夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

「孫疲れ」を防ぐ祖父母の負担を減らす方法、子供、孫もいない私は学び、何かと重責と感じ深めて・・。

2017-09-15 15:23:21 | ささやかな古稀からの思い

先程、読売新聞の基幹公式サイトの【ヨミウリオンライン】を見ていると、
『「孫疲れ」を防ぐ親子の付き合い方』と題された見出しを見てしまった。

私は東京の調布市に住む年金生活のまもなく73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけの家庭であり、もとより孫もいないので、
実感がなく、少子高齢化の加速する今日、ときおり私も責任を感じる時もある。

こうした中、私の友人、知人などと懇親会で談笑する中、
『孫は可愛いが・・3時間ぐらいあずかると疲れてしまうょ・・』
と私は聞いたりしてきた。

或いは私は独りで公園などに散策して、休憩でベンチに座ったりしている時、
ある日、若きママがベビーカーで、一歳前後の男の児を乗せてきた・・。

まもなく男の児は、歩き出して、笑いながら私の方に手を振ったりした。

私は微笑みながら少し手を挙げて振ったりした。
そして私は、あどけない笑顔、しぐさに、100万ドルの笑顔だよねぇ、と瞬時に心の中で呟いたりした。

まもなく若きママが私に近づいてくると、
『あどけなさ・・可愛いですねぇ・・』
と私は微笑みながら若きママに言ったりした。

やがて若きママが、男の児に、
『おじさんに・・バイバイしましょうねぇ』
と言ったりした後、男の児は私に手を振りながら、ベビーカーに向かって歩いた。

こうしたような私の体験は幾たびもあり、友人、知人から孫可愛いことを思い重ねたしてきた。

昨今、祖父母にとって、「孫疲れ」
の話題が新聞、雑誌などで私は読んだり、
友人、知人からも私は聞いたり
してきたので、今回の記事を精読してしまった。

          

この記事の原文は、22年間にわたり電話相談室に勤務される中で、
子育て・家族問題・医療・心理・教育関係を担当し、2万件の相談を受け、
現在、フリーライター、エッセイスト、評論家として新聞、雑誌、テレビなどで活躍され、お孫2人いて、
「団塊世代の孫育てのススメ」(中央法規)などを上梓された宮本まき子の寄稿文である。

そして【ヨミウリオンライン】に9月9日に8月22日に配信され、 無断ながら転載させて頂く。


《・・「孫疲れ」を防ぐ親子の付き合い方

国や自治体が、子育てに「祖父母」を活用する取り組みを広げようとしている。

しかし、高齢者にとって孫の育児は体力的にきつく、出費も増えるほか、
自由な時間を奪われるなどの負担もあり、最近では、「孫疲れ」という言葉も生まれている。

孫の育児経験もある、家族問題評論家の宮本まき子さんは、
当事者間のルール作りなど、祖父母の負担を減らす方法を提案する。

          

☆「孫育」に疲れる高齢者

第一生命経済研究所が孫のいる55~74歳の男女1000人を対象に行った調査(2015年7月公表)によると、
子どもやその夫・妻に頼まれて、孫の面倒をみた経験のある人は66.4%で、
同居や30分以内の距離に住むケースに限れば、80%を超えた。

しかし、元気に駆けずり回る孫と付き合うのは大変だ。


最近の高齢者は見た目が若く、活動的な人が多いため、
子どもたちに体力や気力が有り余っていると勘違いされやすい。

あてにされて「フルタイム」で孫の世話をすることになる祖父母たちは、
実は子どもたちの晩婚・晩産化のせいで、
前の世代より10年以上遅く孫の育児を始めることになる。

体力・気力は、簡単には続かない。
「健康寿命が残り少ないのに、行動を制限される」といった欲求不満から、
心がうつうつとネガティブになる人もいる。

「孫疲れ」などという言葉も生まれている。

          

あてにされる老後資金

現在の祖父母世代は、質素な暮らしに慣れていて、
貯金を浪費せず、年金を受給しつつ、リタイア後も稼ぐ人が珍しくない。

だから財布も何かとアテにされるようだ。
電通が2012年に行った調査によると、孫のための年間支出額は平均で約11万円。
孫が1人だと8万8522円、孫が3人になると12万8964円となっている。


孫の行事や家族イベントの出費も、祖父母頼みが多数派だ。
七五三の祝い、入園・入学祝い、誕生日祝い、お年玉・・と6人の孫に平等に渡していたら、
年間で100万円の「孫出費」になってしまい、打ち切りたくて難儀しているという話も聞く。


資産に余裕があって、好んで出費している人はいいだろうが、
2016年の「高齢社会白書」によると、
65歳以上の高齢者世帯の平均年間所得は、300万5000円で全世帯平均の半分強。

祖父母世代の多くは、孫への出費で、実は大変な思いをしているのである。


          

◇老後の時間を奪われる


戦後間もない頃まで、日本では
「息子や嫁は外で稼ぎ、祖父母が家事・育児をする」というライフスタイルが珍しくなかった。

しかし、高度成長とともにアメリカ式の「親が主体になる子育て」が推奨され、社会に定着した。
その担い手は、主に女性に任せられていた。

今の祖父母世代は、アメリカ式の子育ての第一世代で、
自分のやりたいことは後回しにして、仕事や育児に奮闘した人たちなのである。

子どもを独立させ、仕事からリタイアしてようやく得た
「自分のための自由時間、自由なお金」を、今度は「孫育て」に奪われようとしているのだ。

          

☆若い世代が親を頼る理由

若い世代の「親頼り」も、祖父母が孫育てを担う一因になっている。

リサーチ・アンド・ディベロプメント(本社・東京)が
2012燃3月に首都圏の在住者を対象に行った調査によると、
親(祖父母)が独立した子ども世帯のために行った支出の平均額は3年間で約162万円。

年間で50万円以上を援助していたことになる。
ちなみに、支出内容の1位はやはり「孫の小遣いやプレゼント」で、全体の約66%を占めた。


内閣府が2013年度に行った子育てに関する意識調査で、
配偶者のいる20~49歳に聞いたところ、
祖父母による孫の育児や家事の手助けを80%強が望んでいた。

具体的には「遊び相手」から「日常生活上のしつけ」「家事全般」「病気の時の看病」
「通園の送り迎え」までを挙げており、手助けどころか、
経験者に完璧な「子育て」を期待しているようにも見みえる。


しかし、そうは言っても若い世代が、祖父母の「孫育て」に頼らざるを得ない状況も理解できる。

共働きをしなければ、生活費、教育費を賄えそうにないという不安があるからだ。
特に女性の雇用は「一億総活躍」の掛け声とは裏腹に、
出産を契機に体よくリストラされたり、復職を拒まれたりといった話も耳にする。

育児休業を短期間で切り上げ、早めに職場復帰するために
赤ちゃんを安心して託したいと考えた場合、
最短で最安の預け先はやはり、甘えられる親たちになる。

先に紹介した第一生命経済研究所の調査で、
祖父母の約80%が「子育ては親自身が行うべき」と答える一方で、
約70%が「孫の世話は大変だが、娘や息子のためには引き受けるべきだ」と回答しており、
複雑な心境が垣間見える。

祖父母も、わが子の窮状を見かねて、支援を引き受けてしまうらしい。

          
  
☆行政も祖父母を頼りにしている

3世代同居住宅に改修する際のリフォーム減税を設けるなど、
政府は、祖父母世代との同居推進を、少子化対策の柱の一つに掲げる。

各自治体も親との同居の際に、住宅新築の資金援助をする取り組みなどを行っている。
これらも育児負担の軽減による少子化対策の一環として位置づけられている。


しかし、私には「親心」に便乗して、
祖父母に育児を「丸投げ」しているように見えてならない。

10数年前、ある子育て支援事業の会合に出席した際、
官僚が祝辞を読んだ後に
「他人や箱ものに頼らずとも、おばあちゃんという人的資源がある」
と小声で“本音”をもらすのを聞いた。

政府の認識はしょせん、その程度のものなのかと思った。
本気で少子化対策を推進するなら「乳幼児皆保育制度」をつくり、
子育てをもっと社会化するべきだと私は思う。

同居・近居をすすめるだけでは、解決にはならないのではないか。


          

◇支援は「できる範囲で」を徹底


では、どうしたらよいのか? 
「孫育て」に関する祖父母の負担をこれ以上、増やさないことだ。

そのために、娘や息子は、祖父母に孫の世話を頼む際には、
同時に必ず保育園など、育児の代替施設を確保し、
祖父母の孫育てが「フルタイム」にならないように注意すべきだ。

保育施設との両輪でやっていけば、「パートタイム孫育て」になって、
「疲れ」も軽減するし、余裕をもって、触れあいも楽しめるはずである。


お金の話にも注意したい。
祖父母としては、無理して見えを張った出費でも、
もらう方は「遺産の前渡し」程度の発想で、
「まだあるはず」と過剰に期待したりするケースがある。

思惑の違いで「金の切れ目が縁の切れ目」にならないよう、
祖父母世代は、娘や息子に「自分たちの老後資金計画」をアピールし、
双方の経済状態の情報を共有しよう。

娘や息子たちは、援助を「あれば幸い」という程度に思い、
祖父母の方も見えを張らずに、身の丈に合った暮らしを、孫たちに見せればよいのではないか。


          

☆祖父母は大人のモデルに

「孫育て」という行為そのものは、祖父母にとっても、娘や息子にとっても、
そして孫にとっても、多くのメリットがあるものだ。

だからこそ、なくしてはいけないし、
その一方で、過度な負担にならないようルール作りが必要なのである。


子どもや孫を育てる最終目標は、
「自尊心を持たせ、どのような環境でも、生き抜く能力を身につけさせる」
ことだと思う。

祖父母は意識的に、親とは違うスタンスに立って、大人モデルの一つになってほしい。

豊富な人生経験を伝えることもできるし、スキンシップも十分にした上で、
「○○ちゃんが大好き。よくできたねぇ、えらい! すごい!素敵(すてき)!」
とほめ言葉のシャワーを浴びせて、やる気や達成感、自尊心の芽を育てるのも良いと思う。


50年後の孫の姿は、見られないかもしれないが、
彼らの幸せな人生を夢見ることは、確実にできる。
それを真に願う心こそ、「孫育て」の真骨頂なのだから。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
           

私の知人の男性は、娘家族と二世帯同居する家で、
現代は、息子、娘さんも殆ど共稼ぎしている時代であり、やはり娘さんも働いている。

そして小学2年生の孫息がいて、知人の男性は、学校の防犯バトロール担当を自主的にされている。
私は散策している時に、知人の男性と出会い、
『大変ですねぇ・・』と私は言ったりし、
『まぁねぇ・・』と知人の男性は、微苦笑しながら応(こた)えたりした。

或いは、地方に住む友人は、OB会の懇親会が都心で開催されているが、
以前は福岡空港から航空機、そして当日の夜は都心で一泊する行程で参加して下さったが
10年前に孫ができてからは、何かと孫にもお金がかかるょ、と欠席となっている。

私は孫がいないので、こうした実情は疎(うと)く、発言権はないが、
祖父母にとっては、孫の「あどけない笑顔、しぐさ」と「孫疲れ」に揺れる思い、
多々教示させられたりした。

今回、特に学んだことは《・・子どもや孫を育てる最終目標は、
「自尊心を持たせ、どのような環境でも、生き抜く能力を身につけさせる」
ことだと思う。
・・》

お孫さんの自己形成は、もとよりご両親のまごころある愛情に育(はぐく)まれることであるが、
祖父母のしぐさ、表情、言葉づかいなどを見たりして、多大な影響をもたらし、
重責ですねぇ・・と感じ深めたりしている。

 
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白寿まで生き抜いた作家・野上弥生子さんの食生活を初めて学び、恐れ入りました、心の中で呟(つぶや)き・・。

2017-09-14 15:48:47 | ささやかな古稀からの思い


                                                 
先程、ときおり愛読しているネットの【ダイヤモンド・オンライン】を見ていたら、
【 白寿まで生き抜いた野上弥生子、抹茶とお菓子が朝ご飯代わり 】と見出しを見た・・。

私は過ぎし年、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に、
大学を中退して、アルバイトとか契約社員をしながら映画・文学青年の真似事を
4年ばかりし体験し、あえなく敗退した身である。

こうした中で、もとより作家・野上弥生子さんの上梓された数多く作品を読んだりしてきた・・。
今回、《・・白寿まで生き抜いた野上弥生子、抹茶とお菓子が朝ご飯代わり ・・》の標題に、
どのような御食事の生活をされていたのか、つたない私でも好奇心に誘惑されて精読してしまった。

この記事は、小説家・料理人の樋口直哉さんが、綴られた寄稿文であり、
【ダイヤモンド・オンライン】に2017年9月14日に配信され、無断であるが転載させて頂く。

《・・白寿まで生き抜いた野上弥生子、抹茶とお菓子が朝ご飯代わり

              

死の直前まで旺盛に仕事に打ち込んだ作家がいた。
明治、大正、昭和を生き抜き、多くの作品を世に残した野上弥生子である。


弥生子は1885(明治18)年に大分県で生まれた。
1900年に上京し、明治女学校に入学し、高等科の頃に、その後夫となる野上豊一郎と出会う。

卒業後、2人は結婚。漱石山房(さんぼう)に出入りする夫から
山房での話を聞いた弥生子は、小説を書き始め、
ついに1907年、夏目漱石の紹介で「ホトトギス」に処女作『縁(えにし)』を発表する。

それからの彼女は3人の子どもを育てながら、小説家として旺盛に作品を発表していく。
戦前の作品として『海神丸』や『真知子』、
戦後では『迷路』などがあるが、最も有名な小説といえば『秀吉と利休』が挙げられる。

豊臣秀吉=権力者と千利休=芸術家の対立と矛盾、葛藤を描いたこの小説を発表した時、
彼女は77歳になっていた。


99歳で亡くなる直前まで、仕事を続けた彼女の作品を形容するには
知的という言葉が最も適切に思う。

重層的な視点と格調高い文体は、深い教養に裏付けられたもので、能などにも造詣が深かった。

             

その仕事を支えた食生活は、どんなものだったのだろうか。

対談の中で彼女自身がこう語っている。

〈私は朝ご飯は、いただきません。
その代りにお抹茶を大服で二杯がぶがぶ飲んで、お菓子をたくさん食べて、それでお仕舞い。

お昼は、牛乳を二合に有り合わせの果物を食べるくらい(中略)

ただ晩だけは、ご飯を食べるから、どこかでお招(よ)ばれすると、
恥ずかしいみたいに、たくさん食べますよ〉


抹茶は、茶葉に含まれる栄養を余すことなく摂取できる優れた食品で、
最近は海外でも注目されている。

また、含まれるカフェインが体にいいか悪いかについては賛否両論あるものの、
常識的な量を摂取する限りにおいては、問題ないと考えられている。

昼の牛乳は、お茶に含まれていないカルシウムを補い、果物はもちろんビタミン類などが豊富なので、
夕食に十分なタンパク質と炭水化物を摂取できれば、
1日トータルでは、栄養バランスの優れた食生活を送れるはずだ。

