蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

セピア色の旅

2013年10月01日 | 季節の便り・旅篇

 秋晴れの有明海、14キロの海峡を有明フェリーで渡る。波静かな海面から、眩しい銀波が秋の日差しを照り返した。

 「伊勢屋旅館」……創業340年、15代目の当主が守る小浜温泉最古の宿である。火野葦平や斉藤茂吉も訪れた宿だが、それよりも何よりも60年の昔、小学校の修学旅行で訪れた想い出の宿である。勿論、改装を繰り返し今は当時の面影はないが、私の話を聞いたフロントの男性が当時の写真をコピーしてくれた。セピア色に色褪せた記憶のフィルムが一気に巻き戻されて、ひたすら懐かしかった。

 降ってはやむ小雨交じりの中、諫早ICで高速長崎道を降りた。3年間単身赴任で住んで知り尽くした町である。途中で右に折れ、橘湾を見下ろす湾岸道路に出て、アップダウンを楽しみながら愛野のジャガイモ畑の中を一気に駆け抜けた。駆け下った千々石(ちぢわ)の町から又右に折れると、離合も難しい細い道が独特のカーブで海沿いを走る。かつての小浜鉄道跡の、地元の人しか知らない秘密の道である。左右の崖から緑が天を覆い、幾つかの昔懐かしい馬蹄形の小さなトンネルが連なる、何とも趣のあるこの道が気に入り、幾度となく走りに来た。トンネルが現れる度に、対向車が来ないことを祈りながら走り込んでいく……その微かな緊張感が又いい。
 この日は、珍しく滅多に会わない対向車に出くわし、トンネルの途中からバックして道を譲った。そんなハプニングまでが何故か嬉しい。15分ほどで再び元の道に合流すれば、もう湯煙立つ小浜温泉はすぐそこである。家を出て157キロ、途中川登SAでお昼を摂って、3時間のドライブだった。
 露天風呂で疲れを癒し、海辺に出て泉源の湯温105度に因んだ長さ105mの「日本一長い足湯」を楽しんだ。やがて雲が切れ、壮麗な日没を部屋の窓から見送る夕暮れが来た。

 箸付「菊花豆腐」、吸物「清汁仕立」、造り「鰹叩き、鯛、サーモン、太刀魚細造り」、蓋物「大豆飛龍頭」、焼物「あかね豚朴葉焼」、替鉢「茄子替り田楽」、鍋物「吹寄鍋鯨スープ仕立」、蒸物「湯葉茶碗蒸 鼈甲餡」、揚物「秋刀魚香り揚籠盛」、酢物「もだま湯引き」、お食事「栗御飯」、香の物「二種盛」、デザート「きなこプリン」……このお品書きに「伊勢海老の活き造り」と「鮑の踊り焼き」が加わり、更に「鯛のあら煮」を追加注文して、家内の快気祝いの夕餉とした。祝いに調理場から届けられた冷酒を酌みながら、納得の味を心行くまで楽しんだ。退院後は雀の涙ほどしか食べられなかった家内が、ほぼ完食したのに驚きながら、術後3ヶ月を経て、漸く快気を実感した夜となった。

 一夜明けて……染まるほどに青い秋空のもとに登山道を走って雲仙温泉を駆け抜け、ススキ揺れる仁田峠に車を停めた。平成2年11月17日、198年ぶりに噴火して多くの命を呑み込んだ普賢岳の荒々しい火砕流の跡も少しずつ年月が和らげ、土石流が流れ下った水無川も穏やかに景色の中に溶け込んでいた。23年前に長崎支店長として迎えた、あの噴火・火砕流の緊迫した慌ただしい日々も、もう遠い記憶の淵に紛れつつある。

 島原に下り、島原城前の姫松屋で名物「具雑煮」のお昼を摂った。箸袋によれば、およそ350年前の「島原の乱」の戦さの折に、天草四郎を総大将と仰いだ37,000人の信徒が籠城、兵糧として蓄えた餅に海や山の幾種類もの材料を混ぜて雑煮を作って食べながら、3ヶ月を戦ったという。それに因んで生み出された「具雑煮」は、芳醇なだしにふんだんに炊き込まれた十数種類の食材の味が溶け込み、忘れられない味わいである。

 多比良港から有明フェリーに乗った。小雨の中に走り出した「快気祝の旅」は、セピア色の想い出を絡ませながら、秋晴れの海峡を越える潮風の中で終わった。走行距離298キロのドライブ+14キロの船旅である。
 ひとつの節目の旅だった。
                  (2013年10月:写真:かつての伊勢屋旅館)