて60代を迎えても、生活が困窮している知人もいる。

こうした方を除けば、団塊世代を中核とした高齢者の多くは、
『高等遊民』かしら、と少し飛躍した言葉であるが、思いを重ねてしまったのである。
          

たまたま私は読書が好きであり、夏目漱石の『それから』の長井代助、『こゝろ』の先生、
或いは川端康成の『雪国』の主人公のように人を『高等遊民』と称されている。

もとより『高等遊民』は、なんら生産的な活動をせず、ただ日々を雅やかに過ごしたり、
学問の延長として己の興味のある分野(趣味の活動を含む)を追い求めて、
明治時代から昭和初期の近代戦前期にかけて多く使われた言葉である。
                    

私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

その上、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私は私より少し若い団塊世代の人々に対して、知人、友人が多いので、何かと注視してきた。

私が25歳の時に、民間会社に中途入社できたのは、1970年〈昭和45年〉4月であり、
やがて私が職場の机で隣接したのは、大卒で入社された一年生の団塊世代が多く、
この後もお互いに業界、社内の空気を長らく共に苦楽を重ねてきた・・。

そして私の妹ふたりは1947年(昭和22年)1月、1948〈昭和23年〉10月の生まれであり、
家内に1949〈昭和24年〉12月の生まれであり、
何かと幼年期からの情況は、理解しやすいひとりとなっている。
          

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物メール老ボーイとなり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
                     

私の現役時代は、サラリーマンの身であったが、もとより生計の責務もあり奮闘する中、
30代の半(なか)ばに一軒家を建て、
この後3年ばかり家内はデパートなどに勤めて、強力な支援を受けたが、
家内は後方支援として家庭の多岐に及ぶ専業主婦として長らく努めてきた。

私たち夫婦の年金生活後も、家内は洗濯、掃除、料理などしているのが現状であり、
せめて日常の買物ぐらいは、私がすると自主的に実行している。

このことの背景には、私の現役時代の平日は会社で勤務し、
この間の日中は家内のペースで家事、趣味を過ごしてきた。

こうした家内の生活リズムをできる限り崩したくなかったので、
私は独りで買い物、散策をして樹木、野花などを見ながら、季節のうつろいを享受している。

年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
          

こうした中、毎年年始が過ぎた頃に、新たな年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
そして年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。
          
こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
現役サラリーマン時代は、何かと睡眠不足も感じながら奮戦してきたので、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の最大の恩恵かしら、と享受する時もある。
          

このように富も名声も無縁な私でも、つたない定年退職時までの半生を歩んできた為か、
60代の10年間の年金生活を享受して、何より安楽な時期だったと思い深めている。
そして早や60代を卒業して、年金生活は丸11年が過ぎて、12年生となっている。

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遅ればせながら10月度の家計簿、私たち夫婦は締めて、やがて微苦笑をして・・。

2015-11-04 15:26:38 | ささやかな古稀からの思い
昨夜、私は家内と共に夕食を頂いている時、
『明日(あした)、10月度の家計簿を締めませんか?』
と家内は微笑みながら私に言ったりした。

『結構ですねぇ、待ち焦(こ)がれていたょ・・』
と私は家内に言ったりした。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

世の中は夫65歳以上、妻は60歳以上の夫婦のみの無職世帯は、
高齢夫婦無職世帯と称しているが、私は過ぎし9月で71歳に進級し、
家内は12月の誕生日を迎えると66歳となり、典型的な夫婦のみの無職世帯となっている。

                  
我が家の生計は原則として、私たち夫婦はお互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂いた範囲で、
日常生活を過ごすことを原則としている。

そして耐久品の購入、冠婚葬祭、そして私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に関しては、
程々の貯金を取り崩して、ここ11年ばかり年金生活を過ごしてきた・・。

こうした中で私たち夫婦は、月初めには家計簿をお互いに確認しながら実施している。
          

そして我が家は、日常で買い物したレシートなどを、
家内が一週間に一度ぐらいノートに簡単に集計している程度であり、
月末を過ぎた数日後に、私たち夫婦は家計簿の月次決算をしたりしてきた。
                                  
そして家内が支出のそれぞれの区分項目を読み上げて、
私はパソコンの表計算ソフトのエクセルを活用して、入力したりした。

たとえば厚生年金、企業年金などの収入の項目、そして郵便局の個人年金を入力した上、
やがて銀行、郵便局、信託銀行などの残高を入力した上で、
5表ばかり我が家の独自の資産と収支別明細表を作成したりした・・。

