閑中有閑にして、さらに閑有り……。
およそ300枚の年賀状(生存証明書)も書き終わって、慌ただしい師走にもかかわらず蟋蟀庵は閑古鳥が鳴き、しめやかな雨に包まれている。ニコチャンマークを描いた八朔が2個、雨に濡れて顔中汗を流して笑う昼下がりである。
陋屋の庭のあちこちに立つ万両(マンリョウ)の実が、ようやく真っ赤に染まってきた。数えたら25本、山の実りが悪い時にはヒヨドリが群れ為してやって来て、姦しく鳴きたてながら庭にある全ての実を食べ尽くしてしまう。幸い今年は寒椿の花を啄んで散らしまわっただけで、今のところおとなしい。その寒椿の陰に、黄色い実を着けるキミノマンリョウが1本、斜めに傾いで実を着けた。
マンリョウは、その花言葉の一つに「寿ぎ」とあるように、正月用の縁起木として江戸時代から愛好されていたという古典園芸植物(江戸時代に日本で育種、改良され、独自の発展を遂げた園芸植物、また明治時代以降でもその美的基準において栽培、育種されている植物の総称)の一つである…と、ネットにあった。
同じ時期に真っ赤な実を着ける千両(センリョウ)、百両(ヒャクリョウ)、十両(ジュウリョウ)、一両(イチリョウ)がある。ヒャクリョウはカラタチバナの別名、そしてジュウリョウはヤブコウジ(藪柑子)、イチリョウはアリドオシの別名であり、1の位から万の位まで揃い踏みさせて、江戸の人たちは縁起を担いでいたのだろう。このうち3つを揃えて「千両・万両・有り通し」と洒落て、常にお金に困らないことを願ったという。
わが家の庭にはセンリョウ、ヒャクリョウ、イチリョウはないが、25本のマンリョウのほかに、数えきれないほどのジュウリョウ(藪柑子)が陋屋を囲む塀の陰に生え広がっている。「合わせて二十五万数千両の財宝!」……と悦に入って、ほくそ笑んでいる。罪のない暇つぶしである。
「もう、欲はない」と言いながら、先日家内の病院の帰りにゲンを担いで、九州道のサービスエリアで年末宝くじを買った。10億円なんて使い道がないし(言い訳じみてるな)、より当選本数の多い7千万円に運を掛けた。当たったためしはないが、誰かが当たっていると思うと「やっぱり、買わなきゃ当たらないよね!」という、いつもの言い訳をしながらささやかな夢を買った。当たらなくても、わが家の庭には二十五万数千両の財宝がある♪♪♪
毎朝下手な主題歌を聞かされるのには辟易するが、物語に惹かれて朝ドラを観ている。主役はともかく、脇役陣の厚みと演技に支えられているのは毎度のことながら、一日のリズムを作る数少ない日課のひとつである。
年賀状を書きながら、ふと今年は「喪中欠礼」のハガキが少ないのに気付いた。例年の3割ほどしか届いていない。私たちの世代は、もう親の看取りも殆ど終わったという事だろうが、稀に親の喪に服しているハガキが届くと、この歳までの大変なご苦労を思いやる。我が家では16年前までに4人の親を彼岸に送り、リタイア後は自由気ままに過ごすことが出来た。頭も身体も健康なままならいいが、子供にとって長生きし過ぎる親も困ったものかもしれない。
一方で、伴侶や兄弟姉妹を喪った「喪中欠礼」が年々増えていく。これも切ないことである。
大晦日まで3週間というのに、1ヶ月季節を戻した異常な暖かさで、土筆や蕗の薹の便りが届く。庭のユキヤナギも狂い咲きし始めた。エルニーニョにしろ、地球温暖化にしろ、いずれはクリスマスの頃に紅葉を愛でることになるのかもしれない。
小人閑居して為すべき不善もなく、ぼんやりと鉛色の空を見上げて、降りやまぬ師走の雨音を聴いていた。
(2015年12月:写真:マンリョウ)
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