ひとに薦められて日本経済新聞に連載の『私の履歴書』を読んだ。
同紙の名物コーナー。ほぼ一ヶ月の連載で一人分の履歴書が完結する。
「日本経済新聞」連載『私の履歴書』
11月はJR東日本相談役の松田昌士氏。
近年では、道路公団民営化に関する報道で氏の名前を知った方も多かろう。
第三者が書く評伝と異なり自らの筆になる半生記のため、客観性にかけるところはある。が、その点を加味しても、敬意を表すべき男の仕事、男の生涯である。
松田昌士氏
人は一生でどの位の人と行き交うのだろうか。世に名を成す人に共通するのは、その出会いの豊かさとそれを己の成長の節とする感性の見事さである。氏についても全くあてはまる。
転校した札幌北高校の山本梅雄校長。北大のドイツ語の小栗浩先生。後に夫人となった宮城女子学院の学生佐藤郁子氏。彼女とは学生時代に参加した岐阜でのユネスコ大会における出会いがきっかけ。
勤務先国鉄での上司や同僚。出向した経済企画庁での各省エース級官僚との共同作業。再建目指しての政治家への陳情などあらゆる出会いが次の飛躍への見事な因となっている。著者自らも「そのことを考えるたびにいつも不思議な運命の綾を感じるのである」と述べている。
この種の話は、ややもすると苦労話が即手柄話となることが多い。それに陥っていないのは、自らをプランナーと意識し、数多くの企画・計画を実現してきた豊富な経験・実績の裏づけがあるからだろうか。
①貨物輸送の改革:小型コンテナ化。物資別輸送。大都市間直行運転。
②天王寺駅貨物課長時代:営業センター設置。和歌山から北海道への蜜柑専
用列車。
③北海道勤務時代:駅舎上の広告看板の掲出。千歳空港駅新設。初のハイデ
ッカー車の導入。
④JR社長時代:「家庭」と「価格破壊」を狙った’新しい旅’企画。駅型
保育園の設置。「日本ツーリズム産業団体連合会」の設立。
連載の圧巻は、ILO総会において、スト権スト問題に勝利するくだりだろうか。「ILOの長い歴史の中で、使用者側の最大の勝利となった」と綴っている。「国労のリーダーは自らをコミュニストと公言して憚らない人物である」との各国代表への根回しが、ソ連の核の脅威が深刻化する当時の冷戦下で、思いのほか奏効したと分析している。
ILO本部
巻末前の、早世された夫人への愛惜の情を吐露した章は、旧い表現で恐縮だが、”外に出れば7人の敵が居る”男を支えた妻に対する慙愧の思いが胸を打つ。
『私の履歴書』は、これまで連載がすべて単行本化されているとは限らないのではないか。是非、一冊にまとめて欲しいものである。昨今のふにゃふにゃした小粒の政治家達に突きつけたい。