「生命力」、「精力」、「憂い」、「悔いのない青春」、「なびく心」
早朝6時、歩き出す首筋を撫でるように吹きすぎる朝風が、もうすっかり秋の爽やかさを包んでいた。日の出も遅くなり、散歩を終える6時半過ぎに、山の端を破る。坂道を歩けば、まだ微かな夏の残滓に汗ばむ。カミさんと天満宮迄歩いてお参りをしたが、あいにく小銭さえ持ってない。「ごめんなさい、今日のお賽銭はツケにしてください!」と、詫びながら2礼2拍手1礼する。
歩き戻って熱いシャワーの後に浴びる冷水に、ようやく微かな冷たさを感じる季節だった。
「中秋の名月」を愛でるに欠かせないススキを探して、南に走った。田圃の畔や道路ののり面、川土手、目を凝らしながら走れども走れども、ススキの姿はなかった。目立つのは、丈を伸ばすセイダカアワダチソウばかり。およそ30キロ走った朝倉で、予約しておいた「さくらよ風に」というおしゃれな名前の懐石料理の店でランチを摂った。
ススキの開花時期には少し早く、またセイタカアワダチソウの花時にも早い。しかし、いつも中秋の名月の頃には、近場の叢でススキを刈って花瓶に差し、月見団子を供えていた記憶がある。年毎にススキが消えていくようで寂しい。
ススキとセイタカアワダチソウには、因縁の闘いの歴史がある。
1897年ごろに鑑賞用や蜂蜜を採る植物として、北米から輸入されたセイタカアワダチソウは、1940年代に日本全域に広まった。さらに1970年代に全国的に大繁殖を遂げ、日本においては完全に帰化植物となった
アレロパシー(他感作用)という特殊な能力があり、放出する化学物質で他の植物の成長を抑制してしまう。ススキの群生が次第に駆逐され、周辺の野性の「秋の七草」や小動物や昆虫なども姿を消していき、栽培種の「秋の七草」がスーパーに並ぶ現状が生まれた。
しかし、セイタカアワダチソウは繁茂しすぎると、自らのアレロパシーで自らの発芽まで阻害して衰退していき、今度はススキが盛り返してくるというのだ。
ススキは、セイタカアワダリソウが枯らした土地に再び栄養素を与え、有害な化学物質を消化し分解する。ススキの復活のおかげで、土地は再び栄養を取り戻しつつあるという。
厄介者の帰化植物に懸命に逆らい、何年も何年も踏ん張って最後の砦になったのがススキだった。そしてススキの群生によって、野原に土竜や蚯蚓、そして鈴虫などの秋の昆虫も帰って来た。女郎花、撫子、秋桜も、少しずつ戻りつつある。
面白いことに、北米では逆にススキが侵略的外来種として猛威を振るっているという。
冒頭に書いたのは、ススキの花言葉である。いずれも、私たち「昭和枯れすすき」世代には、もう縁のない言葉になってしまった。
ススキのないままに、中秋の名月を迎えた。雲一つない夜空に午後8時過ぎ、石穴稲荷の杜を囲む山の端から、玲瓏と満月が揺るぎ昇った。戻り残暑の夜気が、まだ重い夜だった。
300ミリの望遠レンズを噛ませたカメラを抱え、物干し台を三脚に見立ててシャッターを押し続けた。
一昨夜2輪、昨夜は10輪、そして満月を讃えるように今夜2輪の月下美人が咲いた。本来クローンの鉢だから同じ日に咲かないといけないのに、この鉢も沖縄以来半世紀近く生きた後期高齢者である。少し認知症気味であり、そろそろ葉から育てた若い鉢に譲って、引退させる時期かもしれないーー噎せるほどの甘い芳香に包まれながら、そんなことを思う中秋の名月だった。
(2022年9月:写真:満月の中秋名月)」
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