その証拠に彼女は晩年になるまで、病気らしい病気をしたことが、なかったそうである。


人間はいつまで仕事ができるのか。
弥生子の人生が教えてくれる答えは「死ぬまで」である。

未完に終わった小説『森』は、明治女学校での日々のことを描いた自伝的小説だった。
彼女は最後に始まりの場所に戻っていったのだ。
まるで大きな円を描くように。


参考文献/『野上弥生子全集 別巻二』 野上弥生子・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした

             

私は東京オリンピツクが開催された当時、作家・瀬戸内寂聴さんが改名する前の晴美さんの名で、
『夏の終り』の作品を読み、感銘して、やがて知人などに絶賛したりした。

周知の通り、瀬戸内寂聴さんは数多くの作品を公表されて、
95歳の御高齢になられた今でも、作品を上梓されている稀な御方でもある。

確か瀬戸内寂聴さんは、50年前の頃、文藝雑誌に於いて、
御高齢になられた野上弥生子さんのように、いつまでも作品を書き続けたいわ・・
このような主旨の文が、私は今でも心の片隅に残っている。

今回、野上弥生子さんの食生活を初めて学び、恐れ入りました、
と拙(つたな)い人生航路を歩んできた私は、心の中で呟(つぶや)いたりした。


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身内の年金受給者が亡くなったら~最後の年金(未支給年金)は誰のもの~、私は初めて学び、微苦笑して・・。

2017-09-13 15:46:43 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読しているネットの公式サイト【マネーの達人】を見たりした中で、
『 身内の年金受給者が亡くなったら
         ~最後の年金(未支給年金)は誰のもの~ 』と題された見出しを見てしまった。

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活のまもなく73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私たち夫婦は幸運にも、これまて大病に遭遇しないで生活しているが、
いつの日にか介護要となり、やがて無念ながら、この世とサヨナラする日が到来する。

こうした中で、どちらかが残された方は、戸惑いながら悲嘆の中、葬儀関係で慌ただしい日々が続くと思われ、
《・・身内の年金受給者が亡くなったら・・最後の年金・・》のことも、
とても考えられない日々の心情と想像される。

こうしたことを思い馳せると、平常時の今、私は学ぼうとして記事を精読した。

この記事は、さんが寄稿された文で、
【マネーの達人】には 2016年12月26日に配信されて、少し古い記事となるが、
それぞれの御方が長らく人生を過ごされ、やがて亡くなることを配慮すれば、
すべてを超越すると私は思い深めながら、無断であるが転載させて頂く。

                                                 

《・・身内の年金受給者が亡くなったら~最後の年金(未支給年金)は誰のもの~

「父が亡くなったので、年金を止めに来ました。」
と、年金事務所の窓口に血相を変えていらっしゃる方があります。

時々ニュースで報道される死後何十年も年金を不正受給していたケース、
そんな犯罪者になっては、たいへんと思われての来所です。


☆年金事務所は、住基ネットと連動している

「ご安心ください。
年金は住基ネットと連動しているので、役所に死亡届を出せば、
多少のタイムラグはありますが、連絡が来て、年金はストップされます。


あのニュースのようなケースは、わざと死亡届を出さずに、
ミイラと暮らしているような場合だけです!」

とご説明すると安心されます。

では、年金受給者が亡くなったときに、何の手続も要らないのか、というとそうではありません。

             

☆手続きは必要です

年金は受給者が死亡した月の分まで、支払われることになっています。
1日に亡くなっても末日に亡くなっても、日割りはせずに1か月分になります。


一方、年金は後払いで、年6回偶数月の15日(土日の場合は前倒し)に
前2か月分が振り込まれます。


先日2016年の12月15日に振り込まれたのは、10月分と11月分でした。
そして、受給者本人は、生きていなければ受け取れません。


ということは死亡した受給者には、誰でも受け取っていない年金があることになります。

これを未支給年金といい、後述する範囲の方が「未支給年金請求書」に
必要書類(戸籍謄本、住民票、請求者の預金通帳のコピー等)を添えて提出して受け取ることになります。


未支給年金を受け取れるのは、死亡した方と生計を同じくしていた方で、
順位の高い方から、配偶者、子、父母、孫、祖父母、兄弟姉妹、
「その他の三親等内の親族」となっています。


「その他の三親等内の親族」は、平成26年4月から追加されました。
それにより、甥、姪、子の配偶者(例えば長男の嫁)、兄弟姉妹の配偶者なども含まれるようになりました。


関係がわかる戸籍謄本が必要ですが、離婚等で苗字が変わっている場合など
改製原戸籍も含む数枚の戸籍謄本を手繰っていくようなケースもあります。


生計を同じくしていた方という要件もあります。
同居していれば、生計を同じくしていたと判断しますが、別居の場合は、申し立てをして頂きます


入院費、施設の費用を負担していた等の援助がなくても、
生活物資の援助、介護等があれば生計を同じくしていたと扱います。
その申立書には第三者の証明が必要です。

             

☆奇数月の20日ごろまでに、住基ネットから連絡が入る

実際の年金は奇数月の20日ごろまでに、住基ネットから連絡が入るか、
お客様が未支給年金請求書を提出されれば、
翌月の年金支給日に振り込まれないようにすることができます。


しかし、それ以降だと亡くなった方の口座が凍結(閉鎖)されていないと
その口座に振り込まれてしまいます


11月に亡くなって12月に10月分、11月分が振り込まれたのだから
ピッタリで未支給年金をわざわざ請求しなくてもいいと、勘違いされる方が多いのですが、
その場合も、未支給年金請求書を提出しなければなりません


過払いでなければ、振り込まれたものを戻して頂いて、請求者に振り込みなおすことはしません。

例えば

※11月に亡くなられた方の年金は、10月分と11月分が未支給年金に、

※12月1日から14日までに亡くなられた方の年金は、10月、11月、12月分が未支給年金に、

※12月15日から31日までに亡くなられた方は、12月分が未支給年金になる、

というように亡くなられた時期で、このような違いがあります。

まるまる生きていた月の分が、未支給年金になるのはなかなか理解が難しいのですが、
支給日に生きているかどうかだけが、基準だと考えてください。

             

未支給年金は遺産ではなく、請求者の一時所得に

未支給年金は遺産ではなく、請求者の一時所得になります。

一時所得は特別控除額が50万円あるので、50万円を超えなければ税金はかかりませんから、
該当する方はそれほど多くはありませんが、3か月分だとそのくらいになる場合もあるのではないでしょうか。


未支給年金を請求できる生計を同じくしていた方がいない場合は、
死亡届だけを提出し、極力亡くなった方の口座に振り込まれないようにして頂きます
。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした

             

私は読み終わった後、身内の年金受給者が亡くなった時、
最後の年金が『未支給年金』ということを初めて学んだりした。

いずれも年金を管轄する厚生労働省の外部専門の日本年金機構が定めた規約であるが、
高齢者の私には、ややこしいよねぇ、と微苦笑したりした。


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人は、なぜ『7(セブン)』が好きなのか、遅ればせながら私は学び、やがて微笑みを重ねて・・。

2017-09-12 14:30:20 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読しているネットの【デイリー新潮】を見たりしていた中で、
【 ラッキー7、七味唐辛子、世界の7不思議、虹の色、週7日
         人はなぜ「7」が好きなのか 】と題された記事を見た。

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活のまもなく73歳の身であるが、
「人は・・なぜ「7」が好きなのか 」と問われても、何かと無知なことが多く、
一週間は月曜日から日曜日まで、と小学生以来より漠然と思いながら、過ごしてきた。

そして民間会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
サラリーマンを卒業した私は、働くことを断念して、年金生活の今でも明確に答えられない・・。
                                        
こうした心情を秘めた私は、今からでも遅くないょ、と学ぼうとして、
記事を精読してしまった・・。
             

この記事は、デイリー新潮の編集部が綴られたの記事のひとつであり、
ネットの【デイリー新潮】に、2017年8月30日配信され、無断であるが記事の大半を転載させて頂く。

《ラッキー7、七味唐辛子、世界の7不思議、虹の色、週7日・・ 人はなぜ「7」が好きなのか

(略)・・
1週間7日間という暦は、古代バビロニアで誕生し、
紀元前1世紀頃のギリシャ・エジプトで完成したと考えられており、
私たち平成の世に生きる人間が騒いだところで、どうにかなるような問題でもないようだ。

実は、フランスではフランス革命後、1カ月を10日ずつに3分割する「デカード」という暦を採用したり、
ソビエト連邦では、5日からなる週を採用したりと、
かつて世界では1週間=7日ではない暦を使用したケースもある。

しかしいずれも不評だったため、長続きせず廃止されている。

では、なぜ7日なのか。
経済学者の野口悠紀雄氏は著書『世界は数字でできている―数の「超」活用法―』の中で、
実は7という数字は、マジカルナンバーなのだと述べ、その理由は人間の記憶力にあると解いている。
(以下同書より抜粋、引用)

             

アメリカの心理学者ジョージ・ミラーは、
人間の短期記憶の容量が7±2(人によって差がある)であるとする論文を1956年に発表した。

「7以上になると、区別がつきにくくなる」とは、日常経験でも明らかだ。

虹の色は7色であり、1オクターブには7個の音があると把握している。
「世界の7不思議」や「7つの大罪」も7だ。

軍や企業などの多くの組織は、7名や7部署をひとくくりにしたピラミッド構造を作る。
新約聖書の「ヨハネ黙示録」は、7のオンパレードだ。
日本では、七福神、七草、七味唐辛子など。

「7あたりが限度」という法則は、日常生活に応用することもできる。
例えば、引き出しは7個くらいまでにしたほうがよい。
それ以上になると、どこに何を入れたかがわからなくなる。

逆手に取ることも可能だ。
例えば、面接試験で「愛読書は何か?」と聞かれたら、7点以上挙げて目くらましを狙う。
面接官は幻惑されて、「何という読書家だろう!」と評価してくれるかもしれない。

 ***

1週間は長いなあ……と思っているあなたも、マジカルナンバー「7」を受け入れ、
逆に巧みに使うことによりスマートに生き抜こう!(略)・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした
          

私は読み終わった後、恥ずかしながら齢ばかり重ね、何も知らなかったょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
多々教示されたりした。

この後、七つかょ・・七つねぇ・・と私は思いめぐらした後、やがて微笑んだりした。
黒澤明さんが監督された『七人の侍』は、1954年(昭和29年)に公開された名画がある。

もとより映画脚本家の橋本忍さんが創案され、黒澤明さん、小国英雄さん、橋本忍さんが御三方が
共同脚本された世界の名作のひとつとなっている。

そして七人の侍として、志村喬さんが島田勘兵衛に扮し、三船敏郎さんが菊千代、木村功さんが岡本勝四郎、
稲葉義男さんが片山五郎兵衛、加東大介さんが七郎次、千秋実さんが林田平八、宮口精二さんが久蔵、
このように配役されていたが、それぞれ性格、しぐさ、言動に、絶妙な七人の侍の躍動に、
海外の映画関係者にも影響を与えたりした。

何かと単細胞の私は、七つの話題に関して、このようなことを思い重ねた、微笑んだりした。

          
          

この後、
私は、虹に関して、思い馳せたりした・・。

私は今住んでいる地域に、結婚前後の5年を除き、68年近く住み、
戦後から今日まで急速に変貌してきたことに、何かと心を寄せたりして愛惜感もある。

私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受け、
やがて兄2人、そして妹二人の間(あいだ)で、サンドイッチのように育ったが、
何故かしらいじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

私が地元の小学校に入学した1951年(昭和26年)の春の当時は、
祖父と父が中心となり、小作人だった人たちの手を借りながら、程々に広い田畑を耕したりしていた。
そして母屋の宅地の外れには土蔵、納屋小屋にあったりし、周辺には竹林、雑木林に囲まれた農家であった。
 
こうした中、この当時の周辺の情景は、京王腺の駅付近には商店街があるだけで、
周辺は田畑、竹林、雑木林など拡がり、緑豊かな村里の情景であった。
       
このような状況で、私が小学生の前半までは、父、祖父が病死されるまで、農家の児として育てられた。

私は地元の小学校に入学した頃は、独りで下校する時が多かったりした。
                       
こうした時、通学路から外れて、田圃の畦道を歩いたりし、

ある日、小雨に降られた後、空の左面を彩(いろど)った七色の虹が視えて、
この世でこんなに綺麗なことがあるの・・と長らく見惚(みと)れたりした。

そして、この時に視た七色の虹は、
この後に旅先でも、幾たびも圧倒的な美麗な虹にめぐり逢えたが、
この小学生に視た情景は、今でも心の片隅に残っている。

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「歩く速度」で認知症を早期発見する方法、私は多々学んだ後、こっそりと認知症の早期発見検査表の受診して・・。

2017-09-11 14:58:27 | ささやかな古稀からの思い

先程、私は愛読しているネットの『プレジデントオンライン』を見ている中、
【 「歩く速度」で認知症を早期発見する方法
       まずは老親を散歩に誘ってみよう 】と見出しを見たりした。

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活のまもなく73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後39年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。
      
ここ数年、私が何よりも恐れていることは、認知症となり、自身が正常に自覚をできないことである。
私は親戚の方、知人の方とか、書物、ネット記事などで、認知症の悲惨さを少しばかり学んだりし、
たとえば私が認知症となり、介護をしてくれる家内の身を案じるとたまらない真情となる。

或いは逆に家内は認知症となり、私が看病する場合も同様である。

認知症の本人は介護して下さる方も解らず、
何よりも介護する方は、看病する張り合いがないと思われるからである。

このような私は、やはり認知症に関して、気になり記事を精読してしまった・・。

          

この記事の原文は、ジャーナリストの岡村 繁雄さんが、NHKで認知症に関する多数の番組を手がけてきた
科学・環境番組部の青柳由則チーフ・ディレクターにインタビューされて、纏(まと)められた記事で、
ビジネス人生をより豊かなものにする総合情報誌の『プレジデント』の2016年8月29日号
に掲載された記事のひとつであり、
関連の【プレジデントオンライン 】に2017年9月10日に配信され、 無断ながら転載させて頂く。

《・・「歩く速度」で認知症を早期発見する方法
 

大きな社会問題になっている「認知症」。
治療は困難と思われてきたが、最新の研究から、予防と回復の方法が明らかになってきた。

大切なのは早期発見。
そのポイントは「歩く速度」だという。

          

☆「年のせい」にすると手遅れになる

認知症の人の数がますます増えている。
厚生労働省の研究班の試算では、2025年には730万人に達する。
急増の理由は、高齢者が多くなったからだけではない。

認知症になる人の割合が増えているのだ。
65歳以上の5人に1人がなってしまう。

「放っておくと、2060年には1000万人を突破します。
自分自身だけでなく、奥さんや両方の親を含めると6人になりますから、
そのうちの誰が認知症になってもおかしくありません。

いや、むしろなると覚悟したほうがいいでしょう」

そう話すのは、NHKのチーフ・ディレクターとして、医療の最前線を取材する青柳由則氏。
この6年あまり、認知症をテーマに世界中の研究者や医師を訪ね、「NHKスペシャル」などで取り上げてきた。

番組制作を通して、驚くべきことがわかった。
根本的な治療法はないとされている認知症も、
予防と早期発見で従来の生活を維持できるという事実だ。

ポイントはMCI(軽度認知障害)と名づけられた認知症の一歩手前の段階である。
ここで気がつき、適切に対処できれば進行を抑え、場合によっては正常レベルに回復するという。

