伊藤正著 産経新聞社刊
改めて力作と認めたい。中でも明らかにされた四人組拘束の展開は、よく出来たフィクションの如くである。以下は、下巻の一部抜粋。
<四人組拘束の展開>
「宮廷クーデターさながらの逮捕劇は、中国共産党史に前例はなく、毛沢東時代のルールにも反していた。毛は政敵を追放する場合、会議での多数決という手続きを踏んだ。無法が罷り通った文革期でさえ、小平の二度の失脚も含め、そうだった」
「華国鋒、葉剣英、李先念、汪東興が周到に準備したシナリオ通りだった。76年10月6日。午後3時に、王洪文、張春橋、姚文元に“午後8時から政治局常務委員会”の通知が届く。議題は『毛沢東選集第5巻』の校了、毛記念堂の設計の検討・・・。午後7時、華、葉が会場の中南海の懐仁堂に到着。汪は数人と屏風の陰に隠れる。やがて張が8時に懐仁堂に入ったところで、反党・反社会主義の罪を告げられ、連行される」
「翌7日、小平は監視下の自宅で四人組逮捕を耳にした。伝えた賀平は家中に仕掛けられた盗聴器を避け、夫妻と3人の娘を浴室に呼び、浴槽の水を流す音を立てながら、逮捕の顛末を話した。この時小平は『とても感激し、指に挟んでいた煙草が小刻みに震えていた』という。
<小平の最大のライバル・保守派の重鎮・陳雲の胡耀邦追い落しのシナリオ>
「まず小平と連合して華国鋒を倒し、次に趙紫陽(首相)と連合して胡耀邦を倒し、その後再び小平と連合して趙紫陽を倒す。最後は小平を孤立させ、従わざるを得なくする」
<変わり身の早い現実主義者・小平>
「胡耀邦は理想主義者で、彼の目指す改革にはタブーがなかった。それに対し、小平は経済分野の自由化を進めた反面、改革が少しでも一党独裁体制の維持に不利とみると、たちまち保守派に変身した」
「文化・言論界の様々な議論も、青年たちの新しい風俗や娯楽も、改革・開放のおかげだった。それが、社会主義を脅かすと感じたとき、小平は毛沢東が文革を発動したように、極左派にくみし運動を組織した。しかし、その影響が経済分野に及ぶと知ると、すぐに変身した」
<小平のやり方>
「小平は毛沢東の旗を掲げて非毛沢東化を進め、社会主義の政治原則を強調しながら、市場経済を実現した」
<天安門事件は李先念の謀略>
「89年4月、胡耀邦追悼大会後の学生デモを長老らは“動乱”とし、やがて“反革命暴乱事件”とした。李先念の反革命暴乱をでっちあげればいいとの提案が発端。『ごく少数の者が裏で画策し、デマをつくり、挑発扇動をして事態を拡大、動乱を通じて共産党の指導と社会主義打倒の政治目的を達成しようとしている』という謀略の通告が、“人民の軍”の武力行使への心理的抵抗感を大幅に軽減した」
<歴史問題に関する毛沢東の言葉、64年7月佐々木更三に>
「日本の友人が皇軍の侵略を謝ったので、私はそうではないと言った。もし皇軍が侵略しなかったら、中国人民が団結し立ち向かうことも、共産党が権力を握ることもなかったのです」
<小平の負の遺産>
「江沢民チルドレンと呼ばれる世代の登場は、おそらく小平の想定外だったろう。それは政権の理性的対日政策を妨げ、共産党の権威を損なう一因にもなっている。しかしそれもの遺産に他ならない」
巻末資料の充実が、じつに行き届いている。索引は上巻分も含めて、アルファベット順にページ・ナンバーを記載、語句の引用箇所がたどれる。この中には人物名もすべて網羅されているが、それとは別に『人物リスト』があり、一人物につき4~5行の筆者によるwho’s whoが記述されている。驚くのは「参考文献」。単行本だけで約800点というが、新聞・雑誌の類を含めれば、その渉猟の多さはあきれるばかり。
筆者も第六部「先富論の遺産」で「小平が予測できなかったのは、インターネットが農民にまで普及し、党による情報統制が無力化した時代の到来だったろう」と指摘するように、チベット騒乱や四川大地震の責任が国家・共産党にあるとの非難は、ネットによって増幅された。党がコントロールする新華社や人民日報、はたまたCCTVではなかった。共産党が生き延びるためには、多党化を計ることしかなかろう。その意味で台湾の国民党とのテーブルにつき、外交部出身の王毅が台湾弁公室主任に付ついた意味は大きい。国民党を抱き込んで、共産党一党の責任を回避するシナリオではないか。