処遊楽

人生は泣き笑い。山あり谷あり海もある。愛して憎んで会って別れて我が人生。
力一杯生きよう。
衆生所遊楽。

浅川マキ逝く

2010-01-20 08:13:33 | 

17日、公演地名古屋のホテルで、倒れているのが発見されたとの報道があった。

死因は心不全という。享年67歳。

数日前、彼女はどうしてるのだろうかとふと思い、アマゾンンでCDを物色したり、ユーチューブで映像を観たりしていたら、この知らせだった。

                      

アングラの女王とか呼ばれ、謎と神秘性が彼女のキーワードだった。自身はアンダーグラウンドとの差異にこだわり続けた。音源、音質、詞(詩)、意匠、映像など多面にわたり自ら信奉する美を貫き通した。

果たして歌が本当に上手かったのかとなるとよくわからん。上手いとはどういうことなのか。ジャズでもシャンソンでもスピリチュアルでも自分が納得する歌い方でしか歌わない。

寺山修司とセットで残像になっている。蠍座、学生運動、黒、ライブ、情念。独特の世界に生きた同時代人ではあった。

  

  寺山修司                    よくライブをした教会地下のジャンジャン

かもめ」「ちっちゃな時から」「夜が明けたら」「ふしあわせという名の猫」。

昭和の世界が、またひとつ消えてしまった。

合掌。

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メッシ

2009-12-30 19:56:20 | 

2009年国際サッカー連盟の最優秀選手にメッシが選ばれた。

これで、クラブ・ワールドカップで優勝したFCバルセロナが09年に獲得したタイトルは6冠となった。       

     

07年スペイン国王杯準決勝で、5人抜きのドリブルでゴールを決め、”マラドーナ2世”と呼ばれて以来、彼のスーパープレイは世界のファンを魅了し続けてきた。北京オリンピックでは2ゴール1アシストで、アルゼンチンの金メダル獲得の原動力になったことは、記憶に新しい。

スピード、流れるようなドリブル、精度の高いパスとシュート、大舞台ほど物怖じしないメンタル面の強さ。彼のプレースタイルである。

5歳で祖国アルゼンチンでサッカーを始めた彼は、11t歳の時に成長ホルモンの分泌異常のため、今以上の身体成長は無理だと診断 される。膨大な治療費が要る。ために名門クラブのリーベル・プレートはその治療費が工面出来ず、結局彼の獲得を断念せざるを得なかった。

13歳。FCバルセロナの入団テストで彼の才能と将来性を見抜いたチームのカルロス・レシャック監督は、メッシの家族のスペイン移住と治療の専念を薦め、そのためのすべての費用の負担も申し出る。この時の身長143cm。

ユースチームでの治療とトレーニングの結果、身長が169cmとなって、今日の栄光に繋がるのである。

彼は、恩義あるFCバルセロナで終生プレイすることを誓っているとの報道がある。そこにトップ・アスリートの心がある。華麗な栄光の陰に秘められた事実を知ることで、ゲームがより面白くなる。

            

 

 

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武田信玄

2009-08-31 06:01:44 | 

狂乱の真夏の40日戦争が終わった。

政策そっちのけ、「政権交代」が一人歩きした総選挙が終わった。

武田信玄に次の言がある。

 

             

「およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。その故は、五分は励を生じ、七分は怠を生じ、十分は驕を生じるが故。たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば、次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中の事肝要なり」 

308議席は”十分の勝”であろう。

果たして、日本はどうなるか。今日は? 明日は?

