あれから10年と振り返られた方も多かったのだろう。私は渋谷区でお友達と喫茶店でお茶を飲んでいた。満席だったが、二人はテーブルの下に潜り込めた。私たちはラッキーだった。店のマスターがすぐにラジオをかけてくれた。状況を聞きながら、2杯目のコーヒーを飲んで、時間を過ごすことができた。当時神奈川に住んでいた私は帰宅難民で、渋谷区の友達のマンションまで1時間以上かけて一緒に帰った。そんな話を彼女とは今もすることがある。
今日、仙台のサッカー友から被災地の今の姿の写真が届いた。2012年の3月に宮城を訪れたときは、道路には起伏が残り、ビニールシートの家も多く、お墓は倒れたままだった。もちろん、ご家族やご親戚の方を亡くされた方もおられた。福島へも2011年の5月にボランティアに入ったが、体育館の段ボールで仕切られた空間でお年寄りが買いものにも行けず困っておられた。(若い人たちは車で買い物にいけるが)洗濯もお風呂も順番で洗剤やシャンプー・リンスが欲しいと言われた。あれから10年なのだ・・・。
人は、それでも生きなくてはならないのだと痛烈に感じた。話は変わるが、昨日はいろいろなことが起こった日だった。うれしいことのほうが多かったのだが、気になっていたサッカー友から手紙が届いた。いつもご夫妻で練習にも遠征にも来られていた。お二人ともがんを患われているという。いよいよサッカー友は治療方法がない状態だという。「今後はあるがままに好きなこと(サッカー・ゴルフ・盆栽・旅行など)をしながら自然に生きようと思っています」とあった。
毛筆でいつもお送りただく達筆なお手紙にはお返事をするのが、気後れしていた。今度は下手な字でも、精いっぱい思い出を書いてみよう。82歳、俊足で赤いサッカーシューズがまぶしい人だ。
10年まえと現在の写真(宮城多賀城市)