蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

満たされて、音に酔う

2014年06月29日 | つれづれに

 膨らみと厚みと深みと……耳から染み入った旋律が、やがて身体中をひたひたと満たしていく。目を閉じれば、満席のホールの人の気配さえ消えて、音のうねりの中に忘我の空間だけが拡がっていった。

 「ナマはいい!」
 久し振りのベルリン交響楽団のコンサートだった。リオール・シャンバダールの指揮棒が冴える。威圧するような太鼓腹からは想像出来ないほどの、軽快且つ重厚な指揮だった。「エグモント序曲」、ヴァレンティーナ・リシッツアが弾く「ピアノ協奏曲第5番・皇帝」、「交響曲第7番」。ベートーベンを3曲連ねる、充実したコンサートだった。

 リシッツアがアンコールに応える。ショパンの「ノクターン第8番」の叙情の後に、さりげなくリストの「ラ・カンパネラ」が来た。圧巻の超絶技巧だった。鍵盤を走る指があまりに速すぎて目に止まらない。そして、3曲目にシューベルトの「アヴェ・マリア」を弾く。日頃は殆ど声楽でしか聴くことのないこの曲を、ピアノで聴かされて新鮮だった。どちらかというと、オペラや声楽を苦手とする私にとって、「うん、ピアノもいいな」

 オーケストラのアンコールはグリーグの「ペールギュント組曲」から「朝」、ブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」。それを、シャンバダールが日本語で紹介する。欲張った3曲目のアンコールの拍手にこたえて登壇した彼が、声を潜めて「オヤスミナサイ」と言って袖に去る。万雷の拍手に満たされたユーモラスなエンディングだった。

 絵も音楽も、「良い、悪い」では見聴きしない。素人に評論家の決めつけや解釈は必要ない。見る人聴く人が、それぞれの感性と「好き、嫌い」で受け止めればそれでいい……日頃からそう思っている。作曲された瞬間に作曲家の手を離れ、演奏された時点で、聴衆一人一人のものになる。1000人の聴衆がいれば、そこに1000の異なった感動が拡がる。その一人になって、自分だけのベートベンを楽しんだ夕べだった。
 満たされて音に酔いながら辿る家路、都市高の街路灯が走馬灯のように連なって美しかった。

 中学2年の時、歌の試験で音程を外し、音楽の教師から「耳が出来てないから、クラシックを聴きなさい」と勧められたのが始まりだった。当時の音楽室の壁には、ベートーベンやリスト、モーツァルト、シューベルト、バッハなどの作曲家の肖像画が掛けられていたが、自ら音に親しむことはなかった。父が買って来た所謂「電蓄」で初めて意識して聞いたのは、父が好きだったというラロの「スペイン交響曲」だった。
 のめり込むのは早かった。月並みだが、多分チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲」とメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」に巡り合ったのが決定的だったと思う。高校時代は、文芸部の部室でひたすらクラシックに浸った。
 大学時代は、もっぱらクラシック喫茶に入り浸った。今はもうなくなってしまったが、「シャコンヌ」という行きつけの店があり、珈琲1杯でいつまで粘っても咎められることはなかった。お冷やのお代りを繰り返し、砂糖壺を空にしても許される店だった。店にないLPレコードも、注文すれば次に行ったときには買い求められていて、リクエストに応えてくれた。
 もう半世紀以上前の、古き良き時代の青春のひと齣である。

 3年ほど前に次女が贈ってくれたシラサギカヤツリが、今年も鈍色の梅雨空の下でスッキリと伸びはじめた。長い雨の季節も、いよいよ本番を迎える。
                 (2014年6月:写真:シラサギカヤツリ)
 

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