先程、私は愛読しているネットの『プレジデントオンライン』を見ている中、
【 死んだ後に「悪口を言われる人」の共通点
~亡くなっても心の絆は切れない~ 】と見出しを見たりした。
私は民間会社の中小業のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。
そして遠い勤務地に勤め、この期間も奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
やがて年金生活は現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、
予測した以上に安楽な生活を過ごし、早や13年近く過ぎている。
このような拙(つたな)い人生航路を歩んできた私は、
『死んだ後に「悪口を言われる人」』に小心者の私としては、ドキュンとして、記事を精読してしまった。
この記事の原文は、『プレジデント』に2016年11月1日に掲載されて記事であり、
ライターと思われる小島 和子(こじま・かずこ)さんが、
それぞれの分野で詳しい御方に取材されて纏(まと)められた寄稿文であり、
『プレジデントオンライン』に2016年9月2日に配信され、無断であるが転載させて頂く。
《・・死んだ後に「悪口を言われる人」の共通点~亡くなっても心の絆は切れない~
■「アイツは嫌な奴だった」なんて…
家族や親類縁者、仕事関係で近しくしていた人は、
亡くなった人のことをどんなふうに話すのだろうか。
悲しんでくれるのか、それとも案外ケロッとしていて、
その人のことを、じきに忘れてしまうものなのか。
もし、自分がいなくなった途端に
「アイツは嫌な奴だった」なんて陰口を叩かれるようでは、死んでも死にきれない──。
これについて緩和医療医の大津秀一氏、ビハーラ僧の三浦紀夫氏、ホスピス医の小澤竹俊氏に尋ねると、
「亡くなった方を悪く言う人は、あまりいない」
と口を揃えて言うから、ひとまず安心してよさそうだ。
では、残された人たちは具体的にどんなことを言うのか。
大津氏の病院で亡くなった方の遺族は
「夫以上の男性はいません」
「素晴らしい母でした」
「つらい闘病生活でしたが、最期まで投げずに頑張ったと思います」など、
故人がどれほど大切な人だったかを、改めて噛み締め、病気で苦しんだであろう最期の日々をねぎらうことが多いという。
■亡くなると一転、いい思い出ばかりに
三浦氏の経験でも、残された最期の時間を在宅で一緒に過ごしたり、
病院や施設にいても、見舞いに来るような関係性がある場合は、
たとえ生前、あるいは看病で苦労させられた家族でも、そうそう悪口は言わないものらしい。
肝臓がんで61歳の夫を亡くした杉山良子さん(仮名)は、見舞いに来るたび、
「この人には、泣かされっぱなし。
最後の最後まで、こんなに苦労をさせられて」
と憎まれ口を叩いていたという。
だが、いざご主人が亡くなると一転、いい思い出ばかりを語るようになった。
「料理上手で、私にもよくつくってくれたんですよ。そういうところが好きでね」
とのろけ話まで出てくる始末。
「苦労させられたというのは、本音としても、
夫が亡くなっていく過程をお世話するのは、つらいはず。
憎まれ口は、複雑な気持ちの表れでしょう」(三浦氏)
また、生前好きだったモノを通して、故人を偲ぶ人も多い。
「コーヒーが好きで、毎朝飲んでいたんですよ」。
70代の父親を亡くした40代の女性は、三浦氏にそう語ったそうだ。
毎日朝晩2回、仏壇にコーヒーを供え、自身も一緒に淹れたコーヒーを飲む。
「こうしていると、父がまだ生きている気がするんです」。
その姿は、亡くなったことを、ゆっくりと受け入れているようだった。
このように大方の場合、故人を悪く言う人はいないのだが、
生前の関係性次第では、例外もあるのだ。
たとえば、家庭をまったく顧みなかった場合、
最期のときが近づいても、見舞いに来ないばかりか、亡くなってなお悪く言われるケースもある。
ビハーラ僧の三浦紀夫氏が看取った徳永三郎さん(仮名・70代前半で死去)は
サラリーマン時代、仕事をバリバリとこなす一方、
大変な酒好きで、毎晩のように部下を引き連れて飲み歩いては、
夜中過ぎに酔っ払って帰宅していた。
当然、家族と会話をする時間もない日々だった。
2人の息子の世話を含め、家のことはすべて妻の直子さん(仮名)任せ。
そんな日々でも直子さんは、忍耐強く家を守り、子どもたちも立派に成長。
2人の息子は医学部を出て医者になった。
末期がんに侵された徳永さんが、三浦氏の運営するグループホームに来てから、
何度連絡しても、家族は誰一人として見舞いに来なかった。
医者の息子たちは「主治医でもない自分たちに、できることはないから」と言っていた。
■どう生きてきたかが問われてしまう
徳永さんが亡くなったときでさえ、
直子さんは「もう顔も見たくない」と来ることを拒んだという。
結局、三浦さんたちが、お通夜と葬儀を執り行い、直子さんも出席したそうだが、
その間、直子さんの口をついて出るのは
「この人には、さんざん苦労をさせられた」という恨み言ばかり。
自業自得といえばそうかもしれないが、これでは徳永さんは安心して成仏できそうもない。
まさに、どう生きてきたかが、問われてしまうのが、最期のときだ。
では、死してなお悪く言われることが、ないようにするには、どうしたらいいのか。
「生前に家族との信頼関係が少しでもあれば、亡くなっても心の絆が切れることはないはず」
と小澤氏は言う。
たとえ後悔ばかりの人生で、周りに迷惑をかけることが多かった人だったとしても、
最期の瞬間、穏やかな別れ方が、できる人も多いらしい。
それなら救われそうな気がしてくる。
ただし「まったく信頼関係がなかった人のことは、思い出しもしないかもしれませんね」
(ホスピス医 小澤竹俊氏)。
愛の反対は憎しみではなく、無関心、とはよく言われる。
忘れ去られてしまうより、憎まれたほうがまだ幸せということか。