もとより社会の少子高齢化の中で、公的年金は増えることなく減少してきたので、
私たち夫婦はお互い趣味の費用を捻出する為に、収支の実態をお互いに確認し、
ささやかに生活を過ごしたく、家計簿の月次決算をしている。
                               

本日の午前中、いつものように家内が依頼された品を買い求める老メールボーイの私は、
最寄のスーパーで買物をする前に、10月の月末残高とか自動引き落とし電気、電話料金などを確認したく、
銀行、そして郵便局に立ち寄って、夫婦それぞれの通帳を記載したりした。

そしてスーパーに寄り、買物メール老ボーイの責務を果たした後、帰宅した。

やがて私たち夫婦は、遅ればせながら10月度の家計簿を締めたりした・・。

過ぎし10月は、家内は独り住まいの家内の母の介護で、
家内の母宅で3泊4日、或いは6泊7日前後で駐在することが多くなっている。

この間、少し遠い大学病院で治療を受ける為に、長女の家内は母に付き添う為に、
大学病院に近いビジネスホテルにふたりで宿泊し、家内の母は受診に備えたりしてきた。

このような結果として、飛び石のように家内は孤軍奮闘し、
この間、私は我が家で『おひとりさま』の生活をしてきた・・。

こうした状況は今年の6月から続いているので、
私たち夫婦の平年の日常生活から少し変貌し、晩秋の旅行も断念したりしてきた。

このような事情で、毎月締める家計簿も遅れて、本日の午前中のひととき実施した。
          

やがて収支項目別明細表を完成した後、私たち夫婦は微苦笑したりした・・。

『被服費』は、10月はわずか2000円少し越えた程度で、
我が家は極端だょなぁ、と私は家内に苦笑しながら言ったりした。

我が家の場合は、たとえば私の衣服に関しては、
家内の指示で程々良き品をデパートで買い求め、
長らく外出着とした後、やがて普段着、最後は庭の手入れの制服としている。

私はイギリス風の中高年の思考と同じかしらと思ったりしているが、
月毎だと購入額の増減が激しいである。

やがて家内は、『教養娯楽』は10月は増えているわ、
と私に言ったりした。

私は年金生活をしても、単行本、新書本、文庫本、月刊雑誌は相変わらず購読しているので、
たまたま読みたい本が増えただけ・・と私は家内に微苦笑しながら、言い訳をしたりした。
          

或いは『交通費』に関しては、年金生活をされている家庭より、我が家は圧倒的に少ない、
と思っている。

恥ずかしながら我が家は自動車もなく、
こうした中、 日常の殆どは私が年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、買物メール老ボーイとなっている。

そして最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗ることなく、ひたすら歩いて往還している。

このようなこともあり、『交通費』0円の月もあったり、
さすがに世の中から、余りにもかけ離れていたので、私たち夫婦は苦笑したりした。

このように私たち夫婦は、結婚して38年ばかり家計簿を毎月締めている。

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朱色、紅色、黄色など多彩に染められる錦繍の情景を迎える中、とりとめなく思い馳せれば・・。

2015-11-03 18:38:35 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活12年生の老ボーイの身であるが、
今朝、ぼんやりと居間にあるカレンターを見ると、
『文化の日』と朱記されていたので、日本文化を称(たた)える日だよねぇ、と私は微苦笑したりした・・。

やがて9時半過ぎに、いつものように家内から依頼された平素の買物で、
私は最寄のスーパーに向かって、歩いたりした・・。

爽やかな秋晴れに恵まれる中、あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染め始め、
いよいよ錦繍(きんしゅう)の時期が到来か、と私は微笑んだりした・・。

東京の世田谷区と狛江市に隣接する調布市の片隅の地域に住んでいる私は、
私の生家も近くにあるので、私自身としてはこの地域に住んで、早や65年が過ぎている。

こうした中で、平年ならば11月3日の『文化の日』の頃から、
あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染め始め、
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染められる錦繍(きんしゅう)の情景となる。