「私が使わないようにしている言葉があります。
それは『年のせい』です。

もの忘れが、ひどくなったとか、動きが緩慢になったと感じたら、
年齢を理由に『仕方ない』とあきらめるのではなく、MCI(軽度認知障害)を疑ってください。
そうでないと、取り返しのつかないことになってしまいます」(青柳氏)

           

☆脳の状態が80歳から23歳に

そうならないために、青柳氏が提案するのが、40代からの予防だ。
超多忙なビジネスマンの、とかく乱れがちな生活習慣、
とりわけ運動や睡眠の見直しが、効果的な対策につながる。

「近年の医学研究で身体と脳、より具体的にいえば、
歩行と認知機能には深いつながりがあることが証明されています。

おそらく、脳の高度な機能というと、記憶力や計算を思い浮かべるでしょう。
しかし、身体を動かすことも、脳を使う活動なのです。

なかでも、周囲の安全に注意しながら、歩くという行為では、
脳内で高度な情報処理が行われます」(青柳氏)

だから、歩くことが脳を刺激し、認知症の最大の予防策になる。

青柳氏が取材した米国・イリノイ大学ベックマン研究所のアート・クレーマー教授の研究成果は注目に値する。
高齢者に1年間、さまざまな運動を体験してもらった。

その結果、歩行を続けた人では、脳が80歳の老人から23歳の若者の状態になった。

青柳氏の問いかけに対し、クレーマー教授は
「1回1時間程度のウオーキングを週3回。それを1年間継続しただけです。
運動量は、特に多いわけではありません。

ただし、歩き方に条件があります。
早歩き、息が少し上がる程度です」と答えたという。

通常、脳の活動は、加齢とともに衰えていく。
けれども、こうした適度な運動をすることで、改善できるのだ。

また、記憶をつかさどる脳の器官で、年をとるにつれて縮小していくはずの海馬が、
早歩きを励行することによって、大きくなることも明らかになったのである。

「負荷のかかる運動はすべて、身体と脳にプラスに作用します。
通勤や仕事のなかで工夫をして、運動量というより活動量を増やすことが大切です。

駅ではエスカレーターではなく、階段を使い、
会社に着いても、エレベーターに乗らなければ、いい運動になります。
海外へ取材に行くと、ドクターたちは椅子に座らず、立ってデスクワークをしていました」

          

☆睡眠不足は極めて危険!

こう提案する青柳氏は、手首にリストバンド活動量計を着けている。
これは、1日の歩数や早歩きなどのアクティブ時間、移動距離、消費カロリーを測定し、
データをスマホに送信してくれる。
運動の“見える化”が可能になりモチベーションも上がる。

実は、運動が自分のためになるとわかっていても、続けることは意外に難しい。
専門的には生活変容というが、それまでの習慣を活動的なライフスタイルに
チェンジしていくことには、それなりの努力が必要だからだ。

だからこそ毎日、その日の活動量を確かめ、手応えを感じることが大事なのである。
ちなみに、インタビュー前日の青柳氏は、1万2000歩、ビルを22階まで上るのと同等の運動をしていた。

しっかり活動することは、睡眠にもいい。
ところが、現代のビジネスマンは、残業続きだ。

十分に眠れないと、脳にアミロイドβという物質が蓄積され、
アルツハイマー型認知症を引き起こすことがわかっている。

つまり、睡眠不足は極めて危険だといっていい。
まして、徹夜などすると、一晩で一気に増加してしまう。

「睡眠をしっかりとると、朝スッキリと目覚めることができます。
こうした気分だけではなく、脳から老廃物を排出するという大切な作業も
眠っている間に行っているのです。

運動によって、睡眠の質が上がり、認知症の発症が抑えられます」(青柳氏)
          

現役ビジネスマンの親の世代であれば、
やはり早めの気づきが、認知症への最善の対応になる。

前述のMCI(軽度認知障害)であるかどうかは、
日常生活におけるちょっとした変化で、見つけることができる。

例えば、MCI(軽度認知障害)になると、信号機が青に変わったとき、
以前は、楽に横断歩道を渡れていたのに、
信号が赤になるまでに、道路の反対側に行けなくなってしまう。

65~69歳の男性が、1秒間に進める平均距離は約1.4メートルだ。
一般的に信号機は青が点滅するまでの間に、毎秒1メートルで歩けば、渡りきれるように設計されている。
それができないというのは、要注意だ。

そこで青柳氏は、盆や暮れに帰省したときに、親を散歩に誘うことを勧める。
一緒に歩いていて、「あれ、ずいぶんゆっくりで歩幅も短いな・・」と思ったら、
近くの医療機関に連れていくべきだという。

「おそらく嫌がるかもしれません。
それは認知症と診断されるのが怖いからです。

これまでは、神経内科や脳神経外科、精神科を訪ねましたが、
最近では、もの忘れ外来(認知症外来)を掲げる専門病院も全国にあります。
ぜひ、利用してください」・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした
           

この記事は、あくまでビジネンマスとして活躍されてる現役サラリーマン向けの記事であるが、
高齢者のまもなく73歳になる私でも、多々教示された。

私は定年した60歳より多々の理由で年金生活を始め、
殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、スーパー、専門店で買い求めたりしている。

このような買物メール老ボーイとなっている私は、
利便性ある路線バスは頻繁に走行しているが、季節のうつろう情景を眺めたり、

歩くことは何よりの健康の源(みなもと)と信愛している私は、原則として路線バスに頼らず、
ひたすら歩いて往還している。
             
帰宅後、やがて独りで我が家から歩いて3キロ範囲にある遊歩道、小公園をひたすら歩いたりしている。

こうした根底のひとつには、
もとより健康でなければ、私でも日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。

           

今回の記事の中で、『いざチェック!あなたは大丈夫か?』と検査表が掲げられていた・・。

何かしら《3個以上当てはまる人は、認知症の一歩手前の可能性があります。
(出典:『認知症は早期発見で予防できる』青柳由則著)》

そして私は、少しためらった後、こっそりと受診してしまった・・。




私は年金生活をしている中、相変わらず亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、
恥ずかしながら男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらく、と私は笑いながら逢ったりして、
日中はコーヒー、夕暮れからはビール、水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。

ときおり国内旅行を私たち夫婦は重ねてきたが、
旅先でも、私は食事処、ロビーなどて隣席した見知らぬ方でも、
話しかけて談笑したりしている。
                          
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

                                         

私は自動車の運転免許証は、過ぎし年の2005年(平成17年)の更新時の前に、
瞬時の感覚、判断力も鈍(にぶ)ったことに、気付かされて、
自動車の運転を断念した身であるので、《車を擦ることが増えた》該当外となる。

今回の『いざチェック!あなたは大丈夫か?』で、該当する項目は、
《同じものを買ってしまう失敗が増えた》、無念ながら該当している。

私は本屋で背文字に魅せられて文庫本を購入したが、
帰宅後に数行読んだりしていると、読んだことがあるよなぁ、と思い書庫に行き、
定年前に単行本で購読していたことに気付いたりした。

私は年金生活13年間の中で、こうした二度あったことを告白する。

 これ以外は、ないよなぁ、と微笑んだりした。
            

しかしながら、私は70歳を過ぎた頃から齢を重ねるたびに、物忘れが多くなった、と改めて気付き、
独り微苦笑する時もある・・。

たとえば家内とテレビの旅番組を共に視聴したりしている時など、
あそこも行ったよねぇ、と私は家内に言ったりした時、その地の情景などは鮮やかに重ねることができても、
肝心の地域名が言葉に出来ないことが、もどかしさを感じる時もある。            
           
このように私は、体力の衰え、物忘れが多くなったことは実感して過ごしているが、
程ほどの食事、熟睡、歩くことなどで、何とか健康寿命を保ち、
せめて後期高齢者入門の75歳を迎えたいと念願している。

 
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クスっと笑える『お金』の川柳、私は読ませて頂き、この人生の微苦笑の事柄に、やがて微笑み・・。

2017-09-10 15:47:29 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読しているネットの公式サイト【マネーの達人】を見たりした中で、
『 クスっと笑えるお金の川柳 』
と題された見出しを見てしまった。

私は無念ながら短歌や俳句を詠(よ)む素養はなく、
人さまが詠(よ)まれたのを読ませて頂くのが好きなひとりである。

             

もとより短歌は、もとより五・七・五・七・七の三十一〔みそひと〕文字の世界であり、
万葉の時代から日本の人々に愛されてきた叙情詩であり、
この内容も恋の歌・日常生活の描写・社会問題・子供の成長・物語や幻想まで、
どんなテーマでも自在である、と受け継がれている。

そして俳句は、五・七・五の三句十七音から成る定型詩であり、
「季語」さえ含めば、内容も自在であり、江戸時代から多くの方に愛されてきている。

或いは川柳は、五・七・五の十七音の定型で、
ユーモアに富んだ言葉使い、或いは世の中を風刺した作風で、
江戸時代に発生し、明治時代の頃から、多くの方たち慕われてきた。

つたない半生を歩んできた私は、せめて川柳ぐらいは・・と時折一句でも吐くことあるが、
やはり素養に乏しく感じ、やむなく『ブログ』の世界で散文のような拙(つたな)い綴りを
殆ど毎日投稿をしている。

                                                

こうした中で、ときおり私は『サラ川』と称せられている『サラリーマン川柳』を愛読している。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、幾たびかリストラ烈風の中、最後の5年は出向となったりし、
それなりに時代にも翻弄され波乱万丈があり、苦楽の激しいサラリーマンの時代でもあった。

このような悪戦苦闘が多かった私は、何かと『サラリーマン川柳』が好きで、
現役のサラリーマン時代から愛読し、励まされたり、人生の哀歓を感じたりし、
『サラ川 傑作選』の本を4冊を所有している。

そして私は『サラ川』は、この人生の日常生活の優れた哲学書のひとつと思い、
限りなく人生の哀歓を発露していると確信し、年金生活13年生の今でも、ときおり本を開いたりしている。

                 
                 ☆本棚から特に愛読している2冊を取りだして、たわむれに記念撮影☆


或いは過ぎし定年前、2003年11月下旬、本屋で偶然に視た『遺言川柳』(編者・UFG信託銀行、発行・幻冬舎)を
遺言に関しても、川柳で吐くの・・と私は好奇心に負けて、購読して多々、人生の微苦笑をさせられたりした。

たとえば、《 形見分け しているつもりが ゴミ整理・・・東京都 柳婆 
       箸もてた 筆も持ってと 相続人・・・東京都 リハビリ天使 》

こうした御方に確かな文才があり、降参しますょ、と私は心の中で呟(つぶや)いたりしてきた。

             


このように私は体力は衰えても、好奇心だけは旺盛で、
『 クスっと笑えるお金の川柳 』と題された記事を読んだりした・・。


何かしら数多くの御方が、《・・お金に関することクスッと笑える川柳にして投稿頂き、
これを画像にしてまとめて、画像と一緒にお楽しみください。・・》
と明記されていた。

http://manetatsu.com/2017/09/102473/
【マネーの達人】:『家計』==>9月3日『クスっと笑えるお金の川柳』


私は齢ばかり重ねた
まもなく73歳になる身であるが、
それぞれの御方がお金に纏(まつ)わる人生の哀歓を的確に凝縮した今回の川柳・・
私は一句、一句を読ませて頂き、この人生の微苦笑の事柄に、恐れ入りました、
と微笑んだりした。


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知っておきたい! 朝食が重要な5つの理由、遅ればせながら高齢者の私でも学び、やがて微笑みを重ねて・・。

2017-09-09 17:26:43 | ささやかな古稀からの思い

先程、ネットでニュースを見ようとして【YAHOO! JAPAN】を開き、
たまたま【ライフ】コーナーに於いて、ニュースを見たりした中で、
『 知っておきたい! 朝食が重要な5つの理由 』
と題された見出しを見てしまった。

私は年金生活のまもなく73歳になる身であるが、
朝食も確固たる理由に知らず、お腹が空いては一日の始まらない、
と漠然としながら長年頂いてきた・・。

遅ればせながら学ぼうと思い、クリックして記事を見始めたが、
何かしら初めて見る
ベネッセ 教育情報サイト】であった。

そして『【子どもと朝食のあり方】子どもにとって朝食はなぜ大切か 』と、
若きママがキッチンに居て、食卓でトーストされて食バンを食べている女子の写真が掲載され、
学童に向けた
教育情報サイトと判ったが、
食事に関しては、学童でも高齢者でも関係なく、超越するよねぇ、と思いながら精読してしまった・・。

この記事は、9月9日に配信され、
無断であるが転載させて頂く。

            

《・・知っておきたい! 朝食が重要な5つの理由

「朝食」に関する議論は、今もさまざまな場所で白熱しています。

朝食をとるべきか、そうでなくてもいいのかということについては、諸説ありますが、
子どもの成長を考える場合は特に、朝食はとても重要なものです。

「子どもが朝食を食べない」「発達や健康に問題がないだろうか」と心配している保護者のみなさまへ、
まずはご自身が、しっかりと朝食の意義を理解し、子どもに伝えることができるようにしましょう。

☆朝食が重要な5つの理由

1.体内に不足しているエネルギーの補給のため

朝起きた身体は、エネルギーが大変不足しています。
夕食から10時間以上は経過していますし、我々は寝ている間にも、
少しずつエネルギーを消費しているからです。

朝から身体のエンジンをかけ活動を始めるためには、
当然ガソリンとなる食べ物が必要になります。

もちろん、脳を使うにもエネルギーは必要です。
子どもたちは午前中にもたくさん学習しますが、そのための集中力を発揮するにもエネルギーが使われます。
昼食まで「エネルギーが空っぽ」のまま過ごさないためにも、朝食は必要です。

            
2.体内時計のリズムを整えるため

「体内時計」とは、人間の身体の中に備わっている、一日の時間の流れを司る時計のことです。
朝目覚め、昼活動し、夜に向かって眠くなる・・・というしくみは、
体内時計があるからこそ、毎日正しく繰り返されます。

しかし、体内時計は約25時間程度を一日としてカウントしており(個人差あり)、
実際の一日である24時間と少しずれています。

時差などに適応するために、必要なずれなのですが、体内時計に素直に従うと、
眠る時間はうしろにずれ、人はどんどん夜型になってしまうのです。

しかし、朝食をとることで、体内時計はうまくリセットされ、
時間のずれが、蓄積されないようになっていると言われています。


3.朝食をかんで食べることで、セロトニンの分泌が促されるため

「セロトニン」は「幸せホルモン」とも呼ばれる精神を落ち着かせる神経伝達物質で、
体内で合成されるものです。

セロトニンが不足すると気分が落ち込む、眠気を及ぼす「メラトニン」が作られず不眠になるなど、
毎日を元気に過ごすことができなくなります。

さらに、極端にセロトニンが不足すれば、うつ病や精神障害などの発病にも、つがりうるのです。
セロトニンをしっかり分泌させるには、朝の光を浴びることが重要なのですが、
加えて「かむ」という行為も、セロトニンの分泌を促すものとして知られています。