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加山 雄三

2009-08-21 10:40:32 | 

日本経済新聞掲載の7月の『私の履歴書』は、加山雄三だった。

 

                                

 

読んでみて、トップスターとして、世紀の二枚目俳優の御曹司として、巷間イメージされている彼の像が大きく覆ることはなかった。

彼自身が語っている内容は、ファンあるいは読者にとっては初めて知るものだが、家族愛・青春・悩み・借金苦・浮き沈み・不安など、我々と同じレベルであることで、より親近感を持つことになったのではないか。

音楽、科学、船・・・、「俳優をやるつもりはなかった」など、父親もそうだったといういうから面白い。

子供の成長にとって、いかに家庭環境が大事か。小学生の時には、戸棚から引っ張り出したSP盤のベートーベンの「皇帝」を繰り返し聴いては、突き上げられる思いに、ポロポロ涙が出てきた、と述懐。中学校を卒業するころには「英雄ポロネーズ」が全曲弾けたという。「夜空の星」のメロディーは、14歳で作ったとも。

                         

              父 上原 謙                          母 小桜葉子

「手作りカヌー」は中学2年生のとき。大学生までの間に8隻を造船し、この癖が、現在の4代目光進丸に続いているといえる。全長64メートル定員24人の設計図は書き上げているという。

「恋は紅いバラ」に似たバラードを1時間半で作ったのが「君といつまでも」だったり、「君といつまでも」の音入れのときに、感激のあまり、「幸せだなあ」と感嘆したことが、「それ行こう!」と間奏のせりふになったり、「夜空を仰いで」は江ノ島沖の船の屋根の上で、また、「ある日渚に」はリオデジャネイロで、出来上がったなどの作曲に纏わるエピソードが数あって面白い。

叔父の債務の保障をしたことによる23億円の返済が、語るも涙の物語。個人の税金の延滞利息が国税日歩4銭3厘、地方税2銭6厘という恐ろしさ。自作の楽曲の著作件を抵当にいれ、アメリカに逃げる。その先に夫人となる松本めぐみとの結婚話が繋がってくるのだから波乱万丈。

稼ぐためにナイトクラブやキャバレー回りもやり、「兄弟仁義」は大いに受けたという。「人生劇場」「別れの一本杉」「港町ブルース」・・などを入れたアルバム『演歌流し唄』はこの頃の作品。

他にも、圧雪車に轢かれて瀕死の重傷、若大将の復活ブーム、ステージの失敗談、極寒での撮影行、父・上原謙の死などドラマ・エピソードが満載。

                          

 

結語。「来年はデビュー50周年を迎える。生涯現役でやっていくため、酒もたばこもやめた。僕は歌いたい。夢をこころに、いつまでも」

この言やよし。今度カラオケで、加山雄三三昧やっちゃおう!!。

 

 

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リン・チーリン

2009-04-16 07:02:07 | 

                         

                『パンプキン』誌より

 

台湾出身。香港はじめ中華圏で絶大な人気のトップモデル。公開中のジョン・ウー監督の超大作『レッドクリフで、周瑜の妻・小喬を演じる。とても映画初出演とは思えぬカメラ度胸で、戦争スペクタクルに花を添える。

 

親日家で旅行好き。学生時代にはバックパッカーとして日本のあちことを旅したことがあるとは嬉しい限り。2004年から5年連続で"ビジット・ジャパン・キャンペーン"の台湾親善大使も努めている。

 

自身が演じる小喬についての彼女の弁

「戦いを描いていますが、そこには愛や平和への願いがあり、それを象徴しているのが小喬の存在です。小喬は夫を愛し夫のために尽くすのですが、結果として、それが国のために動くことになる。とても重要な役柄でした」。

 

さて、劇中、小喬が敵役の将軍曹操にお茶を淹れるシーンは、あまりの所作の美しさに、思わず息をのむほどだとといいます。どうぞお見逃し無きよう。

 

 

 

 

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松田 昌士氏

2008-12-11 07:05:37 | 

ひとに薦められて日本経済新聞に連載の『私の履歴書』を読んだ。

同紙の名物コーナー。ほぼ一ヶ月の連載で一人分の履歴書が完結する。

 

                 

          「日本経済新聞」連載『私の履歴書』

 

11月はJR東日本相談役の松田昌士氏。

近年では、道路公団民営化に関する報道で氏の名前を知った方も多かろう。

第三者が書く評伝と異なり自らの筆になる半生記のため、客観性にかけるところはある。が、その点を加味しても、敬意を表すべき男の仕事、男の生涯である。

 

                         

                   松田昌士氏

 

人は一生でどの位の人と行き交うのだろうか。世に名を成す人に共通するのは、その出会いの豊かさとそれを己の成長の節とする感性の見事さである。氏についても全くあてはまる。