今年は私の願いを天上の神々に届いた為か、3週間前の頃から、
恥ずかしげに色合いを染めた落葉樹も観られて、スキップしたくなるような心情で散策をしてきた・・。
          

家内から二度目の買物を依頼され、もう一店のスーパーで指定された品を買い求めた帰路、
小公園に立ち寄り、木のベンチに私は腰を下ろしたりした。

おだやかな陽射しを受けた中、早くも年金生活は丸11年が過ぎて、12年生となったなぁ、
と私は微苦笑したりした。
          

私は中小業の民間会社に35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めた・・。
しかしながら、この間は幾たびのリストラを何とか通過したが、最後の5年半はデフレ烈風の中、
あえなく出向となったりし、私のサラリーマン時代は悪戦苦闘が多かったりした。

そして年金生活を当初は、解放感で高揚し、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。

こうした時、若き時期に映画、そして文学青年の真似事を敗退した私は、
情念の残り火りのように西行、鴨長明、芭蕉が遺(の)こされた作品に思いを寄せることが多かった。

もとより西行(さいぎょう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人であり、
  ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ 『山家集』もある。

そして鴨 長明(かもの・ ちょうめい)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人・随筆家。
『方丈記』が代表作となっている。

松尾 芭蕉(まつお ・ばしょう)は、江戸時代前期の俳諧師。
数多い中で私は、旅に病んで夢は枯野をかけ廻る、一句に圧倒的に魅せられてきた。
          


しかしながらに身過ぎ世過ぎの多い年金生活を数年過ごすと、
日常生活とか幾たびかの旅先に於いては、春夏秋冬の情景、この間の季節のうつろう情景に、
心を寄せて、深めて今日に至っている。

そして人影の少ない遊歩道、小公園などで、今の時節であったならば、
♪秋の夕日に照る山紅葉(やまもみじ)・・と高野辰之さんが作詞された『紅葉(もみじ)』を、
かぼそい声で唄ったり、心の中で唄ったりしてきた。
          

こうした中で、日々に感じたこと、思考したことなどが心の叫び、思いがあふれ、
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
                                                 
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々の心情を脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
       
恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。

こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは4年近く前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。
                                  
       
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
不勉強の為に筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省することがある。
                    
        
        
このように私は自身の投稿文も大切であるが、文愛人のひとりの私は、
ここ11年数多くの方の投稿文を読ませて頂いたりした。

そして日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ哀歓を感じながら、年金生活を過ごしたりしている。

こうした数多く投稿文を読ませて頂く中、たとえたった一行の綴りでも、
瞬時に琴線(きんせん)が静かに奏(かな)で始め、やがて心酔させられる・・。

こうした時は、私はこのお方の愛読者となっている。
そして私のブログ左側にある【ブックマーク】於いて、ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く、
と明記して掲げている。
          
                 
こうして私は年金生活を過ごしてきたかしら、とりとめなく思い馳せたりした・・。

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日本人の平均寿命は、わずか100年で2倍に伸びた主因は、医薬品と学び、ひたすら感謝をして・・。

2015-11-02 13:30:42 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の文愛人のひとりであるが、
昨夜、私が愛読している講談社の基幹サイトのひとつの【現代ビジネス 】を開き、
著作者が上梓された本を自ら解説される【読書人の雑誌『本』より】を見たりした。

こうした中で、【 わずか100年で平均寿命が2倍に!
              〜「薬」は世界地図をも大きく書き換えるシロモノだった
          歴史の転換点としての医薬を考える 】と見出しを見たりした。

何かと歴史、文学などは、高校生以来55年ばかり好きであるが、
「薬」の世界には疎(うと)い私は、どのようなことですか、と思いながらクリックして、 精読した・・。

この本は佐藤健太郎さんが著作された『世界史を変えた薬』(講談社現代新書)に於いて、
読書人の雑誌「本」2015年11月号で著作者が自ら解説された原文で、
【読書人の雑誌『本』より】に2015年10月26日に配信され、
無断ながら転載させて頂く。
          

《・・医薬の視点で歴史を捉え直す

囲碁や将棋のプロ棋士は対局後に必ず、
終わったばかりの勝負を初手から並べ直し、詳細な検討を行なう。
いわゆる「感想戦」と呼ばれるものだ。

あの局面でこう打っていればどうだったか、どうすれば勝ちがあったのか。
石ひとつの位置、持ち駒ひとつの種類が変わっただけで、
その後の展開はまるで異なってゆき、勝敗さえ逆転することもしばしばだ。

