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あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

なぜ?にこたえは?

2018-11-24 19:28:50 | 日記

明日は終活を兼ねて京都方面へ出かける。膝が痛くなるといけないと今週は静かに過ごしていた。年を取るということは、限界がわかりやすくなるのでいい。一つ一つ終活を片付けていかないと動けなくなる。終活は意外に前向きに生きられるようになる。今朝の朝日新聞の「折々のことば」に「なぜ、という問いに答えようとして人は物語をつくる。幸せのなかに物語はない」があった。なんとなくそのような気がした。

毎日、ゴーン容疑者のニュースが続く。どんどんその支払額等が増える。でも、ゴーン容疑者ほどの人が罪に問われるとは思わなかったのだろうか。私がむか~し勤めていた小さな会社でも3名の役員がやりたい放題に報酬を取り合っていた。会計監査は大手の監査法人が入っていたが、担当は社長の友だちだった。しかし、私が退職する頃に、監査法人のほうから「ぼろ」が出てきた。会社内からは、内部告発などとんでもない時代だったが、どこかで破綻が来るものだと思った。

ゴーン容疑者は、「なぜ」とつじつま合わせのストーリーでも考えているのだろうか。彼の暮らしは「出世」の物語だけなのだろうか。超貧乏人には想像もつかない生活だ。でも、靴は一足しか履けないし、いくつ住まいがあっても体は分身の術は使えない。食事だって10食も1日には食べられないだろう。1日1000円の生活費の「物語」のない生活で十分だ。

 

 

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おかあさんがいいな?

2018-11-23 17:27:50 | 日記

今朝は空気が湿っていてひんやりしていた。昨日の雨のせいだろうか。桜の木の紅葉もきれいになったが、葉に傷もなくきれいに紅葉しているものはない。どこかに穴やしみがある。生きていくということは、しみも傷もできるのだ などと思いながら歩いた。しかし、毎日出てくるゴーン容疑者の欲?たるやすごい。思わず彼の信仰を調べてみた。おそらくカトリック教徒なのだろうが???『天国に冨を積む』ことを聞かなかったのだろうか。どういう環境が彼のような人格を形成したのだろうか。

私は子供を育てたことがないが、友だちの男の子の育て方をみていると、ともかく自分を見てほしい ということが強かった。高いところに登れれば、「見て!見て!」だ。ここで褒めなくてはならない。彼女は働きながらの子育てだったので、子供達を夕方まで預けていた。それから帰っての夕飯の仕度のときは、子供達は彼女もそばを離れずに1日の出来事を話していた。うまくお手伝いをさせながら話を聞いていた。

たしか高倉健さんの本だと思ったが『あなたに褒められたくて』というのがあった気がする。あなたは母親だ。男の子はそうなのかなぁ と思っていた。でも、男の人もそうらしい。サッカーの写真を撮りだしてから特にそう思う。ゴールを見てないことが多いのでいつも文句が出る。

「私はあなたのお母さんじゃないのよ!」と夫に言ったという人がいた。よく聞く話だ。でも、この年になり、思うのだ。お母さんができれば、いいんじゃないのと。いつもみていて、声をかけて、いいときは褒めて、だめなときでも褒めて、うるさいな!といわれてもかばってあげて・・・。結局、そんなほうが平和な気がする。理屈はいらないね。

 

 

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あたたか~い

2018-11-22 17:00:32 | 日記

夕方の4時過ぎになると部屋が薄暗くなる。冬至まであと約1ヶ月。もうすこしの間、日が短くなる。気がついたらお給料日と三連休の前で銀行が込んでいた。お給料も三連休も縁がない身分だ。ある意味でいい身分だ。

ここのところなぜか母のことを思い出す。実家の片付けにも6月以来行っていない。母がいないと、家もただの建物になってしまう。それだけではなく、洋服にしても食べ物にしても母への買い物することがないのがさびしい。このセーターは喜ぶだろうな・・・・。特に暮れに向かうこの時期はつまらない。独身者にクリスマスとお正月は寂しいとき というが、そういうさびしさとも違う。

それでも毎日あたたかさの中にいることは嬉しい。夜、お布団に入ると毛布があたたかい。決して高価な毛布ではないが、このあたたかさに包まれるとしあわせを感じる。狭いお風呂でも入浴剤の香りに癒されながら入れるのはうれしい。夜だけでなく、朝のあたたかい光の中での朝食も贅沢な時間だ。布団もお風呂も朝食も以前とは何も変わらないのに、なぜか最近「あたたかさ」にしあわせを感じる。

