蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

雨の隠れ宿

2014年06月11日 | 季節の便り・旅篇

 ウグイスの声に被さるように、ホトトギスが鳴いた。鉛色の梅雨空から、露天風呂の湯気を払うように軽い雨が降りかかる。湯の表に弾ける雨粒の波紋を見ながら、岩に持たせた頭で身体を湯船に揺蕩わせ、夕暮れ間近な風に吹かれていた。

 5000坪の広大な敷地につづら折れの回廊を巡らせ、楓を基調にした緑に包まれた15室の離れが置かれている。それぞれの部屋には、6畳ほどのお坪の中に2畳ほどの露天の岩風呂が掛け流しで整えられている。フロントでチェックインを済ませば、あとは葉末を叩く雨の微かな音と吐口から注ぐ湯の音だけの、誰に構われることもない静寂。回廊を縫うように小さな流れが奔っていた。

 結婚49年目の記念旅行の宿を探し、見付けたのがこの隠れ宿だった。我が家からのアクセス2時間、全室露天ぶろ付き離れ、そして何よりの惹句は「60歳以上の方に格安シニアプラン」というひと言だった。
 何処の温泉宿も、12品、14品、19品などと、料理の品数をしきりに誇り、正直シニアにとっては満腹を通り越すボリュームが、最近の悩みだった。泊まる度に「量を少なく、質を上げた高齢者向きのプランを!」とアンケートに書き続けていた。「格安」はともかく、「シニアプラン」という言葉に惹かれて、即予約を入れた。

 入梅後も雨は少なく、週間天気予報で晴れマークがあったのに、前日になって雨マークに変わった。苦笑いしながら、予定通り筑紫野ICから九州道に乗った。平日の午後のこと、滞りもなく走り続け、北熊本SAで小休止、空いた小腹に酒饅頭を買って再び走りだし、益城熊本空港ICで降りる頃から雨が奔り始めた。
 秋になれば一面のススキに覆われる俵山の下を連なって抜ける俵山トンネル(2057m)と南阿蘇トンネル(757m)を過ぎれば、もう目的地・俵山温泉である。
 山肌の一角を開いた旅館T亭。芸能人の色紙が並ぶ小さな鄙びたフロントからは想像も出来ないほど、緑深い空間が広がっていた。

 温度の異なる大浴場の二つの湯船を確かめ、小雨降る露天風呂に浸かった。3時半という早めのチェックインだから、殆ど独り占めの寛ぎである。頭に乗せたタオルに降りかかる雨も優しかった。僅か2時間で届くこの贅沢は、九州ならではの特権だろう。1時間の身近なところにでさえ、温泉宿には事欠かない。
 温まった身体で気儘に部屋に転がって微睡ながら、無為の贅沢を楽しんだ。8畳に3畳の炬燵部屋が付き、その外にお坪と露天風呂がある。

 食事処の、きっちり壁で仕切られた6畳間の個室で夕餉を摂った。近くの高森町の地酒「阿蘇のれいざん」をキリリと冷やして、膳を少し豪華にする。食前酒(自家製梅酒)に始まり、前菜(季節の盛り合わせ)、天草産鮮魚のお造り、鱧の吸物、高森産やまめの塩焼き、蓋物(合鴨ロースと茄子の田舎煮)、郷土料理(久木野蕎麦のサラダ仕立て)、揚げ物(胡麻豆腐、真竹、とうもろこし)、蒸し物(鯛の骨蒸しカルパッチョ風)、陶板焼き(阿蘇の赤牛)、南阿蘇米ご飯、香の物、だご汁、きまぐれデザート……それぞれ少量と思っていたのに、食べ終わればやはり満腹を超えていた。
 「これでシニアプラン?もう少し少なくてもいいよネ」と口では我儘を言いながら、十二分に満足していた。

 部屋付き露天風呂は、寝転べるほどのゆったりした広さである。半屋根が差しかけられて濡れることもなく、目の前で絶え間なく繰り返される雨の波紋を楽しんだ。湯音にカエルの声が混じる。キコキコと雨の気配を感じて庭先で鳴くアマガエルでもなく、渓流に鈴を転がすカジカでもなく、水底からおどろおどろと唸るような重低音のウシガエルでもない。
 少し重めの鳴き声が、いつまでも流れの辺りで鳴き交わすのを聴きながら、心地よい眠りに落ちた。

 この静寂の独り占め、この食事で14000円は高くない。きっとこの隠れ宿は常宿になる……。
                (2014年6月:写真:隠れ宿の風情)

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
露天風呂付いいですね~♪ (わさび)
2014-06-14 22:36:30
いい定宿見つけましたね。
いつもながら、ご隠居さんのグッドチョイス!
自宅から1~2時間でこんな素敵な温泉が沢山あるなんて、すご~~~く羨ましいです。
我が家から嬬恋までは、片道5時間超要します(涙)
2時間弱で行けるなら、毎週行けるのですが、5時間だと月一がやっとです。
それに最近は高速代の割引が無くなって、ガソリン代と、それだけで2万円近くかかりますから(涙)
返信する
お久し振りです! (蟋蟀庵ご隠居)
2014-06-15 07:13:22
わさびさん

九州はローカルとアーバンの距離が近いのがいいですね。日帰りでも、いくつも立ち寄り露天風呂が楽しめます。
いつも格安の温泉旅行なのに、ちょっと記念日の宿を奮発(?)してみました。
いつか又、九州においでください。いつでもご案内しますよ。
返信する

コメントを投稿