処遊楽

人生は泣き笑い。山あり谷あり海もある。愛して憎んで会って別れて我が人生。
力一杯生きよう。
衆生所遊楽。

Dr.ムクウェゲ

2021-03-23 13:50:08 | テレビ

渋谷のユーロライブで(リアル)『ムクウェゲ「女性にとって最悪の場所」で闘う医師』を観た。

2018年のノーベル平和賞の受賞で広く世界が知ることとなったコンゴ民主共和国の産婦人科医であり社会運動家。同国東部のブカブに自ら病院を設立して22年にわたり性暴力の被害である女性や少女などを心身ともに救済をしてきた。その数5万5千人に上る。

 

これらの性暴力が引き起こされる原因は、コンゴで発掘される鉱物(特に金、スズ、タングステン、タンタルなどのレア・メタル)をめぐる武装勢力や軍、隣国の兵士などの略奪や暴力的覇権争いによる恐怖統治やコミュニティの破壊にあるとDr.は告発を続けている。それにより自身が命を狙われてもいる。

先進国や国連をはじめとする国際機関に訴えても、改革は遅々として進まない。それらの国がレア・メタルのステーク・ホルダーでもあるからである。レア・メタル無しではITもAIもEVも宇宙も成り立たない現代社会。早い話がスマホが無ければ困るのである。

Dr.は訴える。「資源の開発は性暴力と組織的に結びついています。性暴力は性的な欲求から来るものではありません。テロリズムの一種なのです」と。これは重い。

この悲惨な女性たちを救うために私たちに出来ること何か。このドキュメントの中で高校生たちの議論の場がある。使わなくなったスマホの回収サイクルの公的管理と積極的参加もその一つであろうと。

70分にわたる上映後、スクリーン脇の楽屋でトークが行われ、会場とオン・ライン参加者も共有した。司会をTBSアナが務め、パネラーはRITA-Congo共同代表の米川正子氏と華井和代氏、このドキュメントを制作した立山芽以子監督。

RITA-Congoの二人は、国連の活動の一環で難民救済や紛争解決に長年取り組んでこられ、立山監督は「ニュース23」「Nスタ」を中心に日系移民や第二次大戦、アフリカ、開発に関する番組制作に取り組まれてきた。

2016年の来日の際、Dr.ムクウェゲ医師は東大などで講演。華井氏はその時のムクウェゲ医師のスピーチに深く感銘を受けたと振り返る。

「彼の芯のゆるがない強さに心打たれました。被害者たちはあまりにも残虐なことをされ、そのあとムクウェゲさんのところに運ばれて行って手術やケアを受けています。被害者たちの体験を聞いていると、人間に絶望してしまうような話が出てくる。でもそのまっただ中にいて、この状況を変えられると信じている。その強さはどこから来るのか」と。

 

                     

 

いま世界では、シリア、ウクライナ、パレスチナの紛争はメディアによって多くが知られるところとなっているが、このコンゴの悲惨はメディアが取り上げることは殆どない。日本においても、この紛争の存在すら十分に知られていないのが現状である。この「無関心」が、同国の人道危機を更に深めているのだ。

Dr.はノーベル平和賞のスピーチでこう述べている。「行動を起こすことは、無関心に対して、『ノー』ということです。もし戦争を起こすとするなら、それは私たちの社会を蝕む無関心との戦争なのです」(聖教新聞)

 

宇宙船地球号。人類は運命共同体。安全で平和な世界、人権の尊重、生命尊厳は、今ここに生きる私たち一人ひとりに委ねられている。まず身近な出来ることからやって行こう、ささやかな決意をしたのだった。

なお、2点。RITA-CongoのRITAは日本語の「利他」が由来、この企画がTBSドキュメント映画祭の22作品の一つとして上映されたことで、国内に広く知られる契機となった。実に喜ばしい。

デニス・ムクウェゲ

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読書と人生

2021-03-15 16:58:37 | 

著者 寺田 寅彦

出版 角川ソフィア文庫

碩学とは、これほど深く物ごとを考えるものか。専門の物理学を離れて、というより斯界と異なる場だからこそ、専門の理詰めの志向方法を駆使しての自由な発想・発展ができるのだろうか。

時代と社会を考察し、実に鮮やかに病巣を摘出する。そして治療の方途について自らの考えを述べる。しかし語り口は極めて柔らかい。その硬軟が特徴か。

         