4.体温を上昇させ、身体や脳を活動的にさせるため

どんな時間でも、何かを食べると身体がぽかぽかとあたたまります。
寝ているあいだ人の体温は、低下しているため、
体温を上昇させるためにも、朝食が役立ちます。

体温が低いと人はエネルギーを節約しようと、自然に動きを小さくしてしまいますが、
エネルギーが充満すれば、身体も脳も活動的になり、登校や勉強に取り組む活力も生まれます。
朝一番の「なんだかやる気が出ない」を解決してくれるのです。


5.排便のリズムがつくため

朝食をとることによって腸が刺激され、朝の排便のリズムが定着します。
基本的に排便は、いつあってもいいのですが、便は寝ている間にたくさん作られるため、
朝が最もスムーズに排便しやすいのです。

学校ではなかなかゆっくりとトイレに座れない、
排便したいタイミングでトイレに行けないなどの不都合があります。
朝一番でトイレを済ませておくことで、腹痛の心配もぐっと減ります。

            

☆「朝食を食べられない子」ではなく、「食べない子」になってしまったのかも

人は誰もが、同じ体質ではありません。
ですから、朝食を食べると逆に調子が悪くなる子がいるのも事実です。

しかし、多くはいままでの生活習慣から、そうなってしまっただけであり、
「もともと朝食を食べられない子」ではない可能性をまず考えて欲しいと思います。

体質だからと諦める前に、過去を思い出してみてください。
幼稚園の頃は、しっかり食べていませんでしたか? 
学年が上がるにつれ、食べられなくなってしまった原因はありませんか? 
食べられないのではなく「食べる時間がない」だけかも…。


朝食は毎日を元気に過ごすために、とても重要なものです。
日々の体調不良も、朝食抜きが原因となっている可能性もあります。

子どもの日中の様子もしっかりチェックし、より元気に、健康的に過ごすためにも、
少しずつ朝食の習慣を身につけ、ベストな状態で学校生活が送れるようにしましょう。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした
            

高齢者の私は読み終わった後、遅ればせながら多々教示されたりした。

私は東京の調布市の片隅に住む年金生活のまもなく73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれず、たった2人だけの家庭である。

私は現役サラリーマン時代は、多くの諸兄と同様に開発・運営業務に多忙で、
睡眠時間を削って奮闘したりした。

朝食はコーヒーを飲みながら食パンのトーストを食べて、
あたふたと出勤に向かうことが多かった。

或いは食欲がなく、コーヒーだけ飲んで会社に向かったりした。

開発業務が一段落した時は、白米のご飯と味噌汁を基盤に、五品ぐらいの副食を食べたりしていた。

定年後は多々の理由で年金生活を始めた我が家は、
ゆったりと朝食を私は家内と談笑しながら、頂いている。

私は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
朝食は、ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の一汁三菜(いちじゅうさんさい)の真似事をしている。

昨今の私の朝食の原則として、前菜を必ず頂いている。
タマネギをスライスし、生ワカメとあえて、そしてミッカンぽん酢とお醤油をかけて、
大きな皿に盛大に食べたりしている。

やがて十六穀米の入った白米のご飯を半合ばかり盛ったお茶碗、インスタントのワカメの味噌汁、
納豆、コブの佃煮、大根おろしとシラス干し、福神漬けを必須として、
これ以外はカブの醤油漬け、カブの葉の塩漬け、焼きノリなどを
加える時もある。
そしてシャケの瓶づめ、或いはサバ缶のミソ煮で頂くことが多い。

家内は時折つきあうが、大半は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、ホット・コーヒーを飲みながら頂くことが多い。
そしてバナナなど果物も食べたりしている。
 
            

私は健康の源(みなもと)は、程ほどの食事、熟睡、歩くこと、と思っていて、
幸いにも大病に遭遇せずに、体力の衰えは実感しているが、心身は溌剌としている。

今回、朝食の大切さを具体的に学び、そうでしたか・・微笑んだりした。


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エコノミークラス症候群の原因、そして予防法5つ、遅ればせながら私は学び、やがて微笑んで・・。

2017-09-08 18:43:46 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活のまもなく73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれず、たった2人だけの家庭である。

ときおり私たち夫婦は、幾たびも国内旅行を遊学したりしている。
こうした中で、北海道の道東地方に旅をする時は、羽田空港から女満別空港まで、
飛行機を2時間弱ばかり乗機したりしている。

或いは青森県
の日本海に面した黄金崎(こがねざき)にある『不老ふ死(ふろうふし)温泉』に滞在旅行をする時は、
東京駅より特急『こまち』に4時間ばかり乗車して、秋田駅に到着後、
秋田駅から青森駅を結ぶ『リゾートしらかみ』を利用して、大半は五能腺を走行する路線で、
『不老ふ死(ふろうふし)温泉』の最寄駅のウェスパ椿山駅で下車したりした。

こうした時、家内は座席に座ったまま、ときおり思いだしたように軽いストレッチをしている。
『長く座っていると・・血行が悪くなるからょ』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしてきた。

私は「エコノミークラス症候群」に関しては、新聞で少し知っていたが、
詳細なことは無知であったので、『長距離移動中に要注意!「エコノミークラス症候群」の予防法5つ
と題された記事を遅ればせながら学びたく、読んでしまった・・。
       
この記事の原文は、エコノミークラス症候群の第一人者の橋本洋一郎さんが、
『毛細血管で細胞力は上がる』(小学館)を上梓された本を、中田綾美さんが紹介された記事であり、
そして『サライ』の公式サイト【serai.jp】に2017年8月19日に配信されていた。

私はシニア向けの教養雑誌『サライ』に関しては、50代の10年間は購読してきたので、
よしみに甘えて、無断であるが転載させて頂く。


《・・長距離移動中に要注意!「エコノミークラス症候群」の予防法5つ
 
お盆休み中、長距離旅行に出かける人も多いでしょう
その際、ちょっと留意しておきたいのが“エコノミークラス症候群”です。

飛行機、電車、マイカーなどで、長時間座ったままの環境にいるときに
起こりやすいエコノミークラス症候群は、最悪の場合、死に至るおそれもあるといいます。

今回は、熊本市民病院首席診療部長の橋本洋一郎氏の著書『毛細血管で細胞力は上がる』(小学館)を参考に、
エコノミークラス症候群の予防法をご紹介しましょう。
           

■エコノミークラス症候群が発症するメカニズムとは?

元サッカー日本代表の高原直泰選手が、飛行機のなかで発症したことで、
一躍知られることとなった“エコノミークラス症候群”。

エコノミークラスに限らず、ビジネスクラスでもファーストクラスでも、
さらに言うならば、乗り物に限らず、長時間のデスクワークでも、
この症状を引き起こすおそれがあるとのことです。

長時間同じ姿勢で座り続けると、足の血流が悪くなり、
足の静脈のなかに“血栓(血のかたまり)”ができます。

この血栓が、肺の血管を詰まらせて、血液の流れを止めてしまうことで、
起こるのがエコノミークラス症候群です。


初期症状としては、胸の痛み、息苦しさ、足のしびれなどですが
処置が遅れると心臓の機能が低下し、命を落とすおそれもあります。

こうしたエコノミークラス症候群を予防するためには、
“血管に血栓ができないようにする工夫”を心がけましょう。

           

■1:1時間に1回は体を動かす

血流を悪くしないためには、まずは座っりっぱなしを避けること。
少なくとも1時間1回は、5分程度、立ち上がって体を動かしましょう。

飛行機の機内などで動き回るのが難しい場合には、座ったままでもできる体操がおすすめです。

・太ももを上げて、足踏みする
・かかとを上下に、つま先立ちを繰り返す
・片足ずつ膝を上げて、足先をブラブラゆらす
・足を伸ばし、爪先を手前に引き上げる
・ふくらはぎを、軽くもみほぐす
・座ったまま、背伸びをしながら深呼吸する

■2:十分な水分補給を行う

血流を促すために、水分補給はこまめに行いましょう。
ただし、アルコールやコーヒー、紅茶は、逆効果のおそれがあります。

「アルコールは体内で分解する際に、水分を大量に必要とします。
コーヒー、紅茶は利尿作用があるため、体内が水分不足になって、
血液がドロドロと濃くなり、血栓ができやすい状態になるからです。」(本書より引用)

“旅のお供”にはノンアルコール、ノンカフェインの飲料を選ぶようにしましょう。

           

■3:トイレを我慢しない

こまめに水分補給を行いつつ、トイレは我慢しないこと。
また、おしっこが出た後に、水分補給を行うことで、血液ドロドロを防ぎましょう。

■4:弾性ソックス、弾性ストッキングを履く

足に血液が滞留しないように、弾性ソックスや弾性ストッキングを履きましょう。
足に適度な圧を加えることで、むくみや血栓の予防につながります。

■5:ゆったりとした服装でリラックスする

足は適度に締め付ける一方で、上半身はなるべくゆったりしたものを着用しましょう。
締め付けのきつい服は、全身の血行が悪くなり、冷えの原因にもなるうえ、
リラックスできず緊張状態が続くことも、よくないとのことです。

長時間移動のときは、できれば靴を脱いだり、
ズボンのボタンやベルトをはずしたりして、快適に過ごすようにしましょう。

リフレッシュのための旅行で体調を崩したり、病院に搬送されたり、
ましてや命を落としたりするような事態は避けたいもの。

この夏、長距離移動の予定がある人は、
今回ご紹介した5つの予防法を車内でぜひ実践してみましょう。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした
           

私は読みながら、《・・乗り物に限らず、長時間のデスクワークでも、
この症状を引き起こすおそれがある・・
長時間同じ姿勢で座り続けると、足の血流が悪くなり、
足の静脈のなかに“血栓(血のかたまり)”ができます。

この血栓が、肺の血管を詰まらせて、血液の流れを止めてしまうことで、
起こるのがエコノミークラス症候群です。


初期症状としては、胸の痛み、息苦しさ、足のしびれなどですが
処置が遅れると心臓の機能が低下し、命を落とすおそれもあります
・・》
と教示されて、驚いたりした。

平素の私は、午前中のひとときは、家内から依頼された買物をスーバー、専門店で買い求めた後、
帰宅後、自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、小公園などを散策している。

やがて、午後の大半は、私は随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

この間、ブログの投稿文を書いたり、私が愛読している御方の投稿文を読まさせて頂いている。


このように過ごす時間が多く、午後の大半は、椅子に座ったり、ソファーに座る時間が多いので、
エコノミークラス症候群になるかしら、と危惧したりした。

           

しかしながら、ここ数か月熱い季節は、私は居間と台所に往還して、冷えた麦茶、煎茶、アイスコーヒーを
良く飲んだりし、ときおり恥ずかしながらトイレにオシッコに行ったりしている。

或いは
、家内は相変わらず専業主婦の延長戦として料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
私はせめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
何かと愚図な私でも、素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

このように私は、逐次に椅子とかソファーから立ち上がることも多いので、
エコノミークラス症候群になる確率は低い、と独り微笑んだりした・・。

やがて現役サラリーマン時代に於いて、会社の旅行で台湾、そしてハワイと
たった二度ばかり海外旅行を体験してきたが、少し長い飛行機の機内などで、
おとなしく座っていたかしら、と思いを馳せたりした。

私は亡き母の遺伝を素直に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖におしゃべりで、
こうした時でも、先輩から手招きされて私は隣席に座ったり、
或いは同僚と盛んに談笑したりし、空港に着陸態勢まで、話が途切れなかったりした。

こうしたことを思い浮かべると、落ち着かない少年のような動作であったが、
齢ばかり重ねた今でも、私はエコノミークラス症候群に無縁かしら、と微笑んだりした。

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定年後は葬式へ行くな 香典は痛い出費で無駄な義理は不要、まもなく73歳なる私は学び、微苦笑をさせられて・・。

2017-09-07 15:48:30 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読している【NEWS ポストセブン 】を見ている中で、
『 定年後は葬式へ行くな 香典は痛い出費で無駄な義理は不要 』と題した見出しを見てしまった。

私は民間会社の中小業のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

そして遠い勤務地に勤め、この期間も奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたりした。
                      
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活のまもなく73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、友人、知人、親戚、会社時代の御方など数多くの御通夜、告別式に参列してきたが、
ときには一部の御方に戸惑いもあったりしてきたことは事実であった・・。

こうした心情を秘めた私は、『定年後は葬式へ行くな 香典は痛い出費で無駄な義理は不要』を
読んでしまった・・。

        

この記事の原文は、『週刊ポスト』の2017年9月15日号に掲載された記事のひとつであり、
関連の【NEWS ポストセブン 】に9月7日に配信され、 無断ながら転載させて頂く。

《・・定年後は葬式へ行くな 香典は痛い出費で無駄な義理は不要

政府が検討する「年金75歳受給開始時代」が本当に到来すれば、高齢者も働かざるを得なくなるだろう。
そんな時代を反映してか、発売即重版のベストセラーとなっている書籍がある。

元ソニー常務取締役で、82歳の今も現役ビジネスマンとして働く郡山史郎氏が著わした『九十歳まで働く!』だ。
郡山氏は子会社のソニーPCLの会長、ソニー顧問などを歴任した後、多くの高齢者の再就職に関わってきた。

同書内では、高齢者が厳しい現実に立ち向かう上で、
必要な心構えを「定年後にやってはいけない十戒」としてまとめている。

そのうちの一つに「葬式に行ってはいけない」がある。

訃報を聞けば、何はともあれ喪服を着て駆けつける──
そんな日本人の常識を覆すアドバイスだが、それにはこんな理由がある。

        

「歳を取れば取るほど『義理』が増えていく。
かつての同僚や上司の葬儀への出席は、その最たるものでしょう。

しかしその義理を果たそうと、がんじがらめになることは高齢者にとって
精神的にも肉体的にも負担になる。

本当に大事な人には、心の中で手を合わせればいい。
高齢者は義理や礼を欠くことを、恐れてはいけません。

自分の葬儀も最小限でいい。
老境に入れば、他人に迷惑をかけないことが一番大事なのではないか」(郡山氏)


70歳を過ぎると、親戚から会社時代の同僚、子供のころの友人まで、葬式ばかりになる。
そのたびに遠方に出掛ければ、財布にも負担がかかる。

「葬式に出るたび“私にも近くこの世を去る日がやってくる”と陰鬱な気持ちになる」
(埼玉県在住・75歳男性)

「友人やご近所の知人が立て続けに死んで、香典代が月に3万円近くということもある。
口には出せないが、痛い出費です」(東京都在住・79歳男性)

全日本冠婚葬祭互助協会が行なった「香典に関するアンケート調査(平成28年度)」によると、
故人との関係別の香典平均額は「職場関係」で5447円、「友人・その家族」で5972円となっている。

「全ての葬儀に出ない」というのは、現実的には不可能だが、
どこかで「義理」の線引きをする勇気は必要だろう。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした
        


過ぎし私が67歳だった2011年の11月23日の『勤労感謝の日』の頃から、
会社時代の知人などから喪中のお便(たよ)りを頂いたりした。
そしての親御さんの94歳とか96歳のご高齢で死去されたと知ったりした。