転校した札幌北高校の山本梅雄校長。北大のドイツ語の小栗浩先生。後に夫人となった宮城女子学院の学生佐藤郁子氏。彼女とは学生時代に参加した岐阜でのユネスコ大会における出会いがきっかけ。

勤務先国鉄での上司や同僚。出向した経済企画庁での各省エース級官僚との共同作業。再建目指しての政治家への陳情などあらゆる出会いが次の飛躍への見事な因となっている。著者自らも「そのことを考えるたびにいつも不思議な運命の綾を感じるのである」と述べている。

 

この種の話は、ややもすると苦労話が即手柄話となることが多い。それに陥っていないのは、自らをプランナーと意識し、数多くの企画・計画を実現してきた豊富な経験・実績の裏づけがあるからだろうか。

①貨物輸送の改革:小型コンテナ化。物資別輸送。大都市間直行運転。

②天王寺駅貨物課長時代:営業センター設置。和歌山から北海道への蜜柑専

 用列車。

③北海道勤務時代:駅舎上の広告看板の掲出。千歳空港駅新設。初のハイデ

 ッカー車の導入。

④JR社長時代:「家庭」と「価格破壊」を狙った’新しい旅’企画。駅型

 保育園の設置。「日本ツーリズム産業団体連合会」の設立。

  

連載の圧巻は、ILO総会において、スト権スト問題に勝利するくだりだろうか。「ILOの長い歴史の中で、使用者側の最大の勝利となった」と綴っている。「国労のリーダーは自らをコミュニストと公言して憚らない人物である」との各国代表への根回しが、ソ連の核の脅威が深刻化する当時の冷戦下で、思いのほか奏効したと分析している。

 

        

                   ILO本部

巻末前の、早世された夫人への愛惜の情を吐露した章は、旧い表現で恐縮だが、”外に出れば7人の敵が居る”男を支えた妻に対する慙愧の思いが胸を打つ。

 

『私の履歴書』は、これまで連載がすべて単行本化されているとは限らないのではないか。是非、一冊にまとめて欲しいものである。昨今のふにゃふにゃした小粒の政治家達に突きつけたい。

 

 

 

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おめでとうございます

2008-10-08 21:40:07 | 

ノーベル物理学賞、日本人の3人が受賞。

 

連日、金融崩壊の暗く絶望的なニュースが打ち続く中、思いがけない素晴らしい朗報だ。嬉しくて一つ一つ丹念に記事を読む。こう言っては失礼だが、揃って奇人変人。テレビニュースで観る記者会見も頓珍漢で、こちらの頬が緩んでしまう。だからノーベル賞なんだと納得。

 

         

南部陽一郎氏(87歳)    益川敏英氏(68歳)      小林 誠氏(64歳)

 シカゴ大学名誉教授          京都大学名誉教授       高エネルギー加速器研究機構教授

大阪市立大名誉教授           京都産業大名誉教授

 

日本の理論物理学のレベルの高いことを改めて知ることとなった。果たしてアジアでノーベル賞の受賞国は? その人数は? 中国は? 韓国は? てなことを言うとナショナリズムの顰蹙を買うかしら。 

報道の中でチラッと目にしたが、シカゴ大学は82人の受賞者を出しているという。驚きである。となると、ハーバードは何人なのかしら。

 

この快挙に満足し、日本政府の教育の改革や英才教育への対応が遅れることにならなければよいのだが。それでなくとも現行の日本の教育投資は、他の先進国に比べてお寒い限りなのだから。

 

このブログのアップ中に、テレビが同賞の化学賞を、また日本人が受章したと報じる。

ボストン大学名誉教授 下村 脩氏。

2日間で4人。通算16人の受章となる。

 

希望と明るさと自信、今の日本に最も望ましいプレゼントになった。

 

物理学賞化学賞

 

 

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クルム伊達公子

2008-06-17 21:43:33 | 

この4月に、11年半ぶりにプロに復帰した伊達公子。

 

4試合目の東京有明国際オープンで優勝した。

 