こうして「あり得たかもしれない局面」を構築、検証するのは、大いに勉強になることでもあり、
また実に面白くもある。


歴史上でも、こうして「あり得たかもしれない世界」を考えてみるのは大変楽しい作業だ。
あの人物があと数年命を保っていたら、この発明品があの時代にあったならといった想像は、
誰しも一度はしてみたことがあるだろう。

たとえばルネサンスの三大発明といわれる、火薬・羅針盤・活版印刷などの、
世界史に与えたインパクトは計り知れない。
          

火薬の存在は、数々の戦争の勝敗を左右してきたし、羅針盤がなければ大航海時代はなかった。
印刷術がなければ、ルターは自らの主張を世に広めることができず、
宗教改革の進展もなかったかもしれない。

ではどの発明品が、歴史に最も大きな影響を与えたといえるだろうか? 
青銅器、紙、蒸気機関、電球、コンピュータと、人によってさまざまな答えが返ってきそうだ。

紙は蔡倫が発明せずとも誰かが、やがて考え出していただろうが、
ワットがいなければあの時代に蒸気機関は発達せず、大英帝国の世界制覇もなかったのではないか、
などなど議論の種は尽きそうにない。

このような、歴史を揺るがした発明についての本はいくつもあるが、
どうも医薬について取り上げたものは少ないように思える。
          

かって製薬企業で新薬開発に取り組み、
現在も医薬関連の書籍や記事を書く機会の多い筆者としては、少々寂しいところだ。
しかし医薬の影響力は、活版印刷やコンピュータに比べても、決して劣るものではない。

教科書などではあまり取り上げられないが、病気は世界史における大きなファクターだ。
ベストセラーとなった『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド著)は、
病原菌やウイルスが、ヨーロッパ人による世界制覇の重要な因子であったことを指摘している。

たとえば、天然痘などの疫病で人口が激減していなければ、
南北アメリカ大陸で繁栄していた文明が、あっさりとヨーロッパの征服を許すことはなかっただろう。

であれば、病を癒す力を持つ医薬は、大きな歴史のターニングポイントたりうる。
筆者の近著『世界史を変えた薬』(講談社現代新書)は、こうした視点から歴史を眺め直す試みだ。
          

☆不老不死の夢さえもかなう?

清王朝の第四代皇帝である康熙帝は、40歳の時に外征の途中でマラリアに倒れるが、
イエズス会の宣教師が献上した特効薬キニーネによって一命をとりとめる。
「中国史上最高の君主」と謳われた康熙帝がそのまま亡くなっていれば、
北方民族との抗争が続いていた清王朝の命運は、危ういものであったろう。

一方、ギリシャからインドに及ぶ大帝国を建設したアレクサンドロス大王は、
さらなる遠征を企図中、33歳を前にマラリアに斃れたとされる。
もし彼がキニーネを手にしていれば、その後の歴史は全く違うものになっていたことだろう。

こうした例は、他にも数多くある。
マゼランやヴァスコ・ダ・ガマがビタミンCを知っていたら、
もしロンドンの病院の片隅に置かれたシャーレにアオカビが飛び込んでいなかったら、
もし手術の前には手を洗うべきであることを、かつての医師たちが知っていたなら。
いずれも世界の地図は大きく書き換わり、筆者も読者もこの世に存在していなかったかもしれない。

医薬は、生命のシステムに直接タッチし、人や国家の命運さえも変えてしまいうる、
極めて特殊な製品だ。

そして医薬はなおも進歩を遂げ、今や不老不死の実現さえも視野に入れつつある。
間違いなく、医薬は歴史の流れをこれまで以上に変えていくことだろう。

その時一体何が起こるか、我々は何をすべきか。
本書が医薬と世界のこれまでと、これからを考えるきっかけとなれば幸いだ。・・》
注)著作者が自ら解説された原文、あえて改行を多くした。
          

この後、私は《日本人の平均寿命はわずか100年で2倍に伸び、
人類の寿命を劇的に延ばした立役者はお馴染みの医薬品だった!》と学んだ私は、
検証致したく、厚生労働省から公表されている「簡易生命表」で、平均寿命ほ学んだりした。