こうした中に、私の会社時代のひととき上司だった御当人の死去を知り、
特に私は深く精読したりした・・。

《・・
喪中のため新年のご挨拶は
 失礼させていただきます

夫 XXが XX月XX日に73歳で永眠いたしました
生前に賜りましたご厚情を深謝いたしますとともに
ご報告をさせていただきます

故人の遺志もありまして葬儀は身内で執り行いましたので

ご香典、ご供物等は固く辞退申し上げます

皆様には良い年が訪れますようお祈りいたします

・・》

このような文面を私は深く精読したのである・・。

私は中小業のある民間会社に勤め、30代の後半の一時時期、
組織変更と人事異動で、新たに上司となった御方の下で、職務に従事していた。

管理畑であるが、この上司は営業畑で活躍されて栄進された御方で、

親分肌で部下の多くから好かれていた。

そして休日の合間に、海釣り、スキーなどに後輩たちを引率したりし、

人望も有していた。

ある時、私は同僚のひとりとして、何か職務上の問題で論争になってしまった時、
この上司が聞いていた。

私としては、同僚が海釣りも好きで、この上司に懐(なつ)いていて、
何かと海釣りに幾たびか同行していたことも知っていたので、
不利な論争の結果になると、少し危惧したのは事実であった。

結果として、この上司は私の論に軍配を上げて、
公平な視線がある稀(まれ)な人、と私は強く感じたりした。

まもなくして、組織変更などで私の上司は変わったりしたが、
この上司は、幾たびの会議で公平な判断をされていると同僚、後輩たちからも聞いたりし、
私は社内、懇親会などでお逢いするたびに、敬愛を深めたりした。

私は定年退職後も相変わらず年賀状だけは送信し、
この上司からも暖かな年賀状を頂いていた。

退職後の5年も過ぎると、現役時代と大きく変貌し、
たとえ葬儀であっても、御通夜、告別式の参列は、義理のように風化してしまう・・。

こうした心情も察して、この上司は葬儀は身内だけで、と判断された、
と私は解釈したりした。

私も退職後の年金生活を始めた頃に、葬儀は家族葬で、と家内に幾たびか言っているので、
この上司の思いが深く共感できたりした。

この後、私はこの御方のお住まいだった方に、手を合わせて、
公平な視線を保った稀(まれ)な人だった、と心の中で呟(つぶや)きながら、
ご冥福を祈ったりした。

        

このような体験があったりした後、私は会社時代の上司、同僚、後輩の御通夜、告別式の参列は、
遠ざかってしまっている。

そして会社時代の懇親会は、私は毎回欠かさず参加している中、
XXさん、或いはXXさんも亡くなわれた、と知り、
心の中で、ご冥福を祈ったりしている。

しかしながら、もとより親戚、友人、知人に関しては、御通夜か告別式の参列して、
帰路、私は果たして何年生きられるかしら、と思う時もある。

やがて自身が健康を保つことは、自助努力も必要であるが、
この世とお別れする時期は、神様か仏(ほとけ)さまの采配による、
と私は思いながら、足早に帰宅に向かっているが、ここ数年となっている。


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認知症、改めて悲惨な実態、私は動顛しながら学び、やがて涙を浮かべて・・。

2017-09-06 15:52:19 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読している【NEWS ポストセブン 】を見ている中で、
『 認知症行方不明者は年間1万5000人 死亡で発見も多数 』と題した見出しを見てしまった。

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活のまもなく73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後39年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

私たち夫婦は、子供もいないので介護などは頼れる人はいなく、
いつの日にか介護を要する身となった時は、介護施設に入居するか、或いは自宅でするか、
漠然としながらも思案し、ときおり私たち夫婦は話し合ったりしている。
        
ここ数年、私が何よりも恐れていることは、認知症となり、自身が正常に自覚をできないことである。
私は親戚の方、知人の方とか、本などで認知症の悲惨さを少しばかり学んだりし、
たとえば私が認知症となり、介護をしてくれる家内の身を案じるとたまらない真情となる。

或いは逆に家内は認知症となり、私が看病する場合も同様である。

認知症の本人は介護して下さる方も解らず、
何よりも介護する方は、看病する張り合いがないと思われるからである。

このような私は、やはり認知症に関して、気になり記事を精読してしまった・・。

          

この記事の原文は、『週刊ポスト』の2017年9月15日号
に掲載された記事のひとつであり、
関連の【NEWS ポストセブン 】に9月4日に配信され、 無断ながら転載させて頂く。

《・・認知症行方不明者は年間1万5000人 死亡で発見も多数

嘘だろ。たった10分、コンビニへ買い出しに行っただけなのに──。
さっきまで、妻はテレビを見て笑っていた。

夕飯のおかずと飲み物を急いで買ってくるくらいなら、大丈夫だろうと思っていた。

テレビはついたまま。飲みかけの湯飲みからは、
まだほんのり湯気が立っている。
座っていた座布団は凹んだままで、温もりが残っている。
携帯も財布も、外出する時にいつも履く靴もそのまま。

認知症の妻だけが、いなかった。


それでも、その時は“すぐに保護されるだろう”と思っていた。
70すぎの女が、自分の足で遠くに行けるはずがない。



だが、違った──。2年経っても、3年経っても、妻は見つからなかった。
ニュースで「高齢女性の遺体が発見された」と聞くたびに、心臓が波打つ。

“妻でありませんように”。そう祈る一方で、
最近では“遺体が妻だったら楽になれるのに”と頭をよぎるようにもなってきた。


「消えた人」であれ、あるいは「待つ人」であれ、こんな《悪夢》が、
数年後の日本では、誰の身にも現実に起こり得るのかもしれない。

          

警察庁が発表するデータは衝撃的だ。
昨年1年間で全国の警察に届け出があった行方不明者のうち、
「認知症」を患っていた人数は1万5432人。

前年に比べ26.4%も急増した。
増加ペースは年々上がっており、今や行方不明者全体のおよそ2割を占める。

介護施設情報誌「あいらいふ」編集長の佐藤恒伯氏がいう。

「団塊の世代が全員75歳以上になる2025年以降は、さらに問題は深刻化するでしょう。
全国の至るところで、どこからやってきたか、自分が誰かもわからない認知症患者が
徘徊する社会が現実のものになるかもしれないのです」


「Aさんは、デイサービスの合間、ちょっと目を離した隙に玄関から抜け出した。
風の強い冬の日で、所持金もない。
遠くに行けるはずがないと思ったので、近隣を重点的に探していました」

ところが数時間後、Aさんが発見されたのは、
施設から約10㎞離れた大井埠頭(品川区)の桟橋だった。

「埠頭までは、幹線道路や運河に架かる橋をいくつも渡らないと辿り着けない。
強風の中、どうやってたどり着いたのかは、ご本人も説明できない。
足がパンパンに腫れていたので、徒歩だったのでしょう。
セーター1枚の部屋着姿で、体は冷え切っていた」

Aさんのようなケースは、“季節外れの服装”で第三者が、異変に気づくことができる。

          

厄介なのは、周囲が気づきようがない場合だ。

別の施設関係者がいう。
「Bさん(70代女性)は、いわゆる“まだら”の状態で、
会話も成立するから、普通のおばあちゃんにしか見えません。

その日、お迎えに行ったら自宅は、空っぽ。
自転車に乗らない方なので『徒歩にて移動』と通報したのですが、
発見された時には、なんと持ち主不明の自転車を押していた。

顔写真を持って、目を光らせていた隣町のケアマネさんのおかげで、奇跡的に見つかった」

前出・佐藤氏がいう。
「認知症の行方不明者は、届けが出た当日から、数日の間に見つかっているケースが大半です。
ただ、昨年も471人が死亡した状態で見つかっています。
決して少ない数字ではない」

命にかかわる問題にもかかわらず、対策は難しい。

「突然、普段と行動パターンが変わって、いなくなってしまう人もいる。
入所している施設で職員から“大人しくてあまり手が掛からない”と思われていたCさんが、
突然いなくなったことがあった。

翌日に見つかった時は、10㎞以上離れた場所で、うずくまっていたのです。
履いていたのは、施設のサンダル。
いきなり、普段とは全く違った“力”を発揮してしまうことがあるんです」(同前)・・》

          

この後、この記事の下段に関連記事として、
『介護業界に衝撃施設から抜け出して凍死、賠償2870円』と題された記事を読んでしまった。

この記事の原文も、『週刊ポスト』の2017年9月15日号に掲載された記事のひとつであり、
関連の【NEWS ポストセブン 】に9月4日に配信され、 無断ながら大半を転載させて頂く。

《・・介護業界に衝撃施設から抜け出して凍死、賠償2870円

介護業界では「施設を抜け出すこと」を意味する「離設」という言葉がある。
介護施設情報誌「あいらいふ」編集長の佐藤恒伯氏は
「中規模程度の施設なら、月に1回は離設の事案がある」という。

プロの職員が目を配っていても、行方不明者は出るのだ。

2016年9月、介護業界関係者に衝撃が走った。
デイサービス施設の非常口から抜け出した76歳の女性が、
3日後に施設から1.5㎞離れた畑で、凍死した状態で発見された。

遺族が、施設の責任を問うた訴訟で福岡地裁は
「施設職員は、女性に徘徊癖があることを認識しており、見守る義務があった」
として施設側に2870万円の支払いを命じた。

介護保険では、施設に「身体的拘束等の原則禁止」を求めており、
部屋の施錠などについても、抑制すべきとの考え方がある。

拘束は許されないが、いなくなったら責任を取れ──
急増する認知症の行方不明者は、介護現場にも暗い影を落としている。・・》

          

私は読み終わった後、暗澹たる思いが増して、涙を浮かべていた・・。

現代でも、到来する2025年になれば、私たち世代はもとより、団塊世代の人々も、後期高齢者となり、
この中には数多くの御方も介護となる中、一部の御方には、やむなく息子か娘にすがる在宅介護の生活が予測される・・。

そして長きに介護生活になれば、今まで過ごしてきた健康な時の日常から予測できなかった、
まさかの出来事が介護する御方、介護される御方も展開され、たとえ親子でも愛憎が増ていく日常・・。

こうした現象を予言した方は、作家・有吉佐和子さんの『恍惚の人』であり、
1972年に新潮社から「純文学書き下ろし特別作品」として出版され、
この当時に私は読み、動顛させられた作品である。


本作品は認知症などで、高齢者介護に奮闘する家族の日常が的確に表現され、
介護医療の困難を提示した作品でもある。

そして在宅介護が家族でままならなくなった時は、やむなく介護施設にあずける・・。

こうした中で、たとえば認知症患者の当人が介護施設から抜け出して、徘徊する中、
関係者より発見されたり、或いは行方不明となる。

介護施設としては、認知症患者の当人が介護施設から抜け出して、徘徊することを防止する為に、
施設内で認知症患者に対して、人として尊厳を尊重しながらも、拘束する状態度合が問われる命題である・・。


このようなことも思い重ねて、私は暗澹たる思いとなり、涙を浮かべたりした。


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「現金の落とし物」がバブル末期を上回り、「タンス預金」増加と「振り込め詐欺」急増の密接な関係、私は学び微苦笑して・・。

2017-09-05 16:16:52 | ささやかな古稀からの思い

先程、ネットでニュースを見ようとして【YAHOO! JAPAN】を開き、
たまたま【ライフ】コーナーに於いて、ニュースを見たりした中で、
『「現金の落とし物」がバブル末期を上回る36億円に。
「タンス預金」増加と「振り込め詐欺」急増の密接な関係。』
と題された見出しを見てしまった。

私は年金生活のまもなく73歳になる身であるが、
体力の衰えは実感しているが、何かと好奇心ばかりは強く、どのようなことなのよ・・
と思いながら記事を精読してしまった・・。

この記事は、公式サイト【マネーの達人】に於いて、

経済ジャーナリストの荻原博子さんが寄稿された文であり、9月5日に配信され、
無断であるが転載させて頂く。

《・・「現金の落とし物」がバブル末期を上回る36億円に。「タンス預金」増加と「振り込め詐欺」急増の密接な関係。

       

☆なぜ、ゴミの中から次々と大金が発見されるのか

8月14日、石川県加賀市のゴミ集積場で、
重箱に入った現金2000万円が発見されて大騒ぎになりました。


実は、このところ立て続けに、ゴミの中から現金が見つかっていて、
4月には群馬県沼田市で収集された廃棄物の中から4251万円、
5月には奈良県でゴミの中から1000万円が発見されています。


また、6月には、福島県田村市で回収されたごみと一緒に捨てられていた現金の中から1000万円を
清掃員が自宅に持ち帰っていたことが発覚して大騒ぎになりました。


実は、昨年4月も、京都市の収集ゴミの中から現金2300万円が見つかっていて、
それほどの額でないなら、東京都江東区で家庭ゴミの中から現金120万円、
諫早市で鉄くずの中から現金300万円と、かなり頻繁に現金が見つかっています。


それもそのはずで、警視庁によれば、昨年の現金の落とし物は36億円。

バブル末期でも35億円だったそうなので、それを上回っているということです。

        

■マイナス金利で「タンス預金」が急増

バブルの時のような景気の良さはないのに、
なぜ、こんなにゴロゴロ現金が落ちているのかといえば、
日銀のマイナス金利の影響が大きく、どうせ銀行に預けても利息がつかないのだから
という人が増えたからではないでしょうか。


中には、マイナス金利と聞いて、自分の預金が目減りするのではないか、と思った方もいたようです。

結果、「タンス預金」が急増しています。

日銀によると(資金循環統計・2016年9月速報値)、
個人のお金は1752兆円あり、そのうち78兆円が1万円札として市中に出回っています。


ただ、このお金の中には、みなさんが買い物をするために、
お財布に入れているお金も含まれているので、こうしたお金を差し引くと、
第一生命経済研究所によれば、今年2月末で43兆円が「タンス預金」になっているようです。


しかも、「タンス預金」は、ここ3年で約3割も増加しているのだそうです。

        

☆「タンス預金」急増で、減らない振り込め詐欺

「タンス預金」が増えているいっぽうで、振り込め詐欺やオレオレ詐欺などの特殊詐欺も増えています。

検察庁によると、今年上半期の特殊詐欺による被害は、6月までで8863件。
昨年の同じ時期と比べると、約37%も増えているとのことで、
被害額も約187億円とかなりなものになっています。


特殊詐欺は、2014年をピークに減少傾向ではあったのですが、
ここにきてまた急に増えています。


被害者は高齢者に集中していて、約72%が65歳以上。

中でも発生数の最も多い「オレオレ詐欺」は、被害者の96%が高齢者とのことです。
あんなに、あっちでもこっちでも「オレオレ詐欺に気をつけろ!」
といっているにも関わらず、高齢者だとコロコロ騙されているというのは、
私は、「タンス預金」と振込詐欺が増えていることと関係があるのではないかと思います。


なぜなら、「タンス預金」だと手元にお金があるので、
ついつい口車に乗せられ、右から左にお金を出してしまうケースが増えるからです。


        

■「タンス預金」にせず、貸金庫だと思ってしっかり預入


お金を銀行に預けていると、わざわざ銀行まで行って、おろさなくてはいけない。

老人が銀行で大金をおろそうとすると、
今は必ずと言っていいほど「何にお使いになるのですか?」
と窓口の係員に聞かれます。


また、高齢者のATMでの現金の引き出しについては、制限をかける銀行も増えています。
昨年7月に、いち早く70歳以上の利用者に振り込み制限を導入したのが愛媛銀行。

以来、現在、約4割の銀行が高齢者に対しての引き出し制限を始め、振込額の制限をするところも出てきています。

結果、今年上半期だけでも約9000件の詐欺が、銀行の窓口で未然に阻止されています。

ですから、確かに銀行にお金を預けても、ほとんど利息はつきませんが、
「タンス預金」にせず、ただの貸金庫だと思って、しっかり預入しておきましょう。

 