自分の胸に手を当てて、じっくり考えてみたい。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
今回の記事を読み終えた後、これに関連して、少し飛躍したことを思い馳せたりした・・。
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活のまもなく73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後39年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。
私たち夫婦は、子供もいないので介護などは頼れる人はいなく、
いつの日にか介護を要する身となった時は、介護施設に入居するか、或いは自宅でするか、
漠然としながらも思案し、ときおり私たち夫婦は話し合ったりしている。
ここ数年、私が何よりも恐れていることは、認知症となり、自身が正常に自覚をできないことである。
私は親戚の方、知人の方とか、本などで認知症の悲惨さを少しばかり学んだりし、
たとえば私が認知症となり、介護をしてくれる家内の身を案じるとたまらない真情となる。
或いは逆に家内は認知症となり、私が看病する場合も同様である。
認知症の本人は介護して下さる方も解らず、
何よりも介護する方は、看病する張り合いがないと思われるからである。
このような私の思いから、認知症になる前に、ポックリとこの世と別れを告げたい、と思ったりしている。
過ぎし7年の晩秋ある日、私の自宅の近くの川沿いの遊歩道を歩いていた時、
この遊歩道は片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろど)っている場所で、私の散策の好きなひとつのコースでもある。
そして、いつものように木のベンチに私は座り、煙草を喫いながら、少し休息をした・・。
この時に、どうした思いか解らないが、いつの日にか命が果てる時は、
晩秋の午前のやわらかな陽射しの中、ポックリと死を迎えられたら本望である、と脳裏をかすめたりした。
この遊歩道で、独りで歩き、好きな本を抱(かか)えて、突然に命が果てる、
といった状況を願ったりした・・。
或いは、いつの年か身体の変調を感じて、自宅で寝ていて数日し、悪化を増す中、
布団の中でオシッコを一度だけ漏らしたりして、死去後のことなどを家内に伝言する。
やがて救急車で病院に運ばれて、入院して数日後に死去する。
そしてこの間に家内からは
『あなたとの生活・・楽しかったわ・・』
と心の中で感じてくれれば充分である。
やがて私の葬儀の中、家内が私の兄妹、知人に、
『一週間前の頃は・・いつものように買い物に行ったり、散歩もしていたの・・』
と家内が言ったりしてくれれば、私はあの世で満足していると思われる。
このような終末期を私は思いめぐらしてきた・・。
俺が死んだ時は家族葬で、和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
とここ16年ぐらい言ったりしている。
私は父親、祖父、次兄、母親、そして親戚の叔父、叔母、或いは知人などの数多くの葬儀に参列してきた。
こうした中で、自宅で通夜、告別式、或いは寺院の斎場で通夜、告別式が執り行われ、
多くの会葬者を観たりしてきた・・。
私はサラリーマンを定年退職し、早や13年半が過ぎた年金生活の身であり、
官公庁、民間会社で栄達された人とは、遥かに遠い平凡な人生を歩んできたりした。
こうしたことで、遠い親戚、知人、友人も高齢者の方が多く、わざわざ通夜、葬儀に参列して頂くより、
これまでの私の人生の歩みで、欠かすことのできない血は水よりも濃いと称せられる親族で、
ささやかに葬儀をしてもらいたい、と願っている。
こうした中で、家内はもとより、私の兄である夫妻、妹の夫妻、一番下の妹、兄の子供である甥のふたり、
そして家内の妹夫妻、そして家内の母が存命であったら加わって欲しい・・
このくらいの親族の一部の最小限のメンバーで通夜、告別式を執り行って、家族葬の形式と念願している。
昨今、式場の内部が、自宅の居間のような形で、片側に御棺を置き、
広いテーブルで食事やお酒を飲食できる会場もあると知り、私は微笑んだりした。
通夜の日、御棺の周りは幼年期は農家の児として育ち、
日本風土の土に還るので和花を中核として、欧米の書物、映画、音楽も少し愛してきたので、洋花も添える。
この時、和花が高価だったならば、洋花を中心としても差し支えない。
大きめのテープルには、食事処から取り寄せた和食、洋食を食べて頂き、
煎茶、コーヒー、紅茶などを飲んだり、ウィスキー、ワイン、日本酒、ビールなど吞んで頂いたり、
私の生前のこぼれ話しをテーマに、談笑して頂く・・。
たとえば平素は大人(おと)しかったが、何かに夢中になると、物狂いのように振舞って、
周わりにいた人に驚かせたよなぁ・・と私の生前の言動を話題にしてくだされば・・と思ったりしている。
人は誰しも故人の心の奥に秘めた心は解らないが、とりとめなく話して、
あの時は・・と笑って下されば充分である。
こうした中で、音楽が静かに流れれば、と念願したりしている。
選定する曲としては、今、瞬時に思い浮ぶ曲としては、
唱歌の『ふるさと』、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第8番 『悲愴』、
交響曲第9番の第三楽章、アルビノーニのアダージョ、ショパンの練習曲作品10-3 『別れの曲』・・
この5曲ぐらいは・・と思ったりしている。
翌日の告別式は、このメンバーで自宅の居間のような形の式場に集合し、お線香一本を上げてもらい、
この後は火葬場に行き、ふたたびこの式場で、
お好みの飲み物を吞みながら、食事をして談笑して頂いた後、散会する・・。
今回の記事を読み終えた後、このように思い重ねたりしている。
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