残念なり。今頃読んでる自分が残念なり。我が高校生の時代、岡潔は読んでいたのに。

以下は、往時、評判になった随想の抜粋である。ジャーナリズムのあり方についての考察。あれから100年。益々狂風の募るメディアの昨今。思うところ多し。

「発明発見、その他科学者の業績に関する記事の特権は、たった一日経過しただけで、新聞記事としての価値を喪失するという事実がある。この事実もまたジャーナリズムのその日その日主義を証拠立てる資料となるであろう。学者の仕事は決して一日に成るものでなく、それを発表した日で消失するものでもないのであるが、新聞ニュースとしては一日過ぎれば価値はなくなる。しかも記者が始めて聞き込んだその日を一日過ぎるとニュースでなくなるのである。それで、誤ってジャーナリズムの擒となった学者はそのつかまった日一日だけどうにかして遁れさえすればそれでもう永久に遁げ了せることができるのは周知の事実である。

こういう実に不思議な現象の原因の一つは新聞社間の種取り競争に関連して発生するものらしく思われる。その日の種にしなければどこか他の新聞に出し抜かれているという心配がある。しかし翌日の新聞をことごとく点検する暇などはない。そうして翌日は翌日の仕事が山積しているのである。

このようなただ一日を争う競争はまたジャーナリズムの不正確不真実を助長させるに有効であることもよく知られた事実である。他社を出し抜くためにあらゆる犠牲が払われ、結局は肝心の真実そのものまでが犠牲にされて惜しいとも思われないようである。事実の競争から出発して結果が嘘較べになるのは実に興味ある現象と云わなければならない。

新聞社の種取り競争が生み出す悲喜劇はこれに止まらない。甲社の特種に鼻を明かされて乙社がこれに匹敵するだけの価値のある特種を捜すのに「涙ぐましい」努力を払うというのは当然である。嘘か真かは保証できないが、ある国でこんなことがあった。すなわち「あったこと」のニュースが見つからない場合に、面倒な脚色と演出によって最もセンセーショナルな社会面記事に値いするような活劇的事件を実際にもちあがらせそれがために可愛相な犠牲者を幾人も出したことさえ昔はあったという噂を聞いたことがある。ジャーナリストの側から云わせると、これも読者側からの強い要求によって代表された時代の要求に適応するためかもしれないのである。

昔はまたよく甲社で例えば「象の行列」を催して、その記事で全紙の大部分を埋め、そのほとんど無意味な出来事が天下の一大事であるかのごとき印象を与えると、乙社で負けていないで、直ちに「河馬の舞踏会」を開催してこれに酬ゆるといったような現象の流行した国もあったようである。

またある「小新聞」である独創的で有益な記事欄を設け、それがある読者サークルに歓迎されたような場合に、それを「大新聞」でも採用するようにと切望するものがかなりに多数あっても、大新聞では決してそれはしないという話である。これも人の噂で事実は慥かでないが、しかし至極もっともありそうな話である。これも強者の悲哀の一例であろう。

こういういろいろの不思議な現象は、新聞社間の生命がけの生存競争の結果として必然に生起するものであって、ジャーナリズムが営利機関の手にある間はどうにも致し方のないことであろうと思われる。

ジャーナリズムのあらゆる長所と便益とを保存してしかもその短所と弊害を除去する方法として考えられる一つの可能性は、少なくとも主要な新聞を私人経営になる営利的団体の手から離して、国民全体を代表する公共機関の手に移すということである。それが急には実行できないとすれば、せめて、そういう理想にすこしでも近づくようにという希望だけでも多数の国民が根気よくもち続けるよりほかに途はないであろう。

現在のジャーナリズムに不満を抱く人はかなりに多いようであるが結局みんなあきらめるよりほかはないようである。雨や風や地震でさえ自由に制御することのできない人間の力では、この人文的自然現象をどうすることもできないのである。この狂風が自分で自分の勢力を消尽した後に自然に凪ぎ和らいで、人世を住みよくする駘蕩の春風に変わる日の来るのを待つよりほかはないであろう。

それにしても毎日毎夕類型的な新聞記事ばかりを読み、不正確な報道ばかりに眼を曝していたら、人間の頭脳は次第に変質退化(デジェネレート)していくのではないかと気づかわれる。昔のギリシア人やローマ人は仕合せなことに新聞というものをもたなくて、その代わりにプラトーンやキケロのようなものだけをもっていた、そのおかげであんなに利口であったのではないかという気がしてくるのである。