☆銀行は、タダで預けられる金庫です。

年配の方の中には、2000年前後に多くの金融機関が破綻した記憶があって、
銀行不信に陥っている方も多いかもしれません。


けれど、今はそんなに簡単に銀行を倒産させない仕組みになっているし、
もし倒産したとしても、預金保険機構で銀行(信用金庫等も含む)一行あたり、
預金1000万円プラス利息までは、確実に守られることになっています。


ですから3000万円あってどうしても破綻が心配というなら、
1000万円ずつ3つの銀行に分けて、預けておけばいいでしょう。

        

■「もし詐欺にあったらどうしよう」と考える事


今年3月発表の内閣府の調査では、
「自分は詐欺被害にあわない」と回答した方が39.6%。

「どちらかといえば、被害にあわない」を含めると80.7%と、
約8割が、自分が騙されるということは、想定していないようです。


年代別に見ると、30代以上では高齢になるほど騙されない自信のある方が増えていて、
70代では50.7%の人が「自分は被害にあわない」と思っているようです。


けれど、現実問題としては、「オレオレ詐欺」の被害者の96%が高齢者。

「詐欺に合わない」と自信を持つよりも、
「もし詐欺にあったらどうしよう」ということを考えたほうか良さそうです。



詐欺を防ぐ手段としては、まず、大金は「タンス預金」ではなく、銀行にしっかり預ける。

そして、大金が必要になるような誘いが来たら、
念のために身内や、身内がいなければ最寄りの消費者センターに連絡し、
詐欺でないことを確認しましょう。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした

        

私は記事を読み終わった後、微苦笑を重ねてしまった・・。

私は東京の調布市に住む年金生活のまもなく73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、日常を過ごしている。

そして私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、「タンス預金」に関しては、我が家はない。
私は平素は何かと単細胞でロマンチストであるが、虎の子と称されている老後資金は、
シビアな面がある。

そして我が家は、国債はある信託銀行、貯金はある地方銀行、郵便局(ゆうちょ銀行)に預けて、
無念ながら我が家は金庫がなく、最寄のある地方銀行の貸金庫を年に数万円でお借りしている。

そして私たち夫婦は、お互いに『へそくり』もしていない。
こうした根底には、やがて家内となる人より婚約する前に、
お互いに隠し立てをしないようにしましょうねぇ・・と私は言われたりしたからでもある。

我が家で現金があるとすれば、お互いに数万円を所有し、
これ以外には特別予備金として10万円を保存している。

この特別予備金は、突然の親戚、友人、知人が、ご不幸で、
土曜日、日曜日にお通夜、告別式に備えて置いてある。

        

「詐欺被害」に関しては、私は国債のわずかな利子でも、これ以上の甘い事柄は、
この世に巧い話はなく、何かしら裏表がある、と小心者の私は思い続けているので、
甘くて危険な話には避けてきたりし、当然ながら詐欺には遭遇していない。

そして「詐欺被害」に遭遇する御方は、認知症の御方以外は、
欲深い御方が殆どと思ったりしている。


「オレオレ詐欺」に関しては、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、
息子、娘もいなく、もとより孫もいなく、発言権はないが、許されるならば、
幾ら親愛の情が増しても、簡単に第三者を通して、X00万円とかX000万円などの大金は払わない。

あるとすれば、ともかく私の前に本人が来て、事情を話せ・・相談はそれからだ・・、
と私は認知症にならない限り、明言する、と思われる。

しかしながら、老後の大切な資金を祖父、祖母は孫の為に、
安易に第三者を通して、支払う心情は、私は判らないでいる・・。

今回、この記事を読み終わった後、少し変わった私は、微苦笑をさせられたりした。


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太る原因はやっぱり炭水化物? 医師も半年で体重が6キロ減!、私は学び、瞬時に同意して、微笑み返し・・。

2017-09-04 16:10:13 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読している生活総合情報サイト【All About(オールアバウト)】に於いて、
食と健康/健康的な体型づくりと食生活』を見ていたら、

『医師も半年で6kg減! 太る原因はやっぱり炭水化物?』と題された見出しを見た。

私は年金生活をしている9月下旬になれば73歳になる身であるが、
何かと少し肥満体な私は、気にしていることで、読んだしまった・・。

この記事は、日本消化器病学会専門医で胃腸科・内科の病気のガイドされている今村甲彦(いまむら・たかひこ)さんが、
【All About(オールアバウト)】に寄稿され、2015年9月3日に配信された記事であり、
少し古い記事であるが、食と健康に関しては、時空を越えると思いながら読み、多々教示され、
無断であるが転載させて頂く。

           

《・・
太るのは、食べ過ぎが原因だと思っていませんか?

しかし、実はこれまで太る原因とされてきた「カロリー説」は、エビデンスが乏しいとされています。

近年では「ホルモン説(炭水化物説)」が注目されており、「糖質制限」「低炭水化物」ダイエットが、もてはやされています。
今回は自身の経験をもとに「ホルモン説」を検証してみます。

 ◆肥満の原因は炭水化物だった!?

「肥満の原因は、カロリーに決まっているでしょ」なんて思っていませんか?
近年、「過食だから、太るのではなく、食事に含まれる炭水化物が、太らせる」という説が注目されています。

「炭水化物」とは、「糖質+食物繊維」のこと。
「炭水化物」と「糖質」は、ほぼ同じようなものだと思っていいでしょう。

そして、この炭水化物が「ホルモン」を刺激することが、肥満の原因と考えられているのです。
ここでは肥満の原因が、「ホルモン」たる所以を考えていきたいと思います。

◆肥満が起こるメカニズム

炭水化物を摂取すると、血糖値が上昇します。
すると、その刺激で、身体に血糖を取り込むインスリンというホルモンが上昇します。
消化されやすい炭水化物は血糖値が上昇しやすく、インスリン濃度も上がりやすいのです。

インスリン濃度が上昇しているときは、燃やすべきブドウ糖が大量にある(血糖値が高い)状態であり、
ブドウ糖が優先的に燃やされ、脂肪は蓄積される方向に働きます。

脂肪が燃料として動員されるのは、インスリン濃度が低くなってからです。
つまり、血中のインスリン濃度が、高い時間が長ければ長いほど、脂肪を蓄積し、体重が増加してしまうのです。

           

◆脂肪を減らす“カギ”はインスリン

インスリン濃度は、ほぼ私たちが摂取する炭水化物によって決定すると考えられています。
炭水化物を多く摂取するほど、脂肪が蓄積され、体重が増えていくことになるのです。

◆“あのダイエット法”も実は糖質制限

巷で人気の“2カ月で別人のようににやせる”というトレーニングジムも、
厳密に言えば、「糖質制限(低炭水化物)ダイエット」といえるでしょう。

徹底的な食事管理が行われ、炭水化物を摂らないように、指導されているのです。
炭水化物を制限すると、確実にやせるというのは間違いないようです。

運動は健康維持には有効ですが、運動をすると食欲もわくので、
運動だけで、ダイエットするのは難しいと考えられています。

◆「低炭水化物ダイエット」、はたして結果は……

実際に私が、“低炭水化物ダイエット”をやってみた結果をご説明したいと思います。
そのやり方は、炭水化物を含む「ご飯」や「麺類」を食べず、
家での食事は、砂糖の代わりに糖質のない甘味料で料理してもらうというものです。

お酒については、ビールは糖質オフ、糖類の少ない「赤ワイン」や「焼酎」などの蒸留酒はOK。
カロリー制限はしないという“ゆるい”ものです。

結果は、半年で6キロの減量に成功!
もともと身長175cmで80キロと、やせる余地が大きかったのもありますが、
食べる量は減っていないのに、減量できたのには驚きでした。

それよりビックリしたのは、同じ食事をしていた普通体型の妻が、10キロもやせてしまったことです。
低炭水化物ダイエットは、個人差があるようですが、効果があるのは間違いないようです。

なお、低炭水化物ダイエットは、京都の高雄病院の理事長、江部康二先生のものを参考としています。
過度の低炭水化物ダイエットは、体調を崩してしまうことがあるので、十分注意してください。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした
            

私は民間の中小業のある会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
多々の理由で直ちに年金生活に入ったした。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけの家庭であるが、
私は
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。


そして年金生活を当初は、私は独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。

そして朝食は白米
のご飯をお腹いっぱい食べたり、
昼食だけは我が家は、お互いに制約することなく自由としている中、
私は冷凍商品のチャーハン、或いはアンパンを二つ食べたりしていた。

夕食する前には、
純米酒の辛口が好きの私は、
晩酌の時は現役時代と同様に2合、ときには3合を呑んだり、

或い日はビールの時は500mlの缶ビールを数本を呑んだりした。

こうした中で、ときには日中に小庭のテラスに下り立ち、簡易椅子に座り、缶ビールを呑みながら、
リストラ烈風の中、最後の出向時代の5年間は、何かと大変だったなぁ、と思い重ねたりした・・。

この結果、身長は170センチ、体重は70キロだった私は、毎年少しずつ体重が増えてしまった・・。

                            
  

過ぎし2010年(平成22年)の秋、私は健康診断の結果、
『糖尿病で、内科に受診して下さい』と明記されてしまった。


私は青ざめ、翌日に自宅から徒歩10分ばかりの内科専門病院に行き、検査、そして問診の時、
『国内旅行に何とか70歳ぐらいまで行きたいので・・何なりと御指導をお願い致します』
と私は内科の医師に懇願した。

そして高橋真梨子さんが唄われた『桃色吐息』は妖艶であるが、
体力の衰えた66歳の私は、青色吐息のような表情で、内科の医師のアドバイスを聴いたりした・・。

私は家内との共通趣味は国内旅行であり、糖尿病の場合は、もとより食事制約がある。

このような時、家内と共に旅行の宿泊先で美味しい夕食を頂けそうな時、
私は食べてはいけない料理だったら、余りにも惨(みじ)めである、と思ったりした。

やがて医師から、料理のカロリー試算表を渡された上、軽い運動を毎日して下さい、と私は言われた・・。
この後、6週間の私は、家内が料理のカロリー試算表を確認しながら野菜を多くした料理を作って貰い、
これ以来、朝夕頂いたりした。

そして私は、ウォーキングをしたり、或いは早足で遊歩道を歩いたりし、
お酒はしばらく・・さよならねぇ、と夕食の時も煎茶を飲んだりしていた。

この間、私は最寄の内科に4週間毎に定期健診を受けて、
糖尿病の範囲の対象から克服でき、悪玉コレステロールは基準値の90%、
これ以外はすべて優等生となったのは、2011年(平成23年)の3月の初旬であった。

                          
これ以来、食事に関しては、私は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
朝食は、ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の一汁三菜(いちじゅうさんさい)の真似事をしている。

私の朝食の原則として、前菜を必ず頂いている。
タマネギをスライスし、生ワカメとあえて、そしてミッカンぽん酢とお醤油をかけて、
大きな皿に盛大に食べたりしている。

やがて十六穀米の入った白米のご飯を半合ばかり盛ったお茶碗、インスタントのワカメの味噌汁、
納豆、コブの佃煮、シラス干し、福神漬けを必須として、
これ以外はカブの醤油漬け、カブの葉の塩漬け、焼きノリなどを
加える時もある。
そしてシャケの瓶づめ、或いはサバ缶のミソ煮で頂くことが多い。

家内は時折つきあうが、大半は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、ホット・コーヒーを飲みながら頂くことが多い。
そしてバナナなど果物も食べたりしている。

            

昼食は私はホット・コーヒーを飲みながら、小さな塩フランスバンを三ばかり食べたりしていたが、
家内はケーキのような菓子パンを食べることが多い。

しかしながら昼食は、お互いに自由な時間を過ごしているので、
それぞれ自在に食べることが多いのが、実態となっている。

                                                               

やがて夕食の時は、私は前菜として、冷凍のブロッコリーを電子レンジで少し温めて、
やはりミッカンぽん酢とお醤油をかけて、食べている。

そして牛肉、豚肉、鶏肉、ラム肉など200グラム程度に、いずれかを野菜を加えて、多めに頂いたりし、
ときにはシイタケ、シメジ、マイタケなどの茸(きのこ)も好きで、食べたりしている。

こうした中で、5日毎にウィスキーの濃い水割りを飲んだりしている。

家内は肉と野菜を食べたりした後、プリンかショートケーキを食べたりしている。

このような食事内容が、真実一路のように変化がなく、ここ三年は変わらず続いてきた。

          
こうした朝食、夕食を頂いている中でも、 私は平素は亡き母の遺伝を素直に受け継いだ為か、
男の癖におしゃべりで、家内と談笑をしたりしている。

こうした日常生活の食事となり、ときおり駅前に買物とか旅行の旅先の時は、
家内の要望を聞いて、食事処で少し背延びした料理も頂いたりしている。
                          
ときおり家内が独り住まいの家内の母宅に、家内の妹と交代で、看病で宿泊することも多くなっていて、
私は我が家で『おひとりさま』の生活になるが、
こうした時でも殆ど食事内容が変わらなく過ごしたりしてきた。

          

                             
こうした中、私としては何よりも不思議と感じたのは、冷蔵庫の中にビールがあること、
台所の片隅の収納所に日本酒の一升瓶、四合瓶も忘れてしまっていることである。

かって呑兵衛と自任してきた私は、平素の夕食に煎茶でもまったく違和感が感じることなく、過ぎている・・。

このように私は20代から何かと日本酒、ビールを中核にワイン、ウィスキーも呑んできたが、
歌を忘れたカナリヤのようにアルコールから遠ざかり、
国内旅行、冠婚葬祭、或いは懇親会の時は例外として、そして我が家で週に一度ぐらい呑むぐらいとなり、激少となった。

この後、国内旅行で家内と共に、各地を幾たびも行ったりすると、
やはり宿泊処で地酒を呑んだりしてきたが、体重が増えてしまった。
         
やむえなく糖分の多い日本酒、ビールとお別れして、ウィスキーに氷を入れただけのオンザ・ロックとし、
弱くなったので、少しだけ水を入れた濃いめの水割りで呑むこととして、
5日に一度ぐらい自宅で呑んだりしているのが現状となっている。
                           
こうした中、過ぎし40代前後に弐合徳利、ぐい呑みを幾種類も買い求めて、
晩酌の時に、今宵はどの弐合徳利にしようかしら、と選定しながら夜の友のひとりとしてきたが、
今やガラス戸の棚に、ひっそりと鎮座していることも、忘れていることが多くなっている。

このように過ぎゆく人生は、ささやかな年金生活を継続を望むなら、
無念ながら何かしら断念することも必要てあり、私の場合は愛飲していた日本酒となっている。

            
                  
ここ数年は身長170センチ、体重は76キロ前後が続いていたが、
今年の4月頃、体重が78キロになった時もあり、溜息を重ねたりした。

もとより肥満体は糖尿病になる早道と専門家より公言されているし、
糖尿病から認知症もなることがあると学んだりし、私は認知症だけは困苦するので、
やはり私の場合は72歳の身ながら、日常生活を過ごすのは、おまけながら75キロが理想と思ったりしてきた。