「あたたかさ」に包まれている。そういえば、このぶろぐは「ぬくもり」と名づけた。書き始めて2000日を越えた。あなたに「ぬくもり」を届けるのではなくて、たくさんの「ぬくもり」を頂いたのだろう。このしあわせに慣れないで感謝していこうと思う。

 

 

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神父さまの離婚

2018-11-21 18:06:50 | 日記

街に出ると、もうクリスマスだ。教会もクリスマスに向けて行事が多くなる。教会では、聖書の分かち合いの会が週に3回ぐらいグループ別にある。神父様も参加される。ある会に性的マイノリティーの方が参加されだしたという。ローマ法王は「同性愛者やトランスセクシュアルについて、こうした人々は可能な限り社会に歓迎され、受け入れられ、溶け込むべきだし、「私はこうした傾向のある人々、同性愛の慣行に寄り添い、神のそばへ導いてきた」「一人たりとも見捨てたことはない」と答えたそうだ。

その会で性的マイノリティの方が神父様に「神父として、あなたは結婚しないということをどう思いますか?」と聞かれたそうだ。神父様は「自分の選んだ道に後悔してはいないし、神父として生きられて(結婚しなくても)よかったと思う」と言われたそうだ。「もし、私が神父でなかったら、Mさんと(会のリーダー)結婚したら、すぐ離婚したでしょうね」とも冗談?ぽく云われたと言う。カトリックでは『離婚』を禁止いている。それは、神さまが決めてくださった相手と別れるということだからだ。ですから、聖書には、離婚した女性と結婚するのは、『姦通』するのと等しい と書いてある。(恐ろしい) 私は離婚後洗礼を受けているので、洗礼を受けるまえに神様に罪を告白し許しを受けている。

神父様にしてもシスターにしても、その道に入るときは両親の激しい反対にあったと言う。でも、18歳以降ぐらいから決心されるわけだから、恋の思い出はあるようだ。いや、人の子である以上、その後の人生でだれかに恋とは違うにしても「愛しく」思う人はいるようだ、

神父様に意地悪に聞いてみたらどうだろう。「神父さんでなければ、Mさんと結婚して耐えられなくて離婚するのですか?」と。カトリックは実はとても寛容な世界だ。ひとは間違いを犯すものだ というところから出発しているからだろう。『間違い』をいかに『昇華』するかなのだろう。神父のこいもあるのかな。いわんや凡人おや である。

 

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もふもふのしあわせ

2018-11-20 17:59:39 | 日記

『枯れ葉散る夕暮れは 来る日の寒さの物語り・・・』だっただろうか。マンションに入り口の落ち葉が身を寄せていた。暖かいとはいえ、冬が来るのだなぁ と思う。少し膝が痛いような気がしたが、ボール蹴りに出かけた。行くなり、日曜日の大会の応援にどうして来なかったのか?と言われる。全国大会に出られる70歳以上の関東シニアの予選が群馬の前橋であった。久しぶりにミサにいけると思った日曜日、ここは教会が優先だった。というよりは教会が呼んでいたのだ。その前の那須の大会も何故来ないと言われる。どこの大会でも行くものと思われるのは、嬉しいことでもある。

私は、NPOの仕事を単純にこなしているだけで(皆さんが喜んでくれればいいと)それ以上はなにもない。お世辞でも観ていてくれると頑張れるとか言ってくれたり、差し上げた写真がとても嬉しいかったとか、お誕生日祝いのカードが、結婚後初めてもらった女性からの手紙だたとか。人が喜んでくれることができる機会をいただけることに感謝している。

教会の行事でいつも何かにつけ文句を云っていた人が、もうそういうことはどうでもいい と言えるようになった。多少の問題はあるが、目くじらを立てるほどのことではなかった。ましてや、教会の仲間のことだ。彼女はある方が、自分の一番わかってほしいことを理解してもらえ、とても気に留めてくれているということがわかったので、とても穏やかになれた という。その気持ちはとてもよくわかった。子供のころからの枯渇した部分が満たされたのではないだろうか。人間は案外単純なものだ。

「もふもふのしあわせ」と私は呼んでいる。何十憶なんてなくても人はしあわせを感じることができる。一番ほしいものを与えてくれる人に出遭えるかどうかなのだろうな。

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