そして日本人の平均寿命は、明治・大正時代は40歳代で、50歳を超えたのは昭和22年、
初めて知った。

昭和22年(1947年)男 50.06歳、女 53.96歳
昭和26年(1951年)男 60.80歳、女 64.90歳
昭和34年(1959年)男 65.21歳、女 69.88歳
昭和39年(1964年)男 67.67歳、女 72.87歳
昭和46年(1971年)男 70.17歳、女 75.58歳
昭和61年(1986年)男 75.23歳、女 80.93歳
平成21年(2009年)男 79.59歳、女 86.44歳
と拾い出したりした。

そして厚生労働省から2015年7月30日に公表されている「簡易生命表」に於いては、
2014年における日本の平均寿命は、男性が80.50歳、女性が86.83歳となり、
男性の平均寿命80代は2013年で初めて、2014年は2年目となる、
と学んだりした。

そして私は明治・大正時代の平均寿命は40歳代で、
昨今は男女ともに80代となり、確かに平均寿命は倍増になったと、実感させられた。
          

やがて私が昭和26年(1951年)小学一年に入学したが、
少し前の幼年期は、大人たちが、あの人は結核になり入院しているが可哀想であるが死ぬょ、
と話したりしていたことを鮮明に心の片隅に残っている。

後年になると私は、福永武彦・著作の『草の花』を読んだりして、
東京の郊外だった清瀬の地で、結核治療の病棟があったことを知ったりした。

或いは堀辰雄・著作の『風立ちぬ』では、
サナトリウムと称される長期的な療養を必要とする人のための療養所を学んだり、
山梨県の高原にある清里もサナトリウム地であったことを学んだりしてきた。

そして私が敬愛している19世紀前半の作曲家のショパン(1810年~1849年)、
明治時代の作家の樋口一葉(1872年~1896年)、
明治時代の作曲家の滝廉太郎(1879年~1903年)、
明治時代の歌人・詩人の石川啄木(1886年~1912年)、
昭和初期の作家の梶井基次郎(1901年~1932年)、
などの各氏は、結核の病(やま)い死去された・・。

私が小学校時代に、結核の予防策としてBCG接種が普及して、
やがて日本では結核は《死病》は死語となった。
          

そして私の幼年期に、大人たちの間で「ペニシリン」という言葉を
たまたまそばにいた私が、幾たびか聞いたりしていた・・。

後年になると、海外で開発・普及して、やがて日本では、
抗生物質の開発及び生産が著しく増大し、感染症の治療法が普及し、
乳児から高齢者までの全ての年齢層で感染症による死亡率が著しく減少し、
平均寿命の上昇に大きな影響をもたらした、と私は学んだりしてきた。

このように、今回、佐藤健太郎さんの明言、
日本人の平均寿命は、わずか100年で2倍に伸びた主因は、医薬品である、
と学び、医薬、医療技術などの開発と普及、公衆衛生が中核となり、
食料、衣服、住居、そして住まい地域などで、今日の長寿社会の到来となっている。

私は恥ずかしながら71歳の身であるが、ほんの百年前であったなら、
あの世の片隅にいる存在となっている。
          

もとより季節のうつろう情景に心を寄せたり、
或いは旅先で未知の光景にも、めぐり逢えたり、
何よりも家内はもとより、ご近所の方と談笑したり、
死別すること多くなったここ10幾年の中、新たな人にめぐり逢えるし、
生きていればこそ叶(かな)うことなのである。

そして未知の本、映画、音楽にも、逢える機会もある。

このような私は、幸運にも大病することなく、
生かされていることに、ひたすら感謝したりしている。

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海外と日本の「高齢者にまつわる事情」を徹底比較、遅ればせながら学び、微苦笑を重ねて・・。

2015-11-01 13:16:16 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の老ボーイの身であるが、
昨夜、ネットでニュースを彷徨(さまよ)っている中で、
【 日本で老後は「人生のオマケ」?
          「高齢者にまつわる事情」を徹底比較 】
と見出しを偶然にめぐり逢えたりした・・。

私は何かと好奇心を失くしたら、この世は終わりだ、と信念があり、
齢ばかり重ねた私でも、好奇心が増して、こっそりとクリックして、
読んだりした後、微苦笑を重ねたりした。

たまたま読んだネット先は、【Mocosuku】と明示され、
少し調べると【もこすく】あなたの健康をサポート、と表示された。
そして医療・ヘルスケア分野での、新たな生活インフラサービスを構築し、
社会に貢献することを目指として、株式会社Mocosukuが提供して下さる公式サイトであった。