19歳年下の秋田史帆を、テンポの速い攻撃で撃破。見事と言うほかない。

 

「若い選手には、勝つことへの執着をもっと持って欲しい。真剣勝負をしている時間・空間が今はとにかく楽しい。新たなチャレンジを、続けていきたい」と。

 

     

 

暫くの間、彼女の素晴らしい笑顔が見られる。

 

 

 

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村上 春樹

2008-03-04 21:32:06 | 


書棚を整理していて遭遇した。B4版半折綴じの『スイング25年の歩み』である。ザラ紙に黒インクでテキスト印刷された小冊子。外側は黄ばんでいる。水道橋駅至近の神田川のほとりのビルの地下にあったトラッド・ジャズ専門の喫茶店「スイング」が開店25周年を記念してつくったものである。発行は昭和58年1月20日。
賑やかで活発な関西と違って、貧弱な関東のトラディショナル・ジャズ・シーンを牽引してきた同店だけあって、当時錚々たる面々が記念のメッセージを寄せている。油井正一、河野隆次、瀬川昌久らのジャズ評論家の各氏。ジャズ・クラブの主宰者、レコード会社の幹部などだ。その中に混じって、作家・村上春樹氏も一文を寄せている。

その中で彼は、自分が同店でアルバイトをしていたのは11年前まで、つまり昭和47年までと述べている。何年働いたのだろうか? 期間によっては私が通っていた時期と交錯する。



「トラディショナル・ジャズの良いところは人目を気にしたり格好をつけたりしないで聴けるところじゃないかという気がします」
「当時は大学紛争なんかがポシャちゃった直後で、そういうエア・ポケットのようなところがかえって体になじんだという記憶があります」と書いている。

店に迷い込んだ猫にメズロウと名付けてみんなで飼ったこと、ブラインド・フォールド・テストで一度も当たらなかったこと、『響』でアルバイトをしていた夫人と待ち合わせをして帰宅したこと、神保町「いもや」の天丼が170円だったことなどを紹介し、「大昔の話みたいな気がします」と懐かしく追想している。

彼の作品に通底するジャズ感覚は、ここでも培われたのだろう。
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西田 厚聡 氏

2008-02-29 23:22:14 | 
東芝がHD-DVD事業からの撤退を発表、かつてのベーターvsVHSの決着が13年を要したのに較べわずか2年。日ごとに、その決断に評価が高まっている。

 朝日新聞の2月24日付の囲み記事“補助線”で安井孝之編集委員が、その決断の人・東芝の西田厚聡社長について書いている。題して『撤退戦略を読み解く 問われるトップの決断』
 この記事によって西田氏について心動かされた幾つかの点がある。記事を引用して挙げてみる。

一、「約300人の記者やアナリストの前に立ったのは西田厚聡社長、ただひとり だった。(中略)すべての質疑を西田社長が1人でこなした。社長の脇を幹部が固める、他の多くの記者会見とは様子が異なっていた」

一、「西田社長は会見で『(社内で)いろいろな議論があるのは当たり前であり、そういう議論を経た上で最終決定をした』と語った。撤退戦略は最終的にはトップが決断せざるを得ないものだ」

一、「撤退と合わせて、次世代DVDの次の記録媒体とも期待されているNANDフラッシュメモリーの新工場を建設すると発表したことで、撤退のマイナスイメージを和らげた」

一、「西田社長は毎朝、6時半から8時までの1時間半を1人、社長室で過ごす。その間、じっくりと経営戦略を考えるという」

 西田社長は、早大から丸山真男を慕って東大に入り直し、イラン人留学生と学生結婚。東芝には31歳で入社。同社のノートパソコン事業の立ち上げに努力。社長になってからは原子力発電事業でウエスティングハウスを一兆円で買収したり半導体に特化した投資を次から次えと打ち出したりしている。なかなかの経営者であることを知った。非凡な人である。今更、自身の不明を恥じている。東芝には土光敏夫氏のDNAがしっかり引き継がれているのかしら。頼もしい。
 
 折から、自国の国民を守れず、自らの責任逃れにあたふたしている平和ボケの自衛官たち。西田社長に鍛えなおして貰いたい。





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