蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

ささやかなハレの日

2020年07月15日 | つれづれに

 もう64年の昔になる。高校2年の、多分冬休みの頃だった。親友と二人、暗く冷たい空の下にバスを乗り継ぎ、福岡県朝倉郡の小石原村の陶工を訪ねた。今では東峰村に併合され、焼き物以外に小石原という名前が登場することは少なくなった。近年、豪雨水害に叩きのめされた地域である。 
 鬼籍に入ってもう28年になるが、後に小石原焼の第一人者となり、バーナード・リーチとも親交があった太田熊雄さんが、まだ若い陶工だった頃である。夕暮れ近く、ほの暗い木立の中で、小川の流れを借りて陶土を砕く唐臼が、ゴトンゴトンと地を這うように響いていた。ひと晩泊めていただき、轆轤を蹴った。

 無口な陶工だったが、「好きなもの持って行きな!」と許されて、いくつかの作品をいただいた。棚に置かれた作品の中に、どうしても目を離せない1品があった。殆ど黒に近い褐色に水色の釉薬を落とした、書道用の小さな水差しだった。しかし、「これは自慢の作品だからやれない!」と断られた。ひと晩お願いを続けてもダメで、殆ど諦めかけていた。
 翌朝どうしても諦めきれずに、工房を辞す前にもう一度頼んでみた。「そんなに気に入ったのなら持ってけ!」

 以来、我が家の宝物として、飾り戸棚に鎮座し続けている。有田焼のような華麗な磁器よりも、土臭い陶器……特に小石原焼きが好きになったのは、この夜以来のことだった。我が家の戸棚は、独特の跳びかんな模様の小石原焼の器で満ちている。
 旅や仕事の序でに立ち寄った陶器の窯元で、幾つもの陶器を求めてきた。岡山の備前焼の灰被りの壺は、玄関の主座を独占し続けているし、太宰府の陶器店で偶然見つけた太田熊雄さんサイン入りの遺品のぐい飲みは、毎晩食卓に君臨している。(因みに、ぐい飲みのコレクションが趣味だが、晩酌はこれ1杯が限度という下戸である)

 磁器の中で唯一気になりながら訪れる機会を逸していたのが、長崎の波佐見焼だった。慶長3年(1598年)、時の大村藩主が連れ帰った朝鮮の陶工に登り窯を焼かせたことに始まり、有田のような高嶺の花の高級磁器ではなく、庶民生活に密着した丈夫な日用品として発展してきた。かつては全国の生活雑貨のシェア3割以上を占めていたこともある。
 初めは青磁中心だったものが、砥石や配電用の碍子で有名な天草の石を導入することで白磁の美しい白が主流となった。「磁器は高い」という従来の常識を覆し、庶民に普及した。オランダ商人が徳利状の瓶を作らせ、日本酒や醤油を輸出していた歴史もある。給食用強化磁器食器「ワレニッカ(割れ難い)」、が町内小中学校の給食用食器として開発されたりもしている。

 コロナ禍で、各地の窯開き民陶祭が中止になった。有田焼も小石原焼も唐津焼も小鹿田焼も波佐見焼も……おそらく、全国の民陶祭が行われていないのだろう。それぞれが、各地で持ち回りの即売会を開催している。
 博多座の隣り、リバレインで波佐見焼の即売会があると知って、カミさんを乗せて半年振りに都市高に駆け上がった。我が家から20分、地下3階に車を置いて、川端通でランチ。カミさん「は和定食膳」、私は」「マグロの鉄火丼膳」。「山のぼせ」で溢れる時節なのに、博多祇園山笠も来年に延期になって、川端通も人通りは少ない。今年は、博多に本当の夏は来ない。

 お気に入りにだった沖縄の壺屋焼の茶碗に罅が入って、もう買い替えの時期だった。3割引き、5割引きという民陶祭価格で買って戻って、早速夕餉に使ったら、何とも手触り・使い心地がいい!欠けている急須と醤油差しも買い替えようと、翌日再び都市高に乗った。応対のいい女性店員の勧めに従って5分で即決!今日のランチは、二人共名古屋風「鰻のひつまぶし丼定食」。どちらの店も、コロナ対策は万全だった。他人が作ってくれたものを食べる……カミさんにとっては、実に「佳き日」であった。

 脱・コロナ籠りの二日間は、ささやかなハレの日となった。
                            (2020年7月:写真:波佐見焼の器)