夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

人は、なぜ『7(セブン)』が好きなのか、遅ればせながら私は学び、やがて微笑みを重ねて・・。

2017-09-12 14:30:20 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読しているネットの【デイリー新潮】を見たりしていた中で、
【 ラッキー7、七味唐辛子、世界の7不思議、虹の色、週7日
         人はなぜ「7」が好きなのか 】と題された記事を見た。

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活のまもなく73歳の身であるが、
「人は・・なぜ「7」が好きなのか 」と問われても、何かと無知なことが多く、
一週間は月曜日から日曜日まで、と小学生以来より漠然と思いながら、過ごしてきた。

そして民間会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
サラリーマンを卒業した私は、働くことを断念して、年金生活の今でも明確に答えられない・・。
                                        
こうした心情を秘めた私は、今からでも遅くないょ、と学ぼうとして、
記事を精読してしまった・・。
             

この記事は、デイリー新潮の編集部が綴られたの記事のひとつであり、
ネットの【デイリー新潮】に、2017年8月30日配信され、無断であるが記事の大半を転載させて頂く。

《ラッキー7、七味唐辛子、世界の7不思議、虹の色、週7日・・ 人はなぜ「7」が好きなのか

(略)・・
1週間7日間という暦は、古代バビロニアで誕生し、
紀元前1世紀頃のギリシャ・エジプトで完成したと考えられており、
私たち平成の世に生きる人間が騒いだところで、どうにかなるような問題でもないようだ。

実は、フランスではフランス革命後、1カ月を10日ずつに3分割する「デカード」という暦を採用したり、
ソビエト連邦では、5日からなる週を採用したりと、
かつて世界では1週間=7日ではない暦を使用したケースもある。

しかしいずれも不評だったため、長続きせず廃止されている。

では、なぜ7日なのか。
経済学者の野口悠紀雄氏は著書『世界は数字でできている―数の「超」活用法―』の中で、
実は7という数字は、マジカルナンバーなのだと述べ、その理由は人間の記憶力にあると解いている。
(以下同書より抜粋、引用)

             

アメリカの心理学者ジョージ・ミラーは、
人間の短期記憶の容量が7±2(人によって差がある)であるとする論文を1956年に発表した。

「7以上になると、区別がつきにくくなる」とは、日常経験でも明らかだ。

虹の色は7色であり、1オクターブには7個の音があると把握している。
「世界の7不思議」や「7つの大罪」も7だ。

軍や企業などの多くの組織は、7名や7部署をひとくくりにしたピラミッド構造を作る。
新約聖書の「ヨハネ黙示録」は、7のオンパレードだ。
日本では、七福神、七草、七味唐辛子など。

「7あたりが限度」という法則は、日常生活に応用することもできる。
例えば、引き出しは7個くらいまでにしたほうがよい。
それ以上になると、どこに何を入れたかがわからなくなる。

逆手に取ることも可能だ。
例えば、面接試験で「愛読書は何か?」と聞かれたら、7点以上挙げて目くらましを狙う。
面接官は幻惑されて、「何という読書家だろう!」と評価してくれるかもしれない。

 ***

1週間は長いなあ……と思っているあなたも、マジカルナンバー「7」を受け入れ、
逆に巧みに使うことによりスマートに生き抜こう!(略)・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした
          

私は読み終わった後、恥ずかしながら齢ばかり重ね、何も知らなかったょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
多々教示されたりした。

この後、七つかょ・・七つねぇ・・と私は思いめぐらした後、やがて微笑んだりした。
黒澤明さんが監督された『七人の侍』は、1954年(昭和29年)に公開された名画がある。

もとより映画脚本家の橋本忍さんが創案され、黒澤明さん、小国英雄さん、橋本忍さんが御三方が
共同脚本された世界の名作のひとつとなっている。

そして七人の侍として、志村喬さんが島田勘兵衛に扮し、三船敏郎さんが菊千代、木村功さんが岡本勝四郎、
稲葉義男さんが片山五郎兵衛、加東大介さんが七郎次、千秋実さんが林田平八、宮口精二さんが久蔵、
このように配役されていたが、それぞれ性格、しぐさ、言動に、絶妙な七人の侍の躍動に、
海外の映画関係者にも影響を与えたりした。

何かと単細胞の私は、七つの話題に関して、このようなことを思い重ねた、微笑んだりした。

          
          

この後、
私は、虹に関して、思い馳せたりした・・。

私は今住んでいる地域に、結婚前後の5年を除き、68年近く住み、
戦後から今日まで急速に変貌してきたことに、何かと心を寄せたりして愛惜感もある。

私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受け、
やがて兄2人、そして妹二人の間(あいだ)で、サンドイッチのように育ったが、
何故かしらいじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

私が地元の小学校に入学した1951年(昭和26年)の春の当時は、
祖父と父が中心となり、小作人だった人たちの手を借りながら、程々に広い田畑を耕したりしていた。
そして母屋の宅地の外れには土蔵、納屋小屋にあったりし、周辺には竹林、雑木林に囲まれた農家であった。
 
こうした中、この当時の周辺の情景は、京王腺の駅付近には商店街があるだけで、
周辺は田畑、竹林、雑木林など拡がり、緑豊かな村里の情景であった。
       
このような状況で、私が小学生の前半までは、父、祖父が病死されるまで、農家の児として育てられた。

私は地元の小学校に入学した頃は、独りで下校する時が多かったりした。
                       
こうした時、通学路から外れて、田圃の畦道を歩いたりし、

ある日、小雨に降られた後、空の左面を彩(いろど)った七色の虹が視えて、
この世でこんなに綺麗なことがあるの・・と長らく見惚(みと)れたりした。

そして、この時に視た七色の虹は、
この後に旅先でも、幾たびも圧倒的な美麗な虹にめぐり逢えたが、
この小学生に視た情景は、今でも心の片隅に残っている。

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