やがて食事対策として、
やはりご飯、肉類は食べ過ぎと改めて気付き、
朝食のご飯は、少し減らした0.3合となり、そして昼食は、キュウリ、トマトだけとしている。
そして午後3時のおやつの時には、ヨーグルトを食べたりしている。

やがて夕食は、肉類200グラムを半減し、これ以外は従来通りに賞味してきたが、
こうした関係で、8月月末に健康診断の検査で、体重は73.6キロと診断され、成果があったよなぁ・・
と私は微笑んだりした。

そして昨夜、体重計に乗ったら、73.0キロであった。
意識して、良く歩いたり、食事も気を付けた結果、約4か月で、約5キロ減量かょ、
と私は独り微笑んだりした。

今回、胃腸科・内科の病気のガイドされている今村甲彦さんは、
半年で6kg減と知り、炭水化物の身体にもたらす影響を多々学び、
そうですよねぇ・・と私は瞬時に同意して、微笑み返しをしてしまった・・。


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死んだ後に「悪口を言われる人」の共通点、何かと小心者の私は、こっそり学び、やがて微苦笑させられて・・。

2017-09-03 16:26:58 | ささやかな古稀からの思い

 先程、私は愛読しているネットの『プレジデントオンライン』を見ている中、
【 死んだ後に「悪口を言われる人」の共通点
~亡くなっても心の絆は切れない~ 】と見出しを見たりした。


私は民間会社の中小業のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、

この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

そして遠い勤務地に勤め、この期間も奮闘した結果、

身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
                       
やがて年金生活は現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、
予測した以上に安楽な生活を過ごし、早や13年近く過ぎている。

このような拙(つたな)い人生航路を歩んできた私は、
『死んだ後に「悪口を言われる人」』に小心者の私としては、ドキュンとして、
記事を精読してしまった。

            

この記事の原文は、『プレジデント』に2016年11月1日に掲載されて記事であり、
ライターと思われる小島 和子(こじま・かずこ)さんが、
それぞれの分野で詳しい御方に取材されて纏(まと)められた寄稿文であり、
『プレジデントオンライン』に2016年9月2日に配信され、無断であるが転載させて頂く。

《・・死んだ後に「悪口を言われる人」の共通点~亡くなっても心の絆は切れない~

■「アイツは嫌な奴だった」なんて…

家族や親類縁者、仕事関係で近しくしていた人は、
亡くなった人のことをどんなふうに話すのだろうか。

悲しんでくれるのか、それとも案外ケロッとしていて、
その人のことを、じきに忘れてしまうものなのか。

もし、自分がいなくなった途端に
「アイツは嫌な奴だった」なんて陰口を叩かれるようでは、死んでも死にきれない──。


これについて緩和医療医の大津秀一氏、ビハーラ僧の三浦紀夫氏、ホスピス医の小澤竹俊氏に尋ねると、
「亡くなった方を悪く言う人は、あまりいない」
と口を揃えて言うから、ひとまず安心してよさそうだ。

では、残された人たちは具体的にどんなことを言うのか。


大津氏の病院で亡くなった方の遺族は
「夫以上の男性はいません」
「素晴らしい母でした」
「つらい闘病生活でしたが、最期まで投げずに頑張ったと思います」など、
故人がどれほど大切な人だったかを、改めて噛み締め、病気で苦しんだであろう最期の日々をねぎらうことが多いという。


            

■亡くなると一転、いい思い出ばかりに


三浦氏の経験でも、残された最期の時間を在宅で一緒に過ごしたり、
病院や施設にいても、見舞いに来るような関係性がある場合は、
たとえ生前、あるいは看病で苦労させられた家族でも、そうそう悪口は言わないものらしい。


肝臓がんで61歳の夫を亡くした杉山良子さん(仮名)は、見舞いに来るたび、
「この人には、泣かされっぱなし。
最後の最後まで、こんなに苦労をさせられて」
と憎まれ口を叩いていたという。

だが、いざご主人が亡くなると一転、いい思い出ばかりを語るようになった。


「料理上手で、私にもよくつくってくれたんですよ。そういうところが好きでね」
とのろけ話まで出てくる始末。


「苦労させられたというのは、本音としても、
夫が亡くなっていく過程をお世話するのは、つらいはず。
憎まれ口は、複雑な気持ちの表れでしょう」(三浦氏)



また、生前好きだったモノを通して、故人を偲ぶ人も多い。
「コーヒーが好きで、毎朝飲んでいたんですよ」。

70代の父親を亡くした40代の女性は、三浦氏にそう語ったそうだ。
毎日朝晩2回、仏壇にコーヒーを供え、自身も一緒に淹れたコーヒーを飲む。

「こうしていると、父がまだ生きている気がするんです」。
その姿は、亡くなったことを、ゆっくりと受け入れているようだった。

           

 ■生前の関係性次第では例外もある

このように大方の場合、故人を悪く言う人はいないのだが、
生前の関係性次第では、例外もあるのだ。

たとえば、家庭をまったく顧みなかった場合、
最期のときが近づいても、見舞いに来ないばかりか、亡くなってなお悪く言われるケースもある。


ビハーラ僧の三浦紀夫氏が看取った徳永三郎さん(仮名・70代前半で死去)は
サラリーマン時代、仕事をバリバリとこなす一方、
大変な酒好きで、毎晩のように部下を引き連れて飲み歩いては、
夜中過ぎに酔っ払って帰宅していた。

当然、家族と会話をする時間もない日々だった。
2人の息子の世話を含め、家のことはすべて妻の直子さん(仮名)任せ。

そんな日々でも直子さんは、忍耐強く家を守り、子どもたちも立派に成長。
2人の息子は医学部を出て医者になった。


末期がんに侵された徳永さんが、三浦氏の運営するグループホームに来てから、
何度連絡しても、家族は誰一人として見舞いに来なかった。
医者の息子たちは「主治医でもない自分たちに、できることはないから」と言っていた。

           

■どう生きてきたかが問われてしまう


徳永さんが亡くなったときでさえ、
直子さんは「もう顔も見たくない」と来ることを拒んだという。

結局、三浦さんたちが、お通夜と葬儀を執り行い、直子さんも出席したそうだが、
その間、直子さんの口をついて出るのは
「この人には、さんざん苦労をさせられた」という恨み言ばかり。

自業自得といえばそうかもしれないが、これでは徳永さんは安心して成仏できそうもない。


まさに、どう生きてきたかが、問われてしまうのが、最期のときだ。

では、死してなお悪く言われることが、ないようにするには、どうしたらいいのか。

「生前に家族との信頼関係が少しでもあれば、亡くなっても心の絆が切れることはないはず」
と小澤氏は言う。

たとえ後悔ばかりの人生で、周りに迷惑をかけることが多かった人だったとしても、
最期の瞬間、穏やかな別れ方が、できる人も多いらしい。
それなら救われそうな気がしてくる。


ただし「まったく信頼関係がなかった人のことは、思い出しもしないかもしれませんね」
(ホスピス医 小澤竹俊氏)。

愛の反対は憎しみではなく、無関心、とはよく言われる。
忘れ去られてしまうより、憎まれたほうがまだ幸せということか。
自分の胸に手を当てて、じっくり考えてみたい。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした

           

今回の記事を読み終えた後、これに関連して、少し飛躍したことを思い馳せたりした・・。

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活のまもなく73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後39年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

私たち夫婦は、子供もいないので介護などは頼れる人はいなく、
いつの日にか介護を要する身となった時は、介護施設に入居するか、或いは自宅でするか、
漠然としながらも思案し、ときおり私たち夫婦は話し合ったりしている。
        
ここ数年、私が何よりも恐れていることは、認知症となり、自身が正常に自覚をできないことである。
私は親戚の方、知人の方とか、本などで認知症の悲惨さを少しばかり学んだりし、
たとえば私が認知症となり、介護をしてくれる家内の身を案じるとたまらない真情となる。

或いは逆に家内は認知症となり、私が看病する場合も同様である。

認知症の本人は介護して下さる方も解らず、
何よりも介護する方は、看病する張り合いがないと思われるからである。
                                     
このような私の思いから、認知症になる前に、ポックリとこの世と別れを告げたい、と思ったりしている。
                        

過ぎし7年の晩秋ある日、私の自宅の近くの川沿いの遊歩道を歩いていた時、
この遊歩道は片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろど)っている場所で、私の散策の好きなひとつのコースでもある。
      
そして、いつものように木のベンチに私は座り、煙草を喫いながら、少し休息をした・・。

この時に、どうした思いか解らないが、いつの日にか命が果てる時は、
晩秋の午前のやわらかな陽射しの中、ポックリと死を迎えられたら本望である、と脳裏をかすめたりした。

この遊歩道で、独りで歩き、好きな本を抱(かか)えて、突然に命が果てる、
といった状況を願ったりした・・。
                                                           
或いは、いつの年か身体の変調を感じて、自宅で寝ていて数日し、悪化を増す中、
布団の中でオシッコを一度だけ漏らしたりして、死去後のことなどを家内に伝言する。
やがて救急車で病院に運ばれて、入院して数日後に死去する。

そしてこの間に家内からは
『あなたとの生活・・楽しかったわ・・』
と心の中で感じてくれれば充分である。

やがて私の葬儀の中、家内が私の兄妹、知人に、
『一週間前の頃は・・いつものように買い物に行ったり、散歩もしていたの・・』
と家内が言ったりしてくれれば、私はあの世で満足していると思われる。

このような終末期を私は思いめぐらしてきた・・。
            
 

葬儀に関しては、私は家内には、
俺が死んだ時は家族葬で、和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、

とここ16年ぐらい言ったりしている。

私は父親、祖父、次兄、母親、そして親戚の叔父、叔母、或いは知人などの数多くの葬儀に参列してきた。
こうした中で、自宅で通夜、告別式、或いは寺院の斎場で通夜、告別式が執り行われ、
多くの会葬者を観たりしてきた・・。

私はサラリーマンを定年退職し、早や13年半が過ぎた年金生活の身であり、
官公庁、民間会社で栄達された人とは、遥かに遠い平凡な人生を歩んできたりした。

こうしたことで、遠い親戚、知人、友人も高齢者の方が多く、わざわざ通夜、葬儀に参列して頂くより、
これまでの私の人生の歩みで、欠かすことのできない血は水よりも濃いと称せられる親族で、
ささやかに葬儀をしてもらいたい、と願っている。
            

こうした中で、家内はもとより、私の兄である夫妻、妹の夫妻、一番下の妹、兄の子供である甥のふたり、
そして家内の妹夫妻、そして家内の母が存命であったら加わって欲しい・・
このくらいの親族の一部の最小限のメンバーで通夜、告別式を執り行って、家族葬の形式と念願している。

昨今、式場の内部が、自宅の居間のような形で、片側に御棺を置き、
広いテーブルで食事やお酒を飲食できる会場もあると知り、私は微笑んだりした。

通夜の日、御棺の周りは幼年期は農家の児として育ち、
日本風土の土に還るので和花を中核として、欧米の書物、映画、音楽も少し愛してきたので、洋花も添える。
この時、和花が高価だったならば、洋花を中心としても差し支えない。
                          

大きめのテープルには、食事処から取り寄せた和食、洋食を食べて頂き、
煎茶、コーヒー、紅茶などを飲んだり、ウィスキー、ワイン、日本酒、ビールなど吞んで頂いたり、
私の生前のこぼれ話しをテーマに、談笑して頂く・・。

たとえば平素は大人(おと)しかったが、何かに夢中になると、物狂いのように振舞って、

周わりにいた人に驚かせたよなぁ・・と私の生前の言動を話題にしてくだされば・・と思ったりしている。

人は誰しも故人の心の奥に秘めた心は解らないが、とりとめなく話して、

あの時は・・と笑って下されば充分である。


こうした中で、音楽が静かに流れれば、と念願したりしている。
選定する曲としては、今、瞬時に思い浮ぶ曲としては、
唱歌の『ふるさと』、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第8番 『悲愴』、
交響曲第9番の第三楽章、アルビノーニのアダージョ、ショパンの練習曲作品10-3 『別れの曲』・・
この5曲ぐらいは・・と思ったりしている。

翌日の告別式は、このメンバーで自宅の居間のような形の式場に集合し、お線香一本を上げてもらい、
この後は火葬場に行き、ふたたびこの式場で、
お好みの飲み物を吞みながら、食事をして談笑して頂いた後、散会する・・。

今回の記事を読み終えた後、このように思い重ねたりしている。


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歳を取ってからの住み替えは、一度の過ちが命取りになる、高齢者の私は学び、多々教示されて・・。

2017-09-02 14:40:09 | ささやかな古稀からの思い

先程、愛読しているネットの【現代ビジネス 】を見ている中で、
【 都市部のマンション売って田舎に住む、は最悪の選択だった 】と見出しを見たりした・・。

私は東京の調布市に住む年金生活のまもなく73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、日常を過ごしている。

こうした中、人生の最期を迎える時まで生活する終の棲家
ついのすみか)についても、
色々とめぐらしてきたが、
恥ずかしながら何かと無知なことが多く、
今回の標題《・・都市部のマンション売って田舎に住む、は最悪の選択だった ・・》
やはり残こされた老後生活の中、選定を誤れば取りつかなく困苦するので、少しでも学びたく、精読してしまった。

やがて記事を読み終えた私は、知らなかったこともあり、多々教示された・・。
             
この記事の原文は、『週刊現代』の2017年9月2日号に掲載された記事のひとつであり、
【現代ビジネス 】に8月30日
の配信された記事のひとつであり、無断ながら大半を転載させて頂く。

              

《・・
☆「田舎へ移住」の悲惨な末路

長い勤め人生活を終えて、老後は気ままに暮らしたい。
それに合わせ、住まいも移りたいという人は多い。
だが、安易な住み替えほど、人生の設計図を狂わせるものはない。


「最悪の住み替えのパターンは、もともと住んでいた都市部のマンションを売却して、
田舎に土地を買って移住することです。


のんびり空気のいいところで、暮らしたい気持ちはわかりますが、
100歳まで生きることを考えた場合、病気のリスクは避けられない。
地方に本当に満足できる病院施設があるかどうか疑問です」(不動産経済研究所特別顧問・角田勝司氏)


マンションを賃貸に出して、田舎に住んでみるのなら、まだいい。
だが一度買い替えてしまえば、有名なリゾート地であったとしても、価格は下がる一方。
いざ売りたくなっても流動性がほとんどなく、買い手が付かないこともしばしばだ。



では都心のマンションへの住み替えであれば、問題ないかといえば、そうは問屋が卸さない。


「戸建ての住宅を売って、都心のマンションに住み替えることを検討している高齢者も多いですが、
これも要注意です。


60歳を過ぎて住み替えるとなると、中古マンションになると思いますが、
よほど築浅で、利便性の高い物件でなければ、いざ売却しようとしても、なかなか売れない。

一方、土地付き一戸建ての場合は、価格さえある程度下げれば、わりとすぐに売れます」(角田氏)


最終的に老人ホームなどに移る際に、現金が必要になったとき、一番便利なのは一戸建てなのだ。


中古物件の場合、修繕積立金も、ばかにならない。加えて、
今後10年、20年で建て替える必要がある物件も多い。
80歳、90歳になったときに、建て替えの話し合いや交渉に参加するのは、ひどく骨が折れるだろう。

              