この原文は2014年11月27日掲載された記事であり、無断であるが転載させて頂く。
《・・「老後は人生つまらない」は日本だけ? 海外と日本の「高齢者にまつわる事情」を徹底比較
大手の質問サイトを見てみるとけっこうあるのが、「老後が寂しくなる気がして、今から心配」
というような質問。

確かに日本では、「年を取ると人生もう終わり」
「老けるのはマイナス」みたいなイメージがありますよね。
これは日本だけなのでしょうか?
今回は海外と日本の「高齢者にまつわる事情」を少し比べてみましょう。
          

☆日本は「老後=人生のオマケ」と考えがちだけど…

高齢者問題に詳しいある政治家は、
「日本の高齢者は老後を人生のオマケと考えているが、
欧米では退職してからが人生の本番と考えている人が多い」といっています。

たとえばフランスでは、
「老後は人生の余暇である」とされています。
余暇、つまりバケーションに大きな価値を見出すフランス人にとっては、
老後はがんばった人生に最後に与えられるご褒美、といったところでしょうか。

またスウェーデンでは、
「育児からも仕事からも自由になって、これからが自分の好きなことができる時間なんだ!」
と考える高齢者がとても多いのだそうです。

欧米の多くの国では、「老後の生活=暗くてつまらないもの」とは考えていないわけですね。
          

☆年を取っても「自分のことは自分でやる」のが欧米流

こういった国々と日本とで何より大きく違うのは「本人の自立心」。
アメリカやヨーロッパの高齢者は、
「自分の身は自分で守らなければならない」という意識がとても強いのです。

欧米では高齢者に何かやってあげようとすると、
たいていの場合「子ども扱いしないで」
「これくらい自分でできる」という答えが返ってきます。

また「寝たきりになっても誰も助けてくれない」という意識がとても高いので、
病気やけがの予防にも熱心で、リハビリなどもそれこそ必死の思いで取り組みます。

「誰かに助けてもらおう」というのではなく、
「自分自身で人生の残りの時間を生きていこう」という積極的な姿勢の人たちが多いのです。
          

☆高齢者の自立心を支えるには社会制度が不可欠

欧米の高齢者のこういった姿勢は、
政策や制度によって助けられている部分が、かなりあるでしょう。

たとえばフランスには
「祖父母が孫の世話をすることで、給料がもらえる」という制度がありますし、
45歳になると年金基金が老後の生活の相談に乗ってくれます。

そして福祉大国スウェーデンでは、年金支給制度が何度も見直しをされ、
老後の生活は厚く保証されています。

そのぶん現役世代からかなりの税金を負担したり、
きっちりした計画を立てたりしなければならないかもしれませんが、
だからこそ「老後も自分たちの手で自立していかなくては!」という考え方が
主流になっているのかもしれません。
          

☆「恋愛も旅行もいくつになっても自由!」が理想

いまだ日本では、「老後は家族に世話をしてもらおう」という風潮がとても強いですから、
家族に頼れない場合は
「私はどうすればいいの!?」という問題が起こってくるわけです。

また、年齢が高くなると友達同士のつき合いやコミュニケーションが閉鎖的になりやすいので、
孤独に過ごす人も多くなりがちです。

こういった社会的な風潮を変えていくのはなかなか難しいですが、
最終的には「高齢者でも人生を楽しむ資格がある」ということを多くの人が
もっと認知する必要があるでしょう。

たとえば「高齢者同士の恋愛」に対する考え方。
日本では「いい年なのに恋人なんか作ったら恥ずかしい」というような考え方が主流ですが、
欧米ではたとえ高齢者でも恋愛は自由。周りもそれを祝福してくれます。

また車いすの人に対する感覚も日本と欧米では違いがあります。
ヨーロッパでは車いすで、あちこちに買い物に行ったり旅行を楽しんだりする人がとても多く、
日本もこのようにどんどん変えていかなければなりません。

もちろん何でもかんでも欧米がすばらしいというわけではありませんが、
「高齢者の心の自立心」を尊重する習慣は、ぜひ見習っていきたいものです。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接する調布市の片隅の地域に住み、
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後37年ばかりの一軒屋に住んでいる。
そして私の生家も近くにあるので、私自身としてはこの地域に住んで、早や65年が過ぎている。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂き、程ほど貯金を取り崩しながら、ささやかに過ごしている。