ひと月に何度かは今でも三原山投身者の記事が出る。いったいいつまでこのおさだまりの記事をつづけるつもりであるのかその根気のよさには誰も感心するばかりであろう。こんな事件よりも毎朝太陽が東天に現れることが遥かに重大なようにも思われる。もう大概で打切りにしてもよさそうに思われるのに、そうしないのは、やはりジグスとマギーのような「定型」の永久性を要求する大衆の嘱望によりものであろう。しかし、たまには三原山記事を割愛したその代わりに思切って『古事記』か『源氏物語』か『西鶴』の一節でも掲載した方がかえって清新の趣を添えることになるかも知れない。毎月繰返される三原山型の記事にはとうの昔に黴が生えているが、たまに目を曝す古典には千年を経ても常に新しいニュースを読者に提供するようなものがあるような気もする。昨日の嘘は今日はもう死んで腐っている。それよりは百年前の真の方がいつも新しく動いているのである」

寺田 寅彦

 

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ハーベスト箱根甲子園

2021-03-06 15:12:49 | 温泉

今年になって初めての投宿。チェックインの際に、次回の優待券を渡されるので、生来の貧乏根性、無駄にするのは勿体ないと律儀に行くことになる。気が付いたら昨年は2か月に1度足を運んだことになる。コロナ禍のリモワーク中、勤務先には内緒。

訪れたのは2月の最終金曜日。ロビーには雛飾り。春の香りに包まれた。

食事はホテル内のレストラン ”Dining 四季彩” でビュッフェスタイル。お客は普段の三分の一程度か。

《前菜》は唐墨の飯蒸し、穴子の八幡巻、芹と海月の胡麻酢浸し。

 

《椀替り》は、箱根湧水に地酒・箱根街道の酒粕仕立て。

 

《造り》は、鮪 羽汰 剣先烏賊 肝醤油 土佐醤油

地酒の ”箱根街道” は熱燗で頼んだが実に美味。聞けば常温でも美味しく人気があるとのこと。これはいいことを聞いた。

 

《焼肴》鰤の味噌漬け 聖護院大根の柚子味噌掛け

 

《留肴》黒豚の塩蒸しに白菜の摺流し 

《食事》魚沼産こだわり米 三島の大根飯 赤出汁 本日の飯菜

 

《水菓子》苺にコアントローのジュレ 抹茶の葛餅 珈琲 

 

居室から中池を望む。前日、一号線の最高地に差し掛かった時はマイナス一度、雪が舞ってきた。かつて3月末にこの箱根の雪でエライ苦労したことがあるだけに、晴れそうでホッとしたのだった。

今回は、よく撮れた。グッー!!

 

※2007年以来《アメーバ》でアップしてきたブログ『ふらっと温泉』をこちら《グー》に移すことにした。

本来なら、サイトごと上手く移動する方法がある筈だが、スキルが無いのでこうした稚拙なやり方になってしまう。致し方ない。今後は、新設の温泉カテゴリーに加えていく。 これまでの温泉ブログの内容はこちら

 

 

 

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秘録 公安調査庁 アンダーカバー

2021-03-01 19:02:14 | 

著者 麻生 幾

出版 幻冬舎文庫

頁数 499頁

 

     

友人からこの本を薦められ著名を聞いた時は、一瞬、官公庁の出す年次報告書いわゆる白書の類と思ったのだった。「”アンダーカバー”とサブタイトルを付けるとは、近頃の役所はやるもんだわい」とも。

アマゾンで検索したところで小説であることを知る。この著者なら面白さ・迫力は請け合いだろうと俄然読む気になる。

これまで公安調査庁に抱いてきたイメージは、戦時中の特高。左翼の政党や団体・学生運動組織に対して人脈とカネと情報を巧みにしての監視・取り締まりをする隠密の国家機関。スパイ、盗聴、尾行、酒、煙草、裏切りが日常の世界。ところがこの小説の主人公は独身女性。男の世界に女を置いた。これが面白かった最大の要素かな。

冒頭は、中国系の男とどちらも尾行を撒きながら会うシーン。アウディS5、溜池交差点、アイボリーのノースリーブ・ブラウス、スタイリッシュな屋上ビアガーデン、美しい白髪の男、バラの花束etc.。さしづめ映画のプロローグのよう。

芳野綾37歳、ノンキャリア。上席調査官を経、今は本庁の分析官。組織での生き方をよく理解しており想像力が豊か。言うべきことは言う。自分自身の考えを持つ。落ち込むことはあっても諦めない。

描かれているのは、尖閣諸島周辺の領海侵入する中国公船・漁船団の出撃を巡るインテリジェンスの現在。公安調査庁の組織や仕事の実態を知ることが出来、実に興味深い。危機管理と閣議の機能や海上自衛隊との連携なども普段目にしている新聞などでは知りえないだけに納得がいく。

これは、時を待たずに映画になるのではないか。それほど面白い。結構ハードな政治アクション(そんなジャンルあったっけ)になる。

芳野綾はどの女優が相応しいか。キャスティングを試みた。柴咲コウでどうかな。

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