☆リフォームも慎重に

では今住んでいる家をリフォームして、住み続けるという選択肢はどうだろう? 
はそこにも思わぬ罠が潜んでいる。


「これまでは30代で家を買い、定年後に大規模リフォームというパターンが多かった。
しかし、人生100年時代になると、60代でリフォームしても、
亡くなる前にもう一度修繕が必要になる可能性が高い。

本当にリフォームする必要があるのか、高齢者施設に入る準備金を蓄えたほうがいいのか、
思案のしどころです」(ファイナンシャル・プランナーの大沼恵美子氏)


「とりあえずバリアフリーにしておこうと、安易にリフォームする人が多いですが、
これは無駄が多い。
いざバリアフリーが必要になったときには、自宅を出て、施設に入ることがほとんどだからです。


また、手すりなどをたくさん付けてしまうと、
売却したり賃貸に出したりするときにも、障害になる。

介護のために浴室などを広くしても、そんな設備を必要としている買い手などいません」
(ファイナンシャル・プランナーの鈴木暁子氏)



高齢者の住み替え需要に呼応して、最近増えてきているのが、高齢者向けの分譲マンションだ。

サービス付き高齢者住宅は、賃貸契約だし、介護付き有料老人ホームも、利用権を買うだけだが、
分譲マンションなら所有権が持てるし、相続することもできる。
資金に余裕があればいいこと尽くめに思えるが……。


「相続しても、子供が規定の年齢に達していないと入居できないし、
そもそも子供が入りたいと思うかどうか……。

固定資産税に加えて、普通より割高の維持管理費もかかる。
しかも市場が小さいので、売りたいと思っても、なかなか売れない可能性が高い」(前出の鈴木氏)


歳を取ってからの住み替えは、一度の過ちが命取りになる。
十分慎重になりたい。・・》


注)記事の原文に、あえて改行を多くした


              
私たち夫婦はお互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂き、程ほど貯金を取り崩しながら、
ささやかに過ごしている。

私たちは東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後39年の古惚けた戸建に住んでいる。

そして私の生家も近くにあるので、私自身としてはこの地域に住んで、早や67年が過ぎている。

最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。
或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
そして私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれの最寄駅までの路線バスの利便性は良い所で、たとえば都心の新宿のデパートに買物に行っても、
電車を利用すれば、我が家よりデパートの店内に45分ぐらい、
或いは東京駅でも我が家から一時間前後となっている。
                

私は民間会社の中小業のある会社で35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋、定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めたが、平素の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の担当となったりした。

そして家内から依頼された品を求めて、私は独りで歩いて7分前後にある最寄のスーパー2店か、
或いは最寄駅まで歩いて、数多くスーパー、専門店で買い求めたりしている。

最寄駅までは、利便性ある路線バスは頻繁に走行しているが、季節のうつろう情景を眺めたり、
歩くことは何よりの健康の源(みなもと)と信愛している私は、原則として路線バスに頼らず、
ひたすら歩いて往還している買物メール老ボーイとなっている。

そして買物メール老ボーイの責務を終えた後、帰宅後も私は独りで外出して、
自宅から3キロ以内の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。
       
そして70代の三年生して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、
ときおり願いながら歩いたりしている。

             
          
過ぎし私の40代の頃、ひとつの夢を漠然とし考えたりしたことがあった。

私たち夫婦が住んでいる住宅街のそれぞれ住宅が密集し、ともすれば何かしら息苦しい住宅街より、
解放感のある地方の山里に、と想いを馳せたりした。
       
たとえば八ヶ岳の別荘地の分譲地などで、のんびりと生活することを夢想したりした。

しかしながらこの当時の私は、都心に通いサラリーマンの身であるし、
住んでいる一戸建ての住宅ローンも多額に残っていたので、
もとより収入を別途に挙(あ)げる自信はなく、夢だよねぇ、断念した。

             

やがて50代の後半になると、山里に300坪前後の土地を求め、
落葉樹のクヌギ、コナラなどの中、平屋建ての30坪ほどに住むことも考えたりした。

この当時は住宅ローン等の返済を終えていたので、
定年退職する60歳になった時は、自宅を売却して買い求めて、
老後の生活資金を配慮した場合でも、何とか出来ると思ったりした。
          

こうした私の根底には、私の住んでいる近くに私の生家もあり、
私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けた。

そして私が小学校に入学した1951年(昭和26年)の春の当時、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、程ほど広い田畑などを耕していた。

或いは祖父の所有していた広い田んぼの中には、小さな川が流れたり、
湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに土蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
はずれに小さな稲荷を保有して、この地域の旧家は、このような情景が多かった・・。

このような生家は、周辺は平坦な田畑、竹林、雑木林などが拡がり、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。

その後、私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

そして1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年(昭和32年)であるが、
この頃になると都心に勤める方のベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。

                    

私は消えてしまった故郷の情景、時代の変貌に戸惑いながらも愛惜感を秘め、
このような私の思い、漠然とした山里に平屋建ての生活を家内に相談したら、
日常生活の買物、交通・病院などの利便性から、反対された。

『貴方の好きな本屋さんだって、今は歩いて行ける範囲ょ・・まして、スーパーなどの買物だって・・』
と私は家内に言われたりした。

やがて具体的に指摘されれば、私は確かに好きな音楽CDとか、映画のDVDを購入する店、
或いは本屋に寄って、単行本、新書本、文庫本、雑誌コーナーを見て、興味を持ったのに手を取ったりして、
やがて買い求めたりする空気が好きで、ここ50年の習性のようになっている。

そして時折お洒落(しゃれ)た居酒屋に入店して、知人と談笑するも欠かせなくなっている・・。

『貴方、60代の心身元気なうちは良いけれど、70代頃からの身体が弱ってきた時の事も考えて・・』
と私は家内に言われたりした。

確かに山里に住めば、自動車は必須事項だし、買物も一週間まとめて購入し・・と思ってきたが、
身体の弱った時の通院、そして都心の郊外の文化と利便性には勝てない、と断念した。

             

こうして私の淡き夢も消え、定年退職後の年金生活の中、住宅街の密集地から抜け出して、
我が家より3キロ範囲の遊歩道、小公園、公園などをひたすら歩き、
季節のうつろいを享受したりしてきた・・。

或いは家内との共通趣味のひとつの国内旅行で、各地域の観光ホテルに滞在して、
周辺の山里、街はずれ、街中を歩き廻り風土、文化を学び、
その地の景観に心身共にゆだねて、遊学したりしている。

                       

今回の記事を読み終わった後、特に《・・定年後に大規模リフォームというパターンが多かった。
しかし、人生100年時代になると、60代でリフォームしても、
亡くなる前にもう一度修繕が必要になる可能性が高い・・

・・本当にリフォームする必要があるのか、高齢者施設に入る準備金を蓄えたほうがいいのか、
思案のしどころです」・・
》私は学び、微苦笑させられた。

我が家は、私が定年退職する数年前、雨戸、外壁、垣根、門扉など最小限にリフォームをしたりした。

そして昨今、古惚けてしまった家に住んでいるが、少しペンキが剥がれかかった窓枠などを見たりして、
たとえ家を建て直すと、少なくとも数千万円を要し、老後資金が乏しくなり、
訪れたい国内の各地にも旅行費の捻出に、困苦すると思われるので、やむなく私は微苦笑したりしている。

そして我が家の固定資産税は土地が毎月3万円ぐらい、老朽化した家は毎月5千円ぐらいと評価され、
四半期毎に納入しているが、当面この状態で過ごしたいよねぇ、と私たち夫婦は話し合いながら、微苦笑したりしている。

こうした中、私たち夫婦は、年に数回は都心のデパートに買物に行ったりしているが、
私たちは人出多い中、齢を重ねるたびに苦手意識となっている。

そして帰路、最寄駅のひとつ『成城学園前』駅で下車した後、
付近の食事処で遅い昼食を頂きながら、ほっとしているのが実感となっている。

何よりも安楽なことは、自宅の居間で小庭の春夏秋冬を明晰に表現する落葉樹を眺めながら、
私たちは談笑したりする時である。

このような心情を重ねてきた私は、殆どの御方は、長らく住まわれた地域が、
それぞれの過ごしてきた出来事の思いもあり、愛惜も加味され、何よりも安楽な地、と私は感じ深めている。

             

しかしながら私たち夫婦は、いつ日にかどちらかが足か腰が衰えてきた時、
やむなく自宅を売却して、駅の近くにあるマンションのコンパクトサイズを買い求めて、
晩年期を過ごしたい、と思ったりしている。

或いは介護を要する身となった場合、漠然としながらも介護施設を話し合うこともあるが、
こうしたことに遭遇することは、自助努力も必要であるが、こればかりは神様か仏(ほとけ)さまの采配による、
と私は思い深めているひとりである・・。


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掃除ロボット、食洗機、乾燥機付き洗濯機が“新・三種の神器”と学び、高齢者の私は微苦笑して・・。

2017-09-01 15:41:22 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活のまもなく73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、日常を過ごしている。

そして私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私は新聞、総合雑誌などを読んだりする中、最近の新・三種の神器は、
掃除ロボットと食洗機、乾燥機付き洗濯機と学び、微苦笑させられた・・。

三種の神器に関しては、周知の通り、1950年代後半の頃から、
白黒テレビ』、『洗濯機』そして『冷蔵庫』が家電3品目が『三種の神器』として称されてきた。

こうした中で、『電気釜(炊飯器)』、『掃除機』が普及してきた。

やがて1960年代の中頃から、、『カラーテレビ (Color television)』、『クーラー (Cooler)』、『自動車 (Car)』が、
3種類の耐久消費財が新・三種の神器として、多くの家庭で購入されたりしてきた。

そして
2003年平成15年)頃からは、デジタル家電として、『デジタルカメラ』、『DVDレコーダー・』、
『薄型テレビ』が急速に普及してデジタル三種の神器と称されたりした。

           

私の住む住宅街は、殆どのお宅には自動車があるが、
恥ずかしながら我が家は、自動車がない家となっている。 

私は自動車の運転免許証は、過ぎし2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始め、
まもなく自動車の運転を断念を決意して、やがて更新時の2005年(平成17年)の秋に、漠然として見送り、
免許証を破棄したりした。

私は長きの期間のペーパー・ドライバーだった・・。

結婚する30歳の前は生家に住んでいた期間は、生家の自動車を利用して、
若気の勢いで、盛んにドライブし、軽井沢、蓼科、箱根、伊豆半島などの各地に行ったりした・・。

そして結婚して3年目に、生家の近くに一軒家を建てた後、住宅ローンの返済、何かと家具などに費用が要して、
とても自動車を購入できる余裕はなかった。

やがて40代を過ぎても会社の業務が多忙で、家内とのんびりドライブすることなどは、
夢のひとつでもあったりした。

こうした思いが根底に秘めていたので、定年後には自動車を買い求めて、
家内と共に国内旅行を自在に、ドライブ旅行をしょうと思ったりしていた。            

やがて2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始めたが、
無念ながら齢を重ね、瞬時の感覚、判断力も鈍(にぶ)ったことに、気付かされた・・。

そして今頃から、自動車を買い求めて、再び自動車を運転して、
人身事故でも起こした場合、何よりも相手方に対して、いつまでも心痛な思いが残ると思われた。

その上に何かと小心者の私は、慙愧に苦しみ、心身痛みを生じ、たとえ金銭上の賠償責任を終えても、
交通刑務所に服役の場合も考えられ、私の残されたセカンドライフの人生が大幅に狂うと妄想を重ねた結果、
やがて免許証の更新時に、自主的に更新を取り止めたのは62歳の時であった。

齢を重ね年金生活をする中、安楽な生活を望むなら、人それぞれ何かを断念しなければ、
ならないと思っている。
            


今回、掃除ロボットと食洗機、乾燥機付き洗濯機が“新・三種の神器”と学び、
我が家は掃除ロボットと食洗機はないよなぁ、と苦笑したりした。

掃除機に関しては、コード有りの長年に於いて愛用してきた中で、
2年前に手軽なコードレスの掃除機を買い求めた。

そして二階から一階の階段など、或いは室内で埃などを見つけた時、
手軽なコードレスの掃除機は、威力が発揮して愛用している。

こうした関係で、吸引力が十分なコード有りの掃除機、そして手軽なコードレスの掃除機があり、
働いて下さる若い諸兄諸姉の多忙な日常生活と違い、
我が家は掃除をする時間ぐらいは充分あるので、掃除ロボットは不要だなぁ、と苦笑したりしている。

            
私は定年退職後、年金生活を始めた当初から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、
ときには本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。

その後も独りで自宅から3キロ範囲の遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。              
      
定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩すのは天敵と確信したりした。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
            

こうした中で、私たち夫婦の両親は、今や家内の母だけとなっている。
過ぎし
私が定年退職後、年金生活を始める直前に、家内の父が病死され、
家内の母は独り住まいとなったりした。

この当時の家内の母は、日常生活の身の廻りはある程度は出来ているが、
長女の家内は季節の変わるたびに、大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどで、
7泊8日前後で母宅に泊りがけで行ったりし、この間、我が家は私が『おひとりさま』の生活となったりしてきた。

ここ数年は、家内の母の老化と病状で、家内と家内の妹は交互に、
大半は家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしているので、必然的に多くなり、
この間、我が家は私が『おひとりさま』の生活となっている。

いつの日にか私たち夫婦は、どちらかが片割れとなり『おひとりさま』となるが、
まさかの出来事で、私を残して家内があの世に旅立たれることもあるので、
私は特別演習だ、と自身を叱咤激励して過ごしている。

こうした中、私は恥ずかしながら食事、洗濯、掃除などを若葉マークと称される初心者で、
手抜きをしながら過ごしているが、こうした家事は何かと大変だよなぁ・・と改めて感じ深めたりしてきた。

            
こうした事情で、我が家では私が『おひとりさま』の生活となり、
料理、掃除、洗濯などを戸惑いながらしているが、
何よりも楽しいのは、皿洗いとなっている。

たとえば過ぎし日、家内から借りた可愛らしいエプロンを着て、台所で皿洗いを始めた。
食器専用の洗剤液をスポンジにたらし、それぞれの茶碗、皿などに丁重に擦(こすっ)たりした後、
盛大に水道水で洗い清めたりした・・。

こうした時、どうした心情が解からないが、
♪嵐も吹けば 雨も降る・・と大津美子さんの『ここに幸あり』の歌を、かぼそい声で唄っていた。

そして♪・・女の道よ なぜ険(けわ)し  君をたよりに わたしは生きる・・
と唄ったりした。

この数分後、家内や私の妹も団塊世代の人であり、専業主婦が多く、
妻が専守防衛長官ように家庭内を維持管理していたので、もとより発言力も増し、
まして平成の時代になると、共稼ぎの多い時代に変貌してきたので、
この歌の内容は、死語だょねぇ、と苦笑したりしていた。

そして私は微苦笑しながら、確か1956年(昭和31年)の私が小学5年生の時に、
ラジオから盛んに流れていた歌だったので、
俺も古い人間でやはり齢は隠せない・・、と思ったりした。

こうした皿洗いを終わると、台所が綺麗になり、成果が素直に現れるので、
私としては楽しい時となっている。

            
このような事情もあり、我が家としては、皿洗いの楽しみを奪う食洗機は不要だねぇ、
と私は微苦笑したりしている。

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