私たち夫婦は年金生活丸11年が過ぎて、早くも12年生に進級となったが、
これまでは幸運にもお互いに大病することなく、過ごしてきた。

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をしで、無念ながら敗退した・・。

そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通った後、
1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、やがてレコード会社で、
35年近く奮戦し2004年(平成16年)秋に定年退職した。

この間、幾たびリストラを遭遇したり、レコード会社の統廃合などあり、
最後の5年半は、リストラ烈風の中、はかなくも出向となったりした。

出向先は、各レコード会社がCD、DVDなどの音楽商品を委託している物流会社で、
不馴れな職場で、自分の敵は自分です、と自身を叱咤激励したりした。

こうした中で、先輩、同僚、後輩の一部は、やむなく退職を余儀なくされた中、
何とか定年退職を迎えることができたので、敗残者のようなサラリーマン航路を過ごした。
          

私たち夫婦が、定年退職後のセカンドライフと称される第二の人生に関して、
本格的に話し合ったは、私が出向の辞令を受けた直後からであった。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけで長いと思われる第二人生を過ごすに当たり、
結果としては、お互いの趣味を尊重して、堅実な生活を過ごせば、
年金生活でも何とかなると判断をしたりした。

そして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始め、
やがて私たち夫婦は年金生活は丸11年が過ぎて、12年生となっている。

私の年金生活の日常の出来事、思いなどは、このブログで数多く綴ってきたので、
今回は省略する。
          

今回の記事のテーマのひとつ、本人の自立心、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、もとより息子、娘、そして孫もいない上、
お互いの趣味を黙認して尊重して、生活をしてきた為か、本人の自立心は養われいる。

しかしながら世間の殆どは、私と同世代には、お孫さんがいる家庭が圧倒的に多い。

私の知人には、家を二所帯に増改築されて、
ご子息夫婦、お孫さん2人がいるので、三世代が同居となっている。

ご子息のお嫁ちゃんは、契約社員として奮闘しているので、
お孫さんの小学5年生の男の児、小学1年生の女の子に何かと相対している・・。

こうした中、私と同世代の主人は、ときおり私は立ち話しをして、
嬉しげにお孫さんの言動を私に話されたりしている。


或いは私の友人には、スープの冷(さめ)ない距離・・近くに娘さん家族が住ませているが、
私の友人は、何と用事が多く、俺の時間は振り回されているょ、と聞いたりし、
奥さんはお孫さんを相手に喜んで呼び寄せたり、娘宅に出向いたりしているらしい。

そして友人は、セカンドライスを夫婦でのんびりと過ごしたかったのに、
懇親会の二次会で私に言ったりしていた。

人それぞれであるが、自分たちの介護に関しては、息子、娘たちには迷惑かけたくない、
と思いが共通して、介護施設を思案している、と私は聞いたりしている。


私の中学時代の同級生のひとりには、親から譲り受けた広大な雑木林の中で植木屋をして、
息子夫婦、そしてお孫さんは高校3年生がいる。

同級生は親から家督を受けたりしてきたので、当然ながら両親を長年介護をして、現在はお墓を守っているし、
まもなく息子に家督を譲り、俺たち夫婦は隠居するが、介護は息子夫婦に世話になるょ、
と私に話してくれたりした・・。

私が今回の記事を最初に読み終わった後、このようなことが浮かんだりしたである。
          

もしも私たち夫婦が、子供がいたならば、息子か娘が解らないが、
一時間ぐらい距離に、家庭を維持管理してくれ、
ときおり息子か娘夫婦に、そして孫に逢い、互いの親睦のひとときを過ごし、
お互いの自立した家庭を・・と果たせない夢を思案する時もある。

しかし私が何よりも困苦すると思われることは、
息子が就職を失敗して、家に引きこもったり、
娘は結婚もせずに、いつまでも同居され、自立もできず、
やがて私たち夫婦、そして息子、娘も経済破綻することだろう・・、

このようなことを漠然と夢想したりした。
          

今回の記事のテーマから外れてしまったことがあるが、
《・・フランスでは、「老後は人生の余暇である」、
或いはスウェーデンでは、「仕事からも自由になって、これからが自分の好きなことができる時間なんだ!」・・》
という名言に、つたない半生を歩んだ私でも、瞬時に賛意し、微笑んだりしている。

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コメント (2)
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